負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう崖っぷちの映画録。また、たまに<映画をエンジョイ英語もエンジョイ>と題して、映画の実際のスクリプトを原文と翻訳でご紹介。英語学習気分もちょっぴりどうぞ!

負け犬のR15のリブートがハンパなくダテではなかった件「ヘルボーイ」

嬉しい誤算に歓喜!リブートはニッチに限るということを改めて実感した良作!

(評価 76点)

f:id:dogbarking:20210918122001j:plain

R15のヒーロー・シリーズの誕生が夢に終わった残念作。しかし、負け犬的には全然、問題ない応援作!

 パチパチパチパチ!いきなりの拍手をしてしまう。だって、世の中には嬉しい誤算というものがあるもので、悪い評判しか伝え聞いていなかった作品が、良作だった喜びもまた映画フリークの嬉しい誤算の一つなのだ。実際、本作、鳴り物入りで公開されたが、興行的にも大失敗。IMDBのレビューでも酷評の嵐で、肯定的なレビューすらただの一つもなく、鑑賞開始早々のリタイアを半ば承知で見始めた。ところが、まずはその最初の感触がとてもいい。でも、出だしだけだろう、と高をくくっていたら、その感触が持続し、結局、最後まで見終えて、ゼンゼン良いよね!これとなって歓喜していた。

 良かった理由は明確。デル・トロ版のヘルボーイに感じた不満を、このリブートでは見事に払拭してくれていたから。そもそもこの負け犬は、マイク・ミニョーラ自身がアートを手掛けたヘルボーイは全巻持っている。そして、今もそれを事あるごとに見ては、その素晴らしさにため息をついているほどのヘルボーイ、いやマイク・ミニョーラのマニアといっていい。マイク・ミニョーラの絵の魅力とは、研ぎ澄まされた様式美。ハイコントラストなその描線に、全てのムダがそぎ落とされた、そのタッチ。まさに官能的ですらあるシンプルなミニョーラ独自の天才的なそのタッチは、アニメにしようが、全編CGにしようが絶対に再現は不可能。それはまさにカリスマ的なレベルといっていい。

f:id:dogbarking:20210918122051j:plain

 だから、そんなミニョーラ・マニアとしては、デル・トロ版の「ヘルボーイ」の第一作を初めて劇場でワクワクしながら見た時の失望はあまりにも大きかった。正直言って、ただの生温い着ぐるみ劇場にしか思えなかった。しかし、確かに2作目のゴールデンアーミーは、デル・トロの世界観に振り切って、はっきり言って、映画の完成度やポテンシャルはこのリブート版などよりも遥かに高い作品にはなっていた。それでも、ヘルボーイがただのデル・トロのクリーチャー世界のマスコットに過ぎないような不満は拭えなかった。何よりもデル・トロ版のヘルボーイには、ミニョーラの絵のタッチの片鱗など微塵もなかった。

 しかし、このリブート版では、絶対に再現不可能なミニョーラのタッチの片鱗をニッチな手法で覗かせてみせてくれたから驚いたのだ。その手法こそ、R15の指定を見事に受けてしまうほどの描写の過激さだ。

 現に、本作、グロい部分は、あくまでもグロく、クリーチャーなどは、目を背けたくなるほどのグロさに徹している。この過激さは、一般向けに作られたデル・トロ版ではあえて避けていたところ。しかし、本作ではそんなことお構いなしに、グロテスクのバロメーターをR15のリミットを破らんばかりに過激なほど振りまくる。

f:id:dogbarking:20210918122228j:plain

 イントロのアーサー王伝説を交えたブラッドクィーンの誕生シーンから、グロテスクな巨人ゴーレムとのバトル。そして切り刻まれたブラッドクィーンが、ボディパーツを縫い合わされて蘇生するグロさも極まりないシーン。さらにはこれまたグロテスクなロシアの魔女ババヤーガの登場と、グロテスクなシーンやキャラクターを挙げればきりがない。

 しかし、そこまでベクトルを振りきることで、本作は、見事にマイク・ミニョーラの研ぎ澄まされたエッジの効いたソリッド感をスクリーンに再現することに成功している。これは一つの発想の転換といっていい。

 ストーリーそのものはヒーロー物の常套で、有って無いようなもの。かつて葬り去られた血の女王ブラッドクィーン(ミラ・ジョヴォビッチ)が現代に蘇りヘルボーイがそれを阻止するという一言で終わってしまうだけのもの。しかし、本作には至る所で原作に対する心憎い目配りが効いている。

 原作の「CONQUEROR WORM」に出て来た架空のパルプヒーロー、ロブスターがここにはちゃんと出て来る。そして赤ちゃんに取り付いた悪魔を祓う馬の蹄鉄といった些細なディテールも。こういう原作に対する細かな目配りは、プロダクションデザイナーとして全面的に参画もしていたはずのデル・トロ版のヘルボーイには微塵も無かった。

