負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬が金魚のように口をパクパクさせながら極悪映画を鑑賞した件「冷たい熱帯魚」

さかなクンもビックリ!ここは肉食魚が小魚を捕食する人生の奈落を垣間見る世にも残酷な水族館(評価 64点)

園子温監督の極悪映画として名高い本作。今回、初めて鑑賞しました。

確かに極悪ではあるけれど、負け犬的には本作は、いわばまるで肉食魚が小魚を捕食する、その残虐な食物連鎖が繰り広げられる水槽を覗き見るようなパノラマチックな妙味がある一作といえようか。

 そして、何よりも圧巻は、やはり主人公を奈落におとしめるヴィランの村田を演ずるでんでんの圧倒的な怪演に尽きる一作と言っていい。でんでん無しに本作はこれほどの評価を得ることは決してなかったはず。

 まずは開巻、主人公、社本(吹越満)の後妻、妙子が、スーパーでかっさらうように冷凍食品を掴み取り、家に帰って乱暴にレンジでチンし、一家三人が食卓につくまでを暴力的なカットで描写するオープニングに引き込まれる。

 社本とその後妻の妙子、そして一人娘の美津子の一家、その三人の夕食は冷たい水槽の中のように冷え切っている。まるで凍り付きそうな水槽の水面に、さざ波が立つきっかけが美津子のスーパーでの万引き事件。

 そのトラブルの仲介役となった村田(でんでん)と知り合ったことが、社本が奈落に落ちていくすべてのはじまりとなる。

 本作は、冒頭でTRUE STORYのタイトルが現れるように、実際に、埼玉で1993年に発生した、愛犬家連続殺人事件をベースにしている。

 埼玉でペットショップを営む夫婦が、出資をめぐるトラブルなどが生じた相手を次々と殺害した凶悪事件。被害者を硝酸ストリキニーネで毒殺したうえで、証拠隠滅のためにその死体を解体した上で微塵も残さず廃棄するという犯罪史上に残る極悪非道なものだった。

その事件のあらましをWikiなどで読むと、本作がオーソドックスにその事件を細部にいたるまで時系列に描写していることが良くわかる。

 そして実際の事件の主犯とされた男のキャラクターもまさに本作のでんでんそのままだったことにも驚かされる。

 実際、初めて画面に登場した時から、そのでんでんが放つ危ない奴100%のオーラに圧倒されない人間などいないのではなかろうか。

 そして、こうした事件の主犯者の例に漏れず、必ず備わっているのがヤマ師独特の人を引き付けるバイタリティーだ。

 村田と同じく、自らも熱帯魚販売の店を営む社本はたちまち村田(でんでん)の世界に取り込まれ、極悪な所業の片棒を担がされていく。社本が金魚とすれば、村田はさしずめピラニア。

 この社本の金魚が口をただパクパクしながら、眼前で繰り広げられるピラニアの村田のエスカレートしていく行為にあれよあれよと加担させられていく様は、人生の奈落の地獄めぐりを見ているようなある種のカタルシスすらある。鼻歌を唄いながら、殺した死体を若い妻とともにバラバラに解体していくシーンはその極みで、このくだりは不快感に加え、ある種ギャグを見ているような不思議な感覚にとらわれる。

 「でんでん」の怪演の味付けともなっているのが、社本の妻、妙子(神楽坂恵)と村田の若妻、愛子(黒沢あすか)のエロエロしさ加減。この二人が絡むことで、残虐さと欲望の相乗効果で映画がいっそうの熱を帯びてくる。

 「死体を透明にすることが一番大事」

 本作でもでんでんが口にするこのフレーズは、実際の事件の主犯が口にしたモットーである。

 死体が見つからなければ絶対に犯行が露見することはない。そうふてぶてしくのたまわりながら、殺人を続け、ただ受け身にしか生きてこなかった社本を罵倒し、共犯者に仕立てていく村田の末路については、キャラクターの構図を踏まえ、実際の事件の顛末とは異なる脚色が施されている。

 追い込まれた金魚が奈落の淵に立たされた時、果たしてピラニアにどう一矢を報いるのか?この顛末については是非ともご自身で目の当たりにしていただきたい。

 ただし、はっきり言って本作、事件のノンフィクションから逸脱して園子温流のフィクションになっていく顛末の部分は、過度にグロテスクで、またやたらとクドく、一気につまらなくなっていく。やはり、本作、結局、つまるところ見るべきものは「でんでん」のパーソナリティに尽きることに気づかされる。

