負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう崖っぷちの映画録。また、たまに<映画をエンジョイ英語もエンジョイ>と題して、映画の実際のスクリプトを原文と翻訳でご紹介。英語学習気分もちょっぴりどうぞ!

負け犬も誰かと映画を見てみたい「サスペリア」

「決してひとりでは見ないでください!」のコピーも躍る、鮮やかな原色の色彩と、おどろおどろしい音楽、こけおどし全開のイタリアン・バロックホラーの決定版!

(評価 72点)

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心的恐怖も内容も何もない、しかし、とことんお化け屋敷に徹すれば、それはもはやこけおどしの美学としか言いようがない。

 今のように、プレミア映像の動画をあちらこちらにアップして、映像そのもので自由に宣伝できる時代になる前は、映画の宣伝といえば、惹句。つまりはキャッチコピーが決め手だった。映画のポスターに躍る、その惹句のインパクトで、現実に興行収入をも左右することすらあったのだ。

 この負け犬が、中学生になったばかりの頃だろうか、学校中を席巻する、とある映画のキャッチコピーがあった。そのコピー「決してひとりでは見ないでください!」が躍る映画こそ本作「サスペリア」だった。当時も今もヘタレな負け犬は、ロードショー誌に載ったスチル写真だけでビビッてしまい、見に行くはずもなかったが、コワいもの好きな、男子や女子は、「決してひとりでは見ないで!」の警告も完全に無視してキャーキャー言いながら、一人どころかわんさか連れ立って、大挙して見に行ったものだった。その結果、当時の業界では、まったくのノーマークに近かったイタリア製ホラーの本作は、異例の超大ヒットを記録、そのコピーとともに長らく語り継がれる作品となったのだった。

 やがて成長した負け犬だったが、やはりビビリのヘタレの性格だけは引き摺って、それなりにホラーは見ていたはずなのに、何故か、本作は見ないまま、むやみやたらと年を取り、いよいよこの度、何の因果か見てしまったという次第。

 すると、どうでしょう。目にも鮮やかなその色彩、徹底したこけおどしモード全開で、がなり立てる音楽、けばけばしい、めくるめく映像に酔わされ、ガタガタと揺れるゴー・カートに乗ってお化け屋敷をキャーキャー言いながら回遊する、あのノスタルジックな陶酔感をすっかり味わってしまったのでした。

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 確かにコワイのはコワイけど、心的恐怖などまるでゼロ。だから、お化け屋敷を出た後は、コワイことなどすっきりと忘れてしまうあの感覚で、精神衛生的にもいいんじゃないかとすら思えたのでした。

 ニューヨークからやって来た女の子スージージェシカ・ハーパー)がドイツの空港に降り立つところから、すでにこけおどしモード全開、あのゴブリンのテーマがヒュ~ドロドロと流れ出し、妖しい歌声で、一気に極彩色の世界に連れて行かれる感覚がたまんない。

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 目指すバレエ学校に到着するや、そこからは、もうストーリーなどあってないようなもの。ただひたすらノー天気な脅かしが繰り出される。有名なウジ虫に、天井のガラスを突き破っての首吊り殺人、盲導犬の襲撃に、カミソリ魔、そして針金地獄、アラカルトのように展開される数々の見せ場には、思わせぶりなど何もない。だってその原色モードが雄弁に物語っている。はじめから意味など無い。ここにあるのは、ただお化け屋敷の出し物をプロデュースして驚かせてやる、純真無垢なその心意気だけなのだ。

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 寄宿舎も兼ねたバレエ学校は、少女マンガを絵に画いたような女子祭り。そんな女の子たちを束ねる厳格な主任教師ミス・タナーが名女優のアリダ・ヴァリ。ゴブリンの音楽が物々しくがなり立てる中、惨劇が繰り返され、このミス・タナーに、ひとくせも、ふたくせもありそうな秘密の気配を匂わせ、やがてどうやら魔女の儀式が絡んでいることが分かってから到来するクライマックスは、原色のお化け屋敷そのもの。

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 かくして、少女マンガのヒロインよろしく、どんなにコワイ目にあっても、いつも気丈なスージーが、どうやら魔女の正体らしきものが明かされ、定石通り、何とか難を脱し、学校を後にするエンディングに至っても、ストーリー自体はチンプンカンプン。でも、最初から、内容ゼロと高らかに宣言されているから、少しも腹も立たないわけで。その昔、あのクェンティン・タランティーノが若き頃、本気で本作の監督ダリオ・アルジェントに弟子入りしようとしたとかしないとか、どこかで書いてあったことを読んだことがあったが、この圧倒的にキッチュな作り物の見世物小屋感覚を見せられれば、それも案外、ガセではないとうなずける。

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 昔ならいざ知らず、今となっては映画も、もっぱら一人きりの”ぼっち鑑賞”が常だけど、何だか、誰かとワイワイキャーキャー言いながら映画を見ている、そんな色鮮やかな極彩色の夢を見させてくれる映画なのかもと言えば、褒めすぎでしょうかね~