 そして何よりも着ぐるみ感が全開だったデル・トロ版のロン・パールマンヘルボーイと比べ、本作のデヴィッド・ハーバーのヘルボーイに着ぐるみ感が全く無く、実にナチュラルにヘルボーイしているところ、それにルックスも至る所でミニョーラヘルボーイ全開なのが実に良い。

f:id:dogbarking:20210918122435j:plain

 しかし、考えてみればどれもこれもあくまでも、この負け犬のようなマイク・ミニョーラのファンだけが喜ぶファクターであって、実際、見ている間中、思っていたのはここまでベクトルを振り切っちゃったら一般観客の嗜好とは、かけ離れてしまっているよな、ということ。それもそのはず、一般観客からはそっぽを向かれ、結局、興行的大失敗という目にも明らかな結果にはなってしまった。

 思えばニッチなベクトルに振り切って作品的にはツボにはまって大正解だったのに、興行面で大敗して消え去ったリブートは他にもあった。たとえばリブート版の「ジャッジ・ドレッド」。これも原作のキャラクターにベクトルを振り切って、負け犬的には無茶苦茶に好きな作品なのに一本きりの短命に終わってしまった。

 初めてといっていいはずのR15指定のヒーロー・シリーズの誕生が夢と消え、監督のニール・マーシャルの監督生命すら危ぶまれる結果となった本作。だからこそ、こうして今も原作のヘルボーイのページをめくりつつ、この負け犬だけでも本作をリピート鑑賞して応援するのだ!とはいえ、これもあくまでもニッチな独りよがりの悦楽に過ぎないのですけどね~

負け犬女が半魚人と恋をしてエッチして水棲人間になった件「シェイプオブウォーター」

異形のクリーチャーに愛情を注ぎ続けてきた怪童がその集大成として描くのは、アマゾンの半魚人と女性とのラブストーリーのフィルターを通して描く究極の異端者の悲しみだった!

(評価 80点)

f:id:dogbarking:20210917065533j:plain

ヘルボーイも巨大ロボも出てこない、登場するのはアマゾンの半魚人ただ一体。それだけにデル・トロのテイストが100%際立つ怪童の集大成的作品。

 自らクリーチャー的なその風貌で未だに映画小僧としての魅力を発散してやまないギレルモ・デル・トロ。デル・トロのトレード・マークといえばそのデビュー作から、吸血鬼に昆虫のモンスター、それに悪魔小僧と仲間たち。つまりはノーマルになりたくてもなれない悲しみを背負った異形のモンスターたちの数々だった。本作はそんなデル・トロが、自らのフィルモグラフィの集大成として、一つのピリオドを打ちたいがために創り上げた作品のように思える。そして、その集大成のシンボルたるクリーチャーとしてチョイスしたのが、大アマゾンの半魚人だったというのが如何にもデル・トロらしいところ。

 時代設定は1960年代の米ソ冷戦真っただ中、政府の極秘研究所で清掃員として働くイライザがそこで出会ったのは、アマゾンから連れて来られた半魚人だった。イライザは不気味なそのクリーチャーのことが何故か気になり、人目を避けて接しているうちその感情が愛情へと変わっていく。

f:id:dogbarking:20210917065607j:plain

 プロットの骨組みそのものは、古今東西、一世紀も前から、星の数ほど作られて来た怪獣、クリーチャーものと何ら変わらない。しかし、そこから一歩たりとも真摯なまでに逸脱しないことで、逆にデル・トロの作家性と個性が際立っているところが実に面白い所。現に見ている間感じたのは、洋画を見ているというより、半魚人のクリーチャーがあくまでCGではなく、デル・トロが執着する着ぐるみなのもあいまって、かつて子供の頃にどっぷりはまって見ていた円谷プロの作品群を見ている感覚だった。

 そもそもこの半魚人自体、デル・トロがライフワークだとも称し、興行面でイマイチふるわず三部作として完結させることが出来なかった「ヘルボーイ」のその相棒、半魚人のエイブと、ルックスから仕草からエフェクトから何から何まで完全コピーといっていいほどそっくりなのだ。それもそのはず、着ぐるみ役者はエイブと同じダグ・ジョーンズ。一時期のスコセッシの作品群で、スコセッシの世界観をスクリーン上に具現化するメンター的な存在としてロバート・デ・ニーロがいたように、優雅でありながら、その仕草とパフォーマンスの節々に異端者の哀しみを繊細に通わせるダグ・ジョーンズが、ここでは、デル・トロその人に成り替わって異端者の悲しみを存分にまで表現しきっている。

f:id:dogbarking:20210917065641j:plain

 そもそも、半魚人は言うに及ばず、主役のイライザが言葉を発することが出来ない障碍者の女性であるという設定からして異端者のメタファーであることは明らか。半魚人に恋をし、何と性行為にまで自ら進んで及んでしまうという理由というのが、障碍者ゆえの究極の孤独からという、センチメンタルきわまりないモチベーションであるところに、あえてオーソドックスに徹するというデル・トロが本作に課した鉄則のようなものすら感じさせる。

