負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬が怪獣映画に本気で泣いた!生きてこそこれを観ることが出来た喜びに震える「ゴジラ-1.0」

あふれる涙をぬぐいもせず、むせ返る歓喜の中、スクリーンから響きわたるゴジラの咆哮がいつまでも鼓膜に焼き付いた。これぞジャパニーズモンスター、そしてこれこそ日本映画の真骨頂だ!

(評価 89点)

 海を突き進んでくるのは、本能の赴くままに全てを食い尽くす太古から生きながらえた動物、巨大ザメ。万に一つも勝ち目もないそのサメの口に、ヘタレなマイホームパパだった警察署長が酸素ボンベを放り込む。そして、クタバレ!と叫んで撃った弾丸がそのボンベに当たり大爆発!その瞬間、映画館に沸き起こったのは歓呼と拍手だった。

 これは1975年12月に映画館で負け犬がある映画を目の当たりにした出来事。そして、その映画こそ、この負け犬を終生、映画狂たらしめることになる「ジョーズ」だった。もう半世紀近くも前なのに、負け犬の中ではその歓呼と拍手は微塵も色褪せてはいない。

 だが、まさかこの年でその興奮と感動を再びたぎらせてくれる映画と出会えるとは・・。それこそが今回の「ゴジラ-1.0」なのだった。

 本作をたとえるなら、ストレートのド直球を何の衒いもなくミットに放り込む爽快感に他ならない。

 プロローグは大戸島に不時着する一機のゼロ戦。降り立ったのは特攻に怖気づき、生きながらえた敷島少尉だった。敷島は、そこで、島の言い伝え通りの怪獣ゴジラと出くわし、そこでも敷島はゴジラに震え上がった挙句、機銃の引き金を引くことが出来ず、島の守備隊を全滅させてしまう。かくして、失意のまま敗戦後の東京に帰った敷島は、戦災孤児の女の子を抱える女性と出会い、疑似家族として一歩踏み出した矢先、再びあのゴジラが出現する・・・とくれば、誰でも先の展開は読める、クライマックスはこうなるはずと誰もが分る。

 しかし、本作はその路線を少しもヒネることなく、その王道を何の迷いもなく、そしてこの手の映画にあるカタルシスの壺を決してはずすことなく、憎いほどに全て押さえてラストまで突き進んでいく。

 見終わった時、恥ずかしながら拭った涙でハンドタオルが濡れていた。そして、見ている間中、想起していたのが、小学生の時に興奮で身体が震えていたあの「ジョーズ」だった。

 とにかく絶賛の声が絶えることのない本作だけど、実は本作、誰一人として触れてはいないが、監督の山崎貴の頭の中にあったのは、紛れもなくあの「ジョーズ」だったはず。

 確かに本作は怪獣映画の定石通り、東京の、それもお約束通りの銀座に上陸して大暴れするシーンはある。さらに、ハリウッドとは比較にならない予算ながら、それに勝るとも劣らない精度のビジュアルを楽しませてくれるのも確か。しかし、その真骨頂は、海洋モノだということ。

 そう、本作はまごうことのない海洋動物パニックそのものなのだから。そして、見せ場の構成や積み重ねが、そのまま「ジョーズ」を踏襲していることも良く分る。

 貧苦の生活の中、敷島がありついたのは東京近海の機雷を処理する敗戦処理。そこで敷島はオンボロ漁船、新生丸に乗り込み、機雷排除の仕事をするが、そこで、またゴジラと出くわす。ここで、ゴジラが新生丸に追いすがるスリリングなシーンは「ジョーズ」で、ブイを撃ち込まれたサメがオンボロ漁船のオルカ号を追い詰めるシーンと全く瓜二つ。

 そして何をか言わん、クライマックスの相模湾でのゴジラ作戦は、「ジョーズ」のクライマックスそのままに、ゴジラの口に突っ込んだゼロ戦に満載された爆弾でゴジラの頭が吹っ飛ぶカタルシスを以って「ジョーズ」を再現。死んだと思ったキャラクターが生きていた爽快感も、「ジョーズ」で死んだとばかり思っていた海洋学者のフーパーが海面からヒョッコリ顔を出すくだりと全く一緒なのだ。新生丸で行動を共にする学者の野田の風貌が、モジャモジャ頭にメガネといったフーバーのルックスと全く一緒なのもご愛敬。

 でも、そんなことも、あらゆる映画のカタルシスの壺を押さえた本作の前には重箱の隅をつつくようなものかもしれない。ヘタレなキャラクターが絶対的な存在に立ち向かい、皆が力を合わせて戦うという日本映画のいい所を純粋ろ過したような本作の粋を心から楽しみ、涙すればいいのだから。

 ラストのわだつみ作戦決行と共に鳴り響く伊福部昭のテーマ曲とともにもたらされる言いようのない昂揚感、絶体絶命の窮地に助っ人が馳せ参じるカタルシス、敷島が最後にゴジラに向かって行くときの抑えようのない嗚咽、映画的記憶の上澄みの透き通った部分だけをつるべ打ちに見せてくれる快楽が本作にある。その上、ゴジラと名だたる駆逐艦とが決戦するという架空戦記の醍醐味まであるから云うことなし。

 とはいえ、山崎監督が「ジョーズ」のフォーマットをそのまま本作に落とし込んだというのにも確たる証拠がある。この山崎監督と負け犬とは、生まれた年が全く同じなのだ。だから、辿って来た映画的ルーツもまったく同じと言っていい。野球中継が雨天中止となった時に放送される雨傘番組の映画に心躍らされた映画少年、そしてその映画少年は、まるでジャンキーのように、その時味わった映画的興奮を追体験したいがためだけに今もただ映画を見続けている。

 ゴジラ・マイナス1.0と言いながら、マイナスといったネガティブな感情はこの映画にはない。少年のようにポジティブで前向きな胸の高鳴りがここにはある。それが唯一の皮肉と言えば皮肉なのでしょうかね~