負け犬とエロい熟女の殺戮劇場「丑三つの村」

草むらに捨てられたエロ本の猥褻な写真にたぎらせた野卑でゲスな欲望が、猟銃から放たれた銃弾とともに全方位に暴発する、世にも危険なエログロ・バイオレンスの問題作。(評価 68点)

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にっぽんの熟女イメージのシンボル、五月みどりがエロ度全開に見せまくる。実録エログロ・ドラマのカルト作。

 まだAVすらなかった時代、いたいけな青少年の股間をたぎらせたものといえば、本屋の片隅にひっそりと置かれたエロ本と、これまた映画雑誌の片隅に小さく載ったエロい映画の広告だった。なんせいたいけな青少年だ、本屋で堂々とエロ本を立ち読みするなど言語道断、とくればあとは映画雑誌のちっぽけな広告をかじりつくように見るしかない。

 というわけで、当時、洋モノのパツキンのオネーちゃんたちや、総天然色のピンク色の肌をしたオネーチャンたちが乱舞する『日活ロマンポルノ』の女優たちが束になってもかなわないほどの圧倒的なフェロモンを振りまいていたのが「かまきり夫人」こと五月みどりだった。嗚呼、熟女の代表選手のような”五月みどり”を心ゆくまで堪能してみたい。くだんの「かまきり夫人」をはじめとする控え目だが、エロ度抜群のみどりネーサン主演の映画群の写真を記憶に焼き付かせ早や幾年月、ようやくこの年になって、その思いのたけを存分に成就することができたのが、あの「八つ墓村」のモデルにもなった実際の事件を描く猟奇実録モノたる本作だった。

 『津山三十人殺し』として知られる本作のモデルとなった事件が起きたのは、日本が急速に戦時国家に傾倒していた頃の1938年。岡山県のとある山間の集落で、入営不適切として兵隊に徴用されなかった一人の青年が、同村落の村人30人を、猟銃や日本刀で片っ端から殺害した日本の犯罪史上にも刻印のように刻まれる凄惨な事件だった。

 実録物といえば、決して抜きには語れない超傑作に、カポーティのノン・フィクションを映画化した「冷血」があった。「冷血」では、原作の構成の時系列を大胆に改変し、見事にその衝撃度を高めることに成功していたが、本作では、犯行前夜ともいうべき村落での青年の日常生活から、犯人の青年が犯行を準備し、殺戮を決行し、実際の事件通りに自害して果てるまでをほぼ時系列に、なぞるようにして描いている。尚、本作は1983年に松竹より一旦リリースされたが、そのエロ度とグロ度がえげつなさ過ぎるとして、半ば、発禁同然に封印された禁断の作品だ。

 主演を演ずるのが、後年、実生活でも自殺した古尾谷雅人とあって、いよいよその禍々しさも増す本作。実在の犯人の名前も、都井睦夫から犬丸継男という役名に改変された古尾谷雅人が、日活ロマンポルノ出身の田中登監督のもと繰り広げたエロとグロのドキュドラマとは如何なるものだったのか。

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 そんな本作は、村民たちの万歳三唱と共に、華々しく出生する赤木(ビートきよし)を悩まし気に見つめる継男(古尾谷雅人)の姿から幕を開ける。祖母のはんと暮らし、村一番の秀才として村民たちから将来を嘱望されている継男だが、その最たる願望は、自分も出征し、お国のために兵隊としての使命を全うすることだった。

 この事件に欠かすことができないファクターとして、日本の孤立した村落で古くから行われて来た”夜這い”という風習がある。夫が出征し、その妻たちが寂しさをもてあます村では、若い男に体を開く土壌が容易にあった。継男も、村で夜這いが行なわれているのを知りつつ、悶々としながら深夜まで勉強に励む毎日だった。

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 女優陣が惜しげもなく悩ましい肢体をさらす本作の先陣を切るのが、えり子役の池波志乃。えり子が夜這いする村人の一人と交わっているのを見た継男は、それを見たさにえり子の家を覗こうとした矢先、一人で寝ていたえり子に見咎められる。たわわなおっぱいも露わに、えり子に手淫された継男が、筆おろしされたのが、継男の家に借金しに、度々、訪れていたミオコ(五月みどり)だった。

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 借金を届けに行った継男が見たのは、寝かしつける子供に乳を与え、乳首から垂れる白濁した乳を拭いもせずに現れたミオコだった。騎乗位で果てるミオコと共に、ここで継男は初めて男になる。

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 それからは、入れ替わり立ち代わり、どの女も継男に気安く体を開き、まんざらでもない生活が続いていた。しかし、そうした状況が一変する事態が起きる。揚々として受けにいった徴兵検査の日、継男は肺結核と診断され、徴兵を却下されてしまう。その日以来、村人たちは手の平を返したように、あからさまに顔までそむけ継男を避けるようになり、継男と情交を交わしていた女たちまでが継男を拒絶するようになる。このくだりは、昨今のコロナ過の、差別まがいのバッシングすら想起させて痛ましい。

