負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬の獣よりも凶悪無比なケダモノが機関車の上に仁王立ちした件「暴走機関車」

巨匠黒澤明のエンタメ気質とハリウッド、そしてロシアの哲学がトリプルクロスして雪原を突っ走る快作

(評価 76点)

 日本が誇る一大巨匠、黒澤明。その巨匠がしたためた一本の脚本。その脚本はたちまちハリウッドの目に留まり、映画化の快挙がクロサワ自身の手で実現するはずだった。しかし、その企画が頓挫、その脚本は長らく一つの伝説となった。

 膨大な企画が浮かんでは消えていく映画業界にあって、映画化が果たせないまま、脚本のネームバリューだけが不滅のままレジェンドと化していく脚本があるもので、この「暴走機関車」は長年、業界関係者、映画ファンの間では不滅のブラックホールのような一つのエンブレムとなっていた。

 それが何と、1985年になって、黒澤脚本のコンセプトをそのまま換骨奪胎して映画化された時は、少なからず誰もが驚いた。しかし、当時の負け犬は、もはや列車暴走のプロットが巷に溢れていたこともあって、さしたる食指も動かず未見のままだった。

 それが今回、ひょんなことから見るに至ったのも、たまたま読んでいた、伊坂幸太郎の「マリアビートル」の一文に本作のタイトルが言及されていたから。

 そーいえばそんな映画あったよな・・と見てみたら、これが骨太の快作ですっかり嬉しくなった。

 何といってもクロサワ作品独特のファナティックでエネルギッシュなテイストと、ロシア人監督アンドレイ・コンチャロフスキーの重々しくもウェットな哲学性、それが混然一体となってアラスカの雪原を突っ走るビジュアルとなって結晶化しているのが何とも堪らない。

 ストーリーの骨子はクロサワの原案に沿っている。極寒地帯のアラスカの刑務所から脱走した二人組の凶悪犯が逃げ込んだ機関車の機関士が心臓発作を起こし、暴走を始める。そして、そこに居合わせた一人の女性機関士と三人で暴走機関車を止めるべく奮闘する。

 きわめて単純、シンプルの極致のストーリー。でも映画的興奮は、まさにそんなシンプルな構造そのものからもたらされる。

 何といってもそのロケーションも圧巻の、雪原を突っ走る、アラスカ鉄道に実在したGPシリーズの車両にカスタマイズを施した機関車のビジュアルが圧倒的に素晴らしい。

 本作でアカデミー賞にもノミネートされた、キャラクター造形も素晴らしいの一語に尽きる凶悪犯マニーを演ずるジョン・ボイト。それに80年代に活躍していたエリック・ロバーツの二人が刑務所を脱走し、厳寒の雪原から操車場に辿り着き、やって来たGP機関車をはじめて見た時のビジュアルは、トレバー・ジョーンズの音楽もあいまって。まさに荘厳な野獣が現出したようなインパクトがある。

 何かが起きる。そして、まさしくそれが起こるのは、機関車が走り出してすぐの事。それからは一気呵成に暴走した機関車と、それを見守る指令センター、そしてマニーたちを追う刑務所長、三つ巴となって映画自体がヒートアップしていく。

 機関車はといえば、暴走開始早々、対向車の最後尾の車両とクラッシュし前部が粉砕。その大破した面構えもまさに野獣の様相を帯びて厳寒の中、突っ走る。

 崩れかけた橋、待ち構える化学工場のプラントといったいくつものトラップが待ち受ける中、果たして三人の運命は!とくれば、これはもうハリウッドのエンタメ以外の何物でもないとなるところだが、ただのエンタメで終わらないところが本作の魅力といえる。

 それは、本作における暴走機関車がただの物言わぬ機関車ではなく、デッドエンドが待ち受けるフリーダムという一つのメタファーになっているところ。そして、結局、その運命を受け入れるのが獣よりも凶悪なケダモノだという二重の構造になっているところなのだ。

 だが、そもそもどうしてこうなったのか?

 これは、まず間違いなく脚本にもクレジットされているエドワード・バンカーによるものだと断言できる。

 エドワード・バンカーといえば、前歴が前科者、刑務所で服役中に書いた小説が出版されたことから映画界に足を踏み込んだ強者だ。

 映画にも端役で出演し、もっともポピュラーなのは、タランティーノの「レザボアドッグス」のMrブルー役のいかにもそれらしい雰囲気を携えた男だといえばピンとくる人も多いはず。

 本作でもマニーのムショ仲間の唯一無二のダチとしてスキンヘッド姿で出演し、導入部の刑務所内の描写のリアリティを高めるのに一役買っている。

 最後のクライマックス直前、マニーが女性機関士に野獣と罵られ「俺は野獣よりも凶悪だ、つまりは人間だ!」と叫ぶセリフこそが機関車がメタファーたる所以であることは明白で、まさにバンカーが生涯をかけて訴えようとしたセリフに他ならない。

