負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬の暴力のルネッサンス「マッドマックス」

粗い粒子の映像が醸し出す得体の知れない恐怖感が、どこまでも続くオーストラリアのザラついたアスファルトの路面を疾走する。近未来バイオレンスの頂点にして不滅の傑作(評価 85点)

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映像の幻影がもたらす薄汚れたリアルなバイオレンスが炸裂する。映像の持つパワーを思い知らされた負け犬的トラウマ級の衝撃作。

 「マッドマックス」は“暴力のルネッサンス”である。こんなイカしたキャッチフレーズをつけるセンスを負け犬が持ちあわせているわけはない。このコピーをメディアで発言したのは、誰あろう、映画解説者の荻昌弘氏。「マッドマックス」が、同氏が解説を務める「月曜ロードショー」でオンエアされた時のことだった。

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 TVで「マッドマックス」が初めて放送されたのが、その時だったような記憶がある。日本でひっそりと劇場公開されたのは、その数年前の1979年。公開当初は、オーストラリアからやってきた洋物のピンク映画まがいのB級バイク映画くらいにしか誰も思っていなかった。現に、この負け犬も見向きもしなかった。ところが、そのうち、映画関係者はじめ大衆も、何だか騒然としはじめる。そして、アマチュア映画並みの低予算で製作された本作が日本で、異例の興行収入を叩き出す。そして、その余波は世界中に波及する。

 そうした風の噂は聞きつつも、それでも特に関心を示さなかったこの負け犬が、初めて本作にアンテナを向けたのが、たまたま読んでいた映画雑誌に、本作が、世界中でリベラルなインテリ層に読まれている有名なジャーナル誌「タイム」の年間ベストテンにランク入りしたという記事を目にしたからだった。それを見て、ただの暴力映画ではない、何か知的なレベルで訴えかけるものがある映画だ、と直感し、以来、気になる映画として本作がリストアップされた、その数年後、本作がTVで放送されたのだ。

 そして、その時。見事にぶったまげたのだった。

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 のっけのオープニングの、低予算丸出しの粒子の粗いザラつきを感じさせる、その映像のルックス。まず、その時、感じたのは、剥き出しの原石を思わせる荒々しいプリミティブな息吹だ。冒頭、荒涼としたオーストラリアの風景を背景に、ナイトライダー一味の一人が乗る、インターセプターが疾走する冒頭のシーンのパワーから釘付けになる。マックス(メル・ギブソン)が登場し、追跡をはじめた頃から、この映画が何か、それまで体験したことのない異形なレベルな映画であることをゾワゾワと背筋で感じたことを今でも憶えている。

 そして、追跡するインターセプターが、横切るキャンピングカーを吹っ飛ばして粉砕した時、これが本物のダイナマイト級の映画だと確信した。それからはもう矢継ぎ早、次々に繰り出されるシーンに目を奪われるうち、身体にせりあがって来たのは、荒涼とした世紀末的な恐怖感だった。完全に荒廃した警察の分署、どこまでも終わりがない道、命などものともしないようなぶっ飛びレベルのスタント。そして、何よりも皮膚に感覚として、そのまま伝わって来るようなその暴力。

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 とにかく、本作で驚かされたのが、リアルそのままにストレートに伝わって来る”暴力”だった。確かに、薄汚さも露わに暴れ狂い、カップルの男もろとも、ズタズタに女性をレイプする暴走族のナイトライダーたちの所業も、目をそむけたくなるほど恐ろしい。凄まじいスピードで突っ走り、クラッシュしてはグニャリとスタントマンの人体がひしゃげるのも怖ろしい。しかし、映画を見ていてその暴力に慄然とするうちに、本作に直接的な残酷描写などまるで無いことに、誰もがフト気付くはず。

 この暴力のインパクトは何処から生まれるのか。思い当るのが、要所で刻印のように印象付けられる、安直といってもいい、過剰な演出。大袈裟な音楽とともに、悪夢から目覚めたマックスに、なりふり構わずキャメラがームインして、開かれた目がドアップになるショット。走るバイクのスピード感を出すための、あられもないほど安っぽいフィルムの早回し。そして、ナイトライダーが車をボコボコにした後、これまたバロック調の過剰な音楽とともに、カラスの顔がドアップになるショット。

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 思えばこうした安手の手法は、演出がTV的に安っぽくなることを嫌って、劇場映画の監督たちが、手を出そうとはしないものだった。ところが、ある意味、臆面もなくそうした手法を取り入れることで、この「マッドマックス」は、はかりしれないほどの暴力のパワーを手にすることが出来ている。それこそが、我々を知的レベルでも刺激してくれる映像の魔術、まさしく暴力のルネッサンスたるゆえんなのだ。

 かつて、それまでのスタンダードな西部劇に見慣れていた観客の目の前に、あのマカロニ・ウェスタンの頂点たる「荒野の用心棒」が突如として現れ、アメリカ製のA級西部劇とは比べようもない低予算ながら、セルジオ・レオーネの、イタリア式の過剰なバロック調の演出で、その観客たちの度肝を抜いて、ウェスタンというジャンルに革命をもたらしたが、このオーストラリアからやって来たハイパー・バイオレンスが、世紀末アクションというジャンルにもたらしたインパクトも、まさにそのマカロニ・ウェスタンの出現というフェノミナの繰り返しだったようにも思える。

 「マッドマックス」といえば、一般的には、続編の「マッドマックス2」以降のイメージが定着している。確かに、一作目とはまるで異なる作品イメージの転換で、フランチャイズ化させた功績は大きい。しかし、この負け犬にとって「マッドマックス」といえば、やはり唯一無二の、この暴力のルネッサンスたる一作目なのですよね~