 更に唯一、継男を拒絶しなかった幼馴染のやすよ(田中美佐子)から嫁に行くと告げられ、他人との糸がすっかり絶たれた継男の憎悪の矛先は村人へと向かい始める。

 これを境に人が変わったようになった継男は、銃砲店で大量の銃を買い求め、山の中で試し打ちしては日々を過ごすようになる。ドキュドラマっぽく、ここからのディティールも本作は実際の事件に忠実に描いている。

 祖母を不憫に思った継男は、祖母の毒殺を図るが失敗、警察に一旦は、銃器を没収される。しかし、いよいよ孤立を深めた継男は、再び猟銃を買い求め、やすよに自分だけの戦場に赴くとの手紙をしたため遂に、村人たちへの復讐を決行する。

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 詰襟のガクランに、軍用ゲートルを脚に巻き、80年代の日本映画独特のテクノっぽいサウンドとともに装備する継男を捉えるシーンの後、およそ10数分にわたって繰り広げられるクライマックスの殺戮シーンは、むごたらしく、凄惨そのもの。

 総じて本作は、日活出身らしい田中登監督ならではのエロ・シーンや殺戮シーンを覗けば、いたって実直そのもの、ある意味、教育映画的な懇切丁寧な作りとでもいえようか。しかし、ラストの殺戮を終えた継男とやすよの涙の別れのシーンなど、陰惨きわまりないテーマに相反し、まるで青春映画のようなテイストがあるなど、少しネジがはずれたところもあり、80年代に気を吐いていたプロデューサーの奧山和由が、女優陣のエロを看板に掲げつつ実録路線で当てようとしたその的を外してしまった作品でもある。

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 何はともあれ、その女優陣、やはりお目当ての五月みどりがピカ一でした。小ぶりな乳房に純白の肌。そんな熟女のフェロモン全開の五月みどりが、童貞の継男を誘い、騎乗位になって悶え、継男の指までねっとり咥えて舐めるその姿。そして継男と指を絡め合って遂にイキ果てるその姿。積年の思いを果すに十分なその姿、しっかりとこの目に焼き付かせて溜飲を下げたのでした。いやあ~良かった

負け犬のアトラクションは命がけ「ウェストワールド」

若き俊英マイケル・クライトンが、劇場映画初監督作で、その才気煥発ぶりのみならず、あのウェスタンの名作「荒野の七人」のクリスが、そのままのスタイルで登場する遊び心まで存分に発揮したテクノ・スリラーの秀作

(評価 74点)

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楽しいはずのアトラクションが、命がけの決闘の舞台へとシフトする、後のアトラクション隆盛時代まで予見したクライトンの先見性に、改めて瞠目させられる一作。

 アトラクションやテーマ・パークの魅力とは、手近なところで、ヴァーチャル的な異世界感覚が味わえるそのトリップ感に他ならないでしょう。でも、そのアトラクションにリゾート気分で行ったら、命がけの決闘をする羽目になってしまった平凡な男というモチーフを、先見的なロボット工学というアイデアを交えて卓抜なスリラーにしてしまった男がいた。

 その男こそ誰あろう、2メートルを超える、バスケット・ボール選手顔負けの巨体と圧倒的な知力で、若くしてテクノ・スリラーという新ジャンルを打ち出し、世界を驚かせたマイケル・クライトン

 アメリカの片田舎の町に落下した隕石に付着していた地球外の微生物による脅威を描いたクライトンの代表作「アンドロメダ病原体」は、この負け犬も、ロバート・ワイズ監督による映画版をTVで子供の頃に見て、その面白さと迫真的なリアリティに圧倒されたのを今でも憶えている。その後、クライトンによる原作の翻訳版の文庫本のみならず、そのペーパー・バック版の原書まで入手しては、繰り返し読んでいたが、やっぱりその「アンドロメダ病原体」で際立っていたのは、要所で研究論文をそのまま引用したような疑似ノン・フィクション的なスタイルを取り入れるなどの、クライトンという人の渙発そのもののその才気。

 迸るような才気が、小説の世界だけにとどまるはずもなく、クライトンの才能は、その巨体までをもはみ出して、映像の世界にまで越境していく。TVで昔、見た本作は、オリジナルのランニングタイムが90分ということもあり、TVの洋画劇場の放送の尺にもピタリと収まって、とにかく小気味よく楽しませてくれた秀作だったという記憶がある。

 アミューズメントパークを有する巨大企業「デロス」社のモキュメンタリー的なPR映像で始まる本作は小粒ながらも、映像の現場とは、まったくの門外漢のクライトンの劇場映画デビュー作とあって、たどたどしさは目につくが、今見ても、十分に楽しませてくれるB級映画的面白さに満ちた良作といえる。

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 マーティン(リチャード・ベンジャミン)とブレイン(ジェームズ・ブローリン)の二人は、休暇を楽しもうと、「デロス」社のアミューズメントパークを訪れ、仮想の西部劇の世界が体験できるウェストワールドをエンジョイすることに。そんな二人の相手となる人物たちというのが、最先端のロボット工学によるロボットたちで、人間の嗜好と欲望を満たすべく、デロスでホスト役として活躍している。ところが、ロボットたちを制御するシステムに障害が発生し、ホストとなるロボットたちが人間に反乱する事態となって・・という展開は、今さら説明不要なほど有名でしょう。