 日常には、SNSにデマや中傷、決して世間には露見しないような得体の知れない悪徳が渦巻いているが、本作で笑顔を浮かべ繰り広げる村田の行為は、極悪は極悪でもそれに比べればわかりやすい悪行かもしれない。

 それでも、ゴミ屋敷に多頭飼育、騒音に虐待といったご近所トラブルが生み出す不協和音、でんでんが主人公と接点を持つ本作の導入部はそんな誰もが感じるような不穏な不気味さが確かにある。そして、本作の「でんでん」はある意味、一般人がご近所トラブル起こす厄介な隣人に抱くそこはかとない恐怖そのものの体現なのだ。

 つつましやかにただ安穏と日常に安住しているそこのあなた。あなたの背後にもいつか満面の笑みを浮かべた「でんでん」が迫って来る日が来るかもしれない。

 いや、もうそこまで来ている、ホラあなたの肩口に・・・

負け犬の泣き虫男に用はない女たちはたくましくたおやかにインディペンデンスを目指す「結婚しない女」

ビバ!セブンティーズを代表する女性映画の秀作は負け犬男にも元気と勇気を与えてくれる(評価 78点)

 70年代。そのアメリカ映画の黄金期と言ってもいい一つの大きな特徴に、社会問題を巧みに取り込んでエンターティメント性のある作品に仕立て上げる手腕の冴えがあった。

 本作もまた然り、1970年代の後半、まだ女性のステータスが今ほど雄弁ではなかった時代、離婚というイベントに直面した女性のたおやかな旅立ちを描いて当時、センセーションを巻き起こした。

 みんな走っている。ジョギングの大ブームを必ずと言っていいほど背景に取り入れていた作品群の例に漏れず、本作の主人公エリカ(ジル・クレイバーグ)と夫のマーティン(マイケル・マーフィ)の夫婦のジョギングから本作は幕を開ける。

 エリカとマーティンは瀟洒コンドミニアムに高給取りといった誰もが羨む典型的なアッパークラスの夫婦。ティーンエイジャーの一人娘パティとの仲も良く、家庭も円満。しかし、ある日、ショッピングの最中にいきなりマーティンが泣き出して、べそをかきながらエリカに別に好きな女性がいるとカミングアウトする。突然の告白に呆然としつつエリカは決然と離婚という選択肢を迷わず選択する。

 70年代、日本はまだしも米国では離婚という選択は、珍しくはなかったはず。それでも、社会的な風潮はといえば、まだまだ女性は男性に頼るものというステータスが一般的だった。本作はある意味、そんな社会通念にさわやかな風穴を開けるほどのパワーを持っていた。そして、そのメタファーとしてエリカを演じたジル・クレイバーグが、実にピッタリのイメージで当時の女性たちを勇気づけ後押しする存在になっていた記憶がある。

 映画界自体もまだまだ男性向けの作品群が一辺倒だった時代に、女性映画というイメージを斬新に打ち出した本作のイメージポスターは鮮烈だった。そして、やはり、何にもましてジル・クレイバーグのさわやかな存在感が素晴らしい。

 エリカはマーティンと別れ、娘のパティと暮らす。そこで苛まれるのがたとえようもない孤独感。決して強いだけではない。さめざめと泣きながら、セラピストに素直に孤独を打ち明け、分かち合うセッションのシーンの自然な空気が実にいい。

 映画自体のテイストもシリアスにも過ぎずライトにも過ぎず、ちょうど程良いテイストで離婚というイベントを経て、新たな道を模索しようという女性の立ち位置を踏まえているところが何とも小気味よい。

 エリカにもアブストラクトな抽象的な作品を描くアーティストのソールという気の置けない恋人が出来る。

 ソールは売れっ子で、もしもソールと一緒になれば十分に満たされた生活が約束される。そして、すっかりエリカを愛してしまったソールもそれを望む。

 しかし、本作が真骨頂を発揮するのはそこから。エリカは決してソールになびかない。でも、ソールを愛していないわけではない。それでも、自分が望むのは男性に頼ることのない生活だ、とはっきり宣言する。