 クリーチャーが半魚人のみ、凝ったセットデザインも半魚人が収監される研究室のみということで、いつも嬉々としてペンを走らせるはずのデル・トロ・ノートの出番も案外少なかったような気もする本作だが、その分、デル・トロが長年培ってきたテクニックの粋を本作では存分に発揮している。

f:id:dogbarking:20210917065734j:plain

 オープニングの、たゆとうような水面世界、巧みにCGを使いこなすその手腕。メルヘンチックな色彩も鮮やかなその映像。巧みな編集と決して飽きさせないそのテンポ。夜間のシーンが圧倒的に多いのにまばゆい光を感じさせるキャメラ。設定面でも、イライザが住むアパートの階下が映画館で、如何にもクラシックな映画の数々がスクリーンには映写されている。さらには、イライザと半魚人とが最初にコンタクトを取るきっかけとなる食べ物がゆでたまご。つまるところ、何から何までデル・トロという人間の感性と世界観が、煮詰められ、純粋ろ過したような液体が注ぎ込まれたグラスの中を覗き込んでいるのが、本作だといっていい。そして、その液体の中を泳ぐのは、最後に結ばれ、その純愛を成就するイライザと半魚人なのだ。

 子供の頃、モノクロTVで見た「大アマゾンの半魚人」のクリーチャーが、ただのモンスターとして終始し、人間とは相容れない存在として終わる世界観が気になったというデル・トロ。それを創作のモチベーションとしてきたデル・トロが、デビューから数十年の時を経て、途中、ヘルボーイでのエイブというドレスリハーサルを経ながら、ようやく自分が描きたいことを本作で描き切ったわけだけど、次に向かうフェーズは何なのだろう?

 そして、本作で忘れてはならないといえば、ヴィラン役のマイケル・シャノンの存在。異端のクリーチャーがいれば、その対極にある体制側の人間が必ずいる、というわけで、研究所を統括する大佐のストリックランドを演じたこのマイケル・シャノンが実に秀逸。子供向けのキャンディを常に口の中で頬張り、ガリガリと噛み砕いているストリックランドのこのキャラクターの圧倒的な威圧感。だからこそ、ラストで、このストリックランドに半魚人が鉄槌を下すところで、カタルシスを覚え、イライザが半魚人の力で水棲人間となって海底で結ばれるエンディングに圧倒的な美しさがあるのでしょう。

 二作のみで終わったデル・トロ版のヘルボーイのエンディングはバリー・マニロウのポップスだったが、本作のエンディングはスタンダードなミュージカルナンバーなのが粋なところ。本編でもイライザと半魚人がミュージカルそのままに踊るシーンが出て来る。ヘルボーイ・ゴールデンアーミーのメイキングでは、撮影の打上げの際、デル・トロとスタッフたちが、そのマニロウのポップスを皆で大合唱する和やかなシーンが出て来る。

 ただのオタクではない、巨大なスケールのハリウッドの映画業界で、無数のスタッフたちを率先するリーダー的な資質も兼ね備え、精力的に映画のメイキングを続けるデル・トロの動向は、このコロナで若干、失速気味とはいえ、今後も絶対に目が離せないところですよね~

負け犬の大事なのはお手頃感とお手軽感「タクシー」

フランス版の寅さんかトラック野郎、頭を空っぽにして楽しむのが鑑賞マナーたるスナック映画(評価 60点)

f:id:dogbarking:20210915053513j:plain

リュック・ベッソンが、大衆向けプロデユーサーに完全に方向転換したブレーキングポイント的な作品。とにかく何も考えずに見るのが正しいたしなみのプログラム・ピクチャー。

 デビュー当初から、作家性とエンタメとの抜群のバランス感覚を発揮して独自の地位を築き上げていたリュック・ベッソン。そのベッソンが作家性のベクトルをかなぐり捨てて大衆向けプロデユーサーに完全に方向転換した作品と言えようか。実際、本作以降、ベッソンはプロデユーサーの座に収まり徹底してチープっぽい作品を量産しては、フランス一の大物プロデユーサーになっていく。

f:id:dogbarking:20210915053544j:plain

 スピード狂のタクシー運転手ダニエルと、ひょんなことからコンビを組む羽目になったドジな警官エミリアンが結束して強盗団を追っていくという実にシンプルな内容の本作。一言で言ってしまえば、実にお手軽な映画。その分、頭を空っぽにして楽しむ分にはもってこいの映画といえる。