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 最大の見せ場は、敵役となるロボットのガンマンとの死闘なのだが、このガンマンがあの「荒野の七人」のクリスそのままのいでたちのユル・ブリンナーなのが何ともウレしい。この黒ずくめの、両目を不気味に光らせたロボット・ガンスリンガーが、何処までもマーティンを追ってくるくだりは、後の名作「ターミネーター」の原形素材を見るようで実に楽しい。

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 昔、見た時は子供の頃ということもあって、ただ面白いという印象しかなかったが、今、見ると如何にも低予算っぽいガジェット感満載の映画であることに、改めて気付くところも多い。しかし、このクライトンという人で感心するのは、学生時代に華々しく作家デビューを飾り、たちまち何作も出版したベスト・セラー作家としてのネーム・ヴァリューを最大限に駆使して、まったく未知の映画の世界にいきなり踏み込みながらも、ちゃんと体裁良く、ウェルメイドな映画作りまで難なくこなしてしまうその器用さ。

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 実際、本作の、きっちりとエンタメに徹し、年季の入ったベテラン監督が作ったかのような、ムダのないプログラムピクチャーの見本のような仕上がりぶりは、まったく予備知識なく本作を見た人なら、そう言われでもしない限り、素人同然の監督がいきなり作ったなどとは、まったくと言っていいほど気付かないだろう。

 プロデューサーがクライトンに本作の監督までさせたのも、半ば宣伝まがいの戦略があったのかもしれない。それにおそらくその時代、まだ旧態依然とした映画の現場のスタッフたちのベストセラー作家の七光りへの反発もあったはず、しかし、その逆風をものともせず、見事にそつなく劇場映画を作り上げた才能には感心する(あのホラーの帝王スティーヴン・キングが「地獄のデビル・トラック」を引っ下げ、鳴り物入りで監督デビューを果たすも、そのあまりの才能の無さに、満天下の笑い物となって、たった一作だけで鳴りを潜めてしまったのは有名な話)。

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 その上、この人は、その巨体に似合わず、この「ウェストワールド」のアミューズメントパークというアイデアを、この二十数年後に、ちゃっかりリサイクルして「ジュラシックパーク」というブロックバスターまで生み出すエネルギー効率の良さまで備えているから舌を巻くしかない。

 好奇心から何かと手を出して、一つたりともモノに出来なかった負け犬からすると、いやはや、何とも羨ましい限りのマルチタレントぶりですよね~

負け犬のナチのエロスとセックス親衛隊「愛の嵐」

文芸と耽美の、倒錯のエロスとの見事な融合。夜明けの鉄橋を歩く、ロリコン・ファッションと軍服姿のカップルのシルエットはこの上もなく美しかった。

(評価 78点)

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ナチの軍服とSMボンデージが倒錯する妖しき世界、その世界に溺れるカップルの末路は哀しくも、美しいものだった。

 本作のキャッチコピーともいうべきスナップ。戦時下、強制収容所で性の奴隷のように扱われていたルチア(シャーロット・ランプリング)が、ナチの制帽を被り、そのか細い裸身をさらして、ナチの将校たちに囲まれているちょっと危険なビジュアル・イメージを目にした人は多いのではないでしょうか。

 かくいう負け犬も、幼少の頃、その写真を雑誌で見て、てっきりアダルト系の映画だと思い込んで、長らく過ごしていたのでした。レンタル全盛期でも、本作は見かけることもなく、何の因果か、未見のまま、ようやくこの年になって、あの伝説のシャーロット・ランプリングの裸身を拝めた次第。

 マイナー・レーベルからのリリースとあって、ニュー・マスターとのうたい文句にも関わらず、ビデオ同等以下レベルの残念な画質に、いきなりへこんだものの、夜明けのウィーンの街並みから、ルキノ・ヴィスコンティ的な審美世界に欠かせない名優ダーク・ボガードのマクシミリアン(マックス)が登場した途端、画質への些細な懸念など消し飛んで、その耽美な世界に引きずり込まれていった。

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 マックスは元ナチのSS(親衛隊)で、今はウィーンにある、とあるホテルのフロント係兼ポーターとして働いている。オーストリアは戦時中から、積極的にナチ政策に加担し、戦後、中立国家として独立を果たした後も、多数のナチの残党たちが暮らしていたらしい。本作でも、ナチの残党たちが、マックスのホテルに、コミュニティーのように暮らし、交流している様子が描かれている。

 ある日、そのホテルに有名なオペラ指揮者が妻を伴いやって来る。その妻こそ、かつてマックスが強制収容所で性奴としてもてあそんでいたルチア(シャーロット・ランプリング)だった。