 当時、女性たちはこのジル・クレイバーグのインディペンデンスなスタイルにどれほど勇気づけられたことだろう、と今、本作を見てもつくづく思う。

 本作の監督ポール・マザースキーは前作「ハリーとトント」でも、老いの問題を決してウェットにならずにあくまでも老人のインディペンデンスを前面に打ち出して、優しい眼差しで描いていた。その優しい眼差しが遺憾なく発揮されるのが本作のラスト。

 はっきりとソールに、自分は自分の道を行くと宣言したエリカはソールから巨大なペインティングを進呈される。

「どーするのよ?これ」とエリカはソールに聞く。

「タクシーでも呼べよ」とニッコリ笑って、ソールは車に乗って去ってゆく。

しょーがないとばかりにその巨大なペインティングを抱えてヨロヨロしながら雑踏の中をエリカが歩いていくロケーションのシーンで映画が終わる。

 それを見ながら果たしてエリカはこれからちゃんとやっていけるのかしら?と誰もが感情移入してそう思うはず。多くを語らずにそれだけでシンボリックに女性のたおやかな生き様を描き切るこのシーンの実に素晴らしいこと。

 そして、このシーンで流れるビル・コンティの軽快なテーマ曲の素晴らしさ。

 大ブレイクした「ロッキー」は言うに及ばず、前作の「ハリーとトント」、本作「結婚しない女」、そして「グロリア」(あのオープニングの空撮シーンはいつも思い出すだけで鳥肌が立ってしまう)と、70~80年代の秀作群には常にビル・コンティの音楽があった気がする。

 それにしても、本作のマーティでカリカチュアして描かれる男たちの情けないこと。それだけは今の時代も決して変わりがないところが、とほほ・・というべきでしょうか

負け犬の薄っぺらな悲しみと見せかけだけの文学性「ジョーカー」

鳴り止まぬ絶賛と歓呼の中、負け犬の目の前にあったのは史上最低と言ってもいいほどの薄っぺらな愚作としか言いようのない映画だった(評価 20点)

「目覚めよ!」エホバの証人じゃないけども、この「ジョーカー」という映画に賛辞を送っているすべての人々に物申す、としたらただもうその一言しかない。

 とにかく世界中から絶賛されている本作だが、そもそもただのヒーロー映画のフランチャイズに乗っかって、そのヴィランのバックストーリーをシリアスに描けば絶賛されるということをちゃんと見越して作っただけという安っぽさが直感的に見え見えの作品だっただけに、公開されてから何年経っても見る気が全く起きず、数年もたってからよっぽどヒマだったので見てみたら、案の定、賛辞どころか大惨事といってもいいほどホントに下らない作品だったという次第。

 本作でアカデミー賞を取ったアーサーこと、ホアキン・フェニックスさんが開巻早々、泣きながら大笑いするオーバーアクトでまずドン引きする。

 アーサーは患った母親を養う、アンダークラスの社会の落伍者なのだ、その職業がピエロで云々・・の設定からして、もうあまりに時代錯誤的な単細胞ぶりについていけなくなる。

 これは断じて違うだろう。負け犬は声を大にして言いたい!そもそもジョーカーは貧しい社会の落伍者などではない、金も欲も満たされすぎたリア充に飽き足らなくなって悪事を子供のように手玉に取って、享楽の限りを尽くす、そこに最大の魅力があったはずではなかったか。

 その魅力を最大限に引き出していたのがティム・バートンのあの不滅の「バットマン」であったはず。

 ティム・バートン版のあのバットマンとジョーカーが繰り広げる幼稚で子供じみたおとぎ話の世界。あれこそがバットマンの最大の魅力であり、ヒーロー物として大人の娯楽の極北に達した作品だったと負け犬は確かに思う。

 この負け犬がもっとも嫌いなバットマンは「ダークナイト」。とにかく、そもそもヒーロー物でしかないものにシリアスな尾ひれをつけてさもありなんと見せるそのあまりの低能ぶりにはあきれるしかなかった。

