負け犬の映像マジックの世紀末的エンサイクロペディア「鳥」
ヒッチコックの映像マジックが冴えわたる、動物パニック映画の原典にして金字塔!
(評価 89点)
平和そのものの港町ボデガ・ベイを鳥の大群が襲う!これぞまさに映像マジックの百科事典。今なお新しい、発見に満ちた超傑作。
映画史のことは差し置いて、アルフレッド・ヒッチコックという人がもしもいなかったとしたら、自分の映画ヒストリーはさぞかし、つまらないものになってしまったのではなかろうか。それほどまでに、現在の自分の中で、ヒッチコックの映画群というのは巨大な位置を占めている。
とはいえ、その真価に目覚めたのも、ある程度の年を取ってからなのだ。その証拠に、この「鳥」にしても、子供の頃に見た時は、肝心の鳥が襲う見せ場が出てくるまでの前置きが、やたら長いな、とか、結末ともいえない、曖昧なエンディングに拍子抜けしたり、していたのだ。
ところが、それなりの映画遍歴を重ね、相当な年月を置いてたまたま見直したとき、それが、とんでもない程に豊かな映像テクニックに満ち溢れた分厚いエンサイクロペディアのような映画であることに気が付いた。以来、この「鳥」は、今なお見返すたびにエキサイティングな発見をこの負け犬にもたらしてくれている。
ヒッチコックのマジックの秘密とは、シンプルそのものでありながら、誰も思いつかない発想が根底にあること。その秘密をアラカルトのように紹介するなら、まずは主人公のメラニー(ティッピ・ヘドレン)が登場するシーン。通りを渡って来るメラニーを捉えるショットは屋外ロケだ。そして、キャメラがそのまま歩くメラニーを捉え続け、広告がフレームインしたタイミングで、セット撮影に鮮やかに切り替わる。こんなサプライズなどは、ほんの序の口。
いってしまえば映画とは活動大写真。そもそも、その映像も1秒24コマからなる静止画像の集まりから出来ている。今更、何を言い出すかと思われる人もいるかもしれない。しかし、ヒッチコックの映画を見ていると、ヒッチコックがまるで魔術師のように、その素材を巧みに用いてイリュージョンを生み出していることが良く分かる。その上この「鳥」は、熟練した職人が創り出すクラフトワークを見るような楽しさに満ちているのだ。
子供の頃、見ていて、前置きとしか思えなかった前半パーツにも、そうした卓抜なヒッチ・マジックが冴えわたっていることが、再見するうち良く分かるようになってきた。たとえば主観ショットを使ったテクニック。メラニーが、一目で気になる存在になったミッチ(ロッド・テイラー)の気を引こうと、ミッチの妹のキャシーが欲しがっている小鳥のラブ・バードをこっそり届けに行く。自宅にラブ・バードを届け、メラニーは桟橋につないだボートに向って歩いて行くが、その時、メラニーから見た視点の主観ショットが数カット、インサートされる。そのことで、不穏な不安感やサスペンスが絶妙に醸し出されているのだ。本作を見ていると、シーンに応じて瞬間的にインサートされる、そうした主観ショットが抜群の効果を発揮していることが良く分かる。また、ここでは、そのことが、ボートに乗っているメラニーがカモメの一撃をくらい、頭部にキズを負う最初のショック・シーンへの見事な布石になっている。
そして、いよいよお待ちかねの鳥の襲撃シーン。キャシーの誕生日が行なわれている、海が開ける小高い丘の広場で、子供たちがいきなりカモメの大群に襲われる。当時のアナログによる合成で作り上げられたこのシーンの技術的完成度が、今見ても何の遜色もないことに、誰もが驚くのではないでしょうか。メイキングによれば、このシーンの具現化に費やされた準備期間は、およそ三年。確かに、この後に続く、ミッチの家の暖炉から、いきなりスズメの大群が出現して襲われるシーンにしても、その時行われていた完全にアナログな、手作業による合成作業を想像するだけで気が遠くなるほど。
