負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬の未体験映画発掘隊!お宝映画教えます!「Nightmare(ナイトメア)」

今や映画は発掘する時代、古今東西の知られざる幻の映画をご紹介するお宝映画シリーズ第一弾!

 

幻の映画の宝庫

 今やあらゆるメディア上でコンテンツが氾濫し、新作映画に興味がなくて往年の映画を追い求めている人たちも、出尽くした感のあるDVDに、もはや、見たい映画がないとお嘆きの方々もおられるのではないでしょうか。

 でも、その一方で、今はネット上に映画データベースという心強い味方があって、そのデータベースを探索して分かるのは、日本で公開されたことなども無論ないまま、その存在すらも知られることなく、折々の時代に埋もれるに任せている映画が如何に多いかという事。

 とくに4~50年代以降から量産されたノワールやホラー系映画の量の多さには圧倒されるばかり。そして、綿々たる時代の経過によって、著作権やロイヤリティすら消失したそうした作品群に出会える実に有難いプラットフォームが今の時代にはある。言うまでもなくYOUTUBEである。

 というわけで、YOUTUBEで発掘した、誰も知らない未体験の映画たちをご紹介するシリーズの第一弾。

 

作品データ

 その作品「Nightmare(ナイトメア)」は1964年のホラー映画。製作は怪奇映画の殿堂、ハマー・フィルムハマー・フィルムといえばフランケンシュタインやバンパイアなどのモンスター映画が専門だが、本作は、そうしたモンスターを排し、上質の映像と、良質のプロットで唸らせてくれる、まさに発掘お宝映画にふさわしい傑作ホラー。

 監督はキャメラマンとしても有名なフレディ・フランシス。それだけに、幼少期に母親が刺殺される現場を見たトラウマから、悪夢に苛まれる寄宿学校の少女という、如何にもB級ホラーにありがちな設定にも関わらず、モノトーンの鮮やかなハイコントラストに、巧みな構図など凡百のホラー映画とは一線を画す見事な映像に、まずは目を見張ることになる。

 更に見事なのが、ジミー・サングスターによるタイトな脚本。本作、冒頭の導入部から、全編、一人の少女のニューロティックなホラーに終始するのかと思わせておいて、中盤に鮮やかなプロットのツイストが待ち構えている。

 本作は、そのツイストをターニング・ポイントにした二部構成になっている。そのメリハリ具合は実に見物。ホラーならではの恐怖感に加え、因果応報を交えた、推理、復讐物のテイストも存分に味わえる掘り出し物と呼ぶに相応しい逸品だ。

 映画を見ることが仕事で湯水のように見ることが出来る映画評論家やジャーナリストの人たちでもかなわないような、今のように一般人が、知られざるこんな未体験の傑作を発掘出来る時代は、負け犬のような映画フリークにとっては実に有難い時代になったものです。

 

YOUTUBE

 本作、「Nightmare」は以下にて視聴できます。


www.youtube.com

負け犬だってファッキンジャップ!くらい分かるよ!バカ野郎「BROTHER」

フジヤマ、ゲイシャ、ヤクザにハラキリ、ニッポンのあるあるトピックをレシピに、アラカルト風に料理した北野武流インターナショナル任侠映画

(評価 65点)

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高倉健の「ザ・ヤクザ」の弟分みたいな映画?

 その昔、アメリカに、ニッポンの任侠映画がやたらと好きな変な奴がいて、それが高じてニッポンの任侠映画そのままのヤクザ映画の脚本を書いた。ところがひょんなことからワーナー・ブラザーズというメジャーの会社にその脚本が買い取られ、おまけに願ってもない高倉健主演で映画化された。それこそが、今もカルトとして名高い米国産任侠映画「ザ・ヤクザ」だった。そして、これはまた今に至ってもこの負け犬が愛してやまないサブカル映画の一本でもある。因みにこの脚本家が、後に「タクシードライバー」を書き上げるポール・シュレイダーなのも良く知られた話。

 

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 方や本作「BROTHER」は、「HANA-BI」で世界を制し、「菊次郎の夏」で再び映画ジャーナリズムを歓喜させ、乗りに乗っていた世界のキタノがその名の通り、日本を飛び出しアメリカンスタイルのムービー・メイキングの現場に唐獅子牡丹ばりの殴り込みをかけた意欲作。

 いずれも同じ任侠映画なのに、「ザ・ヤクザ」ではアメリカン・クルーたちが大挙して東洋にやってきて70年代の日本という世界を切り取ったのに対し、本作ではジャパニーズ・クルーたちがLAに乗り込んでムービー・メイクを実地で行ったというまったく逆のベクトルを持つ映画と言える。

 かくいう負け犬も当時、北野武監督にはすっかり心酔し入れ込んでいたこともあって、胸をワクワクさせながら劇場に足を運んだのだった。

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ファッキン!ジャパニーズにずっこけた

 本作の話は単純、日本の組からドロップアウトした幹部クラスの山本(ビートたけし)が、新天地LAに逃れ、実の弟ケン(真木蔵人)の元に身を寄せる。たまたま山本がドラッグのいざこざで揉めていたケンを助けたことから、山本は、身内もろともチンピラ同然の身から、マフィアに一目置かれる勢力に成り上がっていく。

 要は、あのデ・パルマの「スカーフェイス」を思いっきりスモール・スケールにしたような映画と言えばいいか。そして、悲しいかな映画そのものの出来もVシネマを心持、ビッグ・スケールにした程度の出来にとどまってしまった。

