負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬が欲しがる卵「アニー・ホール」

人間、誰もが誰かの卵を欲しがって生きている。可笑しくてやがて悲しきエンディングのその余韻はいつまでも心に残り続けるものなのです

(評価 88点)

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1977年という曰く付きの年にこの作品はアカデミー作品賞を受賞した。いわば映画の流れが変わった年、そうあの「スターウォーズ」が映画業界を席巻し、その後の映画ビジネスの在り方を根底から変革してしまった年である。

 アカデミー賞というのは、そもそも何だろう?最も素晴らしい作品を讃える賞なのか?おそらく違う、いやアカデミー賞に限らず、この世の賞というものはすべからく気まぐれなのではなかろうか、と負け犬は思うのです。

 だってノーベル文学賞が、ボブ・ディランって・・ちょっと・・オイ・・あれでほぼノーベル賞なんてものがただのその折々の気まぐれな思い付きであることを自ら口はばからず公言しちゃったもんじゃなかろうか。

 さて、1977年のアカデミー賞のお話しだが、当時、受賞の前日まで世相は「スターウォーズ」が作品賞を取るものだと誰もが信じて疑っていないような感じだった。ところが、作品賞のタイトルが読み上げられた時、誰もが呆然としたのだ。ライブでその様子が放送されていたわけでもなく、あくまでも事後のニュースだが、かくいう自分も驚いた。

 作品のポピュラリティ?満点じゃん!作品の評価?文句ないじゃん(自分は大して面白くもないと思っていたが・・スターウォーズ崇拝者の人には申し訳ないが)!総合的に見て誰が考えてもスターウォーズに決まりじゃん!って。でもまったくの番狂わせの結果をま ざまざと見て、その時、負け犬はつくづく思った。おそらくアカデミーの会員の誰か、それも権威のある人間が、ヒゲ面の若造のジョージ・ルーカスを見て、こいつにはやりたくないって言ったんじゃなかろうかって。だから、当り障りのない「アニー・ホール」にくれてやって体面を保っておけや、みたいな。多かれ少なかれ内情はそんな所ではなかったのか。

 今から考えればこの作品にそんないわれもないような一つの偏見が根付いてしまたのですね・・。だから本作を月曜ロードショーで初めて見た時も、何だかツマンね~なと思っちゃったのですよ。

 しかし、それから数年たって見直しているうちに、いきなりズ~ンときて、それからはこの作品が離れがたいかけがえのないような存在となってしまった。不思議なことがあるものです。

 そんなアレン演ずるコメディアン、アルビー・シンガーのいつもながらの自虐ネタで始まる本作はストーリーなどあってないようなもの。アルビーは、ガキの頃からペシミストで、宇宙の膨張が気になって勉強に身が入らない。「宇宙の膨張なんかより、この世の中にゃいっぱいおもしれえことがあんだよ~」と下卑た笑いを浮かべる精神科医に冷ややかな視線を送り。小学校時代には早くもまっとうな性欲に基づき半ばレイプまがいに同級生の女の子にキスをするも、ただの子供の悪フザケと言われて性欲の存在を認めてもらえず憤慨し、気付けば大人になって人気コメディアンになっていた。

 そんなアルビーが仲間の紹介でテニスに誘われアニーと出合う。アニーはといえばダディダダディダ~が口ぐせの少し抜けた子で、でもどこか気が合ってそのうち好きになる。そんなアニーとの日常の後、突然別れを切り出され、でもアニーとは今も友だちで、思えばやっぱりアニーはいい子だったよな・・。本当にただそれだけの具にもつかない話。

 でもこの作品のテーマとエモーションはラストに集約されている。街角のカフェで語らっていた二人は店を出て別れる。キャメラに映し出されているのは誰もいないカフェのテーブル。そしてエンディングはアルビーが語る、精神科医と一人の男が会話するこんな小話で締めくくられる。

「先生、ウチの弟がさ、自分をニワトリだと思ってんだよ」

「そりゃいかん、すぐに入院させなさい」

「でも先生、オレも卵が欲しいんだよね」

正常か異常かという観点から聞くといささかゾッとする話でもある。でも、ホント、アレンの言う通り人間ってみんな自分勝手にめいめいの卵を欲しがって生きているんだよね、でも、その卵は結局、どれだけ欲しがっても手には入らないのだ。

 最後に、これぞアレンタッチとでもいうべき傑作シーン。アルビーがアニーの実家を訪れアニーの兄のデュエイン(クリストファー・ウォーケン)と会話するのだが、このデュエインが筋金入りの死ぬことばっかりいってる奴。ところが帰りにそのデュエインが運転する車に同乗する破目になったアレンの表情たるや・・もう、これだけは必見!