 この「ダークナイト」というやつは映画史上もっとも過剰評価されている作品には間違いないという考えは今も断じて変わりはない。

 とにかくただひたすらこのアーサーさんが被害者意識丸出しで悲嘆にくれるさまを見せつけられるだけの本作。本質的に何のテーマも展開していないのは誰の目にも一目瞭然。それなのに人が、世界が、評価しているから本作を褒めちぎる。そこには集団意識や群集心理の怖さすら覚えてしまう。

 もっとちゃんと自分の目で見て、自分の耳で聞いて考えましょうと、本作に入れ込んでいる人にはそれだけ言いたい。

 絶えず引き合いに出されるニューシネマの作品群はこれとは比べようもないほど成熟して大人の作品だった。ティム・バートンの「バットマン」もまた然り。

 あのジャック・ニコルソンマイケル・キートンの究極のバカ騒ぎが終わった後に流れるプリンスの歌声。あの切なさこそが本物のバットマンだ。

 あらためて声を大にして問う。目覚めよ!惑わされるな!愚作は愚作!そんなまっとうなことを発言できる社会を作りましょう・・って負け犬そのものがアーサー化しちゃったりして。

 とりあえず負け犬が久々に吠えた。でも、この閉塞感しかない社会で、あらんかぎり吠えるのもきっと精神衛生上良いことに違いない。他人様には迷惑千万な話でしょうけど・・

負け犬の嗚呼!洋ピンポルノのエロき欲望「ナチ女秘密警察SEX親衛隊・サロン・キティ」

ナチスドイツの鉤十字と洋ピンポルノの悪魔のドッキングはとてつもなく猥雑で退廃の香りに満ちていた(評価 74点)

「女刑務所発情狂」「女子学生㊙レポート」「陰獣の森」「マラスキーノ・チェリー」・・毒々しいタイトルに、肌がマネキン人形のようなドギツい着色の猥雑な写真のコラージュ。見るだけで股間がムズムズしてくる洋ピンのポスターに悩ましい青少年時代を送ったあなたならきっとその脳みその襞に刻印されているはず。

 そのタイトルこそ、「ナチ女秘密警察SEX親衛隊・サロン・キティ」。その昔、「ロードショー」や「スクリーン」といった洋画専門の雑誌の片隅に掲載されていた洋物ピンク映画のモノクロ写真が総天然色で動き出した、本作はそんなときめきを彷彿とさせる世界といえようか。

 開館は秘密クラブ。男装と女装を体の半身に施した異様なダンスからして、むせ返るような陶酔の世界が香り立つ。そんな演出を手掛けるのは洋ピンポルノの帝王ともいうべきティント・ブラス。

 その世界観に欠かせないのがルキノ・ヴィスコンティの作品群でも退廃の色香を画面の隅々まで振りまいていたヘルムート・バーガー。本作の主役のSS親衛隊の隊長バレンベルクがそのヘルムート・バーガーなのだ。

ある政府高官が、ドイツ国内の純血のアングロサクソン系の美貌の乙女たちを参集せよとヘルムート・バーガーに命令を下すところから本作の物語は幕を開ける。

 そして、ヒットラーの演説のモノクロ映像から展開される生々しい豚の屠殺シーンがまずは衝撃的、頸動脈を断ち切られ噴出する血の中で猥雑なジョークを言いながら女たちの体をまさぐる男たち、といった光景からして猥雑な世界観に満ちている。

 かくして「ハイル!ヒットラー!」その号令と共に、国内各地から呼び集められた美女たちが粛々と横一列になって全裸になるシーン。女たちはこれから性の奥義を仕込まれ、政府高官たちに取り入り、その手練手管で高官たちを陥落させ、秘密を聞き出すことで忠誠を誓った祖国ドイツに体を捧げることになるのだ。本作のメインプロットはそれが骨子となる。

 直後、美女たちがヘア丸出しで一斉に行進を始めたと思ったら、ここから、高官たちが壮大なマーチを演奏する中、いきなり全裸の男女たちが交わり合って、痴態を繰り広げる。

 その異様さは、エロティシズムと相まって、ティント・ブラスのフェティシズムへのこだわりが画面からあふれるように発散されている。

 そして、ロングショットになると、洋ピン独特の全面ボカシになってしまうのが奇妙に生々しかったりするのです・・。

さて、ここからはティント・ブラスならではのアブノーマルな展開が全開。

 独房に収容された全裸の男女もしくは女たちのカップルたちが、隊長のバレンベルク(ヘルムート・バーガー)が覗き窓から観察する中、カップルたちが繰り広げるノーマルセックスやレズビアンプレイにオーラルプレイ、果てはレイププレイを観察し、そのテクニックの是非を審査するところからキンキーな世界そのもの。

