負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬の人生は奇妙なダンス、プチエロとポン・ジュノとの意外な関係「髪結いの亭主」

人生は奇妙奇天烈で可笑しなダンス。おかしくてやがて悲しき、そして束の間のエロスの桃源郷の儚き運命に涙

(評価 78点)

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 一枚のレコードをかける少年の手。音楽が始まるや少年は真っ青な空の下、奇妙なダンスを踊り始める。そんなイントロで始まる本作。1990年の公開時、日本でも大ヒットし、名匠パトリス・ルコントの名が一躍広まった、ルコントの代表作。

 そんな本作のキー・モチーフとなるのが、主人公が自己流で勝手気ままに踊る不思議なダンス。主役のアントワーヌを演ずるのは、仏映画界の名優ジャン・ロシュフォール。そんな本作はダンスで始まりダンスで終わる。どんな名優の、どんな豊饒なセリフよりも、物言わずしてダンスが豊かに語ってのける映画と言っていい。そして、タイトルの「髪結いの亭主」そのままに、男が生来の無能に加えて、無為のままただ女性に食べさせてもらい優雅に暮らす、その上、その女性が飛び切りの美女で、欲望も思いのままに満たすことが出来るという、ある意味、男が心のどこかで思い描く一抹の夢想を具現化したファンタジーでもある。

 冒頭、珍妙に体をくねらせて踊っていた少年アントワーヌ。通い詰めるのは近所の理髪店。理髪店にはアントワーヌお気に入りのマドンナがいる。髪を切ってもらうたびにその心地よい体臭に陶然とし、アントワーヌの頬に豊かな乳房が触れる。そんなリビドーの目覚めに酔いしれる日々。そして、家族が集う食卓の席で将来の夢は、と父親に聞かれ、思わず理髪店の主人と答え、かくしゃくとした父親に「髪結いの亭主」に成り下がるとは、とばかりに平手で思い切りはたかれるシーンがまず可笑しい。

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 そんなアントワーヌが、長じて、といっても、もう立派な中年の域にさしかかって見染めたのが、先代から受け継いだ近所の理髪店にいたマチルド(アンナ・ガリエ)。たちまちマチルドに魅せられたアントワーヌは、マチルドに求婚し、マチルドも快く快諾。兄弟立ち合いの下、理髪店を即席の式場に結婚式を挙げ、長年の夢だった髪結いの亭主の座にトントン拍子に収まる。

 中年になっても、浮世離れしたその風情、アントワーヌがいわば無能な男なのは誰の目にも分かる。アントワーヌは本当に無為のまま何もしない。ただ理髪店にやって来る客の髪を切るマチルドを静かに見つめ、にこやかに微笑んで陽だまりの中でいつまでも座っている。

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 そんなアントワーヌが唯一の存在意義を発揮するのは、髪を切られることをむずがって泣き叫ぶ子供をおとなしくさせること。

 ここで披露するのが、アントワーヌの唯一の特技のダンスなのだ。アントワーヌがレコードにあわせて珍妙なダンスを踊り始めるや、魅入られたようにたちまち子供はおとなしくなってしまう。アントワーヌは無能な男だが、人畜無害で少年のようにピュアな男なのだ。

 孤高のマンガ家、つげ義春に「無能の人」という名作があったけど、このアントワーヌとマチルドが理髪店で共有する空間はそのマンガのテイストとどこか似ている。ただそのマンガと違うのは、男がエロスへの欲望を奔放に思いのまま満たせること。

 客の髪を洗うマチルドに背後から寄り添い、その豊かな髪に顔を埋め、スカートをたくし上げて好き放題にまさぐる。また、ある時は、客のいない店内で、マチルドの方からアントワーヌに近づき、服を着たまま騎乗位の姿勢で事に及ぶ。男のエロい欲望をそっくり体現するような、そんな行為をしていても、店はアントワーヌとマチルド、二人だけの濃密な空間。誰にも邪魔もされなければ、文句を言うものなど誰もいない。これは、まさに男の誰もが思い描く桃源郷

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 ただ、桃源郷が儚い束の間の存在であるように、本作におけるこの夢の生活も突然の悲劇によってもろくも崩れ去る。

 本作がユニークなのは、乱暴なほど多くを語らないこと。本作のランニングタイムはわずか82分。絶世の美女のマチルドが何故アントワーヌと暮らしを共にするのか、そして、その過去に何があったのかなどのディテールは本作ではまったくトリミングされて描かれもしない。件の悲劇のくだりもあまりにも唐突過ぎてシュールなほど。

 しかし、この大胆なほどのトリミングは、引き算の美学のようなテイストを持つ日本映画ともどこか似ている。悲劇の後も、アントワーヌは涙一つ流さない。独りぼっちとなった理髪店で相も変わらず陽だまりの中に座って時を過ごしている、そして、フラリとやって来た客と踊るのが、あのダンスなのだ。ダンスをひととき踊り、生気を取り戻すと再びいつもの場所に鎮座して、時間は静かに流れていく。そのアントワーヌを俯瞰で見下ろすカットで映画は終わる。

 喪失感や言いようもない悲しさなど、アントワーヌはセリフでは一言も喋らない、それでも、その奇妙なダンスのパフォーマンスには、どんなセリフも表現できないほどのエモーションに満ちているのが実に不思議。本作を最初に見たのは、おそらく公開後しばらくたってからのレンタル・ビデオだった記憶がある。それからン十年ぶりに見てみた今回、そのダンスが一編の寓話のような本作の見事なアクセントになっていることに改めて気づかされた。

 ところで、ダンスで始まりダンスで終わる。そんな映画が他にもあったことを見終わって思い出した。今や韓国のみならず世界有数の映画監督となったポン・ジュノが2009年に製作した「母なる証明」。この映画でも、冒頭、登場してきた母(キム・ヘジャ)がいきなり踊り出す。その素っ頓狂な描写に誰もが驚かされる。そして、エンディングでは、またこの母が踊る。そして、この踊りが人生の悲しみと絶望を見事に体現するメタファーになっている。

 フランスの官能ドラマと韓国のミステリー。まったく接点がないような二本の映画だけど、常日頃から、自らコアな映画マニアであることを公言しているポン・ジュノのこと。このフランス映画の傑作を見ていないわけはない。母という存在の偉大さを、見事にミステリーのプロットに落とし込んで見せたこの傑作のイメージを具現化するためのアイデアの下地に本作があった、というのは穿った見方だろうか。

 何にせよ人生の黄昏にもさしかからんとするこの負け犬も、やけっぱちになって踊りたくなることもある。公衆の面前でヒップホップでも踊り出したら、さぞ驚かれることでしょうね(笑)