 マックスの顔を見たルチアは。収容所の過酷なトラウマがフラッシュバックのように蘇り、最初は、度々、ポーターとしてやってくるマックスを怖れ、激しく拒絶する。しかし、女性監督リリアーナ・カヴァーニが描く、ヴィスコンティも絶賛したという世紀末的なテイストが冴えわたる本作がユニークなのは、そのトラウマによって、指揮者の貞淑な妻としての社会生活を送っていたルチアの、耽美趣味への嗜好が覚醒し解き放たれること。

 当のマックスも、ルチアと収容所で交わしていたSMチックなプレイのことが忘れられず悶々としていたが、ルチアの夫が先に帰国し、ルチアだけがホテルに一人残されたことを知ると、いそいそと部屋に赴き、十数年も封印していた暗い欲望を解き放つかのように二人して交じり合う。

 全裸に引き剥かれたルチアに銃口を向け、逃げ惑うルチアに向ってマックスが、表情一つ変えずに引き金を引く、トラウマチックな収容所時代の映像から一転して、中盤以降は、マックスとルチアとの濃密なプレイの数々が描かれる。とりわけ、はじめて二人きりになった二人が、激しく罵り合いながらも、ようやく理性から解放され、正気のタガでも外れたのか、けたたましく笑いながら絡み合う様子を、長回しのワン・ショットで捉えたシーンは衝撃的。

 表向きは、民間人に身をやつしているナチ党の仲間たちも、かつて収容所にいたルチアが亡霊のように眼前に現れたことを知り、自分たちの正体の発覚を恐れ、マックスにルチアと接触をしないよう忠告するが、既に禁断の扉を開け、その果実の味を知ってしまったマックスが、そんな忠告に耳を貸すはずもない。それどころか、ルチアに対する抜き差しならない愛情まで、ナチのグループのリーダー格の女性に吐露する始末。

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 そして、ここでマックスの回想とともに、本作のキー・イメージのシャーロット・ランプリングが将校たちに囲まれ踊る、あのシークェンスが展開される。剥き出しの乳房も露わに、ナチのキンキーなボンデージ・ファッションでピッタリと身を包み、ドイツ語で唄いながら踊るシャーロット・ランプリングを執拗にキャメラが捉えるこのシーンは実に妖しく、耽美のエロスの極致といえる。

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 やがて、とうとう仲間たちから危険分子とされたマックスは、ルチアとともに部屋にこもり、籠城する。そして、食べ物も底を尽き、飢餓で朦朧とした意識の中、マックスはルチアに少女時代の服を着せ、自らもSSの制服で正装し、ドアのカギを開け、外界へと歩み出る。夜が明け、早朝の光に照らされた鉄橋の上を、歩いて行く男と女のシルエット。それは、戦争というエキセントリックな状況の中でしか結ばれ得なかった、哀しいオスとメスの姿なのだ。その二人を背後から撃ち抜く、朝の静けさをつんざくような銃声で本作は幕を閉じるが、その映像が発揮するデンジャラスな世紀末的テイストは、優れた映画を見た深い満足感とともに、いつまでも心に残り、ルキノ・ヴィスコンティをも凌駕するほどの凄みがある。

 とにもかくにも、子供の頃から悶々とし、この年令になってようやく拝めたシャーロット・ランプリングの肢体。その悩ましいイメージは、そのキンキーなボンデージ・ファッションとともに、これからも負け犬を悶々とさせ続けてくれることでしょう。

負け犬の姿なき温故知新「透明人間」

まさに温故知新ではないけれど、古き良きクラシックなマテリアルを換骨奪胎してホラーにしたらどうなるか?その解答は、何とも物足りない残念作でした

(評価 58点) 

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フランケンシュタインにドラキュラ、ミイラ男に半魚人。異形のキャラクター、ダーク・ユニバースに欠かせない真打「透明人間」の登場は、素直に感心できない代物だった。

 ありふれた素材をブラッシュアップしてのけるのは、並大抵のものではない。ところが、手垢にまみれきったサイボーグという素材に、マンガ「寄生獣」のAI版というアイデアを注入して、「アップグレード」という目の覚めるような快作を放ってのけた逸材がいた。あの「ソウ」で世界の度肝を抜き、ソリッド・シチュエーション・スリラーという一ジャンルを築き上げたリー・ワネルである。

その俊英リー・ワネルが、透明人間というクラシックな素材にあえて挑戦し、料理したのが、タイトルも、あられもないほど、そのものズバリのこの「透明人間」だ。

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 全米でも、批評家たちからおおむね絶賛にも近かった本作だが、おそらく、本作の評価は、この素材に対するリー・ワネルのアプローチの手法を、どう感じるかで違ってくるのではなかろうか。本作では、透明人間という素材で必然的に描かれるはずの、その誕生篇的なパーツ、透明になる側のキャラクターのドラマ部分は、バッサリとトリミングされている。確かに、その大胆な選択には驚かされもするが、そもそも今回、リー・ワネルがその手法を選択したのも、この素材をSFではなく、ホラーにベクトルを思いきり振ることだったように思われる。このメソッドの是非で、評価が分かれてくる本作だが、負け犬から見ると、今回、そのリー・ワネルのメソッドが露骨に裏目に出たような気がして仕方ない。