 異常な監禁病棟のアセイラムで施された訓練で、セックス兵器の娼婦と化した女たちは、いよいよ高級娼館サロン・キティに送り込まれることに。

 この高級娼館の女主人こそが娼館の名前の由来のマダム・キティ(イングリッド・チューリン)というわけなのだ。

 これもまたルキノ・ヴィスコンティ映画でもお馴染みのイングリッド・チューリンがなまめかしく歌い踊るサロンの宴、このシーンはヴィスコンティ映画の退廃に、毒々しいエロスをまぶしたようなテイストが横溢している。

 娼館の個室で繰り広げられるプレイはすべてモニタールームで盗聴されている。レズにソドミー、サドマゾプレイ。このくだりはまさに性のパノラマ。

 後半の物語を牽引していくのが、美女たちの中でひときわコケティッシュな魅力に満ちたマルガリータテレサ・アン・サボイ)。マルガリータの魅力にバレンベルクが虜となったことから、サロン・キティの歓楽の宴がナチスの終焉を暗示するかのように崩壊していく。

 ナチスの鉤十字のストッキングだけを身に着けた全裸の女。その肢体にヒットラーが演説する8mm映像を投射し、それを見ながらマスタベーションする太った高官。本作は、崩壊のデカダンスを描きながらも、そんなフェティッシュなシーンはふんだんに出てくる。

 やがて、邪魔者になったバレンベルクを失墜させるべくマルガリータがスパイ役となるところからが本作のクライマックス。

 軍服を身にまとったバレンベルクとマルガリータの激しくもキンキーなセックスは盗聴によって筒抜けとなっている。かくしてバレンベルクが企てていたクーデターは白日の下に晒されてしまうことに。

 全裸のバレンベルクがサウナで射殺されるシーンが本作のエンディング。サロン・キティ作戦の首謀者が反逆者として処刑される、このエンディングは、まさに木乃伊取りが木乃伊になるといったところでしょうか。

 エンドクレジットは空爆によって粉砕されたサロンの窓ガラスの破片が舞い散る中、高らかな笑い声をあげて享楽するマダム・キティとマルガリータのシルエット。

 とにかく本作は洋ピンそのものといっていい淫らでフェチなエロいシーンには事欠かない、それでいてヴィスコンティ映画のテイストをおどろおどろしい見世物小屋の安っぽさにトランスフォームさせたかのような異様なテイストは満喫できる。

 かつて誰もがモノクロのピンナップを見て悶絶した中二病の性の悶えとデカダンスの香り、本作は懐かしくも青々しい、そんな奇妙な魅力に満ちた一作でした。

負け犬の隅には置けない憎い奴「殺しのベストセラー」

どの業界にもいる、隅には置けない男。そんな映画業界の隅には置けない男ラリー・コーエンのペンによる隅には置けないノワール映画の発掘良品(評価 72点)

 どんな業界にもちょっと隅には置けない人材というものがいるもので・・そういう奴に限って表舞台では目立たないが、なかなかクレバーなアイデアを次々と繰り出して唸らせてくれたりするものです。今回、ご紹介するのもそんな映画業界の俊英がオリジナル脚本を書き上げた、目立たないけどちょっと隅には置けない逸品。

 その人こそラリー・コーエン。監督デビューはB級ホラーの「悪魔の赤ちゃん」。しかし、それこそ1950年代からおびただしい数の脚本に携わり、晩年になってもあのコリン・ファレルのソリッドなサスペンス「フォーン・ブース」のオリジナル脚本を書き上げ、映画ファンを唸らせた後、惜しくも数年前に亡くなった才人の名がふさわしい逸材でした。

 本作は言ってしまえば、善玉コンビの二人組が巨悪を成敗する、星の数ほどありふれた手垢まみれのようなバディもの。

 ところが隅には置けない男だけに、一味も二味も違うアイデアを注入して、ちょっと他にはないバディノワールに仕立てたのが本作だ。

 主人公は警察官あがりの刑事だが、この刑事のミーチャム(ブライアン・デネヒー)は過去に自らの警察署で出くわした体験を基にベストセラーを世に出し、刑事と作家の二足のワラジを履いているという設定。

 ここまでなら大したアイデアでもないでしょう。ところがこの刑事とコンビを組むのが何と殺し屋なのだ。そして、この完璧主義の殺し屋クリーブ(ジェームズ・ウッズ)がミーチャムに近付く動機というのが、自分のバイオグラフィを書いてみないか、そうすればまたベストセラー間違いないよ、というミーチャムへの甘い誘惑なのだ。

 こんなアイデアなかなかないと思いません?