 オープニングはタランティーノの「パルプフィクション」でも使われていた曲。その曲に乗ってバイクにまたがり爆走してはピザを配達するダニエルで幕を開ける。ダニエルはかつてからの願望であった個人タクシーのビジネスの認可が下り、念願のプジョーを駆ってタクシー業をすることに。そんな時、ふとしたことから運転感覚ゼロのエミリアンと出合う。折しも世間ではドイツ人グループの強盗団「メルセデス」が文字通り真っ赤なメルセデスに乗ってマルセイユ市内の銀行を荒らしまわっていた。かくしてマルセイユ警察一の凸凹コンビと強盗団の対決の結末は如何に!

f:id:dogbarking:20210915053614j:plain

 結末は如何に?といっても誰もが察する通りの絵に画いたようなハッピーエンドなのは決まっている。だって本作はプログラム・ピクチャーなのだから。とにかく本作は、演出もお手軽、俳優もお手軽、ギャグもお手軽、アクションもお手軽、全てが万事お手軽な作品。このお手軽な感じは、良く商店街に昔からある町中華の店の隅に置いてある、大衆向けの泥臭いマンガに良く似ている。でも、そのどっぷりと大衆向けのテイストに浸かったようなマンガ本も、オーダーが来るまでの時間を潰すお客さんたちには必要で、そう意味で本作は、映画というインフラには、おそらく絶対、必要な面子なのでしょう。

 プログラム・ピクチャーといえば、日本にはあの「寅さん」や「釣りバカ日誌」それに「トラック野郎」といったB級プログラム・ピクチャーのお手本のようなスタンダードがあったけど、本作を見ている間、想起したのはそんな作品群。

 よく考えれば「寅さん」や「釣りバカ日誌」もTVでチョイ見した位で、映画館などではついぞ見ることなどなかった。それでも、昔、知人がたまたま「釣りバカ日誌」を映画館で見る羽目になって、その時のことを話してくれたことがある。

 ほぼ満員の映画館のその客の大半がシニアの年配の人たち、それもご夫婦連れが圧倒的に多くて、スクリーンにハマちゃんや社長が出て来る度に、あのキャラクターはなにそれでと連れ合いと和気あいあいと喋り合って、館内自体の雰囲気が実にほのぼのとしていたと言っていたのを何故か今でも覚えている。

f:id:dogbarking:20210915053633j:plain

 考えてみれば、映画なんて本来、大衆娯楽として生まれてきたわけで、それこそがあるべき姿、そもそもB級プログラム・ピクチャーというものがなければ映画産業自体成り立たない。現に本作も、大ヒットしてその後シリーズ化されて何作も作られた。そういう意味でやはりベッソンがベクトルを転換させたそのアンテナは正しかったといえるのでしょう。

 だからといって、この負け犬がこの「タクシー」を2作目以降も見るかといえば微妙なところなのですけどね~

負け犬主婦と中年女がレイプされかけてアウトローになってサンダーバードで空を舞いレジェンドになった件「テルマ&ルイーズ」

アメリカン・ニューシネマの鮮烈なるリアニメイトは、男二人の旅路ではなくアウトローな女二人のオン・ザ・ロードな旅だった!

(評価 86点)

f:id:dogbarking:20210912135731j:plain

真青な空に屹立するグランドキャニオン。女二人が見つめ合い、しっかりと手を握り、鮮やかに空を舞うサンダーバードの軌跡。もっとも輝いた女たちのエンブレムが炸裂する。

 当時、MTVの世界で仕事をしていた脚本家の卵カーリー・クォーリは、毎日の仕事に半ば嫌気が差しつつ、いつかは映画の脚本を書くことを夢見ていた。そんな彼女にある日突然、天啓のようにアイデアが閃く。もしも女二人がアウトローのように犯罪を重ねながら旅を続けたら・・?クォーリはそのアイデアがもたらす多幸感に夢中になる。

 そして、見事に完成した130ページの脚本が、とある男の目に留まるという、これもまた願っても無い幸運が訪れる。その男こそ映画界きっての天才的なビジュアリストの異名を持つ英国人監督のリドリー・スコットだった、

 本作は、長年、映像美のみに執心し続けていた巨匠が、はじめて映画のキャラクターというものにあらん限りのシンパシーを注ぎ込み、新境地を切り開いた作品だったと言っていい。実際、本作には、それまでのスコットの監督作にはなかった、熱いキャラクターたちのエモーションが最初から最後まで炸裂している。

f:id:dogbarking:20210912135825j:plain

 DVに近い夫ダリルと共に暮らすごく平凡な専業主婦のテルマジーナ・デイヴィス)にはルイーズというオールドミスの親友がいる。ある日、そのルイーズに誘われ、たった二日だけの気ままなバカンスに誘われる。テルマは夫には内緒で、ルイーズと共にバカンスに繰り出すのだが、立ち寄った酒場で、プレイボーイ風の男にレイプされかけ、それを止めに入ったルイーズが男のふざけた悪態に逆上し、その場で咄嗟に打ち殺す。専業主婦と中年の独身女。かくしてバカンスだったはずの旅路が逃避行へと一変し・・・。

