負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬が陳腐な邦題に腰が引けつつおそるおそる見たらこれがトンでもない良作でビックリした件「密室の女 奪われた情事」

陳腐な邦題が可哀想なほどデメリットなスペイン産ホラーサスペンスの絶好大良作

(評価 78点)

“密室の女奪われた情事”・・・いったい、どこから見ても火曜サスペンス的なこんな邦題の映画を能動的に見ようなどという人がいるのだろうか?おそらくタイトルだけなら誰でもスルーしてしまうのではなかろうか。事実、この負け犬にしても良作というレビューを横目にしつつも、邦題のあまりの陳腐さに及び腰のまま、そのうち見ようリストのまま放置状態になっていた。そして、ようやく重い腰を上げて見てみた次第、すると、何ともまあ実に絶妙な構成で唸らせてくれた、近年、稀に見る(本作、製作は2009年とかなり前なのだが・・)といっていい超佳作であったという、これまた顛末になったという次第。

 そんな本作、出だしはいたって凡庸、しかし、その凡庸さもまた一つの伏線になっていることが中盤あたりから明らかにされるところが実に巧みなところなのだ。

 冒頭、涙ながらにあなたとはもう暮らせないと切々に訴えかける恋人ペレラのスマホの映像を見ている指揮者のアドリアン。

 アドリアンはそのまま町のレストランで傷心のままやけ酒を呷る。すると見かねたウェイトレスのファビアンが泥酔するアドリアンを自分の家まで送ってやり・・。

 それがきっかけでアドリアンはファビアンを別荘を兼ねた自宅に向かい入れ、二人の生活が始まる。

 ハイソな指揮者のアドリアンの豪邸に招かれたファビアンだが、どうやらアドリアンには失踪した恋人がいることが分かり、警察も彼に目をつけているらしいのだ。その上、洗面台の流しの口から、何か奇妙な音がすることにファビアンが気付き、疑惑と恐怖に苛まれていく。本作、テロップやタイトルカードは出ないが、きっちりとした二部構成になっている。ここまでがいわば第一部。

 最初の一部だけでいえば、ハイソな暮らしに踏み込んだ庶民の娘が疑惑に捕らわれるといったヒッチコックの「レベッカ」から星の数ほど作られた凡百のスリラーと変わらない。

 しかし、前半の第一部で描かれた謎が明かされる第二部で驚くことになる。いわば伏線回収のその手際は、あざとさなど微塵もなく、登場人物の行動の論理性も一応、辻褄が合っているから、見ながらなるほどと唸らされることがしきりなのだ。

 そして、その人物の些細な行動が引き起こした引くに引けない手づまりな状況に、こちらも食い入るように引き込まれる羽目になる・・といえば良質なサスペンスのお手本だろう。

 仰々しい暴力も残酷な描写もなく、ただサービスのつもりかヒロインのファビアンは痩身の裸体をあっけらからんと頻繁に晒すのだが、それにしてもかっちりと組み上げられたプロットのみで観客を納得させてくれて極上の時間をもたらせてくれる水準以上の良作であることに間違いはない。

 もともとスペインといえば、「オープン・ユア・アイズ」や「ロストボディ」「インビジブル・ゲスト」といったサスペンスの佳作があった。これらは、いずれも他国でリメイクされている。それはとりもなおさず、そのコンテンツが再使用に耐えうるほど秀逸であることの証だろう。

 そして、本作もまた例に漏れず韓国でリメイクされている。そのタイトルは「破顔」。邦題とは打って変わったそのタイトルはオリジナルの本作の原題を踏まえている。ちなみに本作の原題は“隠された顔”。

 アドリアンか、ファビアンか、はたまた失踪したアドリアンの恋人ペレラか、一体、だれの隠された顔が暴かれるのか?でも、そういった通俗的なベクトルを小気味よく裏切ってくれるほどの裏の顔を本作自体が持っている。

 古今東西、サスペンス映画やドラマは星の数ほどあるが、ピリリとスパイスの効いたスペイン料理のような本作を、その月並みな邦題だけで迂闊にジャッジして見過ごす手はないですぜ

負け犬のエロいメイドがハイソなご主人と交尾したら異様なホラーになった件「ハウスメイド」

下層階級の負け犬女が突きつける不貞の代償で上流家庭が激震するオーソドックスなドメスティックホラーもたまには意外とイケるかも

(評価 70点)

