世界のクロサワを知るきっかけとなった作品との30年ぶりの再会は圧巻の、そして至福の三時間だった(評価 88点)
泣く子も黙る世界のクロサワの集大成は、豊穣かつ絢爛たる色彩の洪水だった。
1979年は一つの事件だった。あの山が動いたのだ。その山とは他でもない、日本が世界に誇る巨匠、黒澤明。そんなクロサワがホームグラウンドの時代劇、それもエピックといっていい大作時代劇をカラーで撮るという。その告知に日本のみならず、世界までもがどよめいた。1979年とは、そんなトピックが駆け巡った年でもあった。
さて、そんな時代のこの負け犬はといえば、そんな時があったのか、と言いたくなるほどの、まだ尻の青い十代の頃。魑魅魍魎たる映画フリークの世界に、足を踏み入れたばかりと言ってもいい若輩だった。だから、ビデオすらままならないその時代にあって、クロサワの名前は知ってはいても、如何せん、その実物の作品群には触れることもままならない、そんなご時世だったのだ。
しかし、そんなクロサワ封印の暗黒時代に風穴を穿いてくれたのもまた「影武者」だった。時ならぬクロサワ胎動の報に便乗して、TVがクロサワ特集を組んでくれたのだ。そこで初めて接したクロサワの伝説の作品群。その時の衝撃が、生涯通じて映画フリークの泥沼にまみれることになる、その原体験であったと言っても決して過言ではない。
TVからビデオへ、そしてDVDからブルーレイ、果てはネット配信へと。時代の移ろい、そしてメディアが移りゆくままに、モノクロームのシルバースクリーンに活写されるクロサワ作品を繰り返し見続けた。そして、こよなく愛した。しかして、クロサワ作品といえばコントラストも鮮やかなモノクロ作品というイメージが不動のものとなる。
一方の「影武者」はといえば、あの昭和の芸能史にも残る、主役たる勝新太郎の交代劇の相乗効果もあって、鳴り物入りで翌、1980年に堂々公開され、大ヒットを記録、世界のクロサワのカムバックに大いに沸いた。
となれば、この負け犬も胸を躍らせて、と言いたいところだが、当時、愛読していた映画雑誌の数々は、賑やかに「影武者」を煽り立てる一方で、批評は辛口のものが多かった。概して、長い、退屈、それにやたらと煽り立てられるやっかみもあったのか、もう、クロサワに往年のダイナミズムを期待するのは無理、と切って捨てるような映画評まであった。
何せ、何事にも敏感な年頃、そうした批評の感化もあったのか、「影武者」は劇場ではなく、TVで見る事になる。
かくして、やっぱり、その時はつまらなかった。
まず第一の違和感は、その色だった。クロサワといえば、モノクロというイメージがすっかり刷り込まれた目から見たら、そのケバケバしい色がまず余計なものに映ったのだ。その戸惑いが、やたらとスタティックな構図や、仰々しいメイクや演技にまで飛び火する。そして。結局は長いだけで、さして面白くもない作品だ、ということに落ち着くことになる。
映画は、とかく一期一会。最初の印象次第で、その後、鑑賞に及ぶか否かが左右される。結局、自分の中で「影武者」といえば、イマイチ映画として長らく記憶の淵のさらに隅っこに留まるだけの作品となった。
だが、映画を欲するバイオリズムとは不思議なもので、それから三十年以上の時を経て、急に体の内側から「影武者」をもう一度、見たいという欲望が湧いてくる。その募る欲望のままに、「影武者」を見た、再見を果たした。
そして、あろうことか、若き頃は退屈に過ぎなかった「影武者」にファーストショットから魅了され、3時間後のラストシーンまで食い入るように見つめていた。
開巻は、長回しの完全に静的なショット。信玄が、弟の信兼が仕置き場から拾って来た、自分そっくりのコソ泥を矯めつ眇めつ眺めて、あれやこれやと申し下るシーン。その導入部から一転して、伝令が城の石垣を駆け巡って登城するダイナミックなシーンに切り替わってハッとさせられる。もう、そこからは、クロサワの往年の世界がテクニカラーの極彩色となった世界に、ただひたすら没入させられる。
そして、見終わると、ホーっと息をついて、本作が、ただの巨匠のお茶濁しどころか、クロサワ時代劇の集大成ではないだろうか、と興奮冷めやらず思った次第なのだ、
何よりも今回、感じ入ったのは、全編にわたるその構図。クロサワ独自の望遠の多用は本作でもいたるところで一瞥して分るが、その構図のフレームの隅々にいたるこだわりが、尋常ではないのに圧倒される。クロサワならではの、吹きすさぶ風や、土砂降りもここにはある。そして、それを捉える構図のフレームが、往年のクロサワ作品の凄みと寸分たがわぬテンションを発散していることに嬉しくなる。信玄の影武者であるという正体が露呈した仲代達也が、石を投げられながら、土砂降りの中、城を後にするシーンは、もう何度もクロサワ映画の中で見たシーンが活き活きと蘇ったようで殊更、焼き付く。
エモーショナルな池辺晋一郎の音楽もまた見事。そのスコアとともに影武者の仲代達也が絶命し、その死体がたゆとう川の流れとともに漂うラストショットにこの上もない満足感すら覚えもした。
結局、30年以上の隔世は無駄ではなかった。映画も本質的には同じながらも、映画を撮る、作るという行為は、やっぱりデジタル化の風潮のまま、自ずとこだわりのようなものが薄れたのではなかろうか。結局、どこか映画がコンテンツ化していく風潮にこの負け犬も自然と感化されていたんじゃなかろうか。
だからこそ、この巨匠のフレームへのこだわりが、この期に及んで、新鮮なインパクトになったのではなかろうか。
何にせよ、新たな魅力を再発見出来た映画と出会えたことは嬉しい。他のクロサワ作品同様に今後も繰り返し見る楽しみが出来たのだから。
「影武者」でいえば、忘れられないことがもう一つ。公開当時のメイキング映像で、ロケ現場に駆け付けた、本作のエグゼクテイブ・プロデユーサーを買って出た、スピルバーグとルーカスを、スタッフの面々に、「こちらがスピルバーグ君です。そして、こちらがルーカス君です」と、実に嬉しそうに紹介するクロサワの笑顔だった。
その笑顔は、巨匠でもなんでもない、初めてキャメラを持って8mmを回す子どもと微塵も変わりない童心そのままの笑顔だったことをこの負け犬は今でも覚えている。