 かつてニュー・シネマで描かれた旅するキャラクターたちに悪意など微塵も無かった。そして、本作で逃避行に転ずる女二人も、過剰防衛とはいえ、悪意はない。あくまでも巻き込まれてアウトローに転じただけなのだ。それを、二人を追撃する側の警察も心得ている。それをシンボリックに体現するのがハーベイ・カイテル演ずる警部のハルなのだ。だから、見ている側も素直にこの二人のキャラクターに感情移入出来る。

f:id:dogbarking:20210912135910j:plain

 キャラクターだけではない、そこはそれ、やはり監督がリドリー・スコット。タイトルバックでモノクロから徐々にカラーへと色付いてくる鮮やかなショットからため息をつかせてくれる。あの「ブラック・レイン」でロケ地に選んだ大阪の、見慣れたはずの何の変哲もないネオン街、薄汚れただけの雑然とした街並み。それがスコットにとってはファンタジーな異空間だったように、本作でも、草木の一本もない不毛の一本道にときめくような陶酔を覚えるスコットの感性が炸裂しているような映像の数々とハンス・ジマーの絶妙な音楽とのコラボで酔わせてくれる。

 しかし、実を云うと、本作を劇場で最初に見た時、作品のクオリティーには感嘆しつつも、女二人のアウトローにスコットの映像美というファクターがいま一つ嚙み合っていないような違和感を覚えたのも事実。しかし、それから何度も見返すうち、そもそも本作が、寓話であることに気が付いた。何の意思も持たずに日常に埋没していた人間が、はじめて生きる実感に覚醒し、己の足で歩く実感に喜びを覚える、この作品は、いわばそのメタファーなのだ。

 それからは一変して、見るたびに、もうイントロから二人にどっぷり感情移入する始末。下卑た長距離ドライバーと、堂々とわたりあって、タンクローリーを爆発させるというとんでもない無茶ぶりに拍手喝采し、ラスト、グランドキャニオンをバックに空を舞う寸前、しっかりと手を握り合うテルマとルイーズに涙する。でも、これが実際にDVに苦しめられている女性だったら、この映画から得られる多幸感とカタルシスは半端ではないのではなかろうかなどと想像したりもする。

f:id:dogbarking:20210912135930j:plain

 そしてもう一つ、本作には、デビュー間もない頃のブラッド・ピットが登場するというかけがえのないボーナス特典まで。水もしたたるほどのハンサムぶりと、全身から発散されるそのセックス・アピール。その魅力には凄まじいものがある。さすがその後のン十年、第一線でハリウッドに君臨し続けた男の片鱗が確かにここにはある。

 そんなブラッド・ピットにモーテルで有り金全部奪われ、それまで世間知らずのテルマを先導する役割だったルイーズが絶望してへたり込む。その手を力強く握って、檄を飛ばすのはテルマなのだ。

 真青な空に彫り込まれたレリーフのようなグランドキャニオンに向って、フルスロットルでひた走るサンダーバードに、新たに生まれ変わったテルマに腕を引かれ、このくだりで一緒に乗り込むような感覚を覚えるのはこの負け犬だけではないはず。

f:id:dogbarking:20210912135955j:plain

 輝け女たちよ!公開当時の本作のキャッチコピーはそんな惹句だった。既に人生も盛りを過ぎたこの負け犬も本作を見ながら、そんなエールに励まされる毎日なのです。

負け犬がグラサンかけたら世界がちょっと大変なことになっていた件「ゼイリブ」

貧困層貧困層による貧困層のための貧困ホラーの傑作!貧困層が覚醒し蜂起するそのきっかけこそが百均のサングラスだった!貧困のパラノイアな世界観を体感せよ!

(評価 80点)

f:id:dogbarking:20210911161037j:plain

のっけから発散される貧困臭に、カーペンターならではの無機質なドライブ感覚、そこに絶妙なアイデアが融合した貧困ホラーの大傑作!