 というわけで本作は、開巻の強奪シーンから、ミーチャムとクリーブの出会い、バディコンビの結成、クリーブの雇い主であり敵役の政界の大物マドロックを倒すまでを95分の尺の中でタイトに見せてくれる、思い出した頃に手に取ってまた見たくなること必至のB級ノワールの逸品といったところか。

 監督はこれもB級映画の才人ジョン・フリン。本作のクライマックスはミーチャムの娘を人質に取ったマドロックの屋敷に、漢気たっぷりの殴り込みを仕掛けるだけに、ジョン・フリンのあの傑作アクション「ローリング・サンダー」との血縁も匂わせて、この負け犬のようなB級フリークにはそこが捨て難い魅力にもなっている。

 中盤にはバイオグラフィの取材と称して二人して殺し屋クリーブの実家を訪れ、クリーブのパパやママたちとしんみりするなんていう殺し屋映画のミスマッチ感の横溢も才人ラリー・コーエンの面目躍如といったところ。

 ちっともメジャーじゃないけれど、隅には置けない掘り出し物をお探しのあなたなら、この「殺しのベストセラー」、きっと楽しんで頂けるのではないでしょうか。

 

 

dogbarking.hatenablog.com

 

負け犬が、鬼となった女の涙に思わず涙した件「火車HELPLESS」

業という炎に包まれ火車はただどこまでもひた走る。最後に鉄槌が振り下ろされる、運命のその時まで(評価 80点)

 日本の推理作家、宮部みゆきの代表作「火車」を韓国の女性監督ビョン・ヨンジュが映画化した本作。サスペンスジャンルを無二の得意とする韓国映画が、その特有のテンポの良さ、そして人間のウェットな部分を巧みに掬い取って見せる力量を存分に発揮して、冒頭からエンディングまで一気呵成に見せてくれる文句なしの快作になっている。

 負け犬は本作を二度見ているが、二度目の方がポインターとなるキャラクターに感情移入し、不覚にも泣けた。

 

はじまりはドライブするカップルが屈託のない会話しているさりげないシーン。

 カップルは結婚を1ケ月後に控えたムンホ(イ・ソンギ)とソニョン(キム・ミニ)。ムンホは獣医師のクリニックの院長を務めるブルジョワの家系で、ソニョンは如何にも小市民といった風情の女の子。そんな二人が車内で結婚間近なカップルにありがちな会話をしている。

 ムンホの実家に結婚の報告がてら帰省しようとしていた二人だが、たまたま立ち寄ったハイウェイのドライブインでムンホがソニョンを車中に残し、コーヒーを買いに行く。その時、車中にいるソニョンの携帯に一本の着信が入る。なにげにその着信を取るソニョン。そこからこの映画はまるで炎をまとった火車のように走り出す。

 車に戻ったムンホはソニョンがいなくなっていることに気づき、慌てて探すが、ソニョンは、まるで煙のように何処へともなく消えていた。

 

 冒頭、いきなり恋人が失踪する、というシチュエーションの映画には、オランダ映画の衝撃作「ザ・バニシング 消失」があった。いずれも不条理な恋人の失踪というシチュエーションに出くわした男が、井戸の淵から暗くて得体の知れないその底を知りたいという欲望に取りつかれ、真相を追い求めることになるが、本作のムンホも、人間が真実を知りたいという本能の赴くまま、失踪したソニョンの行方を追い求める。

 そのムンホというキャラクターを演ずるイ・ソンギのいかにもブルジョワ然としたナイーブな個性が実にはまっている。

 何故、ソニョンはいきなり失踪したのか。そして、調べるうち、ソニョンが実は本名ではなく、他人の名前だったことも明らかになってくる。

 一体、信じきっていたはずの恋人は何者なのか?

