負け犬役者が女になって見えたもの「トッツィー」
イカす音楽に快調なテンポ、そして何と言っても芸達者ダスティン・ホフマンの女形、グッド・エイティーズを代表する快作コメディ!
(評価 84点)
男尊女卑にセクハラ問題、現代的なテーマを盛り込みつつも、もっとも胸に沁みるのが、売れない役者たちに捧げる愛情に満ちたラプソディー。
当たり前のことだけど映画は、目の前の役者たちが泣き、笑い、葛藤する姿を見て感動するもの。だとすれば、自分もそんな役者になって人に感動を与えてみたいと思う輩がいても当然なわけで、映画というものは、いってみれば下積みとして無数に存在するはずの、そんな人たちに支えられて創り上げられている生命体みたいなものといっていい。
でも、それを職業としてまともに食べていける人などほんのわずか。ましてやスターになれる確率などゼロに等しいといっていい。でも、そのゼロの確率を目指し、役者志望の人たちは今日もオーディションを受け続けている。
アングラな世界ではベテラン格、演技力も抜群のマイケル(ダスティン・ホフマン)。マイケルの難点は、自信家なこと。それが災いし、すっかりトラブルメーカーという風評が立ったおかげで、業界から総スカンをくらい仕事がない。そこで、マイケルは半分やけくそで、メーキャップでオバサンの女になりすまし、昼メロのソープオペラのオーディションを女優として受けたら受かってしまう。
やっと仕事にありついたとばかりに、収録に臨み、得意のアドリブを連発したらこれが大受け、番組の視聴率も上がり、一躍、時の人に。しかし、マイケルは共演者のジュリー(ジェシカ・ラング)に恋をしてしまい、その上、ジュリーの父親のレス(チャールズ・ダーニング)に求婚までされてしまい・・。
売れない役者が女になったら何が見えたかというアイデアも出色の本作。女になって得をすること、そして女になってしまったことで抜き差しならなくなるジレンマを巧みにスラップスティックとして描くオリジナル脚本が、まずは、何はなくとも素晴らしい、の一語に尽きる。
しかし、勿論、それだけではない。ダスティン・ホフマンをはじめ、同居人にビル・マーレイ。ホフマンのガールフレンドにテリー・ガーと、負け犬もお気に入りのバイプレイヤーも勢揃い。それに加えてデイブ・グルーシンのご機嫌な音楽。更には大ヒットした主題歌が織り成す快調なテンポ。自身も役者出身で本作にもマイケルのエージェントとして出演もしているシドニー・ポラックの軽快そのもののフットワークも巧みな演出。すべての足並みがそろった文句の言いようがないコメディといっていい。
一見、当時、取り上げられだしたセクハラ問題をカリカチュアして描きたかったようにも見えるコメディだが、その本質は違う。本作はある意味、本作以前に既にアメリカ映画界を代表するスターに登りつめていたダスティン・ホフマンのトラウマを描いた映画のような気がするのはこの負け犬だけだろうか。
あの「卒業」で一躍、脚光を浴びたダスティン・ホフマンだったが、その当時、ダスティン・ホフマンは、次の仕事のオファーが来るか常に不安に怯えていたという。ホフマンは、その長いキャリアの中で、自分と同じ役者たちがオーディションに落ち続け、消えて行く姿をイヤになるほど見続けてきたはずに違いない。或る意味、そうやって消えて行った名もなき役者の卵たちへのラプソディーとして、更には、自分は運よくスターになれたけど、もしも自分が売れないまま年を取ったらどうするか?そのもう一つのパラレルな世界への興味から本作に臨んだのではなかろうか。
それは、監督のシドニー・ポラックも同じ。ポラックが本作のキャラクターに注ぐ視線はあくまでも優しく温かい。だから、ラスト。収録中に素性を暴露し、解雇されたマイケルが、ジュリーに告白し、主題歌と共に肩を並べて去っていくシーンでジ~ンと胸が奮えるのでしょう。結局は、男と女、それぞれお互いどこか欠けているものを、寄り添う事で埋め合って生きて行くものなのだということでしょうか。
ちなみに本作の公開当時、来日したダスティン・ホフマンさん。インタビューで語っていたのはメイクの大変さ。とにかく撮影の朝、入念にヒゲを剃りこんでも、数時間後にはヒゲが生えて来るのが実に厄介だったと語っていたのを今でも覚えている。これが本編でも巧みにギャグに取り入れられているのでお見逃しなく。