負け犬が子供の頃、書いた作文には大きくなったら『棒高跳びの選手になりたい』と書いてあった。意味不明の子供だった
(評価 76点)
本作が公開されたのは1972年。ニュー・シネマの全盛期。ビッグ・スターにスタジオシステムで作られる古き良きウェスタンなど、露とばかりに消滅していた時代だった。それもそのはず、それに先立つ1969年に、あのサム・ペキンパーが、その生涯最高の傑作「ワイルドバンチ」を以って、クラシックな西部劇の時代に、完膚なきまでに終止符を打っていたのだから。
しかし、いつの時代にもその時代に抗い自分の作りたいジャンルを作りたいという奇特な人がいるわけで、かくして、スタジオシステムとは異なるニュー・シネマテイストで作られた数少ない西部劇の一本が本作(あの名作「明日に向かって撃て」はニュー・シネマテイストというより、ジョージ・ロイ・ヒル独自のファッショナブルな感覚の方が勝っている気がするのだが)。とにかく本作、いっぱしの映画小僧になって大好きになったハードボイルドの名作「さらば愛しき女よ」の監督、ディック・リチャーズのデビュー作とあって、ただひたすらずっと見たいと長年、思い続けていた作品だ。
たまたまアマゾンの密林の中、本国盤のDVDを物色していたら「カルペッパー・キャトル・コーポレーション」との原題を見つけ、安価だったので購入し積年の思いを果したという次第。
邦題のセンチメンタルな「男の出発(たびだち)」よりも、むしろ「カルペッパー~」(カルペッパー遊牧会社というのか)の即物的きわまりない原題のイメージの方が印象的な作品だけあって、序盤の、入念にリサーチしたことが伺える(製作に5年を費やしたらしい)カウボーイの日常を生活感たっぷりに描くハウツー・カウボーイの描写の素晴らしさには感嘆した。
「おもいでの夏」のゲイリー・グライムズ演ずる少年ベンが、そのつのるばかりのカウボーイへの憧憬を実現するために雇ってもらうことになったのが牛の運搬を請け負うカルペッパーたちの一団だった。
本作がウェスタンとしてもっともユニークで独創的なのは、カウボーイたちが凄腕のガンマンたちでもなんでもなくただ牛を運搬するという事業を営むオーナーに雇われた従業員に過ぎないことを、実にあっけらかんとリアリズムたっぷりに描いているところ。いうなればベンはカルペッパーの会社の新入社員。そんな新人ベンが奮闘するナイーブな魅力に加え、本作では序盤のカルペッパーたちがいよいよキャトル・ドライブに旅立つときの、写真家ならではのディック・リチャーズ監督のフォトジェニックなビジュアルの美しさにも驚かされる。
淡々としたエピソードの積み重ねも素晴らしい。ベンが居眠りをしたせいで牛が奪われる。しかしそんなベンをとりたてて叱責することもせずカルペッパーたちは、怪我をしたベンのため、医者のいる町に立ち寄り、手当てを施してやる。そこでの傷の縫合の痛みに思わず涙を流すベンのセンシティブな描写がいい。
やがて奪われた牛をめぐり土地の有力者とのいざこざが勃発するが、その描き方もあくまでもドライだ。その証拠に事業主であるカルペッパーは、事業の牛の運搬を優先し争いを避け立ち去ろうとする。
しかし、ベンだけは有力者に虐げられた人々の元に残り、たった一人だけでも抗争しようとする。そしてベンに加勢したカウボーイたちが皆、敵と共倒れのように死んでいく。ベンはただ傍観者として仲間が死んでいくのを見ている。そのクライマックスにしてもドラマチックな感覚は完全に排している。カウボーイたちにとっては、牛を運ぶロングドライブ途上の争いは、旅での食事や睡眠同様、ただの必然に過ぎないのだ。ここでのある意味クールな描き方は、実に新鮮でもある。
ラスト。ベンは再びカルペッパーに加わることなく、仲間のカウボーイが血を流して守り切った移民と共に残る。そして、あれほど宝物のように大切にしていた自分の銃を唾棄するように投げ捨てる、
「明日に向かって撃て」にあったのは間違いなくセンチメンタリズムだが、「男の出発」にあるのはあくまでもリアリズムだ。ベンはカウボーイのリアルな現場を知って、よりポジティブな未来に向かおうとする。ニュー・シネマ群の中でもマイナーな部類の本作。そんな未見の作品が良作であったという喜びにしみじみと浸れる佳作である。