 何故なら、バンカーが服役中に書き上げた処女小説のタイトルこそが、本作の最後にテロップとして引用されるシェークスピアの作中のセリフの冒頭部分の「No Beast so Fierce(野獣よりもケダモノ)」に他ならないからなのだ。

 この小説はこの負け犬が生涯、愛してやまない作品の一本「ストレートタイム」としてダスティン・ホフマン主演で映画化もされた。

 本作の最後、後部車両を切り離し、特攻隊さながらにデッドエンドに突っ込んでいく先頭車両の屋根に仁王立ちしたマニーを捉えた映像は、さながらあのニューシネマの名作「バニシングポイント」で破滅の臨界点で爆発するダッジ・チャレンジャーを想起もさせ、誰の心にも焼き付くはず。

 

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 それにしてもこの年になって、数十年間未見だった作品をふと思い出し、見てみたらこれが傑作だったというのは実に嬉しいものですよね~。

 そのきっかけが伊坂幸太郎の小説「マリアビートル」つまりは天道虫だったというのが何とも~

負け犬が怪獣映画に本気で泣いた!生きてこそこれを観ることが出来た喜びに震える「ゴジラ-1.0」

あふれる涙をぬぐいもせず、むせ返る歓喜の中、スクリーンから響きわたるゴジラの咆哮がいつまでも鼓膜に焼き付いた。これぞジャパニーズモンスター、そしてこれこそ日本映画の真骨頂だ!

(評価 89点)

 海を突き進んでくるのは、本能の赴くままに全てを食い尽くす太古から生きながらえた動物、巨大ザメ。万に一つも勝ち目もないそのサメの口に、ヘタレなマイホームパパだった警察署長が酸素ボンベを放り込む。そして、クタバレ!と叫んで撃った弾丸がそのボンベに当たり大爆発!その瞬間、映画館に沸き起こったのは歓呼と拍手だった。

 これは1975年12月に映画館で負け犬がある映画を目の当たりにした出来事。そして、その映画こそ、この負け犬を終生、映画狂たらしめることになる「ジョーズ」だった。もう半世紀近くも前なのに、負け犬の中ではその歓呼と拍手は微塵も色褪せてはいない。

 だが、まさかこの年でその興奮と感動を再びたぎらせてくれる映画と出会えるとは・・。それこそが今回の「ゴジラ-1.0」なのだった。

 本作をたとえるなら、ストレートのド直球を何の衒いもなくミットに放り込む爽快感に他ならない。

 プロローグは大戸島に不時着する一機のゼロ戦。降り立ったのは特攻に怖気づき、生きながらえた敷島少尉だった。敷島は、そこで、島の言い伝え通りの怪獣ゴジラと出くわし、そこでも敷島はゴジラに震え上がった挙句、機銃の引き金を引くことが出来ず、島の守備隊を全滅させてしまう。かくして、失意のまま敗戦後の東京に帰った敷島は、戦災孤児の女の子を抱える女性と出会い、疑似家族として一歩踏み出した矢先、再びあのゴジラが出現する・・・とくれば、誰でも先の展開は読める、クライマックスはこうなるはずと誰もが分る。

 しかし、本作はその路線を少しもヒネることなく、その王道を何の迷いもなく、そしてこの手の映画にあるカタルシスの壺を決してはずすことなく、憎いほどに全て押さえてラストまで突き進んでいく。

 見終わった時、恥ずかしながら拭った涙でハンドタオルが濡れていた。そして、見ている間中、想起していたのが、小学生の時に興奮で身体が震えていたあの「ジョーズ」だった。

 とにかく絶賛の声が絶えることのない本作だけど、実は本作、誰一人として触れてはいないが、監督の山崎貴の頭の中にあったのは、紛れもなくあの「ジョーズ」だったはず。

 確かに本作は怪獣映画の定石通り、東京の、それもお約束通りの銀座に上陸して大暴れするシーンはある。さらに、ハリウッドとは比較にならない予算ながら、それに勝るとも劣らない精度のビジュアルを楽しませてくれるのも確か。しかし、その真骨頂は、海洋モノだということ。

 そう、本作はまごうことのない海洋動物パニックそのものなのだから。そして、見せ場の構成や積み重ねが、そのまま「ジョーズ」を踏襲していることも良く分る。

 貧苦の生活の中、敷島がありついたのは東京近海の機雷を処理する敗戦処理。そこで敷島はオンボロ漁船、新生丸に乗り込み、機雷排除の仕事をするが、そこで、またゴジラと出くわす。ここで、ゴジラが新生丸に追いすがるスリリングなシーンは「ジョーズ」で、ブイを撃ち込まれたサメがオンボロ漁船のオルカ号を追い詰めるシーンと全く瓜二つ。

 そして何をか言わん、クライマックスの相模湾でのゴジラ作戦は、「ジョーズ」のクライマックスそのままに、ゴジラの口に突っ込んだゼロ戦に満載された爆弾でゴジラの頭が吹っ飛ぶカタルシスを以って「ジョーズ」を再現。死んだと思ったキャラクターが生きていた爽快感も、「ジョーズ」で死んだとばかり思っていた海洋学者のフーパーが海面からヒョッコリ顔を出すくだりと全く一緒なのだ。新生丸で行動を共にする学者の野田の風貌が、モジャモジャ頭にメガネといったフーバーのルックスと全く一緒なのもご愛敬。