 何と言っても序盤のヤクザをめぐるアラカルトが、まるでショー・ケースのように薄っぺらなのにはずっこけた。本家の組での継承杯の儀式然り、まるでジャパニーズのイントロダクションのプロモ映像を見ているかのように、終始、ワザとらしいのだ。元は仇敵、今度は身内となる、対する幹部連中に、腹に一物あるとナジられ、大杉連演じるヤクザの幹部が、「本当に腹が黒いか見せてやる!」と一喝して、いきなり腹を切る・・・?。そんなバカなヤクザがいるわけなどない。もう、このシーンを見た途端、それまでの本作への期待どころか、北野監督へのリスペクトすら急速に萎んでいったのを、今でも克明に覚えている。

 その後のLAのシークェンスもむべなるかな。チンピラ同然のヤマモトたちが、マフィアの幹部連中との顔合わせの席で、いきなりイタリアン・マフィアの幹部連中を「ファッキン!ジャパニーズぐらい分かるよ!」との決めゼリフを吐いて皆殺しにする。直後、山本たちに、すかさずリムジンがあてがわれ、何故か山本たちは、たちまちイタリアン・マフィアと対等に渡り合う顔役になっている・・・?。イタリアン・マフィアの世界って、下町の不良程度にそんなに層が薄いの?って思わずツッコミそうになりました。

 リアリズムなど欠片もない、すべてが表面的にヤクザ的マフィア的なトピックを並べてカタログにしただけといえばいいか。

 

エスト ミーツ イース

 「ザ・ヤクザ」も確かに言うなれば西洋人からニッポンを、任侠という色眼鏡を通して見たカタログ映画。しかし、負け犬が魅了されたのは、義理がObligationという単語で表現されるほどの日本と任侠を理解しようとする杓子定規な律義さが、ファンタジーにまで昇華している奇妙な不思議さそのものだった。

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 高倉健さんの長年の知り合いのアメリカ人が住む日本家屋にこれみよがしに飾られている日本刀。下のタンスの引き出しを開けたらぎっしりとピストルが入っている。健さんとローバート・ミッチャムが対峙して真剣に会話する向こうを、虚無僧が尺八を吹いて優雅に歩く。そして、きわめつけは、映画のラスト。ミッチャムが健さんへの義理掛けのために、まるで小指の爪を切るように、エンコを飛ばしては、うっすらと汗をかいただけで落ち着いている。

 でも、これらはあくまでも、それなりに真面目に日本を理解しようとして、トンチンカンになっていることが分かるから憎めない。それにちょっと距離を置いて眺めてみたらファンタジー映画と言えなくもないところがマイカルトの壺にはまったのだ。

 対する「「BROTHER」は、最初から、フジヤマ、ゲイシャにヤクザにテンプラ、おまけにハラキリまで見せときゃ、青い目の人たちには受けるだろう的な安直な色気が全編に見え隠れして仕方ない。ただ、本作、製作費が10憶だけに、超高級なVシネマを眺めていると思えば楽しめないこともないし、カタログ映画だと割り切って見れば、シックに決めたビートたけし久石譲さんの音楽のコラボが相変わらず魅力的なのは事実、ただ、Vシネマ以上のものでもないこともまた確かなのは、ちょっとなぁ~、と言うところ。

 あの「3-4X10月」で驚嘆し、そのセンスに一時期、惚れぬいた北野監督だけに、一抹の寂しさは隠せなかったというのが正直なところ。現実、本作以降、センシビティなエモーションが枯渇した作品を撮り続け自滅した。

 復活は、奇跡でも起きない限り有り得ないのでしょうね~TVを舞台にしたそのパーソナリティそのものは健在で、好きなことには違いないだけに残念なところです。

 

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負け犬も大興奮!電動ドリルとポルノ女優のいやらしい肢体「ボディ・ダブル」

サイコキラーが電動ドリルで抉るのはゴージャスなポルノ女優の腹!メラニー・グリフィスのナイスバディも拝める、映像の魔術師ブライアン・デ・パルマのキンキーでキッチュなエロチック・サスペンスの怪作!(評価 74点)

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アメリカン・サイコ

 「だってデ・パルマが好きだから!」といきなりのラブコールで始まってしまう本作。80年代のヤッピーからなるXジェネレーション作家の代表格ブレット・イーストン・エリスのセンセーショナルなベストセラー作品「アメリカン・サイコ」に、本作に言及するくだりが出てくる。その小説の主人公のベイトマンが近所のビデオショップに立ち寄り、本作をレンタルするくだりだ。

 ベイトマンはこの「ボディ・ダブル」に出てくるサイコキラーが電動ドリルで女性を惨殺するシーンのマニアックなファンで、小説の中でもう30回以上もこのビデオをレンタルしていると独白する。それに思わず頷いてしまう人もいるのではなかろうか。かくいう負け犬もその一人。

 そもそもの出会いは「キャリー」で、それをきっかけに最初期の「悪魔のシスター」を見てインデペンデンスなスタンスとエンタメのバランスを巧みに操るデ・パルマの若々しい才能に魅了され、結局、後年の作品まで追いかけをするが如くに見ていたデ・パルマの、比較的目立たない扱いのこの作品だが、負け犬は勇んで初日に見に行った記憶がある。

 「いつもながらのヒッチコックのパクリ」だの「チープなエログロ趣味の安手の作品」などと、デ・パルマのフィルモグラフィではつとに評判が悪い本作だが、かくいう負け犬は大満足で劇場を後にした。

 確かにチープで、いつながらのヒッチコックのパクリ丸出しだが、それでも嫌いになれなかったのは、キンキーでキッチュな方向にベクトルを振り切って、ポルノ映画への偏愛まで吐露するデ・パルマの映画愛が感じられたからに他ならない。