ひょんなことがきっかけで、誰も知らないような作品にスポットライトが当たることがあるもので。たとえば韓国の俊英ポン・ジュノが一躍、世界を制したあの「パラサイト半地下の家族」。そのポン・ジュノが「パラサイト~」に色濃く影響を受けたとして言及したことから映画史の忘却の底から浮上した一本の映画がある。

 1960年にキム・ギヨンが発表した「下女」である。

 1960年といえば、韓国映画のマーケットでの認知度など皆無に等しく、現在のような、韓国映画の世界マーケットでの隆盛ぶりなど誰一人として想像もしていなかった時代。

 50年代から、逝去する90年代まで、コンスタントに作品を発表し続けた、韓国映画史の生き証人のようなキム監督のフィルモグラフィでもエポックメイキングな作品として「下女」がその名を留める作品だと云うことを、この負け犬も「パラサイト半地下の家族」からのリンクではじめて知った。

 とくればムラムラと見たくなるのが人情というもの。そして、こういう時に何よりも有難いのがYoutube。ネット文化の恩恵に感謝しつつ、高画質、字幕付きで見れるその「下女」を見てみた次第。

 その体裁はといえば、紡績工場に勤めるロウアークラスの主人公が、中流階級のピアノ教師の家に下女として仕えることになり・・以降の展開は、ある意味、絵に画いたような、ドロドロとした家庭内メロドラマの典型と言える。

 当時の韓国映画らしい几帳面な作劇、モノクロームの画面にも、まだ軍国主義の色が濃かった当時の韓国の世相が滲み出ている。

 だが、この「下女」が当時の映画界に衝撃を与えたのみならず、今日まで語り継がれる所以というのも、本作を一見しただけでは何となくピンとこなかったのもまた事実。

 とはいえ、各界映画人からの本作への傾倒は殊に厚く、あのスコセッシも本作のレストアに尽力したなどと聞けば、まずは下女というタイトルが記憶の淵に残ったことは確か。

 そんな矢先、映画製作システムがすっかり現代にモダナイズした韓国映画界が、本作をリメイクしたのが「ハウスメイド」。

 その妙にエロいポスタービジュアルからは、あの「下女」のリメイクだとは想像つかず、韓国のエロチック路線の一本としてアンテナにもしばらくかからず、まるで見ないまま放置していた本作をようやく見てみた次第。

 すると、さきに原作の「下女」を見ていたこともあり、所々でモデルチェンジが図られているディテールが要所で楽しめ、意外と面白かったというのが素直な感想。

 更には、リメイク版を見たことで、原典の「下女」が、どうして当時、先鋭的且つ衝撃的な作品だったのかがおぼろげながら理解もできた。

 リメイク版のモデルチェンジの最たるところは、ポスタービジュアルのアピール通りのエロ描写。これは当然と言うべきか。60年代の韓国映画界といえば、厳然たる検閲があったことは想像に難くない。

 ある家庭の闖入者となった下女と、その家庭の主人が性交渉を持った挙句、その下女が家庭の恐怖となってくるといえば、ストーリー構成上、性描写も必然なのだが、当時の世相ではままならず、オリジナルではそのふしを会話にとどめていた堅苦しさが多少なりともあった。

 更にリメイク版では、オリジナルにはなかったコンセプトを映画の基盤に据えている。60年代当時では、あったかもしれない中流クラスの家庭が下女を雇うというシチュェーション。しかし、現代ではまずは有り得ない。そこで主人公が住み込むのは誰もが羨むハイソな家庭。そこに入り込んだ主人公が元凶となる。つまり、「パラサイト半地下の家族」が手本にしたとされる「下女」が、本来、描くはずだったヒエラルキーに大きく焦点を当てている点がリメイク版の最大のモダナイズのポイントだ。

 そんな変更点はあっても、本作のドラマツルギーのパラダイムは、実直に原典を踏まえている。

 そして、それを踏まえた上で、本作はクライマックスに現代韓国映画ならではのドギツイショックシーンを用意して、オリジナルでは、少々、物足りなかったラストを、それなりに締めてみせる。

 導入部の貧困をスピーディに見せる巧みさと、モダンホラーばりのラストのビジュアル。

 原典の「下女」がその後の韓国映画のカンフル剤たらしめる、一作となったのもむべなるかな、と言えるような気がするのは、この負け犬だけではないような気がするのですけどね~