 でも、そんなことも、あらゆる映画のカタルシスの壺を押さえた本作の前には重箱の隅をつつくようなものかもしれない。ヘタレなキャラクターが絶対的な存在に立ち向かい、皆が力を合わせて戦うという日本映画のいい所を純粋ろ過したような本作の粋を心から楽しみ、涙すればいいのだから。

 ラストのわだつみ作戦決行と共に鳴り響く伊福部昭のテーマ曲とともにもたらされる言いようのない昂揚感、絶体絶命の窮地に助っ人が馳せ参じるカタルシス、敷島が最後にゴジラに向かって行くときの抑えようのない嗚咽、映画的記憶の上澄みの透き通った部分だけをつるべ打ちに見せてくれる快楽が本作にある。その上、ゴジラと名だたる駆逐艦とが決戦するという架空戦記の醍醐味まであるから云うことなし。

 とはいえ、山崎監督が「ジョーズ」のフォーマットをそのまま本作に落とし込んだというのにも確たる証拠がある。この山崎監督と負け犬とは、生まれた年が全く同じなのだ。だから、辿って来た映画的ルーツもまったく同じと言っていい。野球中継が雨天中止となった時に放送される雨傘番組の映画に心躍らされた映画少年、そしてその映画少年は、まるでジャンキーのように、その時味わった映画的興奮を追体験したいがためだけに今もただ映画を見続けている。

 ゴジラ・マイナス1.0と言いながら、マイナスといったネガティブな感情はこの映画にはない。少年のようにポジティブで前向きな胸の高鳴りがここにはある。それが唯一の皮肉と言えば皮肉なのでしょうかね~

負け犬の成り上がりのゴキブリがコンプレックスを爆発させてアイコンになった件「スカーフェイス」

ゴキブリは這い上がる、そして破滅する、誰よりも壮絶に。デ・パルマが描く破滅の美学は実はコンプレックスと近親相姦のリビドーの爆発だった

(評価 82点)

 A LONG TIME AGO・・・今からもう50年近くも前のこと、その頃はまだ若輩者でしかなかった一人のフィルムメーカーが一本のSF映画を作った。資金難とトラブル続きで何とか作り上げたその作品を、とりあえずフィルムメーカー仲間たちを集めて自分の自宅でお披露目がてら試写してみた・・。

 ところが、その評判たるや惨憺たるものだった。「何だこれは?」「ガキ向けの映画かよ」「ポンコツ映画」などと誰もが酷評した。中でもその映画をもっともコキおろした一人の気鋭のフィルムメーカーがいた。その男こそあのブライアン・デ・パルマだったのだ。

 その映画に出て来るレイア姫なるキャラクターのヘアスタイルを指差して「おいジョージ、何だあの頭は、ヘッドフォンかよ、あれは」と言ってデ・パルマはゲラゲラと大笑いした。そして、そのデ・パルマをはじめ誰もがその映画は間違いなくコケると予想した。

 だが、その年のクリスマスに公開されたその映画は映画産業におけるビジネスのパラダイムというものを根底から塗り替えるブロックバスターとなる。その映画のタイトルこそ「スターウォーズ」だった。

 かくして、その時を境にブライアン・デ・パルマは終生「スターウォーズ」コンプレックスに取りつかれてしまう破目になる。

 嗚呼、俺も「スターウォーズ」みたいに観客が列を成して劇場に駆け付け、莫大な興行収入を上げるブロックバスターを作ってみたい・・・

 しかし、出世作の「キャリー」を筆頭に、たまにヒット作が出ても、小ヒット止まり、そして、その直後には決まって大コケする作品を作ってしまう。その振幅を繰り返しながら、もがき、悩み続けながらキャリアを重ねて行ったのがブライアン・デ・パルマの映画人生だったといっていい。

 そんな悩み多きデ・パルマのスランプ時代に光明が差したのが、リメイクという活路だった。かくしてデ・パルマは本作、ギャング映画の古典「暗黒街の顔役」のリメイクの「スカーフェイス」に手を染め、その後、「アンタッチャブル」、「ミッションインポッシブル」といったリメイク映画を成功に導くことになる。

 渡米してきたキューバ移民のトニー・モンタナの成り上がり人生を描く本作は、もうコテコテのVシネマの世界。それでも、今ではすっかり映画史のアイコンとして定着したアル・パチーノ演ずる、珍妙なキューバ訛りのトニーの脂ぎったキャラクター像は、年代を経ても色褪せるどころか今でも燦然と輝いている。