 主人公のセシリア(エリザベス・モス)が、異常に支配欲の強い暴力的な夫エイドリアンと拘束同然に暮らす家から、深夜、脱出する、ハイテンションのソリッド・スリラー的イントロか始まる本作。結局、本作で終始するのが、その夫エイドリアンのセシリアに対するストーキング行為のその次第と顛末となる。

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 セシリアは、友人の家に逃げ込み、一時的に駆け込み寺となったような、その家で暮らすことになるが、かくまわれて早々、その夫エイドリアンが、自殺したとの報せが入る。ホッと安堵したのも束の間、その日から、セシリアは、夫の不気味な影に怯えることになる

 本作のランニングタイムは、ホラーにしては十分に長い120分。しかし、前述したように、セシリアの夫のエイドリアンのキャラクター描写は、バッサリ、トリミングされているため、本作は、そのセシリアが、夫のエイドリアンらしき不気味な影に怯える、思わせぶりな描写のシークェンスが異常に長い。昨今のホラー映画の典型といってしまえば身もふたもないが、イントロから、その思わせぶりなシーンが、何度も数十分にわたって、繰り返される。

 夫のエイドリアンが、光学技術の革新的な開発者という設定は、早々に明かされる、その上、タイトルがそのものズバリの透明人間だから、夫が透明人間になって、セシリアを襲ってくることは、誰でも予想がつく。しかし、そのエイドリアンが、自殺したという設定だから、セシリアを脅かす存在が、あの世のゴーストなのか、それとも透明人間なのかも、見ている側は釈然としない。

 ところが、セシリアだけには、夫が生きているという確信があって、エイドリアンのストーキング行為に逆襲すべくかつて二人が住んでいた自宅に舞い戻る。そして、実験室でセシリアが見つけたのは、光学迷彩的な機能を備えたようなジャケットだった。その瞬間、セシリアは、夫がそのジャケットを装着して透明人間になり、自分をストーキングしていることを確信する。

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 そこから透明人間エイドリアンとセシリアとのバトルに本作は、急展開していく。

 しかして、第二の不満点は、本作のモチーフそのものの、その透明人間。透明人間の面白いところって、人間の肉体自体が透明になることだったはず。そもそも、そこにセンスオブワンダーとワクワク感があったはず。確かに、光学迷彩というテクノロジーにのっとったアレンジを施せば、それなりのリアリティーは出るものの、本来の透明人間の面白味が、半減してしまった気がして仕方ない。

そのせいか、最大の見所である、ビジュアルも、何だか精彩を欠いている。

 「アップグレード」では、主人公が体内のAIに操られ、まるでストップ・モーションのアニメのような動きで相手と戦う、ビジュアル的なインパクトも抜群のシーンがあった。しかし、本作では、実際に俳優たちの格闘シーンを撮影し、デジタルで消し込みをしたと思われる、最大の見せ場のはずの、その透明人間とのバトルのシーンにさしたるインパクトもない。

 しかし、実のところ最大の難点は、やはり、そのストーリーなのだ。「アップグレード」では、エンディングに意外なヒネリを加えてサプライズとともに、ストーリーの伏線も回収し、小気味よく驚かせてくれたが、リー・ワネルも、本作がセシリアのみにクローズアップし、ホラーに偏って、構成が単調になっていることを意識したのか、本作でもエンディングにヒネリを加えている。

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 ところが、そのヒネリのおかげで、結局、ストーリーそのものが不可解になるという結果に陥っている。そもそも、世界が仰天するほどの大発明のはずの、人間がまったくの不可視になる光学迷彩ジャケット。おそらく一着が軍用機なみのそのジャケットを、逃げた妻をおどろかせるためだけに装着して、何の得があるのか?そうした不可解な疑問点は、何も解決されないまま、夫への報復を果し、ただ何となく晴れ晴れとしたセシリアの表情で、本作は幕を閉じる。

 元々、本作は、ユニバーサルが、マーベルや、レジェンダリーのモンスター・ユニバースに対抗し、自社の怪物くん的な怪奇キャラクターを総動員して、フランチャイズ化しようという目論見の一環として立ち上げたものだった。ところがトム・クルーズを起用したミイラ男の「マミー」が大失敗し、一度は企画そのものが頓挫した後、透明人間のモチーフにリー・ワネルが興味を示し、実現した。

 低予算ながらも、本作は大ヒット。リー・ワネルの株もこれによって、まさにグレードアップしたから、ビジネス的には大成功したといえるのでしょう。しかし、透明人間といえば、やっぱり、透明になって女湯を覗いたり、オネーちゃんのスカートをめくってみたり、といったイタズラ心をどこかで満たしてくれるテイストが欲しいとゲスな考えを持ってしまうのは、この負け犬だけでしょうかね~

負け犬は肉を切らせて骨を断つ「サムライ」

孤狼の殺し屋の不動のイメージの先駆にして、メルビル・ノワールの金字塔。

(評価 78点)

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サムライの心得である、死に場所に向かって俯きながら歩くドロンがこの上もなくカッコいい。孤狼の美学のカタログのような名作。