 ジャパンアズナンバーワンなどと浮かれていたのは、もうとうの昔、いまやすっかり貧困大国になり果て、さらにはコロナ過の追い打ちをかけられ瀕死状態となった日本。そんな今だからこそ、その真価をフルに発揮するのが本作。長らくの低迷を経てこの作品で復活を果たしたB級映画の帝王ジョン・カーペンター会心作でもある。

 本作のベースになったのは、レイ・ネルソンのEight’O Clock in the Morningという、たった6ページほどのショートストーリー。このショートストーリーをカーペンターはそのエッセンスだけを抽出し、新たに卓抜なアイデアを加えて、お得意のB級感覚で見事なSFホラー映画にしてみせた。

 映画の尺もきっちりB級フォーマットの96分とあって、あの日曜洋画劇場などで繰り返し放送されていた本作、ご存知の方もきっと多い事でしょう。サヨナラおじさんの淀川長治氏が小話程度の原作を巧みに映画にしてみせたと、その解説でも絶賛していたのを今でも覚えている。

f:id:dogbarking:20210911161137j:plain

 だから今回はその原作のご紹介から。長らく個人的にも気になっていたこの原作、ふと思い出してネットでサーチしてみたら全文UPされていた、といってもたったの6ページしかないので早速読んでみたのです。

 小説は、主人公のジョージ・ネイダがいきなり覚醒するところから始まる。ワーキングクラスのジョージは、たまたま劇場で見ていた催眠術師の公演の最中、「目覚めよ!」の催眠術師の声ではっと目が覚める。そのままフラリと外を出ると何かが違う、見慣れたはずの街の広告が一変している。どこもかしこも人を洗脳するようなキャッチコピーだらけ、果ては街行く人々がトカゲ状のエイリアンになっている。だが、どうやら自分以外は誰もその事に気付いていないらしい。家に帰ると、その一味から一本の電話がかかってくる。「お前は明日の朝8時に死ぬ」。

 そんな洗脳のまやかしの呪縛を解くため、ジョージはガールフレンドの家に行く。だが、当然、自分が見たことを話しても信じてはくれない。ジョージはガールフレンドを縛り上げ、ピストルを奪うと来訪者を撃ち、そのまま町へ繰り出す。向かうのはTV局。そしてTV局に乱入し、世界にメッセージを発信したところでジョージは心臓麻痺で息絶える。その時間はかっきり朝8時だった・・。

f:id:dogbarking:20210911161212j:plain

 かくして、この一人の男の現実ともパラノイアともつかないショートショートに目をつけたカーペンターが独自に盛り込んだ出色のアイデアこそが、何の変哲もない安っぽいサングラス。妄想との境界線が曖昧な原作に対し、本作では、主人公がたまたま手にしたサングラスをかけると、まるで人体標本のようなルックスをしたエイリアンがバッチリ可視的に見えると言う仕掛けになっている。

 グラサンかけたら見慣れたはずの世界が一変する。そして、その世界が大衆をただ無知蒙昧な存在に洗脳する戯画化された大量消費社会だったというアイデアこそ本作が唯一無二の存在感を誇る所以。

 大都会へと流れ着いたホーボー同然のネイダ(パイパ・ローリー)は、日雇いの仕事にありつくもねぐらがなく、貧困層たちのコミューンに足を向ける、そこにただ一軒、ポツンと建っている教会が気になり、向かったその中でネイダは、サングラスが詰め込まれた段ボールの箱を発見する。持ち去ったその箱からサングラスを手に取りそれをかけてみると、何と世界が目の前で一変して・・。

 本作がただアイデア頼みの荒唐無稽な侵略モノにならずに、独特の説得力を持っているのも、主人公がロウアークラスの貧困層であることを序盤で無駄なく簡潔に描いているから。また主人公のネイダにプロの役者ではなく、プロレスラーのパイパ・ローリーを起用したのも見事なアイデアの一つといえる。

 屈強なパイパ・ローリーがサングラスをめぐって、巨体の俳優とお得意のプロレスのパフォーマンスを駆使して、5分以上にもわたって格闘を繰り広げるシーンはユーモラスでもあり、見応えも十分。

 いつものカーペンターならではの無機質なリズムの音楽も心地よく、「従属せよ」「子供を増やせ」「消費せよ」「労働せよ」という威圧的なキャッチコピーが溢れる世界観ともあいまって、出色なアイデアを根幹にすえたB級映画のエッセンスを心ゆくまで堪能させてくれる。

f:id:dogbarking:20210911161353j:plain

 世界のカラクリを知り、レジスタンスたちとTV局に踏み込んだネイダたちの運命の結末とは・・?もしも本作を未見の方がいたら、是非、ご自分の目で確かめていただきたいのです。

 それにしても、貧困、ネットのフェイクニュースヘイトクライム、いじめ、虐待、さらにはとどめのコロナと、ネガティブな要素が絶えない昨今だけど、本作の主人公のように、世界の裏には何かがあって、我々もただメディアを通じて洗脳されているというパラノイアになってもあながち不思議ではない。そんなことを考えてしまうのもこの負け犬が極度にヘタレな被害妄想だからでしょうかね~

負け犬の大正のモダンでレトロな呪術廻戦「帝都物語」

大正ロマンの香りも豊かに繰り広げられる禍々しくもギミック感満載の呪術の宴!