 とにかくバイオレンスというイメージの強い本作だが、改めて見ると、3時間におよぶ尺の中で、バイオレンスどころか、アクションシーンも意外と少ないことに気付かされる。

 それでも少しも退屈しないのは、やはりゴキブリのように脂ぎって、コンプレックスの塊のようなトニーのキャラクターが鮮烈だから。そして、そのトニーの成り上がりをお約束通りに描いていく、ある意味Vシネマ的なチープの安心感なようなものがあるからに他ならない。

 でも、そのチープなVシネマの世界が、トニーが溺愛する妹ジーナが自分の相棒のマニーと姦通したことを知り、逆上した挙句マニーを射殺、廃人のようになったトニーの前で、ジーナがトニーの自分に対する近親相姦的な欲情を暴露するところで、一気にギリシャ悲劇的なオペラに豹変するところは圧巻そのもの。

 そして、映画史に残るラストのトニーの壮絶なる暴発シーン。トニーがM16マシンガンに装着したランチャーのグレネードでチンピラたちを吹っ飛ばし、次々と残りの麻薬ギャングどもをなぎ倒す。だが最後には硝煙の中で背後から撃たれ、のけぞってプールに落下。水面に浮かんで、たゆとうトニーの死体の上空にWORLD IS YOURSというネオンサインを掲げた飛行船が浮かんでいる鮮烈きわまりないラスト。そしてエイティーズを象徴するようなジョルジオ・モロダーイカす音楽。

 そのラストを永遠不滅に成し得たのも、結局、デ・パルマが根底に抱くコンプレックスを本作のトニーに託したからのように思えてならない。

 「キャリー」から始まって「殺しのドレス」「フユーリー」に「ミッドナイトクロス」、そして本作「スカーフェイス」から「カリートの道」に「アンタッチャブル」、はたまたデビューのアングラ時代まで追いかけて見た「ハイ・マム」や「悪魔のシスター」「ファントム・オブ・パラダイス」などなど。結局、自分の人生の節々で、この負け犬はデ・パルマがもがき、その方向性を模索し続けながら作って来た作品群にずっと寄り添い接してきた。今、思えば自分の人生はデ・パルマの映画とともにあったような気すらしてくる。

 そんなデ・パルマの映画人生もすっかり終焉を迎えてしまったような今、奇妙な寂しさを覚えるのはこの負け犬だけなのだろうか。

 ちなみに冒頭の「スターウォーズ」のルーカスの自宅試写会の際、「間違いなく本作は大ヒットするよ」と太鼓判を押した人間がたった一人だけいた。それがルーカスと親交のあったスティーブン・スピルバーグだったというのは有名な話。これも終生ブロックバスターに縁がなかったデ・パルマのコンプレックスに満ちた映画人生を象徴するような実に皮肉な逸話ですよね~

負け犬が声を大にして吠えまくる!絶対に観るべき大傑作「ほえる犬は噛まない」

韓国映画界のトップに君臨する天才の揺らぐことなきエンブレム!その突出した脚本、演出、映像センスに仰天し、そして、すべてのダメ人間たちへの心優しき応援歌に涙する!(評価 92点)

 韓国映画というものの知名度のステータスが今とは比べ物にならないほど低かった当時、ある一本の映画が公開された。たまたま、その作品に対する絶賛評を目にした負け犬は、とはいっても韓国映画だし、という半信半疑のまま劇場にいそいそと出かけて行った。実際、その当時の負け犬が見た韓国映画といえば、ものの一本すらもなかったはずだ。

 だが、鑑賞後、その懸念はものの見事に吹っ飛ばされ、世界のクロサワにも匹敵するようなモンスター級の才能が、こともあろうに韓国から出現したと本気で慄いた。その作品こそ、今にいたっても韓国映画のベストといってもいい「殺人の追憶」だった。そして、そのモンスター級の才能こそが、今や世界トップの監督ともなったポン・ジュノその人だった。

 そして、しばらくしてそのポン・ジュノのデビュー作がレンタル店の店頭に並ぶ。何気に手に取った負け犬が、それを見た時、あまりの面白さに歓喜し、小躍りしてしまったのが本作「ほえる犬は噛まない」だった。デビュー作に作家の全てが詰まっている。まさに本作はその常套句そのままの作品と言っていい。

 落ちこぼれの大学の非常勤の講師ユンジュは、何とか教授に昇格しようと受験勉強にあくせくしている。だが、韓国社会では教授に高額な賄賂をしなければ昇格出来ない。だが、未だ稼ぎもなく、会社勤めの妻に頼りきりのユンジュにはそんな金もなく、ただジレンマに悶々とする日々。そんなユンジュをもっとも悩ませているのが団地で誰かが飼っている犬の鳴き声だった。

 本作はこんなさりげない設定をスタート地点に、ヨーイドン!でプロットが快調に爆走する。そのめまぐるしいほどのプロット展開の鮮やかさにただもう舌を巻き、様々なキャラクターたちが繰り出すアクセントに笑い、気付けば最後にはうっすらと涙して、エンドクレジットではすこぶるいい気分になっている。でも、驚くべきは本作、もう二十年にもわたって見続けているのに、そうした感動が一切色褪せず、つい今見ても同じ感動が味わえることなのだ。