 

ポルノチック・サスペンス

 そもそもデ・パルマがポルノというジャンルに思い入れがあるのは明白。元々、デ・パルマキャメラを振り回し映画業界に登場してきたのも、粗雑なポルノ映画、いわゆるブルー・フィルムと呼ばれる映画が氾濫していた60年代の後半だった。最初期のもっとも有名なコメディ作品「ハイ・マム」でも主演の青年ロバート・デ・ニーロは、ポルノ映画の監督志望の青年だった。

 そんなデ・パルマヒッチコックの後継者というレッテルを張られながら、ワンパターンと酷評されるのを知りつつ尚も、ヒッチコックエピゴーネンを作りたがるスタンスは、やはり自主映画、それもキッチュでアンダーグランドな映画のバックボーンを持つデ・パルマの紛れもない性なのだ。

 そんな映画愛の象徴のように本作の主役は売れない役者のジェイク(クレイグ・ワッソン)。今日も撮影現場でチープな怪奇映画の吸血鬼をやらされているが、閉所恐怖症が災いし、役を干されてしまう。おまけに、恋人が他の男に騎乗位で跨るのをモロに目撃し、追い出されてはホームレスに成り下がる始末。

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 そんなジェイクはオーディションで声をかけてきたジムに居留守の番を頼まれ、渡りに舟とばかりに高級マンションにステイホームすることに。ところが小高い丘に立つペントハウスのようなそのマンションから見下ろす向かいには、グロリア(デボラ・シェルトン)というフェロモン全開のグラマラスな美女が住んでいて夜な夜な悩ましくストリップまがいにエキササイズする姿がバッチリ拝めてしまう。ところが、ある夜。出歯亀根性丸出しで、いつものようにジエイクがグロリアを望遠鏡で覗いていると、部屋に侵入した電動ドリルを振り回す大男のインディアンに腹部を突きさされグロリアが惨殺する現場を目撃してしまう。

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 ん?主人公が閉所恐怖症?ん?望遠鏡で覗きをしていたら殺人現場を目撃?ちょっと映画に詳しい人なら本作のネタがあのヒッチコックの「めまい」や「裏窓」のパクリであることはすぐに分かる。それでも決して興ざめしないのは、とにかく本作に出てくる女優たちの、フェロモン全開のそのエロ度が半端ではないから。

 

ウエルカム トゥ ザ・ポルノワール

 何と言ってもまずドリルで惨殺されるグロリアのデボラ・シェルトンのエロいことといったら。グロリアにすっかり魅せられたジェイクがショッピングモールまでグロリアを尾行する。そこのランジェリーショップでパンティを買い求めたグロリアが、それまで履いていたパンティをゴミ箱に投げ捨てる、それを目撃したジェイクはそのパンティを拾い上げると思わずポケットに入れてしまうが、その瞬間、そのパンティの匂いがこちらまで伝わって来る感触に見舞われる。それもこれもグロリアに扮するデボラ・シェルトンのそのフェロモンの発散度が並々ではないから。これもデ・パルマのポルノとハードコア女優たちに注ぐマニアックな偏愛の賜物とも言えようか。その後、本作はまさにポルノのめくるめくアンダーワールドへと観客を誘ってくれる。

 グロリアの死の衝撃も薄れた頃、ジェイクは、たまたま見ていたケーブルテレビで放送していたハードコア・ポルノのCMに釘付けになる、目の前で細身ながらグラマラスなナイスバディを惜しげもなく晒す女優のパフォーマンスのその仕草が、毎夜見ていたあの殺されたグロリアにそっくりだったのだ。これは何かあると睨んだジェイクは役者というメリットを生かし、ポルノ映画の男優募集に応募し、撮影現場に潜入する。そこでジェイクが出会ったのが、グロリアそっくりのパフォーマンスを披露していたポルノ女優ホリー(メラニー・グリフィス)だった。

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 エイティーズの名曲フランキー・ゴーズ・トゥー・ハリウッドのゴキゲンな「リラックス」が流れる中、ジェイクがポルノ、それもバリバリのハードコア・ポルノの撮影現場巡りをするシーンがいい。あの時代のMTVのクリップを彷彿とさせるヴイジュアルもイカすこのシーンはもとより、ジェイクが見ているテレビに映るハードコア・ポルノのクリップがいかにもそれらしくてグッド。

 実は、80年代の後半の時代、まだTSUTAYAのような大手フランチャイズがレンタル・ビデオ業界になかった時代。レンタル・ビデオ屋は完全に個人事業者が経営する小さな店がひしめきあっていた。だから、店によって品揃えも様々で、中には、ボカシすら殆ど入っていないような洋モノのハードコア・ポルノを堂々と並べている店もあったのです。負け犬も半ばビクビクしながら、そんなハードコア・ポルノを借りて見ていたような懐かしい時代だった。

 

パクリだって構わない

 撮影現場で熱い絡みのシーンまで演じたジェイクはポルノのプロデューサーだと偽ってホリーを、自分が殺人を目撃したマンションに連れてくる。そこで、詰問した後、明らかになる真実、そしてクライマックスは?とくれば、そもそも本作が「めまい」のパクリである以上、想像がつく方も多いに違いない。