(評価 72点)

f:id:dogbarking:20210911160227j:plain

呪術、妖術入り乱れての大戦争!どこかハイブリッドでモダンなテイストが楽しいレトロなオカルト大作。

 その昔、あの「ウルトラマン」に身も心も奪われていた幼年期。毎回、夢中でブラウン管にかじりつくようにして見ていた頃、子供心にも異様な感覚を抱かせられることがあった。たとえば、本来、明るい照明で照らされるはずの俳優さんの顔のドUPが、逆光で黒々と影になってつぶれている。交互に映されたその顔から発せられるのは異様にシリアスなセリフなのだ。それが、いわゆる演出というものであることを意識するようになるのは、ずっと後になってからのこと。そして、そういう演出が成されているエピソードには、必ず小難しい漢字の並ぶある男の名前のテロップが画面に出て来ることも。

 その名前こそ実相寺昭雄ウルトラマンで数々のエピソードを手掛け、そのエッジを効かせた数々の演出で名を馳せた監督その人だった。そのシュールともいえる前衛的な演出のインパクトはこの負け犬の心にも、その後も消えることのない刻印のように刻まれることになる。だが、その監督の名を劇場映画で見かけることは、ついぞなく、その名前だけが極私的なレジェンドのように記憶の隅で生き続けていたその頃、意外なシーンでその名前と出くわすことになる。

f:id:dogbarking:20210911160335j:plain

 当時の大王製紙のエクゼ出資による本作のTVスポットが流れ出した頃、そこに流れる瞬間的なカットが持つ映像のインパクトに目を見張り、そこに何処かでいつか見たような感覚を覚え、もしやと思い監督の名前を見たら実相寺昭雄と書かれてあり驚いたのを今でも覚えている。

 本作公開時、誰もが抱いたのが、本作のキーキャラクター、加藤を演ずる嶋田久作の人間離れしたようなビジュアルのインパクトもあいまって、その映像から発散される異様さだった。普通の日本映画とはまるで違うシャープな感覚とでもいおうか、とにかく、まったくの突然変異のようなハイブリッドな感覚があった。

 日本で今も最大のパワー・スポットとされる平将門の平塚をめぐって、陰陽師が風水の限りを尽くして、帝都東京の破壊を目論む加藤保憲と対決するという奇想天外な荒俣宏氏の原作を元にした本作。大正時代の風俗を贅沢に再現した目を見張るオープンセットに加えて、ギミック感満載のミニチュアを多用しつつも、実相寺昭雄がここぞとばかりに本領を発揮した様式美。更には持ち前のシャープな映像感覚を存分に発揮したカットが続出する実にゴージャスな作品になっている。

f:id:dogbarking:20210911160358j:plain

 その上何と、所々に出て来るクリーチャーたちのデザインがあのエイリアンのH.R.ギーガー、役者陣も政界の重鎮たる実在の渋沢栄一勝新太郎を始め錚々たるメンバーが名を連ねるその本気度が、一種の迫力として画面の隅々からほとばしっている。

 たまに日本映画でも、他の映画とはまるで異質なハイブリッドなテイストの映画が出現して驚かされることがあるけど、本作はまさにそんな触感をもった映画と言える。

 陰陽師たちが繰り出す呪術に、関東大震災のスペクタクル、帝都の地下に建造された東京メトロ、さらには震災復興後の東京大博覧会に、日本初の人造人間、学天測の登場と、ありとあらゆる具材が重箱に敷き詰められた目にも嬉しいおせち料理を思わせる贅沢さが実に楽しい。

f:id:dogbarking:20210911160432j:plain

 そして、そんなフォーマットの中で、久しぶりの劇場大作に、積年のうっぷんを晴らすかのように爆発する実相寺昭雄監督の演出が随所に光っている。その白眉が、大蔵省の辰宮の、霊力を持つ娘の恵子が、雑踏で加藤にさらわれる際の鋭いカットとダイナミックなトラッキングショット。

 実相寺昭雄監督は、本作公開当時のキネマ旬報に寄せたコメントでも、、映画は観客が満足したと心から言ってくれないと成功したとは言えないと、自らの演出に満足げなコメントを寄せていたことを今でも憶えている。

 「ウルトラマン」当時から、あまりに、際立った演出ぶりから、周囲との軋轢やトラブルが絶えなかった監督が、遂に大作でクリエイティブな面でも興行的にも成功というものを勝ち得た初めての作品だったのではなかろうか。

f:id:dogbarking:20210911160449j:plain

 にしても、やはり今見ても嶋田久作氏演ずるこの加藤のキャラクターのビジュアルイメージは実に強烈。当時も、まるでアンドロイドを目の当たりにしたような人間離れしたような異様さに驚いたけれど、未だにその異様さが健在なのが何だか嬉しい。

 映画のヴイランとしては、あのダースベイダーをも超えるインパクトがあると思うのはこの負け犬だけでしょうかね~

負け犬役者が女になって見えたもの「トッツィー」

イカす音楽に快調なテンポ、そして何と言っても芸達者ダスティン・ホフマン女形、グッド・エイティーズを代表する快作コメディ!