 それほどまでに素晴らしい本作の中でも出色なのは、やっぱりポン・ジュノの筆による脚本でしょう。本作、たかだか言ってしまえば団地でペットのワンちゃんがいなくなってしまう失踪をめぐって、大学講師や管理事務所の職員や、団地の住人や、ホームレスといった人物がクロスオーバーしてリンクして右往左往するだけの話なのだ。だが、何度見てもくぎ付けになってしまうのは、そのキャラクターたちのリンクの巧みさと、どこに着地するかてんで分からない複雑なプロット作りがあまりにも見事すぎるその脚本の冴えなのだ。この脚本だけは、まごうことなき天才の代物といっていい。

 だが、何よりもこの負け犬が本作に揺さぶられるのが、負け犬のキャラクターたちに注がれるユーモラスな温かい視線。それを代表するのが、管理事務所に勤めるうだつのあがらない負け組の女の子ヒョンナムを演じるペ・ドゥナ。画面全体、映画全体に横溢する、このペ・ドゥナのダメダメぶりのキュートな可愛らしさにノックアウトされないヤボな奴らはいないのではなかろうか。

 このペ・ドゥナ演ずるヒョンナムが、犬泥棒を追って失踪する。ここで見せる鮮やかなロングショットのカットインのモンタージュを始めとする、鮮やかきわまりないポン・ジュノの映像センスが全編に漲っていることにも誰もが瞠目するはず。

 そして、何ともいい気分にさせてくれるジャズがベースの心地よい音楽。ダメダメ女子たちが酔っ払ってクダを巻くくだりでこの音楽が流れるシーンの何ともエモーショナルでチャーミングきわまりないこと。

 ただ悲しいのは、さすがのポン・ジュノにしても、もう二度と本作ほどに才気溢れる作品を二度と作れないこと。あのスピルバーグが弱冠24歳にして監督した「激突」のように、本作は天才的な才能を持った監督がその人生でたった一度だけ放つことが出来る超新星のような煌めきを持った作品だからだ。

 人は何故、映画をみるのか?導入部からその世界に引っ張り込まれて、あれよあれよとジェットコースターのようなライド感を味わって、その世界のキャラクターたちをすっかり好きになって、最後にすこぶる気持ち良くなりたいためでしょう。だとすれば、嘘偽りなく本作にはその全てが詰まっている。

 本作を見たら誰でもキャンキャンと誰かれ構わず薦めたくなって吠え立てたくなるはず。実際、この負け犬が今に至ってもそうなのだから。

だから、負け犬は本作の絶賛を今日も吠え続ける。キャンキャン!

 

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負け犬のこれぞアラ還オヤジの容赦なきお祭りマンボ「ジョン・ウィック:コンセクエンス」

アラフォーもアラフィフももう古い、これからはアラウンド還暦のアラ還オヤジの時代だ!そのアラ還キアヌが叩きまくる暴れ太鼓の音色に酔いしれろ!

(評価 84点)

 世の中にはつべこべ言っても仕方がない映画というものがあるものです。だとしたら本作こそまさにそんな映画。ひたすら暴れん坊の主人公が縦横無尽に暴れまわる、その暴れっぷりをただ呆然と見つめ、見終えた後は満腹といわんばかりに腹をさする。ただ、その暴れん坊が本作の場合、キアヌ・リーブスでそのキアヌがそろそろ還暦目前というわけで、あんぐりと開ける口の大きさも半端ない。

 亡き妻からの贈り物の犬を殺された引退したはずの殺し屋が、その復讐相手のロシアンマフィアに報復する、その単純でシンプルなプロットが逆に新鮮だった小ぶりな良作として始まりを告げた「ジョン・ウィック」。その「ジョン・ウィック」がもっともユニークなのは、殺し屋映画にあった中途半端なリアリティなどかなぐり捨てて、殺し屋フアンタジーともいうべき世界観にベクトルを思い切り振り切ったこと。

 一作目、現役復帰したジョンが深夜、自宅に押し入って来たロシアンマフィアの刺客たちを皆殺しにする。すると、たちまち特殊清掃業者みたいな連中たちが現れ、粛々と死体を始末し何事もなかったかのように去っていく。そのシュールでオフビートなテイストにちょっと驚いた人も多かったのではないでしょうか。

 そして、そのシュールなテイストが殺し屋たちだけが宿泊できるコンチネンタルホテルの登場で加速する。殺し屋たちだけが集うホテル、そして殺し屋たちの間だけで流通する殺し屋通貨。こんな切り口の映画はそれまでありそうでなかった。

 そして二作目以降、フランチャイズと化したシリーズでは、アナログな電話機が居並ぶ古風なオフィスで、タトゥーだらけのお姉ちゃんたちが賞金首となったジョン・ウィックのキル・プライスをオークションするというまさに殺し屋たちの殺し屋たちによるアップビートな殺し屋ファンタジーとしての世界観も新たに、とにかくこの負け犬を楽しませてくれた。

