ビバ!セブンティーズを代表する女性映画の秀作は負け犬男にも元気と勇気を与えてくれる(評価 78点)
70年代。そのアメリカ映画の黄金期と言ってもいい一つの大きな特徴に、社会問題を巧みに取り込んでエンターティメント性のある作品に仕立て上げる手腕の冴えがあった。
本作もまた然り、1970年代の後半、まだ女性のステータスが今ほど雄弁ではなかった時代、離婚というイベントに直面した女性のたおやかな旅立ちを描いて当時、センセーションを巻き起こした。
みんな走っている。ジョギングの大ブームを必ずと言っていいほど背景に取り入れていた作品群の例に漏れず、本作の主人公エリカ(ジル・クレイバーグ)と夫のマーティン(マイケル・マーフィ)の夫婦のジョギングから本作は幕を開ける。
エリカとマーティンは瀟洒なコンドミニアムに高給取りといった誰もが羨む典型的なアッパークラスの夫婦。ティーンエイジャーの一人娘パティとの仲も良く、家庭も円満。しかし、ある日、ショッピングの最中にいきなりマーティンが泣き出して、べそをかきながらエリカに別に好きな女性がいるとカミングアウトする。突然の告白に呆然としつつエリカは決然と離婚という選択肢を迷わず選択する。
70年代、日本はまだしも米国では離婚という選択は、珍しくはなかったはず。それでも、社会的な風潮はといえば、まだまだ女性は男性に頼るものというステータスが一般的だった。本作はある意味、そんな社会通念にさわやかな風穴を開けるほどのパワーを持っていた。そして、そのメタファーとしてエリカを演じたジル・クレイバーグが、実にピッタリのイメージで当時の女性たちを勇気づけ後押しする存在になっていた記憶がある。
映画界自体もまだまだ男性向けの作品群が一辺倒だった時代に、女性映画というイメージを斬新に打ち出した本作のイメージポスターは鮮烈だった。そして、やはり、何にもましてジル・クレイバーグのさわやかな存在感が素晴らしい。
エリカはマーティンと別れ、娘のパティと暮らす。そこで苛まれるのがたとえようもない孤独感。決して強いだけではない。さめざめと泣きながら、セラピストに素直に孤独を打ち明け、分かち合うセッションのシーンの自然な空気が実にいい。
映画自体のテイストもシリアスにも過ぎずライトにも過ぎず、ちょうど程良いテイストで離婚というイベントを経て、新たな道を模索しようという女性の立ち位置を踏まえているところが何とも小気味よい。
エリカにもアブストラクトな抽象的な作品を描くアーティストのソールという気の置けない恋人が出来る。
ソールは売れっ子で、もしもソールと一緒になれば十分に満たされた生活が約束される。そして、すっかりエリカを愛してしまったソールもそれを望む。
しかし、本作が真骨頂を発揮するのはそこから。エリカは決してソールになびかない。でも、ソールを愛していないわけではない。それでも、自分が望むのは男性に頼ることのない生活だ、とはっきり宣言する。
当時、女性たちはこのジル・クレイバーグのインディペンデンスなスタイルにどれほど勇気づけられたことだろう、と今、本作を見てもつくづく思う。
本作の監督ポール・マザースキーは前作「ハリーとトント」でも、老いの問題を決してウェットにならずにあくまでも老人のインディペンデンスを前面に打ち出して、優しい眼差しで描いていた。その優しい眼差しが遺憾なく発揮されるのが本作のラスト。
はっきりとソールに、自分は自分の道を行くと宣言したエリカはソールから巨大なペインティングを進呈される。
「どーするのよ?これ」とエリカはソールに聞く。
「タクシーでも呼べよ」とニッコリ笑って、ソールは車に乗って去ってゆく。
しょーがないとばかりにその巨大なペインティングを抱えてヨロヨロしながら雑踏の中をエリカが歩いていくロケーションのシーンで映画が終わる。
それを見ながら果たしてエリカはこれからちゃんとやっていけるのかしら?と誰もが感情移入してそう思うはず。多くを語らずにそれだけでシンボリックに女性のたおやかな生き様を描き切るこのシーンの実に素晴らしいこと。
そして、このシーンで流れるビル・コンティの軽快なテーマ曲の素晴らしさ。
大ブレイクした「ロッキー」は言うに及ばず、前作の「ハリーとトント」、本作「結婚しない女」、そして「グロリア」(あのオープニングの空撮シーンはいつも思い出すだけで鳥肌が立ってしまう)と、70~80年代の秀作群には常にビル・コンティの音楽があった気がする。
それにしても、本作のマーティでカリカチュアして描かれる男たちの情けないこと。それだけは今の時代も決して変わりがないところが、とほほ・・というべきでしょうか