負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬が剥く牙をナメてはいけない「わらの犬」

古今東西の負け犬逆襲映画大賞なんてものがあったとしたら、大賞に輝くのはまさにこの映画に違いない

(評価 82点)

 

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イングランドの田舎町に一組の夫婦がやってくる。村人の一団の執拗ないやがらせに、初めは平和主義を固辞していた数学者の夫デイヴィッド(ダスティン・ホフマン)。しかし、妻が強姦され、知的障害の男をめぐる確執から最後に怒りを爆発させ、この世の修羅場が現出する。原作タイトルは「トレンチャー農場の包囲」

 最初にこの映画のことを知ったのは当時、愛読していた「ロードショー」誌に載っていた、その程度のほんの短い紹介記事だった。何せ当時のこと、レイプという言葉すら未知の単語に近く、あくまでも強姦だったのだ。

 しかし、その短い記事だけでも映画フリークとしての素質が萌芽しかけていた自分のアンテナはアラートレベルに振り切れるほどに反応した。誓っていうが“強姦”にではない、そのシンプルなシチュエーション、今でいう籠城ものの映画ジャンルが放つ強烈な臭いに反応したのだ。

 おそらく、この映画はテレビの月曜ロードショー(懐かしい・・)めいた枠でも放送されていたはずだ。しかし、まだ洋画劇場にかじりつく年代に差し掛かる前の時期だったろうか・・たとえそうだとしてもレイプシーンばかりがクローズアップされていたこの作品の視聴など、親に土下座しても却下の憂き目にあっていたには違いない。その上、この作品は何故かレンタルビデオ全盛期の時代になってもビデオ屋の棚についぞ見かけることはなかったのだ。

 そんな次第で、この作品は幾多もあるタイトルだけ知っている幻の作品として自分の映画鑑賞フィルモグラフィのリストに鎮座し、早や何十数年もが経ってしまっていた。ようやく見ることが出来たのはDVDがようやくリリースされてから、自分はもう中年になっていた。何せ1971年の作品だ、暴力シーンの過激さは伝え聞いていても、少々トロいのは否めないだろうと見始めた。

 ところが、滑り出しのテンポはスローながらも片田舎の人間と都会出のインテリ夫婦が醸し出す不協和音にたちまち引き込まれ、やがて知的障碍者マイルズの少女殺しに端を発し、リンチにかけるべくデイヴィッドの家に集結した村人たち。そして、はじまる件の暴力シーン。

 正直、唖然とした。その凄まじさはまさにスーパーウルトラバイオレンス級だった。最初から、頭からナメてかかっている村人たちをデイヴィッドはDIY戦法で日用品を武器に一人1人血祭りにあげていく。その描写の一つ一つが容赦なく、最後のオブジェ代わりに飾り物にしていたクマのワナを使った仕打ちには震え上った。一体、当時の観客のリアクションたるやいかなるものだったのか。

 総じて、何十数年を経た今でも籠城もののバイオレンス映画としての鮮度に微塵の旧さもなく、くだんのジャンルのマイベストワンに輝いて今に至っている。

 今思い返しても慄然とするのは、そのヴァイオレンスシーンにエキサイトし、エクスタシーに近い感覚すら覚えてしまうこと。そして、か弱いインテリの負け犬(この手の役の俳優はホフマン以外にはいないだろう)だったデイヴィッドが野卑な村人に逆襲すべく牙を剥いたのが、妻がレイプされたことが動機ではなく。あくまでもリンチにすべく家に侵入してきた村人たちからマイるズを守るためだったこと。

 序盤から、入念に描かれていたのはデイヴィッドが日和見主義というよりも、平和主義者であることに力点が置かれていたこと。現に妻がレイプされたことを打ち明けた時でさえ、逆に妻を諫めていた。

 つまり、その暴発はあくまでも平和主義という独りよがりの信念のプライバシーが汚されたことへの怒りだった。ある意味、村人から仕打ちを受け続けていた鬱屈したストレスの発散とも受け取れる。そこには妻を守ろうという愛情などかけらもなかったのだ。

 だからラスト、全てを発散し終え、マイルズを送り届けるべく車で家を出たデイヴィッドは全てを見失っている。唯一あった妻との絆ももうない。霧に包まれた闇の中あてどもなく彷徨うかのような描写でエンドマークを迎える。

 負け犬が牙を剥いたときの破壊力たるや計り知れない。しかし、その代償も取り返しがつかないことを思い知らされる。

 この作品はペキンバーのフィルモグラフィの中でもごくわずかしかないヒット作となった。