 孤独、寡黙、ストイック。ファーストカットの、薄暗い部屋のベッドで一人横たわるドロンが、起き上がり、身なりを整え、鏡に向かって、かぶったソフト帽のつばに指を走らせた瞬間、ノワールにおける孤狼のヒーローのスタイルが決定づけられた。

 既にハードボイルドなノワールで、その地位を確たるものにしていたジャン・ピェール・メルビルが、大スターのアラン・ドロンと初めて組み、その地位を不動なものにした本作は、とにかくドロン扮する殺し屋ジェフのスタイルや立ち居振る舞いを堪能するだけの、いわばカタログ映画といっていい。

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 ジェフが殺しの依頼を遂行する、その足取りを、丹念に追っていく冒頭のシークェンスから、ナイトクラブでの仕事の際に、クラブの歌手に顔を見られたことから、警察にマークされ、やがてクライアントの裏切りに会い自滅していくまで、その展開は、決して奇をてらうことなく、ストイックなまでにオーソドックスに徹している。

 しかし、そこにトレンチコートに身を包み、ソフト帽を目深に被って、黙々と歩くドロンのシルエットを焼き付けるようにリフレインすることで、本作は、何度見てもシビれるような、まさしくフレンチ・ノワールの、まぎれもなくトップに君臨する作品になり得ている。名キャメラマンアンリ・ドカエの冷たく硬質なルックスの映像。その中でパフォーマンスされる、孤狼の生きざまというものが何かを、全てわきまえきったようなドロンの一糸乱れぬ立ち居振る舞い。それは、まるで日本の舞踏の振り付けを見ているようでもある。

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 豊かなイメージで膨らませるプラスの映画もあれば、全てのムダをそぎ落とす、まさに日本的なマイナスの映画もある。ジェフが生活を共にする唯一の生き物が、鳥かごの一匹のカナリアのみという簡素そのもののカリカチュアが、そのミニマムなマイナスぶりをはっきりと物語っている。この凛とした様式美のインパクトに、優れた美的センスに敏感なクリエイターたちが、魅せられないわけはない。

 アクション映画の御用達みたいなウォルター・ヒルも、まさに、この「サムライ」をなぞるようにして、あの傑作「ザ・ドライバー」を撮り上げた。他にも、この「サムライ」に感化された映画を挙げだしたらキリがない。しかし、そのメルビルとて、かつて自分が見たジョン・ヒューストンのギャング映画のモデル・ケースのような「アスファルト・ジャングル」が忘れられずに、その思いの丈をぶつけるように、もう一つの傑作「仁義」を撮り上げた。

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 思えば映画の創成期から、絶対に欠かすことが出来ない一ジャンルとしてノワールというものは、あった。何故なら、映画というものはそもそも、スクリーンに投影される光と影の幻影そのものなのだから。白と黒のコントラストの世界で人間の欲望と破滅がせめぎあう、その世界ほど、永遠の影絵である映画の世界にふさわしいものはない。

 だから、ノワールというものに人は惹きつけられる。言葉の壁を越えて、世界中のクリエイターたちがノワールを合言葉に越境する。

 コーエン兄弟をはじめ、ノワールなテイストを作品に取込み、独自の世界を展開する作家たちが、今も絶えないことは、筋金入りの映画フリークとしては、実に嬉しい。思えば、生き方そのものがオフビートなジム・ジャームッシュもこの「サムライ」へのオマージュとパロディがミックスしたような「ゴースト・ドッグ」を作っていた。武士道の心得を説く実在の書物『葉隠』がそのまま引用される、その「ゴースト・ドッグ」では、太めの殺し屋、ゴースト・ドッグが、ウータン・クランのラップをBGMに、カナリアならぬ伝書鳩で指令を受けては殺しを遂行する、ノワールジャームッシュ・テイストが融合した何とも心地よい空間が展開された。

 『葉隠』の一節、武士道と云うは、死ぬ事と見つけたり、のキャッチフレーズがピッタリのこの「サムライ」のドロンは、トレンチコートを身にまとい、今日もどこかの裏通りを歩いているのだ。そして、またきっと新たな才能が、そのドロンのシルエットにインスピレーションを受けて、新たなノワールを作ってくれるに違いない。死ぬ事が人並み以上に怖いヘタレな負け犬は、いつもそうした作品との出会いを待ち望んでいるのです。

負け犬の暴力のルネッサンス「マッドマックス」

粗い粒子の映像が醸し出す得体の知れない恐怖感が、どこまでも続くオーストラリアのザラついたアスファルトの路面を疾走する。近未来バイオレンスの頂点にして不滅の傑作(評価 85点)

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映像の幻影がもたらす薄汚れたリアルなバイオレンスが炸裂する。映像の持つパワーを思い知らされた負け犬的トラウマ級の衝撃作。

 「マッドマックス」は“暴力のルネッサンス”である。こんなイカしたキャッチフレーズをつけるセンスを負け犬が持ちあわせているわけはない。このコピーをメディアで発言したのは、誰あろう、映画解説者の荻昌弘氏。「マッドマックス」が、同氏が解説を務める「月曜ロードショー」でオンエアされた時のことだった。