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 かくも、パクリや剽窃の度すら越した何から何までヒッチコックの「めまい」そのままの本作。とはいえ、いつもながらのピノ・ドナッジオの甘美で流麗なスコアに乗って、ショッピングモールでグロリアをキャメラが追っていく、うっとりするようなトラッキングショットや、「めまい」から拝借した、激しく絡み合うグロリアとジェイクの周囲の景色が、メリーゴーランドのように回転していくめくるめくシーンなど、デ・パルマならではのビジュアルが満喫できる本作。それに加えて、華奢な肢体を惜しげもなく晒すメラニー・グリフィスのエロいシーンなどエロチックなスパイスを随所に効かせた本作が魅力的なのは間違いない。

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セルフ・パロディの映画愛

 本作、一件落着した後のエピローグがまた楽しい。吸血鬼の役に舞い戻ったジェイクがシャワー室で女優に噛みつくシーンは、そのまま自身の代表作「殺しのドレス」のアンジー・ディッキンソンがシャワー室でエロい妄想にふけるシーンのセルフ・パロディだ。

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 そこでは、本作のタイトルのボディ・ダブルそのままに、オッパイがアップになるカットだけスタンドインの別の女優のカットにすげ変わる。

 かつてデ・パルマは、ヒッチコックのパクリだと激しく非難するジャーナリストたちを前に、「所詮、映画は折衷主義の芸術だ」と涼しい顔で述べていた。それは、ただの開き直りの言葉ではない、ちっぽけな自主製作映画から、叩き上げで自分のスタイルを確立したデ・パルマの自信と映画愛に裏打ちされた発言だ、とこの負け犬は思う。

だから「やっぱりデ・パルマが好き!」なのです

 

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負け犬の背徳と凌辱のエロスこの世でもっとも美しい人妻「昼顔」

白い肌にしなるムチ!ドヌーヴの超絶的な美貌に文芸の香りと背徳のエロスが交錯する倒錯の世界!

(評価 76点)

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この世でもっとも美しい人妻

 鈴なりの紅葉の中を一台の馬車がやってくる。馬車に乗るのは美貌の妻を伴った一組の夫婦連れ。やがて夫は馬車を止めさせ、妻に馬車を降りるよう命令する。しかし、妻は従わない。そこで夫は召使の男たちに命じ、妻を無理やり引きずりおろさせ森の茂みの中へ連れていき、そのまま木に縛り付けるや、いきなり妻の服を剥がせる。そして、剥き出しになった純白の背中をめがけ、召使たちにムチをふるわせるのだ。

 ムチ打たれ、苦悶の表情を浮かべる妻。そして、夫は如何にも野卑な召使に命じ自分の目の前で妻を犯させる。そして、その妻こそ目の覚めるような金髪も鮮やかな超絶の美貌を誇るカトリーヌ・ドヌーヴなのだ、とくればこれは世の男たちの夢の具現化。

 こんな衝撃的なシーンで幕を開ける本作だが、このプロローグ、実は男たちの夢ではなく、ドヌーヴ扮する美貌の人妻セヴリーヌの妄想なのだ。連れ合いの医師の夫は、非の打ち所がない、それ故、満たされない欲求不満から来る妄想に昼夜さいなまれているセヴリーヌのアヴァンチュールな日常を描く本作は、堂々、ヴェネツィア国際映画祭グランプリを取った文芸映画でありながら、その世界観は見事にポルノチック。そして、ドヌーヴのあまりの超絶的な美貌ゆえ、とめどもなく下半身をも疼かせてくれるエロスに満ちた作品でもある。

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いかがわしき倒錯の世界

 今や、すっかり世のよろめきドラマの固有名詞として定着した本作のタイトル「昼顔」。実はこのタイトルは、そのまま本作のセヴリーヌの源氏名でもある。

 完璧な夫と生活を共にするがゆえに、常にエロい妄想にとらわれているセヴリーヌは、ある日、夫から売春クラブの存在を聞かされ、異様な胸騒ぎを覚える。そして、女性漁りが趣味の夫の友人にその売春クラブの所在地を冗談半分に教えられる。

 セヴリーヌは、はやる気持ちを抑えきれずそのクラブを訪れ、たちまち女主人に見染められ、マダムから直々に「昼顔」という源氏名を授かるや、日中はパートタイマーの主婦ばりに昼時から5時までのパートタイムの売春婦、夜は貞淑そのものの医師の妻という二重生活がこうして始まる。そして、そこから展開するのは、人間のフェティシズムに満ちた、いかがわしき倒錯の世界なのだ。

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 その売春クラブにやって来る客は様々。ひたすら罵倒されることに快楽を覚えるマゾヒズムの男。死体にリビドーを覚える死体フェチの男には屋敷まで出向いて死体になりきっての出張サービスまで。こうして繰り出される変態的な局面の数々にも、表情一つ変えずに、なんの抵抗もなくセヴリーヌが受け入れるところは、奇妙でもあり可笑しくもあり、まるで不思議の国のアリスが性のワンダーランドに迷い込んだような感覚すらある。それもひとえに、ドヌーヴの非の打ち所の無いクール・ビューティのなせる業なのか、いずれにせよ、絶世の美貌のドヌーヴが醸し出すこの倒錯の世界は、極限なまでにポルノの世界といっていい。

 クラブで、こうしてたちまち売れっ子になったセヴリーヌだが、マリエルという若者がセヴリーヌに入れあげ夢中になり始める。危険を感じたセヴリーヌは辞めるとマダムに告げクラブを後にするのだが、自身も前科者のマリエルは、札付きの仲間からセヴリーヌの住所を教えられ、セヴリーヌの元に押しかける。

 

妄想のただれた世界

 本作の最大の特長は、イントロのムチ打ちのシーンからも分かるように、現実と妄想がそのまま地続きに並列的に描かれるところ。だから見ている側は妄想なのか現実なのか区別がつかない。しかし、その現実と妄想の境界線が消失した世界こそが本作の最大の魅力でもある。これはソリッドな前衛作家として名を成した監督のルイス・ブニュエルのまさに面目躍如といったところ。

