負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬の狂気の沙汰も金次第「ワンフロムザハート」

セミ・ミュージカルというとてつもない中途半端な映画に、ラスベガスの街並みと飛行場のターミナルを丸ごとセットで作り上げるという所業は、もはや圧巻どころか狂気の沙汰だ!(評価 50点)

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歌はあるけど歌わない、そして踊らない、世にも奇妙な中途半端なミュージカル。これを百億といわれる巨費を投じて作った当時のコッポラは果たして狂人だったのか?

 「ゴッドファーザー」で星の数ほどいる映画監督たちの頂点をきわめたフランシス・フォード・コッポラ。「地獄の黙示録」がその監督人生の分水嶺となったコッポラには、その映画でマーロン・ブランドが演じたカーツと同じく、何がしか狂気という言葉が常について回る。

 しかし、世にいう狂人たちと一線を画しているのが、その狂気が、映画というものへの過剰なほどの愛情に裏打ちされていること。「ニューヨークニューヨーク」というミュージカル映画の失敗作でも有名な、あの「タクシードライバー」のマーティン・スコセッシにしても、リアリズム路線で傑作を放ち続けた監督というものは、古き良き都ハリウッドが、かつて生み出していた人工的な世界に、とかく憧れを抱くものらしい。

 だから、コッポラが、それまでとは、ガラリと打って変わったミュージカルを作りたくなった気持ちも分からないではないけれど、それに百億ともいわれる製作費を投じるとなるともはやそれは、常軌を逸した振舞いとしか言いようがなくなってくる。

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 本作公開当時の「キネマ旬報」に、本作のメイキング記事が掲載されていた。映画のプリプロダクションには欠かせない絵コンテやストーリーボード。コッポラが本作で導入したのが、そうして仕上がったストーリーボードを全てビデオに取りこみ、予め本編を丸ごとストーリーボードでのビデオ映像として仕上げてしまうというものだった。その際に活用したのが、当時では最先端だったソニーのベータマックスのビデオデッキだったという。

 そのインフラが化石のような旧式だったことは別にして、何のことはないこの手法そのものは、現在のCGのフレームワークによるプレ・メイキングなどと何ら変わるところはない。

 テクノロジーに対する偏愛も、コッポラのプライベートな夢の王国、ゾーイトロープ・スタジオ創設の当時から何も変わらない。しかし、そのエンディングで、本作は全てそのゾーイトロープ・スタジオ内で撮影されたというテロップがわざわざ出る本作の内容は、いくらミュージカルとはいえ、あまりにもお粗末だ。

 イントロのベガスの色鮮やかな数々のネオンサインの後、デパートのショーウィンドーのデコレーターの本作の主役フラニー(テリー・ガー)が出て来る。フラニーには恋人フランク(フレデリック・フォレスト)がいて、本作はそのカップルが、つまらないことからケンカして、家を飛びだしたフラニーとハンクが、束の間のお互いのアバンチュールを経て、よりを取り戻す。本当に、ただそれだけの話なのだ。

 冒頭、帰宅したフラニーとハンクが、いきなりケンカするところから、ワザとらしくて興ざめする。それからは別にストーリーなどあってないようなもの。

 フラニーはピアノ弾きと称するウェイターのレイ(ラウル・ジュリア)と、ハンクはサーカスの若い踊り子ライラ(ナスターシャ・キンスキー)とお互い、束の間の関係になるが、ハンクの頭の中に有るのは常にフラニーへの未練でいっぱいなのだ。

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 そして、レイとバカンスに旅立とうとするフラニーを追ってハンクは空港まで追いかけるが、むなしく飛行機は飛び立ち、悲嘆にくれるハンクだったが、振り返るとそこに立っていたのはフラニーだった。

 言って見れば夫婦喧嘩は犬も食わないという与太話。それにいくらコッポラ一家とはいえ、おっちょこちょいな持ち味が魅力なだけのテリー・ガーが主役では、やはり華がない。何とかガンバッテ見せてくれる踊りも、スペクタクルなセットに呑み込まれるだけでまるで映えない。名手ヴィットリオ・ストラーロの、目に刺さるほどの色の洪水だけが見所というのが、如何にもお寒い。

 ラスト、飛行機の発着ターミナルまでセットで作っている威容を見るにつけ、この映画の製作当時のコッポラには、「地獄の黙示録」のカーツ大佐以上の狂気を覚えずにはおれない。

 しかし、エンディングで、全編にわたって音楽を担当しているトム・ウェイツの歌声と共に和解し、寄り添う二人を見て、少なからず心が動いたのも確か。

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 何事にもウソがつけず、結局、映画人生の後半は、負け戦ばかりだったコッポラの心からの映画への素直な思いがストレートに伝わってきたからなのかもしれない。

 紆余曲折はあったけど、コッポラが偉大な監督であることは確か、そしてそんなコッポラの、映画に注ぐ心からの愛情は、どれだけ予算をつぎ込んでも決して満たされることがないことを本作で、少しは理解できたような気がする。

 ワンフロムザハート、つまるところコッポラという人は、どこまでも純真無垢な人なのだろう