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 TVで「マッドマックス」が初めて放送されたのが、その時だったような記憶がある。日本でひっそりと劇場公開されたのは、その数年前の1979年。公開当初は、オーストラリアからやってきた洋物のピンク映画まがいのB級バイク映画くらいにしか誰も思っていなかった。現に、この負け犬も見向きもしなかった。ところが、そのうち、映画関係者はじめ大衆も、何だか騒然としはじめる。そして、アマチュア映画並みの低予算で製作された本作が日本で、異例の興行収入を叩き出す。そして、その余波は世界中に波及する。

 そうした風の噂は聞きつつも、それでも特に関心を示さなかったこの負け犬が、初めて本作にアンテナを向けたのが、たまたま読んでいた映画雑誌に、本作が、世界中でリベラルなインテリ層に読まれている有名なジャーナル誌「タイム」の年間ベストテンにランク入りしたという記事を目にしたからだった。それを見て、ただの暴力映画ではない、何か知的なレベルで訴えかけるものがある映画だ、と直感し、以来、気になる映画として本作がリストアップされた、その数年後、本作がTVで放送されたのだ。

 そして、その時。見事にぶったまげたのだった。

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 のっけのオープニングの、低予算丸出しの粒子の粗いザラつきを感じさせる、その映像のルックス。まず、その時、感じたのは、剥き出しの原石を思わせる荒々しいプリミティブな息吹だ。冒頭、荒涼としたオーストラリアの風景を背景に、ナイトライダー一味の一人が乗る、インターセプターが疾走する冒頭のシーンのパワーから釘付けになる。マックス(メル・ギブソン)が登場し、追跡をはじめた頃から、この映画が何か、それまで体験したことのない異形なレベルな映画であることをゾワゾワと背筋で感じたことを今でも憶えている。

 そして、追跡するインターセプターが、横切るキャンピングカーを吹っ飛ばして粉砕した時、これが本物のダイナマイト級の映画だと確信した。それからはもう矢継ぎ早、次々に繰り出されるシーンに目を奪われるうち、身体にせりあがって来たのは、荒涼とした世紀末的な恐怖感だった。完全に荒廃した警察の分署、どこまでも終わりがない道、命などものともしないようなぶっ飛びレベルのスタント。そして、何よりも皮膚に感覚として、そのまま伝わって来るようなその暴力。

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 とにかく、本作で驚かされたのが、リアルそのままにストレートに伝わって来る”暴力”だった。確かに、薄汚さも露わに暴れ狂い、カップルの男もろとも、ズタズタに女性をレイプする暴走族のナイトライダーたちの所業も、目をそむけたくなるほど恐ろしい。凄まじいスピードで突っ走り、クラッシュしてはグニャリとスタントマンの人体がひしゃげるのも怖ろしい。しかし、映画を見ていてその暴力に慄然とするうちに、本作に直接的な残酷描写などまるで無いことに、誰もがフト気付くはず。

 この暴力のインパクトは何処から生まれるのか。思い当るのが、要所で刻印のように印象付けられる、安直といってもいい、過剰な演出。大袈裟な音楽とともに、悪夢から目覚めたマックスに、なりふり構わずキャメラがームインして、開かれた目がドアップになるショット。走るバイクのスピード感を出すための、あられもないほど安っぽいフィルムの早回し。そして、ナイトライダーが車をボコボコにした後、これまたバロック調の過剰な音楽とともに、カラスの顔がドアップになるショット。

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 思えばこうした安手の手法は、演出がTV的に安っぽくなることを嫌って、劇場映画の監督たちが、手を出そうとはしないものだった。ところが、ある意味、臆面もなくそうした手法を取り入れることで、この「マッドマックス」は、はかりしれないほどの暴力のパワーを手にすることが出来ている。それこそが、我々を知的レベルでも刺激してくれる映像の魔術、まさしく暴力のルネッサンスたるゆえんなのだ。

 かつて、それまでのスタンダードな西部劇に見慣れていた観客の目の前に、あのマカロニ・ウェスタンの頂点たる「荒野の用心棒」が突如として現れ、アメリカ製のA級西部劇とは比べようもない低予算ながら、セルジオ・レオーネの、イタリア式の過剰なバロック調の演出で、その観客たちの度肝を抜いて、ウェスタンというジャンルに革命をもたらしたが、このオーストラリアからやって来たハイパー・バイオレンスが、世紀末アクションというジャンルにもたらしたインパクトも、まさにそのマカロニ・ウェスタンの出現というフェノミナの繰り返しだったようにも思える。

 「マッドマックス」といえば、一般的には、続編の「マッドマックス2」以降のイメージが定着している。確かに、一作目とはまるで異なる作品イメージの転換で、フランチャイズ化させた功績は大きい。しかし、この負け犬にとって「マッドマックス」といえば、やはり唯一無二の、この暴力のルネッサンスたる一作目なのですよね~