 そのシリーズにひとまず決着をつけるべくの第四弾。加えて舞台に日本の大阪、俳優陣に真田広之ドニー・イェンまで加わるとなれば褌の紐もギュっと締め直したくなる。

 かくしてその第四作。オープニングからいきなり疾走していたアップテンポな二作目、三作目とはちょっと異なり、ジョン・ウィック・ワールドのメタファーだったあのコンチネンタルホテルの崩落というちょっとペシミスティックな導入部から始まる。つまり、出だしがややスローなのだ。

 でも、それもそのはずというべきか、本作のランニングタイムは2時間49分。スローテンポな出だしをボリューム感と捉えるか、それともただのスローと捉えるかに分かれる人もいるかもしれない。ちなみに負け犬は後者。いつアップテンポになるか思わずたじろいでいるうちにジャパニーズ・パートの大阪コンチネンタルホテルのシークェンスになっていく。

 ここで登場する真田広之を交え、あのレジェンド、ドニー・イェンが切れ味鋭いパフォーマンスを繰り広げるところから、あのいつものジョン・ウィック同様のビート感が幕開けする。

 そこからは文句ない。もう還暦のはずのキアヌが、ドニー・イェンとタイマン張って、ヌンチャクアクション見せてくれただけで思わず目を細めている。

 とにかくいつも通り殺して殺して殺しまくる。そのリズム感はよくよく考えれば、日本の和太鼓のリズムに似ていて、キアヌがまるで暴れ太鼓を叩きまくっているような幻覚に見舞われるほど。

 そして、そろそろお腹が張ってきたなと思って時計を見ると、何とまだ1時間も残っているではないか。いくら何でもあと1時間は無謀ではないのか。そんな不安が一瞬、負け犬の脳裏によぎってしまったことは吐露しなければならない。ところが、実は本作が本領を発揮するのはそこからなのだ。

 パリ・パーツのクライマックスに突入してからのアクションのつるべ打ちたるや、この負け犬のようなへたれな草食系を嘲笑うかのような、もう暴れ太鼓マックスのお祭りマンボ状態というべきか。

 とりわけ、キアヌが本作でどうしてもやりたかったマッスル・カー・バトルのシーンは圧巻そのもの。殺し屋たちが猛スピードの車に吹っ飛ばされまくり、ジョンにもまた吹っ飛ばされまくる、誰もが吹っ飛ばされ、誰もが宙を舞う、ファンタジーバイオレンスというべきビジュアルが目の前に現出する。

 かくしてタイムリミットが迫る中、あのドニー・イェンが見せてくれる漢気で、これまでの三作になかった熱いカタルシスを感じさせてくれるところはさすがというところ。

 かえすがえすもアラ還のパワーの凄さを見せつけられ、ただひれ伏すばかりの本作のエンディングには労をねぎらうとでもいうようなレクイエムが手向けの花のように添えられる。それを見届けた後、流れるエンディングに、おそらく、キアヌ・リーブスというハリウッドの第一線の俳優という稀有な人生を長年の間、生きて来た男に対し、誰もがお疲れ様でした~と声をかけたくなることでしょう。

 いよいよ中高年のボーダーもオーバーした方々には本作、3時間の見応え腹ごたえと共にとっておきの栄養ドリンクになるのではないでしょうかね~

負け犬の夏に降り立つ美青年!まばゆく澄んだ青に心から酔いしれる「ハートブルー」

夏にピッタリなアクション映画の大定番。美青年キアヌ・リーヴスパトリック・スウェイジがタッグを組んで縦横無尽に心地よく躍動する快作アクションの決定版

(評価 85点)

 いつまでも終わらない夏。夏といえば、焼け付く暑さと澄んだ青、そして波立つ海のまばゆい煌めき。そんな夏そのものを体現した映画をついつい見たくなるもの。そんな時にぴったりな映画こそ本作。本作こそまさにリュック・ベッソンの「グランブルー」のフリーダムな爽快感とアメリカンなアクション映画の躍動感が見事にマッチングした理想の夏映画といえようか。

 元々、本作のはじまりは一人の男がこんな発想をいたずらに思いついたことだった。「刑事が、サーファーたちのグループに潜入捜査で入り込んでサーフィンしたら面白くね?」。そして、こんなマンガもどきのアイデアを思いついた男こそ誰あろうあのジェームズ・キャメロンだった。キャメロンはすぐさまそのアイデアを「ジョニー・ユタ」というタイトルの初期草稿としてまとめあげる。当時、「エイリアン2」で一躍、ハリウッドの寵児として持て囃されていたキャメロンの売り込みに、これもまた当時、業界で躍進中だったラルゴ・エンターティメントが快諾、目出度く制作の運びとなった。

 ラルゴも本作ヒットの鍵が二人の主役のキャスティングなのは重々承知の上で、主役にスター街道を歩み始めたキアヌ・リーヴス、その対を成すもう一人の主役に「ゴースト/ニューヨクの幻」で大ブレイクを果たしていたパトリック・スウェイジを抜擢。そして監督には、アクション派なのにハリウッド随一の美人監督として名を馳せていた新鋭キャスリン・ビグローを指名し万全の態勢で制作を開始した。