負け犬の鬼畜野郎の狂気の宴、今よみがえる熱きセブンティーズ「ダーティハンター」

狂気のレジャーに興じるイカレた鬼畜野郎に鉄槌を!よみがえるセブンティーズテイスト満載の忘れざるリミテッドアクション

(評価 78点)

 その昔、うら若き頃、テレビの洋画劇場でたまたま目にして、脳みそのひだに克明に刷り込まれた映画というものがあって、そんな映画に限って、目撃した時の衝撃が忘れられず、ビデオ、dvdとメディアを変えながら見続ける映画というものがある。

 ただしその中でも、すっかりコンテンツがマーケットに浸透した現在、今となってはごくまれだが、ビデオにも、そしてdvd化もされずにマーケットに流布されなかった稀少な作品というものがある。当然、そういう作品に限って、初見の時の衝撃が脳内で膨満して、恋焦がれている相手に会うかのようにもう一度見たいと切望するものなのだ。

 そして、負け犬にとってのそんな作品こそが本作「ダーティハンター」

 おそらく、初見は荻昌弘さんの月曜ロードショー、その後の再見は、淀川長治さんの日曜洋画劇場だったろうか。

 ホームパーティのシーンから実になにげなく始まる本作。近所の馴染みの3人の男たちがヴァケーションのレジャーに繰り出す。その屈託のなさは、どこから見てもいつものハンティングの小旅行に過ぎない。

 オープニングのさりげないテイストは、四人の男たちがダムに水没する河で最後のカヌー下りのレジャーを楽しむために繰り出す、これもセブンティーズな大傑作ジョン・ブアマンの「脱出」の冒頭を思わせる。ところがあの「脱出」が、イノセントな中年男たちが恐怖に見舞われる超絶サスペンスだったのに対し、本作はベクトルがまるで異なる。その恐怖をもたらすのが、他でもない屈託のないこの3人の男たちなのだ。

 3人の男たちに扮するのがピーター・フォンダ、リチャード・リンチ、ジョン・フィリップ・ローと繰れば、セブンティーズ世代の負け犬にとってはたまらないメンツである。

 

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 そんな三人組がハンティングトリップで滞在するロッジに向かう途上、たまたまガソリンスタンドで見かけたイケてる美女と中年男とのカップルの車に追いすがるや、実に何の気なしに、そのままヘラヘラと不敵に笑いながらロッジに連れ込み拉致してしまう。

 ノーマルなトーンがいきなりアブノーマルに変容する転調にも驚くが、映画は、そこからさらに異様なテンションへと包まれていく。のらりくらりとした会話で、不敵に笑いながら三人は、レイプ寸前の好色な目つき丸出しで女をねめまわし、男の自尊心を踏みにじる。

 我々は、そこで、イージ・ライダーでチョッパーに跨りフリーダムを求めたはずのキャプテン・アメリカが、ゲス極まりない露骨さで散々、カップルをいたぶるさまをを見せつけられる。

 ここで覚える不快感は、あのペキンパーの「わらの犬」で見せつけられるド田舎の下品なカントリー・ピープルに覚える嫌悪感や、ブアマンの「脱出」で、都会の中年男たちが山男たちに追い詰められ、男が男にレイプまでされてしまう衝撃的な不快感と、どこかセブンティーズの遺伝子のようにつながっている。

 その不快感のサスペンスが一気に高まるのは後半、ネチネチとカップルを虐めていた三人が、あっさりとカップルに解放してやると申し渡してから。

 一瞬、喜ぶカップルだったが、三人のニヤけた顔を見て、すぐに自分の身の顛末を察する。

 そう、自分たちはこれから狩られるのだ。

 きっと、休暇の度に三人は、行きずりの人間たちを捕まえては、今までに何人も動物さながらハンティングの餌食にしてきたのに違いないことが、そのもののセリフはないが、見ている側はすぐに分かる。

 そして、そこから繰り広げられる絶望的なマン・ハント。ここのくだりは70年代の映画らしく、ひたすら無情である。

 カップルの男は、あっさりと殺され、それまでは気丈を保っていた女が、おろおろとあられもなく命乞いする。その女が実にあっさりと射殺される無慈悲ぶりにただ戦慄するが、ここらへんのドライな感覚こそ、ある意味、70年代映画の負のベクトルのフリーダムの証だろう。