 イ・ソンギが唇をふるわせ、目を泳がせ、テンパって喚きながら、ひたすら恋人の真相を追い求めていくそのシンプルな構成は、やたらと重層的な伏線を張りたがる韓国映画とは一線を画して、昔の日本映画にも似た、ストレートなサスペンに満ちている。

 そして、この手の映画に欠かせないのが、主役を助けるサイドキックの存在だ。孤立無援のムンホは、親戚からも落ちこぼれ扱いされている元刑事の従兄に救いを求める。

 かくして本作は、この元刑事のジョングン(チョ・ソンハ)が動き出すことで、一層、ヒートアップして面白さが増すところが実に見どころ。

 ジョングンがプロの技量を発揮し、ソニョンを追ううち、ソニョンが一線を越えたモンスターのような犯罪者であることが明らかになってくる。そして、ムンホに、もうソニョンには近づくなと忠告するのだが・・・。

 タイトルの火車とは、古来より伝承されてきた妖怪のこと。

 わずかな手がかりを辿っては絶たれ、また手がかりを探す。そうやってひたすら追い求めた恋人が出没する場所をとうとう突き止め、クライマックスで、冒頭のシーン以来の再開を果たし、ムンホとソニョンが1フレームに収まるシーンにはくぎ付けになる。

 だが、恋人はすでに人間を自らの手で殺めた妖怪そのものの別の生き物同然になっているのだ。

 ここで、ソニョンがムンホを身じろぎもせず見つめ不敵にうっすらと笑う。このシーンには凄みがある。その笑いは人間としての一線を越えて鬼となり、もう二度と人間には戻れなくなった悲しみの笑いだからだ。そして、その瞬間、ソニョンの頬を伝って一筋の涙が流れ落ちる時、思わずこちらまで涙する。

   結局、本作を一言で言うなら人間の業の悲しさのような気がする。

 恋人をただひたすら追い続けるムンホも、真実を求めたがる人間の業なら、鬼と化したソニョンも、そもそもの発端は、貧困という境遇から来る金への執着という人間の業に他ならないのだから。おそらく負け犬は、そんな人間の業に、こわいもの見たさで触れたくなって、本作をいつかまた見るに違いない。

 

 そんな本作、実は原作とは結末が異なるらしい。などと聞けば俄然、原作も読みたくなってくる。とはいえ、この宮部みゆきという作家さん。確かに文壇を代表する作家さんには違いないのだが、とにかくどれを読んでもやたらと無駄に長い。まるでページ稼ぎをしているだけとも思えるのはこの負け犬だけでしょうか。

 いずれにせよ、売れている人をやたらとやっかみ半分に悪口言うのも、すっかり負け犬と化してしまった人間の業というやつなのでしょうけどね~

負け犬の良い子はみんなで殺し合う「バトルロワイアル」

殺し合え!このクレイジーな世界を生き延びるまで!仁義なきフカサクが世界に放ったアンチモラルなハイパー・バイオレンス!

(評価 76点)

 

日本映画はスタティックでモラリスティック。そんな常識を「仁義なき~」の深作欣二が70才にして、心地いいまでに粉砕した衝撃作。

 御年70才、といえば誰にしたって年金のお世話になる老齢ということになるのだろう。ところが今やエイジレス。海の向こうではジョージ・ミラーが同じく70代にして、マッドマックスをクレイジーにリブートしてくれた。そして、日本では、深作が世界の日本映画への固定観念を覆すような一作を放ってくれた。今や、もはや人間は70代のシルバー・エイジから狂い咲きするのだろうか?