 水もしたたる美青年キアヌとセックス・アピール抜群のパトリックの二大主役に、エクストリームスポーツとアクションの融合というハイブリッドなテイスト。スタジオ側も本作公開時、爆発的大ヒットを確信していた。しかし、残念なことに本作は公開時、スタジオの期待に反し、小ヒットにとどまった。

 だが、本作のその感覚の新しさは今、見ても少しも色褪せない。若々しくハンサムそのもののナイーブなキアヌとパトリック、そして夏そのものの躍動感に心を躍らせてくれる快作なのだ。

 本作を一言でたとえるなら、とにかく胸をすっきりさせてくれる映画。そもそも刑事が、銀行強盗一味をサーファーたちと睨んで、サーファーに成りすます、なんてプロット自体、本来、バカげていてコメディにしかなり得ない。ところが、本作、見ている間は、繰り出されるサーフィンからスカイダイブに至るシーンを交え、展開する成り行きに少しの違和感も覚えない。刑事ものの定番のバディムービーに、スポーツ映画を一見、安易に掛け合わせたように見える本作だが、クレジットではたった二人しか冠されていないシナリオには数十人ものライターが関与してリライトを重ねていた。

 それもそのはず、本作は、導入部のダイナミックな強盗シーンから、定番の主役の刑事と、コンビになるベテラン刑事。さらに現場に残されていた証跡からビーチを根城とする人間が犯人と睨み、サーファーたちをマークし、ボーディ(パトリック・スェイジ)をリーダーとするサーファーたちのコミュニティーに潜入する、といった具合にさして破綻することもなく構成されていることが今見ると良く分る。

 そして、本作の最大の魅力がサーファーたちの一団が、金目的の強盗団などではなく、既存のシステムに反発し、強盗をエクストリームスポーツの一つとして遂行するジプシーのようなコミューンであること。これなどまさに、前作が、バンパイアたちの一団がシステムから逸脱したアウトロー集団という設定のアクション・ホラーの快作「ニアダーク」を監督したキャスリン・ビグローの面目躍如といったところ。

 こうした下地があればこそ、本作の次々に繰り出されるダイナミックなシーンが俄然、魅力を増してくる。ジョニー(キアヌ)がボーディの一味に加わり、はじめて夜のサーフィンに繰り出す荘厳なまでに美しいシーン。夜明けにサーフボードに跨ったままタイラー(ロリ・ペティ)とキスするシーンなど、潮の臭いがこちらまで伝わってくる。

 そして、何といっても、ジョニーがすっかりエクストリームスポーツの魅力に感化されてしまうスカイダイビングのシーンの圧倒的な爽快感。サーフィンのシーンにしろ、スカイダイビングのシーンにしろ、ベストショットをモンタージュした本作の編集は、贅沢な製作費を注ぎこんだのが明らかで、爽快感のみならず充足感すらある。

 強盗計画を察知したジョニーがアスリート顔負けの、ランニングチェイスの挙句、ボーディの逃亡を許し、捜査官であることが露呈したジョニーをボーディは、タイラーを人質に取って無理やり最後の強盗計画に加担させる。

 グッとくるのがやっぱりラスト。雨に煙るビーチで男同士の別れを交わし、ボーディは伝説のビッグウェーブに呑まれ藻屑と消える。そんなボーディに一瞥もくれず雨の中、去ってゆくジョニー。そして濃い青はハートブルーとなって伝説の一本と化した。

 ただ、この負け犬が夏になると無性に見たくなる映画がもう一本あって、灼熱のLAの渋滞の中で、失業中の中年オヤジが突如、世の中にブチ切れて暴発するパニック・ディザスターの傑作「フォーリング・ダウン」がそれ。

 どうせ見るなら二本立てで見るのも乙なもの。水も滴る美青年のエクストリーム・ムービー「ハートブルー」、中年オヤジのサマー・ウォーズ「フォーリング・ダウン」。どちらを先に見るかは、その時のあなたのささくれ立った気分次第というところでしょうかね~

 

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負け犬のマッチョな男はお約束の銃弾のシャワーを浴びて強くなる件「ガントレット」

これぞ映画のお約束のオンパレード!マッチョマン、イーストウッドのキャリア史上、

エンタメ指数マックスな娯楽アクション

(評価 76点)

所詮、映画はお約束の世界。されば、そのお約束をこれでもかとばかりにつるべ打ちに見せてやる。本作は、そんなイーストウッドの荒い鼻息が、こちらの鼻先まで吹きかかってくるような気概のこもったアクション作品。

 

 時は1977年。その年のお正月映画の目玉作品のポスターにこんな惹句が躍る一つの作品があった「火を吹く45000発の銃弾に一人で挑む凄い奴」。その凄い奴こそ他でもない史上最大のマッチョマン、イーストウッドその人だった。