 しかし、実は、本作が本領を発揮するのはここからなのだ。

 女を仕留めたその時、どこからか跳弾してきた弾丸が、三人のうちの一人を撃ち抜く。

 それを機に、それまで人間狩りで、レジャー気分を満喫していた鬼畜野郎どもが、一気に恐怖を顕わにしてオロオロと身構える。

 負け犬が本作を初めて見て、もっとも衝撃的だったのが、狩る側が突然、狩られる側の下剋上に見舞われる、こちらまでが一瞬、慌ててしまうほどの、この全く予期せぬ、映画の中のキャラクターのヒエラルキーの上下関係の唐突な逆転劇だった。

 それは、それまでは露骨に嫌悪感しか感じていなかった三人組に、それが恐怖を感じるや、その恐怖がこちらに伝染するかのような得も言えぬ複雑なカタルシスといえようか。

 そして、二人が姿なきスナイパーに射殺され、一人残ったピーター・フォンダの目の前に、そのスナイパーが何の衒いもなく姿を現す。

 ここも、負け犬にとっては実に衝撃だった。何の気なしに冒頭に伏線が提示されていて、まさに伏線が回収されるという作劇のマジックの一つをまざまざと見せつけられたような、といえば少し大げさかもしれないが、それ程この顛末はさりげなくも衝撃だったのだ。

 本作、スペイン資本のためか、メジャーによる配給ではなかったことが災いしたのか、前述のように、ソフト化されて知名度を高めるという恩恵に授かることも出来ず、作品として、長年、不遇を余儀なくされたわけだけど、それが実に何と、この令和の時代の2026年に4Kでレストアされて公開された。

 この映画の、ニューシネマの感覚を色濃く投影した、ある意味、のびやかともいえる無邪気なアンチモラルな大胆さこそ、この負け犬のハートに今でもくすぶる70年代のあの劇画隆盛の時代感の象徴のような気がするのはこの負け犬だけだろうか。

 それは恐れ知らずに、たとえばジョージ秋山の「銭ゲバ」や「アシュラ」が少年誌に堂々と掲載されていた、あの創作の自由な空気にもどこか似ている。

 ただ、それがこの令和に復活したということは、マンガでも映画でも熱くたぎっていた70年代、その残り火の火照りを求めているのがこの負け犬だけではなかったという証なのでしょうね~

 ビバ!セブンティーズ!

負け犬女と砂漠のゾンビ史上もっともスローな鬼ごっこにチョッピリ感心した件「サンズ・オブ・ザ・デッド」

容赦なく太陽が照りつける無限の砂漠でのゾンビとのスローなスローなチェイス。行き着く先に見えたのはB級映画のチョッとした掘り出し物を掘り当てたほっこりとした喜びだった

(評価 72点)

ゾンビ映画のコロナウィルスなみの繁殖も今は昔、今や「~デッド」の文字が並ぶタイトルだけがあちこちで残骸のように延々と並んでいる、そのさまは何処か開店休業状態の広大なテーマパークを思わせる荒涼とした有り様とでもいえようか。

ただ、そんなタイトルにふと手をのばして見たくなるのもまた人情で、今回も、たまたま、砂漠で女がたった一体のゾンビに延々と付きまとわれるという惹句が目に止まって興味を覚えて見てみたのが本作。そして、これが意外と拾い物だったというお話。この負け犬のような映画フリーク。それも絵にかいたようなB級映画愛好者からすれば、願ってもない顛末だったという次第。

そんな本作。惹句に偽りなく、というか、几帳面なほど惹句に忠実に、開巻、ゾンビに征圧された都会から車で脱出を図ったとおぼしき黒人男とコール・ガールまがいのオネーチャンが、砂漠の一本道で、車が砂地に突っ込み立往生、そこへとぼとぼとやって来た一体のゾンビ男に襲撃された挙句、黒人男が餌食にされ、一人になって砂漠を彷徨う羽目になったオネーチャンが、そのゾンビに延々つきまとわれる。本当に、ただ、それだけの構図の映画なのだ。

あのスピルバーグの「激突」を挙げるまでもなく、映画は単純な道具立てほど面白い。しかし、単純なほどムズかしい。

確かに、たった一人で一路、砂漠の向こうの軍の空港を目指すことになるモリー(ブリタニー・アレン)が、これもまた一人ぼっちのゾンビにヨタヨタと追われながら繰り広げる超絶スローモーな鬼ごっこは、その絵面からしてオフビートでシュールな面白さはある。