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 ここで描かれるセヴリーヌの妄想は様々。ムチ打たれ、野卑な男に凌辱される妄想をはじめとし、男たちが自分目当てに殺し合いの決闘をする妄想など、鬱屈とした性的な悶えにも似た数々の妄想が描かれるが、そもそも売春婦というメタファーが高貴な女性ならではの、メタファーであるように、根底にあるのは辱められたい、汚されたいという願望に他ならない。なかでも、もっともいかがわしいのは、純白のドレスを纏ったセヴリーヌに泥が投げつけられるシーン。ドヌーヴの手足と言わず体と言わず顔面にも容赦なく汚いヘドロのような泥が浴びせられる露骨きわまりないこの汚辱シーンは、ドヌーヴの絶世の美貌もあいまって思わずオカズネタにしたくなるほどにエロい。

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 本作のクライマックスからエンディングにかけても、まさに妄想と現実が混濁した倒錯の世界。自分に入れあげ自宅に押しかけて来たマリエルは、セヴリーヌに諭され、家を出た直後、自動車事故を起こし、追ってきた警官に射殺される。そこから展開するくだりはセヴリーヌの夫がいきなり何の説明もなく全身マヒの車椅子の生活になっていて、その夫をセヴリーヌが献身的に看病するという意表を突く、くだりとなるが、誰もが、現実なのか妄想なのか分からないまま、エンディングのエピローグでハッと夢から覚めたような感覚に見舞われることになる。

 どこか晴れ晴れとしたクール・ビューティそのもののドヌーヴのエンドショットで幕を閉じる本作、とにかくエロと文芸とが見事に調和を成した稀有で見事な作品だ。

 

カトリーヌ・ドヌーヴのもう一つの顔

 人妻の貞淑と汚辱がパラレルに進行するシュールな世界と、人間のフェティシズムの世界をセンセーショナルに描いた本作で一躍トップスターとなったカトリーヌ・ドヌーヴ。その昔、「ロードショー」などの映画雑誌のカトリーヌ・ドヌーヴのグラビアを見て、こんな人造的な非の打ち所の無い美女がこの世にいるものかと。いつまでも眺めていたのを今でも覚えている。

 そんなドヌーヴがフランス映画界の重鎮として、長きキャリアにわたり活躍したのも周知の通り。御年、80近い老女となった今でも、美貌の面影に衰えが無いのは脅威でもあり嬉しくもある。人間のフェチの世界を描いた「昼顔」が鮮烈なドヌーヴ。老女フェチの人にとっては今でも下半身が疼く対象なのは嬉しい限りというところでしょうか。

 

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負け犬の狂人暗殺に命を賭けて散っていったヒーローがナチスにいた件「ワルキューレ」

トム・クルーズ主演、トム様映画であってトム様映画ではない、戦争サスペンスの隠れた秀作(評価 76点)

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トム様なきトム様映画

 トム・クルーズといえば言わずもがなの泣く子も黙るビッグ・スター。オールタイムのマネーメイキング・スターといえば当然、その主演作は、スターを最大限にアピールする映画になってしまう。だから、トム・クルーズの主演作は多かれ少なかれ、おしなべて殿様映画ならぬトム様映画と言っていい。トム様が活躍し、トム様の笑顔で締めくくる、そんなトム様映画が、どれほどあったことか。SF映画ならどうにでもなるとばかりに、どちらを向いてもトム様トム様。トム様たちが大挙して金太郎飴のように出てくる「オブリビオン」なんて作品もあった。

 とはいえ、そんなトム様も、長いキャリアの中ではダウナーの時期もあった。ちょうど、本作製作の2008年も、トム様が、公私共に比較的、ダウン気味のバイオリズムに差し掛かっていたこともあり、その華やかなボックス・オフィスのキャリアの中で、ごく控え目な小ヒットにとどまった本作は、ほとんど目立たない作品になってしまっているのではなかろうか。しかし、本作は、そんなトム様が主演でありながら、ただのトム様映画にはなっていない、一本、芯の通った戦争サスペンスの秀作。見逃すには惜しい逸品となっている。

 

ヒトラー暗殺という歴史の闇

 本作がちょっと隅に置けない第一のポイントは、トム・クルーズというスターのバック・ボーンを得て、巨額の製作費を投入し、1944年に起きたヒトラー暗殺計画という史実を描くネオ・ドキュメントという、最近、ちょっと見られない硬派のエンタメ路線の映画であること。そして、第二に、ほぼ英語圏のアクターたちで、全員ドイツ人キャラクターを描くというボックス・オフィス的に極めてリスキーな試みを敢えて選択していること。やはりマーケットに完全にのっかたものより、攻めの姿勢のある映画の方が好ましいもの。

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 そんな本作、まずトム様が登場する北アフリカ戦線から幕を開ける。ほぼ、オール・アメリカンなキャストで、オールジャーマンなキャラクターを描くとなると、まず問題なのが何と言っても言葉の問題。現実を優先し、アクターたちにドイツ語を喋らせるか、それともインターナショナルな英語にするか。興行収入にも直結する大問題でもある。そこで本作では、ヒトラー暗殺を遂行した実在のシュタウフェンベルク大佐に扮するトム・クルーズが、最初は。ドイツ語を喋り、ヒトラーに対する杞憂の手紙を書くそのナレーションのセリフが徐々に英語に変わるという、ちょっと変わった配慮が成されている。