しかし、ヒッチコック・マジックの真価は、実はこのシーンの後。度重なる鳥の襲撃事件から、不安をつのらせたミッチの母親のリディア(ジェシカ・タンディ)が、知人のダンの家を尋ね、そこで、眼球をくり抜かれたダンの死体を発見する。この時、ヒッチコックは、黒々とした眼窩の跡もむごたらしいダンのクローズアップを表現するにあたって、ズームインを使わずに、コンマ何秒かのサイズが異なるショットを瞬間的に連続させる。これによってリディアが人間の死体を目の当たりにしたその衝撃が、ズームインショットの数倍もの効果を発揮するのだ。当然、リディアは、口もきけず、そのまま慌てふためいて逃げるが、下手な監督ならここで逃げるリディアのカットを細かくつなぐはず。しかし、ヒッチコックは、そんな無粋なことはしない。ヒッチコックはここで、リディアが乗るトラックを横から捉えた超ロングショットの1カットだけで、いくらアクセルを踏んでもスピードが上がらない、恐怖の絶頂にあるリディアの焦燥感を表現してしまう。
そして本編随一の白眉のシーン。キャシーの身を案じるリディアの気持ちを察し、メラニーが学校にいるキャシーの様子を見に行き、授業が終わるのを外のベンチで座って待つ。メラニーを捉えたミディアム・ショットの後、背後のジャングルジムのカットがカットバックされるが、その度に、ジャングルジムに止まるカラスの数が増えている。しかし、メラニーはそのことに、まるで気づいていない。だが、やがてメラニーも空を飛んでいる一羽のカラスに気づき、ここでカットはそれを目で追うメラニーの主観ショットに切り替わる。そして、キャメラはそのまま空を飛ぶ一羽のカラスをキャメラのフレームに収めながらジャングルジムへとパンする。するとそこには、びっしりとジャングルジムに群がるカラスたちが。驚愕し、思わず立ち上がるメラニー。この間、一言のセリフも、無駄なショットもない。それでいて強烈なサスペンスとぞっとするような感覚を表現してしまうこのヒッチコックの手腕には、何度見ても、もう惚れ惚れするしかない。
ヒッチコックが自らコンテを描くことは良く知られている。元々、ヒッチコックの映画の奥深さに目覚めさせられたのも名著として名高い「トリュフォーの映画術」を読んだからだった。その「トリュフォーの映画術」には、ヒッチ自身の手による、この「鳥」のシーンの絵コンテの抜粋が掲載されている。そのコンテに画かれていたのは、以下のシーン。
一旦、食堂に避難したメラニーたちが、ガソリンスタンドで立っている一人の男が一羽のカモメに襲われるところを、窓越しに見る。男はそのまま倒れ、給油していたガソリンが路上に流れ出す。その時、そばにいた一人の客が誤ってマッチを落とし、路面のガソリンに引火する。たちまち猛烈な勢いで、まるで列車のように火が、ガソリンを伝って走っていく。それを目で追うメラニーの驚愕の表情の静止カットがカットバックでインサートされる。直後、給油スタンドが爆発、炎に包まれたガソリンスタンドの俯瞰のロングショットに被さって、その光景を見下ろすようにカモメが飛び交う。このシーンのすべてが克明に、ファッショナブルな描線でヒッチは絵コンテに表現してみせている。それはもう紙上の映画そのもの。映画はアート、アートは映画を、そのまま体現しているようなこのシーン。負け犬は見るたびにため息をつき、しみじみヒッチコックの素晴らしさを思い知るのです。
最後にとっておきのヒッチコック・マジックを一つ。
家の周囲を鳥たちに完全包囲されてしまったミッチたちは、いよいよサンフランシスコ市街への脱出を決意する。その時、二階の屋根裏で鳥たちに襲われ負傷したメラニーを真ん中にして、ミッチとリディアが脇からメラニーの肩を抱いて、家から屋外へと出て来る。キャメラは奥からこちらへと歩いてくる三人を捉え、ミッチが家の玄関のドアを開けると、三人の顔に太陽の光が差す。このシーンを見ている人は、まず間違いなく三人が本当にドアを開けて出てきたように思うはず。ところが、そのドアなど、実のところ何処にも存在しない。ただ、そこにあるのは、向ってくる三人をトラッキングで捉えるキャメラと、ミッチがドアのノブに手をかける「ガチャ」という音、そして三人の顔を照らし出すライティング。たったそれだけで、実在しないドアがまるでそこにあるかのような映像の幻影を創り出している。これぞハリー・ポッターも真青のイリュージョンといえないでしょうか。
ヒッチコックの映画はかくも楽しく、発見する喜びに満ちた、オモチャとしての映画の魅力に溢れているのです。「鳥」をただの動物パニックの先駆けとして見過ごしてしまっているような方が、その面白さを再発見する、ほんのわずかなアシストにでもなれば幸いなのです。
鳥のさえずりが気になる方は、今一度この「鳥」をどうでしょう~