負け犬の究極の恐るべき決断「未知への飛行/フェイル・セイフ」
手に汗握る釘付け必至の究極のハイテンション!その果てに下された決断に呆然とする112分の超絶サスペンス
(評価 87点)
これぞシドニー・ルメットの真骨頂!密室で繰り広げられる米ソ首脳会談の圧倒的な緊張感、核ミサイルをめぐる息を呑むサスペンスに最後まで釘付けになること必至の超一級の傑作。
そもそも日本での未公開が災いし、シドニー・ルメットの作品群でも、知られざる傑作映画の位置付けに甘んじていた本作。この作品を見たのは、たまたまTVをつけた時にやっていたという、それだけのほんの些細なことだった。ところが、何気なく見始めたその瞬間から画面に釘付けとなり、最後には口をポカンとあけてエンディングのカットを見つめていた。今、思い返しても、初見のその時は、本当に身じろぎもせずに固唾を呑んで画面を見つめていた。それほどまでに本作から照射される吸引力は凄まじかったのだ。
デタントの冷戦下、誤作動した米国の軍事コンピューターが、空中配備にあったB52爆撃機に向って、首都モスクワの爆撃命令を発動してしまう。指令を受信したB52爆撃機は、司令部からの交信を一切、シャットアウト。一路、ロシアへと向かう。慌てた米航空司令部は、核戦争の最後のストッパーたるフェイル・セイフ地点にB52が到達するまでの爆撃回避を目指し、あらゆる手を尽くそうとする。やがて、ホワイトハウスの地下壕から、大統領自らB52爆撃機に向って爆撃中止を呼びかけようとするのだが・・。
そもそもこのプロットだけ聞けば、映画好きの人なら、咄嗟に一本の映画を思い浮かべるはず。そうあのスタンリー・キューブリックの初期の傑作「博士の異常な愛情」だ。本作のメイキングでも克明に明かされているように、この二つの映画の製作は、まったく物語の骨子を同じくする映画が、時を同じくして、まったく異なるアプローチで作られるという、映画史でも珍事といってもいい出来事だった。
コメディーとして作られた「博士の異常な愛情」には、才気走ったキューブリックの感性に満ちたサタイヤとしてのテイストが横溢していたが、この「未知への飛行」は、完全なシリアス路線。
しかし、ルメットの傑作群を見ていつも驚かされるのが、劇中音楽が極端に少ないか。もしくはまるでBGMなど存在しない作品が多いこと。ルメットの作品を見て、その他の巷の作品を見ると、映画というものが如何に音楽によって支えられているかが良く分かる。
かつてジョージ・ルーカスがあの最初の「スターウォーズ」を制作した時、そのラッシュ試写を見たスタッフ一同は、あまりのチープな出来栄えに頭を抱えてしまった。しかし、その映像に、いまや伝説のシンフォニーとなったジョン・ウィリアムズの音楽が被さった途端、全く見違えるようなエモーショナルな映画に一瞬にして豹変して全員が驚愕したというエピソードを昔、読んだことがあったのを今でも憶えている。
このように受け手にインパクトを与えるためには、さすがに映画といえど、映像と物語の力だけでは足らず音楽というものの力に頼ることで作品そのものが成り立っている部分が多分にあるのだ。
だが、ルメットの映画には、音楽に頼ろうなどという、そうした弱気な姿勢は微塵もない。この「未知への飛行」も全編にわたって、音楽というものは一切ない。この徹底ぶりはある意味、ルメットの自分の演出に対する確信犯的な自信の現れともいえる。シーンにしても、その大半が、ホワイトハウスの地下壕で、通訳のバック(ラリー・ハグマン)を介し、大統領役のヘンリー・フォンダがロシアの首相と電話で話すシーンだけといってもいいほどの、そっけないほど簡素なものなのだ。ところが、それでいて、漲るこの緊張感と、圧倒的なまでの吸引力。ルメットという監督の力量が、如何に凄まじいかは。本作を見れば誰でも思い知るに違いない。
固唾を呑む攻防の果て、核攻撃回避の、米ソ双方の決死の努力も空しく、モスクワは焦土と化す。そのメルトダウンの悲痛な叫びを電話口に聞いた大統領が最後に下した決断には、おそらく誰もが唖然とするに違いない。そして、呆然としてその顛末を見守った後、いくら民主主義と言えど、常軌を逸した非常事態ともなれば、たった一人の人間の意思決定によって人間の生死までもが左右される社会に自分が生きているという事実に気付き、ゾッと背筋が寒くもなるはず。現にこの負け犬はまさにそうだった。
コロナというウィルスの存在によって、かつてとはまるで異なる世界に豹変した異常な事態となった今だからこそ、この映画の存在は一層、その存在感を遺憾なく発揮しているかのようにも思うのです。
とはいえ、ただ単純に、釘付け感が半端なく味わえる、超一級のサスペンスとして面白い!の一語に尽きるわけですから文句ないですよね~