 そして、本編が幕を開けた後の、英米軍による空爆でトムことシュタウフェンベルクは重傷を負うが、ここでの空爆シーンの迫力もまた見物。

 その直後、右手、左目をも失ったシュタウフェンベルクヒトラー暗殺のシンパに加わり、ヒトラー暗殺計画という未曽有のミッションを遂行するため行動を開始する。

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 実在の人物の暗殺を描く映画と言えば、あのフランスの大統領ドゴール暗殺を描いたスナイパー映画の名作「ジャッカルの日」があった。ただ、あちらが、孤高の殺し屋ジャッカルに焦点を当てたメタ・フィクションなのに対し、こちらは1944年の7月20日という実際の歴史上のタイムラインに刻まれたX時間へ向けて刻一刻と進行していくネオ・ドキュメントということになる。それだけにジリジリと核心のイベントに迫る緊迫感は、こちらの方が上。本作はトムというメジャー・スターを主役に据えながら、決して余計な折り紙を加えることなくネオ・ドキュメントのそんな緊迫感を損なうことなく進行していく点が心地よい。

 

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 やがて、シュタウフェンベルクは、クーデター勃発の折に樹立した政権により、直ちにドイツ全土がベルリン直下の支配下に置かれるという「ヴァルキリー(ワルキューレ)計画」への署名をヒトラーから直々に得ることに成功するや、いよいよそのヒトラー暗殺を決行することになる。

 軍事作戦が早く切り上げられるという想定外の事態による最初の失敗を経た後、運命の7月20日、ヒトラー直参の作戦本部「狼の巣」での暗殺遂行のくだりとなる。シュタウフェンベルクは持ち込んだ爆弾を鞄に仕込み、ヒトラーたちが軍事マップを広げる作戦会議室へ進んでいくが、このくだりでの刻一刻とカットを積み重ねていく緊迫感の演出は実に見事。

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 やがて、鞄をテーブルの下に仕込むことに成功したシュタウフェンベルクが作戦会議室を出た後で、爆弾が爆発。ヒトラーの死を確信したシュタウフェンベルクはヴァルキリー計画の遂行を打電するのだ。

 

トム様の最後

 シュタウフェンベルクの決死の努力もむなしく、ヒトラーがここで生き延びたのも史実通り、本作が潔いのは、大スターのトム様を生かさず、忠実に、その後の「ヴァルキリー計画」の崩壊と、ヒトラー暗殺計画の首謀者たちの処刑を丹念に描くところ。そして、最後にはまさかのトム様も潔く処刑される。大スターだからといって逃げ延びるなどの折り紙を一切、付けないところは立派といえるでしょう。

 本作は、監督のブライアン・シンガーのこだわりで、ロケ地ひとつとっても極力、実際の場所で行われたという、確かにそれだけのこだわりの凄味は、画面上からも如実に発散されているのだ。

 

トリビア

 クライマックスの爆弾の爆発シーンでは、現実、ヒトラーや参謀たちが吹き飛ばされている。至近距離で強力な爆弾が爆発しながら、何故、ヒトラーは生き延びたのか?映画を見て疑問に思う人もたくさんいるはず。

 実はこれには理由がある。その秘密は軍事マップを広げたテーブルにあって、爆弾を置いたテーブルの脚が、細めの脚ではなく、がっしりとしたブロック状の頑丈な脚だったため、その陰にたまたま隠れるかたちで鞄が置かれたことにより、ヒトラーが、爆風の直撃を浴びずに生き延びることが出来たらしい。

 悪魔の寿命を延ばしたのが、何の変哲もないテーブルの脚だったとは、歴史のいたずらとはいつでも皮肉なものですよね~

 

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負け犬の伝説のロッククィーンは出っ歯だった件「ボヘミアンラプソディー」

傷つき孤独に苛まれても歌い続ける、それこそがパフォーマーの宿命。そして、それこそが人生の讃歌ボヘミアンラプソディー!

(評価 86点)

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クィーンとエイティー

 見終わった後の胸の高鳴りと興奮がなかなか収まらない、そんな至福を久々に味合わせてくれる映画だった。だが、実を言えば、クィーンというバンドに特別な思い入れがあるわけではない。でも、思えばエイティーズ、TVをつければ必ず流れていたのがMTVで、マイケル・ジャクソンやマドンナは言うに及ばず、懐かしき「ゴーストバスターズ」のテーマソングや「ストリート・オブ・ファイヤー」のミュジック・クリップと共に、あのクィーンのフレディ・マーキュリーのハイトーンの澄んだ歌声がいつも流れていた気がする。クィーンといえば名曲は山ほどあるが、映画フリーク的には、あのキッチュなSF大作「フラッシュ・ゴードン」のカッコイイテーマ曲が耳に焼き付いていたりするのだ。

 だから、バンドの実録物と言えば、そんな名曲の裏話のエピソードが繰り出されるのが楽しみの一つで、昔、MTVで見たり聞いたりしていたクリップの名曲がアラカルトで出てくると思わず心が躍る。特に劇中、すっかりセレブになったフレディに待ちぼうけを食らわされ、ウンザリしたメンバーが、自然とステージで足を踏み鳴らし、それがあの名曲「ウィ ウイル ロックユー」のオリジンになるところでは鳥肌が立った。

 そんなクィーンだけど、当時見ていた時はおそらく知らなかったと記憶する。フレディがバイセクシュアルのゲイだったことを。エイティーズといえばタイムマシン的にいにしえの時代になってしまったが、現代にフレディの伝説を蘇らせる、その懸け橋になったのが本作の場合、バイセクシュアルというテーマなのだ。