低予算で、凡百なゾンビものなら、それで80~90分終始しておしまいなはずなのだが、本作もきっとそれだけの代物だろうとタカをくくって見ていたら、少しテイストが変わって来る。

この少々ガラの悪いオネーチャン、モリー。喉の渇きと空腹、そして時折、ヤクを呷って朦朧となりながら、オーソドックスなヨタヨタ歩きで追いかけて来るゾンビに悪態をつくさまはどこか憎めない。そして、所々でインサートされるフラッシュバックと独白から、どうやらまだ幼いチェイスという名の子供がいて、ストリッパー家業に身をやつし、半ばネグレクト同然になって子育てを放棄した挙句、そのチェイスを姉に置き去り同然に預けてしまったという過去があることが分る。

どこまでも追いかけて来るゾンビへの恐怖、更には、砂漠の極限状態の中で自分と向き合う羽目に陥り、モリーはへたりこんで慟哭する。それを見るにつけ、本作がゴミ同然に切って捨てるだけの作品ではないと分かって来るところがミソ。

ようやく車で通りがかった男たちに助けられたと思ったら、そいつらが刑務所を脱走したばかりのクズ男で、レイプされかけたところを、事もあろうにそのゾンビに助けられるというプロットのひねりから、本作は、ダメ女と一匹のゾンビのバディムービーの様相も呈してくる。

ただの発想倒れだけで終わってしまう映画でも、ほんのちょっとした匙加減で映画の味付けを変えることが出来る。本作はそのサンプリングのような作品といって良い。

最後、チェイスを助けるために、モリーが果敢にゾンビに立ち向かって終わるエンディングもどこか爽やか。

低予算で安上がり、という欲目に付け込んで、本当に星の数ほど量産されたゾンビ映画の中にも光る逸品を見つけたら、砂漠の砂から何かを掘り当てたような得な気分になれる。本作はそんな気分にさせてくれる佳作でしょうね。

負け犬が絶妙などんでん返しにエクスタシーを覚えた件「恐怖」

世間でも、ほぼ誰にも知られていない。そんなどんでん返しを発掘する喜びに打ち震えること請け合いの大良作

(評価 80点)

どんでん返し。この言葉に胸をときめかさない映画ジャンキーなんているのだろうか?

そもそも、作り話のフィクションには、どんでん返しという返し技が存在する。

読み手や観客が、当然そうなるべきであろうという意識下で行っている想定を、いつの間にか覆してしまうという、作り手側のそんな企みにまんまとはまらされてしまう決め技の事だ。

受け手の騙され方がキレイなほど、一本技が成立するし、騙された受け手の方も、技がキレイに決められれば決められるほどカタルシスを覚えてしまう。当然、どんでん返し映画なるジャンルもあるわけで、いくつものタイトルを思い浮かべる方も多いはず。

でも、聞き飽きたような(たとえばシックスセンスとか・・)作品ばかりで、結局、貪欲な観客である我々は、常に斬新などんでん返しを求め、日夜、キレイに騙されることを心のどこかで熱望している。

世間でもそれを知っているから、特に小説など、どんでん返しを謳って、帯の惹句にデカデカと掲げているものも多い。でも、そんなものに限って、どんでん返しを意識的に狙って、やたらとツイストばかりを仕掛けて逆に白けてうんざりさせられるものも多い。