 「恐怖のメロディ」から監督業に手を染めて早や5作を数え、第6作目でイーストウッドが本気でエンタメにベクトルを振り切って勝負を賭けた作品が「ガントレット」だった。当時、愛読していた「ロードショー」などの映画雑誌にはその45000発~の惹句が華々しく躍る特集記事が載っていたのは今でも覚えている。

 イーストウッドが本作に挑んだ鼻息の荒さは、本国版のポスターのアーティストにあのファンタジー・アートのレジェンド、フランク・フラゼッタを起用したことからもひしひしと伝わってくる。フラゼッタの荒々しくも雄々しいタッチで描かれたイーストウッドはマッチョそのもの。かくしてマッチョの代名詞イーストウッドが本気印で挑んだ作品とはいかなる代物だったのか。

 そんな本作は言ってみれば映画におけるお約束のオンパレードである。それはポスターの惹句にもひしひしと現れている。初公開当時は中学生程度の青二才。ちょうど映画におけるリアリティというものにも目覚める年頃だ。だから、デカデカと貼られた本作のポスターにもどこか鼻であしらった感もあり、その後、TV放映された本作も見た記憶はあるが、謳い文句通りのやたらと無駄に何万発も撃ちまくる銃弾の雨あられにどこかで苦笑した程度だった。

 しかし、それから実にン十年後にふと見たくなり手にした本作。こちらが年を取って丸くなったのが幸いしたのか、実にそのお約束のオンパレードも楽しい快作だったという次第。

 本作のストーリーは単純そのもの。アリゾナ州のフェニックス市警のはみだし刑事ショックリーが出勤するや命じられたのが、ラスベガス出張と一人の証人の護送。その証人は一人の娼婦。護送を拒絶する娼婦は命を狙われているとショックリーに言い張り、道程で二人もろとも殺されると訴える。しかし、娼婦の戯言と相手にしないショックリーはその娼婦マリーと共に空港に向かうが・・・とくればもうその後の展開は誰もが想像は付く。

 実は事件の黒幕が、イーストウッド演ずるショックリーに護送を命じたコミッショナーで、最後は大岡越前ばりに勧善懲悪で幕切れするというのも誰だって手に取るように分かる。

 だが、本作はそれを裏手にとって、アクション映画におけるお約束をカタログのようにパノラマチっくに見せていく。そして次々と繰られていくそのカタログのページを半端ない銃弾の数で彩っていくのが見ていて実に楽しいのだ。

 まずは空港に向かう途上で用意された車が爆発し、命を狙われていることを悟った二人がマリーのヤサに逃げ込む。そこに救助を要請したはずの警官隊が包囲し、まずは盛大な銃弾の嵐を浴びせかける。そんなに撃つ必要あるの?と誰もが思う。それでも有無を言わさず浴びせられる銃弾の猛威に一件の家が倒壊するシーンには唖然とするばかり。この度を越したアングリさ加減が本作の持ち味。

 家のベースメントの抜け穴から脱出した二人はパトカーをハイジャックし、一路、州境を目指す。そして、一夜を明かした洞窟でコミッショナーの陰謀を知った二人は、やって来たバイカーたちから奪ったチョッパーに乗って爆走。

 本作の大見せ場の一つ、この砂漠地帯でのチョッパーと、それを追撃するヘリとのチェイスは今見ても実にアメリカンなアクションシーンで楽しいことこの上ない。このシーンなんか、明らかにイーストウッドがその当時、実生活の愛人でもあったマリーを演ずるソンドラ・ロックを後ろにチョコンと乗っけて走りたい、そのワンマンなワガママだけでこさえたシーンで必然はない。しかし、それでも良い。アクション映画のお約束としては何もかもが必然なのだから。

 そして、誰もがのけぞる最大のお約束がクライマックスに待っている。市警の庁舎に正面から乗り込むべく、ショックリーは観光バスを乗っ取り、鉄板で運転席を武装してフェニックス市内を疾走。それに向かって警官隊が映画のポスターの惹句通りの銃弾の雨あられを浴びせかけるシーン。

 謳い文句に偽りなしのこのシーンには70年代のアメリカのアクション映画のボルテージが画面のフレーム一杯にフルスロットルで溢れかえっている。

 かくして、見終えた本作、数万発の銃弾も、銃弾で倒壊する一軒家も、爆走するチョッパーも、銃弾の穴だらけのグレイハウンドバスも、必然性などどこにもない。しかし、アクション映画のお約束としてはまぎれもない必然で、そんなお約束のオンパレードがひと夏の暑気払いにはピッタリな一作だった。おそらく、これを機に、今後も夏になれば見たくなる一作かも。

 だが、それにしても、クライマックスの、バスに銃弾を浴びせかけるいわくつきのシーン。これを見たらまず誰もが思う。「タイヤを狙えばいいじゃねえか」。しかし、マッチョマンのはずのイーストウッドの観客にそっと忖度するこんな囁きも耳元で聞こえてくる・・「シー!それは言わないお約束でしょ!」