 

幸運を呼ぶ出っ歯

 本作はフレディを演じ、数々のプライズ・ウィナーに輝いたラミ・マレック抜きには語れない。画面に未だフレディ未満のペルシャ系移民の野暮ったい一青年としてマレックが出てきた瞬間からたちまち惹きつけられた。そのチャーム・ポイントは、何と言ってもその出っ歯。本作の場合、本編通じて活躍するのが、この出っ歯といっていい。出っ歯の見てくれの悪さなど、まるで気にもしないポジティブな屈託のないパーソナリティが、否応なしに人を引き付けるオーラを放っているのだ。

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そもそもあれほど昔、MTVやメディアで見ていたはずなのに、その時はフレディが出っ歯なんぞ意識もしなかった。ところがラミ・マレックが出っ歯の義歯を付けて登場した途端、フラッシュバックのように、そういえばそうだった、と思い出すから不思議なもの。

そして、前述のようにMTVでクィーンを見知った口だから、ショート・カットで口ひげを生やし、十分にキンキーないでたちをしたフレディしか知らない。だから、マレックがロン毛で登場し、クィーンの前身のスマイルというダサい名前のバンドに加わる序盤の成りたちのくだりが一層、面白かった。

出っ歯なんぞ気にせず常にポジティブだから彼女も出来る、そして、物おじもせず歌いのける度胸を買われヴォーカルとなった出っ歯の青年は、たちまち頭角を現し、ペルシャ系の実名からフレディと改名する。こうした序盤は、まるで戦国武将が成り上がるよもやま話にも似たワクワク感がある。

そんな本作はスタイル的にいえば、バンド実録映画のフォーマットから一歩も出ていない。しかし、クライマックスのバンドエイドでのパフォーマンスにすべてのエモーションや熱量が収斂していく構成が見事なのだ。だから、ある意味、本作はクライマックスの試合のシーンで興奮度がマックスに達する「ロッキー」版バンド映画と言える。

 

異端者の悲しみ

 フレディをヴォーカルにたちまち人気の頂点を極めていくクィーン。そして、フレディもナンシー(ルーシー・ボイントン)にプロポーズ、結局、その後、フレディがバイセクシュアルをカミングアウトしたことで決定的に亀裂が生じ、終生、フレディは孤独に苛まれることになる。

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 どれだけセレブになって、富が増えても癒されないのが孤独。フレディはつまるところ、それを代償にして数々の名曲を生み出すところが切ない。ステレオ・タイプを嫌って田舎にこもり、タイトルにもなっている「ボヘミアンラプソディー」を生み出すくだりが、第一のクライマックスだが、そのボヘミアンの名の通り、フレディは、放浪者というより拠り所の無い人間として描かれる。バンドと決裂することになるソロ活動宣告をメンバーに告げるくだりでも、皆には家族があるが、俺には誰もいないと訴える。そして、その荒んだ生活に癒しを求めたのがフレディの場合、ゲイというセクシュアリティだったわけだけど、その代償は余りにも大きかった。

 

ライヴエイド

 やがてフレディはAIDSに侵されていることを知る。そして、メアリーが恋人の子供を身ごもっていることを知ったフレディはメアリーからライヴエイドのことを知らされ、いよいよ自分の命運を決断する。クライマックスの直前、フレディがメンバーにAIDS感染をカミングアウトし、生まれてきたパフォーマーとしての運命を全うすると宣言するシーンは感動的だ。

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 本作のイントロは、フレディがちょうどライヴエイドのステージに上がらんとするところで、過去のバイオグラフィに立ち戻っていくが、この後、円環手法でリプレイし、いよいよ大詰めのライヴエイドのクライマックスに突入していく。

 

 

天国への階段

 一気にボルテージが加速する、大団円とも言うべきこのライヴエイドのシークェンスはただもう圧巻。フレディの一挙手一投足まで精密に再現したかのようなリアリティは勿論のこと、巧みな編集、そして魂震える名曲の数々で、ただ、こちらもヒートアップするばかり。そして、改めてクィーンの本質はバラードなのだと納得した。ここでのフレディのパフォーマンスのひとつひとつがくさびのようにこちらの心に打ち込まれていく感覚にたちまち涙腺も緩む。

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 すべてが終わった時、あふれる涙を拭いながら、去り行くメンバーたちを身じろぎもせず見つめ、まるで自分まで天国の一端に触れたかのような気がしたものです。

 かくも見事な完成度の本作、これはきっと監督のブライアン・シンガーの渾身の企画かと思いきや、紆余曲折を経た本作のプロジェクトのオファーを受けただけだったらしい。その上、撮影終盤には、勝手にリタイヤして、ほぼ監督不在のトラブル含みの現場だったとも。しかし、そんなトラブルなどまるで感じさせない本作の出来映えは、ひとえにフレディという人間をスクリーンに結実させたいというこのプロジェクトにかかわったスタッフたちの熱意だったのかもしれない。

 フレディはAIDSに倒れたがマーキュリーの名の通り彗星の如く現れ、その後、残してくれた名曲の数々が描いた軌跡は本作で本当の意味での神話になったと言えるのではないでしょうか。

 

負け犬のスパイにだって当然あっても不思議はない人生の潮時「007ダイヤモンドは永遠に」

 

帰って来たボンドは意外にも老けていた。それでもプログラム・ピクチャーとしては上出来でお気楽に楽しめる拾い物。

(評価 70点)

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ボンド イズ バック!