つまり、フィクションにおけるどんでん返しとはそれほど高等な技なのだということ。

決まり切ったシンプルな道具立てと、数少ないキャラクターだけを操って如何にラストの驚きに導くか、そんな小気味の良い驚きを誰もが望んでいるものなのだ。

しかし、そんなサプライズもほぼ出尽くしたかと、嘆いていた矢先、思わぬ伏兵が意外な所から現れて、大いに驚嘆させてくれた。

それこそが、50~60年代にB級ホラーのプログラムピクチャーを量産していたハマープロが生み出した最高傑作といってもいい、本作「恐怖」なのだ。

ハマープロといえば、ドラキュラやフランケンシュタイン、それに狼男を筆頭にした低予算のホラー映画を誰もが思い浮かべるはず。

この負け犬も、ハマー映画と言えば、そんな安っぽい印象しかなかった。

だから1961年製作の、そのものズバリの「恐怖」と銘打たれた本作も、半ばたかをくくって、見始めたと言っていい。

ところが、本作は、そんな負け犬の侮りを見事なまでに覆してくれた。

冒頭、湖で若い女性の水死体が引き揚げられるタイトルバックで幕を開ける本作。

映画はそこから、主人公のペニー(スーザン・ストラスバーグ)が、10年間会っていなかった父親に会うため、南仏のニースの別荘にやって来るところからはじまる。

別荘でペニーを出迎えた後妻のジェーンは、父親は仕事の用事で不在だと告げるのだが。

主人公のペニーは落馬事故で下半身不随の車椅子の生活。そんなペニーは、夜中、不審な物音で目を覚ますと、音に導かれるように入ったサマーハウスで目を見開いた父親の姿を見かけ叫び声をあげる。

父親を見たというペニーに、後妻のジェーンも運転手のロバートも、かかりつけの医師も耳を貸さず、次第に追い詰められていくペニー・・とくれば、典型的なニューロティック・スリラーの定石。この手のスリラーなら、ハマーをはじめ、誰もが見ているはず。

おそらく、父親の財産を狙って、車椅子生活のペニーに良からぬ企みが仕掛けられている、と誰もがそう思う。加えてかかりつけの医師を演ずるのがドラキュラ役者のクリストファー・リーとくれば、その後の展開は、こうなるはずだと、大抵の人は脳の中で決めてかかってしまうはずだ。

実際、そうなのだ。実際、本作も、プロットは、定石通りの定番なのだ。

しかし、本作はその定番の中に、実に巧みなツイストを効かせて我々を小気味よく驚かせてくれる。

人間の脳には、それまでに見た話の展開が無意識のうちに植えつけられる、刷り込みという現象が起きている。

それが、刷り込み通りに展開することで、カタルシスをもたらすのが、人が飽きずに映画を見たり、小説を読み続ける、一つのメカニズムとも言っていい。

しかし、その刷り込みのスキをついて騙されるカタルシスの方が実は数倍も大きい。

それこそがどんでん返しの醍醐味なのだ。

映画を見ている間中、ずっと疑問符が浮かびっぱなしの冒頭の伏線が見事に回収されるラストでもたらされる騙されたという快楽と、思わず快哉をあげたくなるようなカタルシスを備えた、掘り出し物の本作。どんでん返しに餓えたあなたにぴったりの作品であることは請け合いですよ

負け犬が思わぬ掘り出し物でセブンティーズを満喫してナイスな気分になった件「アイズ」

セブンティーズの空気感とサイケでジャッロな殺人劇が見事にマッチしたこれこそ掘り出し物の良作サスペンス!

(評価 78点)

 負け犬ほどのシニアな映画フリークなら、誰でもゴールデンな黄金時代というこだわりの年代があるのではなかろうか。そのゴールデンエイジこそ、まさにアメリカ映画が鋭角な切り口で華開いた70年代。

 序章ともいうべき「フレンチコネクション」を筆頭に、「タクシードライバー」や「狼たちの午後」など、唯一無二なその時代の名作を挙げだしたらキリがない。

 そして、主に当時のニューヨークを舞台にした、そうした作品に共通するのが、エッジの効いた空気感。ハイパーリアリズムのような、ザラザラとした質感を思わせるルックスだった。

 かくして、本作の「アイズ」。製作は70年代の末尾の1978年。「JAWS」を端的な例として、当時、映画のビジュアルイメージが映画ポスターでほぼ決定づけられていた時代、ポスターの全面を占める主演のフェイ・ダナウェイの顔のクローズアップに、真っ白な三白眼を晒したインパクトのあるイメージが映画雑誌に載っていて、まさに目を奪われてもいた。

 だが、高名な女流写真家が、サイキックな霊視能力で、殺人現場をリアルタイムで霊視出来るようになって・・云々のB級っぽい紹介記事と、当時のどっちつかずの曖昧な映画評を見て、勝手に駄作と決め込んで、フェイ・ダナウェイがそのトレードマークの美脚を顕わにしてキャメラを構える決めのビジュアルは脳裏に刻み込まれながらも、結局、今の今まで、見る事もなく年月が過ぎ去っていた。