 かつてはふんだんに許された、どこまでも黒く塗りつぶされたブラックなユーモアというやつは、まずは表現の規制ありきの現代では切り捨てられる。かつてB級映画の帝王ロジャー・コーマンが70年代に放ったカルトSF「デス・レース2000年」などという不埒な映画は、今となってはハリウッドでも到底、許されないご時世になってしまった。

 ところが、レース中に人間を殺せばポイントが加算されるというデス・レースも真っ青になるような映画が21世紀に突入した日本で生み出され、日本のみならず世界にデス・ゲームのムーブメントを発信してしまった。ブラックであることが許されない社会で、まるでそれに風穴を穿つかのような本作に、すがすがしいそよ風のようなフリーダムを覚えてしまうのはこの負け犬だけだろうか。

 「新世紀教育改革法」のテロップがいきなり表示される、とってつけたようなワザとらしいオープニングに苦笑する間もなく、修学旅行のなごやかな風景が、バスの運転手とバスガイドのお姉ちゃんがガスマスクを装着する不穏な空気で一変し、いきなりデス・ゲームの教室に誘われるスピード感に満ちた圧巻の導入部がまず素晴らしい。

 「今日は、皆さんにちょっと、殺し合いをしてもらいま~す」

 ビートたけしの間の抜けた素っ頓狂なそんな第一声から始まる、それからのシュールかつ徹底したブラックなデス・ゲームのイントロダクションのくだりこそが本作の真骨頂。深作監督が直々にキャスティングした、圧倒的なリアリティを放つ役名もキタノのままの教師役のビートたけしと、生徒たちとで交わされる、残酷なメルヘンを地で行くようなブラックなやり取り。

 実は負け犬は、この後に展開される予定調和的なデス・ゲームの本編よりも、このシュールきわまりない教室でのクレイジーなホーム・ルームのシークェンスの方が遥かに面白かったし驚嘆した。そして、それまでの日本映画の暗黙のルールや常識を打ち破るかのように、ここまで映画そのもののスタンスを、ブラックなベクトルに振り切ってみせた深作監督にリスペクトの念すら覚えてしまった。

 原作では、このくだりは、黒板にゲームのルールを書いて説明する描写になっている。これを、ハウツービデオのようなオフザケ映像を皆で見るというビジュアライズの改変がまずは秀逸。

 ここでのキタノのセリフはあくまでも間が抜けている。しかし、ここで交わされる生徒たちとの掛け合いの合間に、口をつくセリフは、それなりに説得力があるのがシュールなところ。その点、映画版よりも原作の方がすぐれているといえる。

「君たちはみんな独りぼっちで戦わなきゃなりませ~ん」

「私語はだめだぞ~。私語をするやつには、先生、つらいけどナイフ投げるぞ!」

 ここまでブラックなテイストが横溢する作品には、日本ではそうそうお目にかかることはなかった気がする。

 本作が、公開時、壮絶なバッシングを浴びたのは周知の通り。某番組に出演した深作監督がコメンテーターたちの非難の矢面に一身に立たされていたことは今でも覚えている。その時、監督が口にしたのが戦時中の体験だったことも。

確かに、中学生たちが殺し合うシチュエーションと比べれば、戦争終結間際、ヒステリックに周囲が本土決戦を叫ぶさなか、沖縄の地で次々に自決していったひめゆりの塔のシチュエーションなどの方が、はるかにクレイジーと言えなくもない。だた、その当時は、マスメディアに煽られていた本作に、天邪鬼的にネガティブな感情を抱いていたこともあり、深作監督の発言にも、また本作そのものにもさしたる関心は抱かなかったのだ。

 かくして、本作を見たのは不覚にも遂、最近のこと。そういえば見ていなかったと、たまたま何気なく手に取って改めて驚かされたという次第。

 クリエイターという立場の人が、ある種のタブーを突破して、限界を突き抜けてみせるのは、とかく難しいもの。それを深作監督は、本作で、それも70才という年齢でやってのけた。

 デス・ゲームに突入し、秋也(藤原竜也)をはじめとする中学生たちが生き延びるために、裏切り、ワナを仕掛けあっては殺し合う。確かにアンモラルきわまりない不道徳な映画には違いない。でも、ここには、負け犬も大好きな深作監督のもう一つの代表作「いつかギラギラする日」のような、とにかく既成の常識を覆してやろうというクリエイターの熱気が確かにある。

 限界突破。日本のみならず、海外でもタランティーノに代表されるクリエイターたちのリスペクトを今も集め続けているのは、深作監督の作品というより、監督そのもののそんな気概や熱量がストレイトに伝わっているからのような気がするのだ。

 良い子であることを否定し続けて映画人生を全うした深作欣二監督のように、この負け犬も良い中高年の殻を脱却してワイルドのベクトルに振り切って見ようかな、と思う今日この頃なのですよ

 

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