(評価 84点)

f:id:dogbarking:20210910053305j:plain

男尊女卑にセクハラ問題、現代的なテーマを盛り込みつつも、もっとも胸に沁みるのが、売れない役者たちに捧げる愛情に満ちたラプソディー。

 当たり前のことだけど映画は、目の前の役者たちが泣き、笑い、葛藤する姿を見て感動するもの。だとすれば、自分もそんな役者になって人に感動を与えてみたいと思う輩がいても当然なわけで、映画というものは、いってみれば下積みとして無数に存在するはずの、そんな人たちに支えられて創り上げられている生命体みたいなものといっていい。

 でも、それを職業としてまともに食べていける人などほんのわずか。ましてやスターになれる確率などゼロに等しいといっていい。でも、そのゼロの確率を目指し、役者志望の人たちは今日もオーディションを受け続けている。

 アングラな世界ではベテラン格、演技力も抜群のマイケル(ダスティン・ホフマン)。マイケルの難点は、自信家なこと。それが災いし、すっかりトラブルメーカーという風評が立ったおかげで、業界から総スカンをくらい仕事がない。そこで、マイケルは半分やけくそで、メーキャップでオバサンの女になりすまし、昼メロのソープオペラのオーディションを女優として受けたら受かってしまう。

 やっと仕事にありついたとばかりに、収録に臨み、得意のアドリブを連発したらこれが大受け、番組の視聴率も上がり、一躍、時の人に。しかし、マイケルは共演者のジュリー(ジェシカ・ラング)に恋をしてしまい、その上、ジュリーの父親のレス(チャールズ・ダーニング)に求婚までされてしまい・・。

 売れない役者が女になったら何が見えたかというアイデアも出色の本作。女になって得をすること、そして女になってしまったことで抜き差しならなくなるジレンマを巧みにスラップスティックとして描くオリジナル脚本が、まずは、何はなくとも素晴らしい、の一語に尽きる。

f:id:dogbarking:20210910053403j:plain

 しかし、勿論、それだけではない。ダスティン・ホフマンをはじめ、同居人にビル・マーレイ。ホフマンのガールフレンドにテリー・ガーと、負け犬もお気に入りのバイプレイヤーも勢揃い。それに加えてデイブ・グルーシンのご機嫌な音楽。更には大ヒットした主題歌が織り成す快調なテンポ。自身も役者出身で本作にもマイケルのエージェントとして出演もしているシドニー・ポラックの軽快そのもののフットワークも巧みな演出。すべての足並みがそろった文句の言いようがないコメディといっていい。

 一見、当時、取り上げられだしたセクハラ問題をカリカチュアして描きたかったようにも見えるコメディだが、その本質は違う。本作はある意味、本作以前に既にアメリカ映画界を代表するスターに登りつめていたダスティン・ホフマンのトラウマを描いた映画のような気がするのはこの負け犬だけだろうか。

 あの「卒業」で一躍、脚光を浴びたダスティン・ホフマンだったが、その当時、ダスティン・ホフマンは、次の仕事のオファーが来るか常に不安に怯えていたという。ホフマンは、その長いキャリアの中で、自分と同じ役者たちがオーディションに落ち続け、消えて行く姿をイヤになるほど見続けてきたはずに違いない。或る意味、そうやって消えて行った名もなき役者の卵たちへのラプソディーとして、更には、自分は運よくスターになれたけど、もしも自分が売れないまま年を取ったらどうするか?そのもう一つのパラレルな世界への興味から本作に臨んだのではなかろうか。

 それは、監督のシドニー・ポラックも同じ。ポラックが本作のキャラクターに注ぐ視線はあくまでも優しく温かい。だから、ラスト。収録中に素性を暴露し、解雇されたマイケルが、ジュリーに告白し、主題歌と共に肩を並べて去っていくシーンでジ~ンと胸が奮えるのでしょう。結局は、男と女、それぞれお互いどこか欠けているものを、寄り添う事で埋め合って生きて行くものなのだということでしょうか。

 ちなみに本作の公開当時、来日したダスティン・ホフマンさん。インタビューで語っていたのはメイクの大変さ。とにかく撮影の朝、入念にヒゲを剃りこんでも、数時間後にはヒゲが生えて来るのが実に厄介だったと語っていたのを今でも覚えている。これが本編でも巧みにギャグに取り入れられているのでお見逃しなく。