 以来、幾年月、急に、その「アイズ」の脚本があのジョン・カーペンターだったのを思い出したことをきっかけに、懐古趣味もあいまってようやく見た本作。何のことはない、これが掘り出し物の良作ですっかり嬉しくなった次第。

 開巻は、いきなりの主観ショットが繰り出される霊視による殺人シーン。この自らのサイキックな能力に慄きながら事件に巻き込まれるのがフェイ・ダナウェイ演ずる写真家ローラ・マーズなのだ。

 ファースト・シーンから歴然なように、本作の基本コンセプトは、イタリアで隆盛を誇ったスラッシャーな殺人シーンが売りの通称ジャッロ映画のアメリカナイズ。これなど、自身映画マニアなジョン・カーペンターならではといったところ。

 しかし、本作ではイタリアンでグロな殺人描写はまずなく、それに取って代わるのが、ローラを取り巻くファッション写真業界のビジュアライズと、それを彩る70年代のイカすディスコ・ミュージックの数々。

 とりわけ、何よりもこの負け犬のアンテナにずばり刺さったのが、ローラの作品群のリソースの写真に、あの巨匠ヘルムート・ニュートンの作品群が惜しむことなく使われていることだった。

 ニュートンといえば、カミソリのような目の覚めるような切り口で被写体を切ってのけるエロスの巨匠だが、本作の、エロスと暴力という作品テーマを売りにファッション写真業界で時の人となるローラ・マーズというキャラクター設定に、これ以上ピッタリな逸材はいない。

 この負け犬も若い頃からニュートンの作品群には心酔していて、写真集も何冊も持っている。

 フェイ・ダナウェイヘルムート・ニュートン。しかし、よくもまあ、こんなゴージャスなカップリングが実現したなと思う間もなく、つぎつぎとアクテイブにセブンティーズのルックスと、実際のヘルムート・ニュートンの作品の撮影現場の再現を思わせるシーンがディスコ・ミュージックの軽快なテンポそのものに繰り出され、あれよあれよと引きづりこまれていく。

 ローラを取り巻くバイプレイヤーも、トミー・リー・ジョーンズブラッド・ドゥーリフ、それにラルフ・ジュリアと、その時代に異彩を放った嬉しくなるような曲者ばかり、とくれば、もう二転三転して犯人が、ジャッロ映画の定石通り明かされるラストまで目が放せなくなってくる。

 そもそも、本作に手が及ばなかったのも、監督が手垢のついたような高齢の職人監督のアーヴィン・カーシュナーだったからなのだけど、本作では、或る意味、職人臭さを臭わせない実にフレッシュでアクティブな演出で目を見張らせてくれる。

 ニュートンのビジュアルに、ブラックコーヒーのようなテイストでアメリカナイズされたジャッロ映画のトーン、それにピリピリとした殺伐としたイカすセブンティーズのルックスとディスコミュージックの混然一体とした世界、あなたも是非、いかがでしょうか。

 負け犬のような映画フリークからすれば、これが、監督がアーヴィン・カーシュナーではなく、当時、気鋭の映像の魔術師ブライアン・デ・パルマだったなら夢のドリームマッチになったのに・・・などと淡い夢まで見させてくれる憎い存在なのですよね~

負け犬が大空を見上げ夢想していたガキの頃のことを思い出した件「NOPE ノープ」

誰もが空を見上げ、漂う雲に思いを馳せていた子供の頃。そんな子供心の琴線をくすぐるようなセンスオブワンダーを感じさせるスーパーナチュラル・ホラーの快作

(評価 78点)

 真っ青な広大な空にポッカリと浮かぶ雲。そのどれ一つとして同じ形はない。それどころか、ある雲はモクモクと、また、ある雲は優雅にたなびいて、まるでパフォーマンスでも披露しているように見える。子供の頃なら誰もが、そんな雲をみながら夢想に耽った時があったのではなかろうか。

 本作は、一見、ありふれたサイファイ映画と思わせておいて、誰の心にでもあるセンスオブワンダーな童心をくすぐる、ちょっと意外なアイデアで存分に楽しませてくれるスーパーナチュラル・ホラーの秀作だ。

 ジョーダン・ピール。映画好きの人なら、この男の名前、誰もが聞いたことがあるはず。そう、あの人種差別ホラーとして世界中で大ヒットした「ゲットアウト」でブレイクを果たした新進気鋭の監督だ。