 二代目ボンド、ジョージ・レーゼンビーの壊滅的なまでの不評を受け、プロデューサーのアルバート・ブロッコリが破格の二百万ドルものギャラ(現在の価値では一千万ドル)を泣く泣く支払い、ようやく復帰したのが本作のショーン・コネリーだった。ただし、当初はブロッコリも当時の映画二本分の製作費にも相当するギャラに恐れをなし、ヒッチコックの「サイコ」のジャネット・リーの恋人役で有名だったジョン・ギャヴィンに三代目のボンド役を打診し、契約寸前のところまで行っていた。ところがユナイテッド・アーティスツ側がコネリーに固辞し、結局、ショーン・コネリーのボンド役へのカム・バックが実現した。

 

作品解説

 冒頭、いきなり和室の障子を突き破り、ボンドに吹っ飛ばされた悪漢が飛び出して来るイントロから幕を開ける本作の特長は、ズバリ、全編にわたるアメリカナイズされたテイスト。時は1971年、黄金のセブンティーズの幕開けにふさわしく、本作は、それまでの英国テイストから、アメリカナイズされたアクション映画へとその作風を一新している。

 監督はお馴染みのガイ・ハミルトンだが、イントロを皮切りにその演出も堅実ながら、すこぶる快調。アメリカンならではの、ラスベガスのネオンをバックにボンドがカラフルに駆け回る一品となっている。それに加えて本作は、それまでよりも更にコミカルな要素が加わり、一層ライトな感覚とアクションが絶妙にマッチした作品になっている。

 お馴染みのプレ・タイトルのシークェンスからも、ギャグ度のアップは一目瞭然。宿敵ブロフェルドにボンドが引導を渡すそのシークェンスでは、ブロフェルドの影武者用のマスクがズラリと居並んでいるという具合。その後の、泥んこ溶液(このドロドロ溶液、撮影に使われたのは実はマッシュドポテト)の中にブロフェルドを葬る後始末も何だか間抜けで、ここだけ見たらパロディ映画?と思う人もいるのではなかろうか。特に後半、地中深くのパイプラインに閉じ込められたボンドがタキシード着たまま、涼しい顔で出てくるシーンはギャグの極み。

 「ゴールドフィンガー」に続くシャーリー・バッシーのパンチの効いたイカスすテーマ曲のその後の本編は、タイトル通りダイヤをめぐるある計画で、ボンドがダイヤを追ってやって来るのがラスベガスの街なのだ。

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 降り注ぐ陽光と、夜のカラフルなネオンサイン。ここで繰り広げられるアクションのそのテイストは、まさにセブンティーズのアクション映画の感覚。研究所に忍び込んだボンドが敵に追われ、月面走行用のバギーに乗って逃走し、砂漠でパトカーとのチェイスを繰り広げるシーンをはじめ、夜のベガスの街でのパトカーとチェイスなど、70年代に胸を躍らせたワイルドなアクション映画の感覚が横溢して、その時代の映画フリークには嬉しい限り。

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 そして、タキシードを着たまま、見上げるばかりのハウスのタワーにエレベータでみるみる上昇し、目もくらむ高所で、宙づりになって最上階のペントハウス潜入する見せ場も交え、クライマックスのシークェンスに突入する構成など、シリーズの定石のツボを踏まえた演出も何となく安心できる。お目当てのボンドガールのジル・セント・ジョンのプレイメイトばりのフェロモン全開の悩殺ぶりもまさにアメリカンといったところ。お目当てのクライマックスは、実際の、海洋の石油精製プラントでのヘリが飛び交い、爆発炎上するスペクタクルの大サービスとくれば、もうエンタメ映画としては出来過ぎと言ってもいいサービスぶり。

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 惜しむらくは、歓呼の中のカム・バックのはずのボンドのショーン・コネリーが、何だかやけに老けたオーラを発散していること。高額のギャラを条件に渋々、出演したせいだけでもないような気がするのはこの負け犬だけか。本作はボンド効果で大ヒットはするが、本作限りでオリジンのこのシリーズからは身を引いたショーン・コネリー、自分なりに潮時というものをわきまえていたのではないでしょうか。

 

トリビア

 ベガスの街での派手なカー・チェイスの最中、パトカーに追われて逃げ込んだボンドの車が突入したのは、前方がビルとビルとの間の隙間が1mほどしかない袋小路。ここでボンドが披露する驚異のテクニックが、車の片側を浮かせて走行するフリップ走行。その態勢のまま車は見事にわずかな隙間に突入していく。ところが、次の隙間、その隙間から車が出てくるカットでは、突入した時とは逆の片側が浮いた状態で出てくる。隙間はおよそ1mだから、隙間を走行中にフリップし直すことは出来ないはず。

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このシーン、実は編集時点で間違いが発覚した。そこで苦肉の策として、運転席でコネリーとジル・セント・ジョンが並んでいるカットを逆向きに傾けるというカットを挿入して、何とか違和感がないように工夫した。しかし、映画を見ると実際、違和感アリアリなのが可笑しい。何にせよ、こうした本物志向の驚異のスタントが、次作の「007死ぬのは奴らだ」のド迫力のモーターボートのスタントに引き継がれ、ボンド映画の代名詞になっていくのは周知の通り。

 

ショウ マスト ゴオ オン!

 本作で目立ったギャグ・テイストは、次作の三代目ボンドのロジャー・ムーアも踏襲。さらにウィットにとんだソフトなスタイルで人気を確立させたのはご存知の通り。一度、確立したフランチャイズの火は絶やさずとばかりに今も続いている007,まさにショウ マスト ゴオ オン!というところでしょうか。

ところで次にボンドになるのは誰なのでしょう?

 

 

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