負け犬的映画偏愛録

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負け犬の世にも幼稚な学芸会「散歩する侵略者」

宇宙人が散歩する。その目的は人間の概念を盗むため?ベテラン監督が描く侵略SFは、世にも幼稚な自主製作映画だった!

(評価 15点)

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わざとらしいシーン、そして、有り得ないほどにわざとらしいセリフ回し。全てにおいて幼稚なワースト映画。

 その昔、こんなうらぶれた負け犬にも、実は高校生という時代があった。その当時、クラスは違ったが、同じ学年に映画マニアがいた。そいつは。ただ見るだけの映画オタクとは、違って、いつも8㎜キャメラを手にしては、活動的に映画を撮るタイプの人間だった。それは確か高校二年の文化祭だったと思う。そいつが所属する映画研究会製作による一本の自主映画が、公開された。

 我が母校のスクリーン設備の有る、リクリエーションルームで披露されたその映画は、いわゆる侵略SFものというやつだった。宇宙人のその侵略の手法とは、人間を知らぬ間にロボット化し意のままに操るという代物。フィルムは8mm、時間は10分足らず。出演者は、学校の同じ生徒の面々、とくれば、セリフは、当然、たどたどしい棒読みもいいとこ、カットやつなぎの体裁も、見た目は幼稚そのものの体裁となるのは当たり前。ところが、その映画、なかなかどうして、そこそこちゃんと見れるものになっていた。おまけに、意外なショック・シーンでエンディングを締めくくるという、エンタメ志向のサービス・スキルまで見せてくれたから。結構、感心したものだった。

 そんな事を思い出してしまったのも、そもそもこの映画を見たためだった。元々、舞台劇の本作を黒沢清監督が作りたくなった気持ちは、何となく分る。きっとそのタイトルが気に入ったからに違いない。「散歩する侵略者」、そのタイトルはこの負け犬のイマジネーションをもヴィヴイッドに反応させてくれる、刺激的な何かが感じられるタイトルだと思う。それを、長いキャリアながら、未だにいい意味でチープなホラー志向の黒沢監督が撮るとなれば、興味を抱いて当然だ、という訳で、あまりにも遅ればせながらも、ずっと見ようと思っていた本作をようやく見たのだった。

 そして見た本作は、終始、幼稚でおぼつかない、それこそ自主製作映画でも見ているような、何とも残念な代物だった。

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 鳴海(長澤まさみ)の夫、真治(松田龍平)が放心状態で歩いていたところを保護される。しかし、数日ぶりに、目の前にした真治は、認知症でも患っているかのような茫洋とした人間に変わり果てている。鳴海の心配をよそに、真治は、まるで浮世離れした異界の人間のような暮らしぶりを続けるのだが、数日後、自分は宇宙人で地球を侵略に来たと鳴海に告げる。更に、真治は鳴海に向って、いわば偵察隊としての自分がここに来た目的は、人間の概念を盗むことだと言うのだった。

 この人間の概念を盗むというコンセプト。人間の肉体を乗っ取るボディ・スナッチャーたる本作の異星人は、人間と会話をしていて、はっきりと理解が及ばない言葉に行き当たると、その言葉のみならず、その言葉が有する概念というものを、それを口にした相手から根こそぎ奪ってしまう。奪われた側の人間は、その概念がすっぽり欠落した人間に成り果ててしまう。

 たとえば、家族。家族という言葉と、その言葉が内包する概念というものを奪われた人間は、どうなるのだろうか?

 容易に想像がつくのは、こうしたテーマは、元々、限定的で観念的な、ステージで行われる舞台劇としてなら、さぞかし面白いものになっていたはずに違いないということ。しかし、リアリティと空間としての拡がりがある、映画に、置き換えるには、きっとそれなりのアイデアというものが必要になるのではなかろうか。しかし、本作の場合、さしたる工夫もなく、そのプラットフォームだけを映画にしてしまったような感が拭えない。その証拠に、全てが赤面したくなるほど恥ずかしいものになっている。

 異星人が、概念を相手から奪う時、その額に指を当てたり、サイキックのように念を送るようなパフォーマンスをしたりするわけだけど、それをされた人間は、苦も無くその場に倒れる。その芝居の間が、やっぱり見た目、わざとらしい。

 真治の他に異星人の偵察部隊の仲間が他に2名いる。しかし、そのたった3名で極秘裏に潜入しているはずの異星人の存在を、日本の厚生省の人間は、何故か察知していて追手を差し向けて来る。

 その追手のリーダーの人間から異星人は、そのリーダーの男が口にした邪魔者という概念を奪う。するとそのリーダーの男は、その場に倒れるや、「皆、友だちだよね・・」などと言ったりする。それが、たとえようもないほどわざとらしい。万事が万事、本作はこうしたわざとらしさに終始する。これが、高校生が作った10分足らずの自主製作映画なら、気にもならない。しかし、それを、本職の役者が、2時間通して演ずると、逃げも隠れもできないほどわざとらしくなってしまう。

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 結局、物語の展開は、誰もが予想がつくように、愛という概念に落ち着く。異星人の侵略が始まったと真治から告げられた鳴海は、自分から愛という概念を奪ってくれと真治に懇願する。鳴海から愛を奪った真治は、「ワア、何これ、すごい・・」と言って、その場に倒れ込む。その松田龍平の芝居の、幼稚さとワザらしさは、こちらまで赤面するほど恥ずかしかった。

 80年代から今に至るまで、ずっとキャリアを積んできた黒沢清監督だけど、そんなベテランを持ってしても、映画というのは、その素材を扱うメソッドを一つ間違えてしまえば、箸にも棒にもかからないものになってしまう。侵略者よりも、映画作りのそうしたムズかしさ。そちらの方こそよっぽど怖かった。