 負け犬が「ゲットアウト」を見た時、真っ先に想起したのが、あの往年の伝説のTVシリーズ「トワイライト・ゾーン」だった。スピルバーグはもとより、それより一世代、二世代も若い世代でさえ、本国で繰り返し再放送されていたに違いない、超絶的なクォリティーを誇るこの番組に心酔していたクリエイターも多いはず。

 続く第二作「アス」を見た時、ジョーダン・ピールもまた「トワイライト・ゾーン」好きの一人に違いない、そんな確信を新たにしたものだ。つまり、ジョーダン・ピールの作品に通じていると直感的に感じたのが、センスオブワンダーなアイデアだった。

 「トワイライト・ゾーン」に通念として流れるテーマとは、日常に隣人のように寄り添う、奇妙な物事。この負け犬が「トワイライト・ゾーン」を最初に見たのは、番組名が「ミステリーゾーン」の時だった。毎回、繰り出されるアイデア豊かで、子どもの恐怖心にも訴えかけるセンスオブワンダーなエピソードの数々に夢中になった。

 果たして、「ゲットアウト」、「アス」と、二作を立て続けにヒットさせ、一躍、第二のシャマランとして躍り出たそんなジョーダン・ピールが放った第三作目「NOPE ノープ」とはどんな作品なのか?

 のっけのオープニングからまず、意表を突かれる。

 TVのスタジオのセット、そこに少し興奮気味のチンパンジーがフレームインしてくる。子ども番組のセットのようだ。しかし、そこには横たわる女性の足が椅子の端から突き出ているのが見える。どうやらそのチンパンジーが修羅場と化したセットの張本人らしい。でも、一体、何故、どうして?

 「ゲットアウト」、そして「アス」と、ジョーダン・ピールはやはりイントロが上手い。巧みなイントロといえば、TVシリーズが視聴者に訴えかけるのにマストなメソッドだけど、本作のイントロなど、まさにTV世代のジョーダン・ピールの面目躍如といったところ。

 そして、うってかわって本編の舞台は、広大な平原が広がる田舎の牧場。牧場を営む一家の二代目、本作の主役でもあるOJがいつものように馬の世話をしていると、空気をつんざく音と共に空から小さなコインが落ちて来る。牧場の経営者でOJの父親のこめかみにそのコインが不運にも貫通し急死を遂げる。

 いきなりの不条理な死。牧場を継ぐことになったOJは、やがて上空に拡がる雲に不穏な感情を覚え始め・・・

 本作の予告動画やポスター、それにスチールを見た人なら、およそ本作が、未確認飛行物体に関わる映画であることが予想がつくはず。現にこの負け犬も、何の疑いもなくすっかりそう思い込んでいた。

 而して、確かに本作、序盤はあのスピルバーグの「未知との遭遇」を今さら、完コピしたようなシーンが続々と現出する。だからといって興ざめすることがないのも、冒頭のTVセットのシーンをはじめ、風に揺られて根が生えたように立ち昇るバルーン・ドールなど、ワイドショットで捉えた拡がりのある映像のクオリティーが高いのと、確信犯的にジャンル映画の定石を踏む、そのスタンスにどこか揺るぎない自信が感じられたから。

 その上、映画の進行につれ、ごった煮のように様々な映画のカラーが混在していくのが面白い。ちょっとポンコツな面々が集まって未知の物体に立ち向かうのは「ジョーズ」然り、B級モンスター映画好きなら「トレマーズ」といったところか。

 ところが、いよいよ後半に至って、その物体をめぐり、ピールは予想外の正体を提示してくる。この辺り、凡百のジャンル物だとタカをくくっていた負け犬などはホーと嘆息して少し感心した。

 その上、イントロが、登場人物が子ども時代に体験したトラウマだったことが明かされ、本作がいわば子供時代のそこはかとない恐怖に根差したサイファイであるという重層的な仕組みを持った作品であることが明かされるに至って、感心が賞賛に変わっていた。

 他にもチャプター仕立ての語り口、要所でイカすRBの曲の数々でアクセントをつけるタランティーノ映画を思わせるテイストなど、本作の魅力は尽きない。

 表面的なアイデアのみに固執するシャマランとは違う、一作ごとにテーマの切り口を変えて来るこのジョーダン・ピールという新たなダーク・ホースの動向、馬好きならずとも見逃す手はなさそうですよ~