負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬の札付きの問題監督のハリウッド流おとぎ話も悪くない件「フィッシャーキング」

ファンタジーと現実世界の奇妙な融合を、問題監督が職人監督に徹しその個性を遺憾なく発揮して描いた現代のメルヘン

(評価 74点)

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初回に見て納得できず、2回目に見てもダメな映画が、何故か3回目に見た時、シンパシーを感じて泣いてしまった不思議な映画。

 最初に数回見た時、全然ダメに思えた映画が、それから暫く経って見たら、心に響くなんていう体験は滅多にない。でも、本作は、その映画の中の世界の不思議な感覚とあいまって、その滅多にない事が起きた稀有な作品。

 映画監督の中でも、創作面でも予算面でも必ず問題を起こす札付きの監督というものがいるもので。映画製作の現場そのものがすっかりシステム化された最近では、そんな豪胆な監督は、いなくなってしまった気もするが、たとえば、昔では、あのバイオレンスの巨匠サム・ペキンパーがそうだった。

 だが、そのトラブルの顛末が一冊の本にまでなったペキンパーに輪をかけたような大物がいる。その監督こそ英国からやって来た問題児テリー・ギリアム。そして、その書籍の題材となった作品が、創作や資金面で揉めにもめた「未来世紀ブラジル」だった。この未来世紀ブラジルでの当時ユニバーサルのトップCEOだったシド・シャインバーグとの闘争を描いた「バトル・オブ・ブラジル」の邦訳本は、この負け犬もその昔、持っていて何度も読んでいた。

 肝心のその「未来世紀ブラジル」といえば、ジョージ・オーウェルを思わせる全体主義国家体制の下で、夢と現実の世界を交錯させながら暮らす平凡な男が、とあるテロ事件と関わったことから、どんどんパラノイアと化していくという内容だった。そして、この本作「フィッシャーキング」もその作品世界の根底には、現実と妄想との境界線が消失したパラノイアがある。

 実はテリー・ギリアムは本作を撮る前の「バロン」で、監督生命が完全にそこで絶たれる程の大失敗をしている。現に、負け犬も、その時点ではもうテリー・ギリアムの名を目にすることはないだろうとすら思っていた。しかし、それから程なくして作られた製作費もごく控え目な本作の興行面での成功で、その問題児は幸運なことに復活する。

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 そんな本作は、一言で言ってしまえば、身もふたもないおとぎ話だ。リスナーを挑発するようなト-クで人気絶頂のDJジャック(ジェフ・ブリッジス)が、たまたまあるリスナーに向ってヤッピーをゲス扱いするトークをしたことから。それを真に受けたリスナーが、レストランに乱入。銃を乱射し、何人もの死亡者がでる事件が起きる。それをTVで見たジャックは罪悪感のドン底に突き落とされ、3年後には、とある場末のビデオ・ストアで、店主のアンのヒモまがいの暮らしをしながら、酒浸りの落ちぶれた生活を送っている。そんな時、出会ったのが、妄想の世界に生きるパリー(ロビン・ウィリアムズ)という浮浪者で、そのパリーの妻が、かつて自分がきっかけとなって起きた事件の被害者だったことを知る。

 一抹の責任感を感じたジャックは、パリーがひそかに思いを寄せる、リディアとの縁を取り持ち、そのおかげでパリーも妄想の世界から、現実世界へと踏み出すかに見えた矢先、新たな悲劇が襲う。

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 パリーの妄想とは、自分が中世の世界に生き、伝説の聖杯を求め続けているというもの。パリーのそのパラノイアックな妄想と、現実とが交錯し、最後はハッピーエンドとなるが、そのハッピー・エンディングの布石となるのが、ジャックとパリーの友情なのだ。

 初回から数度見て、なんともシンパシーを感じ得なかったのが、ジャックのキャラクター。つまりは。ジャックのようなセレブの生活にどっぷり浸っている性根が腐っているような男が、自分の発言に乗じて引き起こされた乱射事件ぐらいで、都合よく全面的な罪悪感など覚えるのだろうか?ということ。多分、普通なら、あくまで自分は関係ないと、鼻にもかけないだろう。その上、すっかり落ちぶれたジャックには、これまた都合よくナイスバディな色気たっぷりのアンという恋人がいて、生活能力ゼロのジャックに何故か献身的に尽くしている。

 ジャックとパリーの友情物語もお定まりといっていい、パリーが立ち直りかけた矢先、パリーはホームレス狩りに襲われ、寝たきりとなるが、ジャックがパリーの妄想を具現化すべく、パリーが聖杯に見立てていたグラスを富豪の家から盗み出し、与えたおかげで、たちまち元に戻る。要は、全てがご都合主義のおとぎ話に過ぎない。

 では、何故、最初は距離感があった映画に、今回、シンパシーを感じて感動したのか?

 本作は、ある意味、完全に干されたはずのテリー・ギリアムが、幸運なことにチャンスが与えられ、いつもの行き過ぎを極力排除して、職人に徹して作った作品といっていい。それでも、型通りのウエルメイドがコンセプトの本作に、ギリアム独自の構図感覚やビジュアル、奇妙な小道具にガジェット、更にキャラクターたちを巧妙にアンサンブルさせるギリアムにしか出来ないテクニックが、あちこちに息づいていることを見ているうちに発見した。すると、それが、一旦は落ちぶれた監督が自分なりに再生を果そうと努力しているかのように思えてきた。そうこうしているうちに気が付いたら本作のキャラクターたちにどっぷり感情移入している自分に気が付いたという次第なのです。

 よく考えたら本作は、そもそも1940~50年代のハリウッド流のおとぎ話の再生だ。だとすればたまにはこんなおとぎ話も悪くはない。そんな気分にもなっていたのです。

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 中華料理店での、パリーとリディアとの初デートの滑稽さ。全く孤独に生きていたリディアが初めて恋をして流す涙。ジョージ・ガーシュイン風のハリー・ニルソンの「How about You?」のBGM。そして、パリーを思いやるジャックが流す涙。あざといけれど、いざ、感情移入すれば、どれもこれも素直に泣ける。

 最後には、パリーとリディアが結ばれ、ジャックとアンも結ばれ、全てがうまくいく。でも、たまにはこんなおとぎ話に素直に身を任せているのもやっぱり悪くはない。

 懇切丁寧にギリアムは、おとぎ話を再生することに努力した。そして、その努力が報われ、次作の「12モンキーズ」で、ギリアムは監督人生最大の成功を収める。人生、結局、この映画みたいに捨てたものじゃないということなのでしょう。そして、また人生は捨てたものじゃない、と思いたい時に、ひょっとしたらまたこの映画を手に取るような気がする、そんな今日この頃なのです。