負け犬の巨匠との見果てぬ遭遇「殺人の追憶」
韓国のクロサワとの初めての遭遇は忘れることが出来ない強烈な体験だった
(評価 95点)
今や押すに押されぬ世界の巨匠ポン・ジュノ。かつて小さな映画館で体験したその未来の巨匠との初めての遭遇は生涯忘れることが出来ないものとなった。
もう長年、映画遍歴を続けていると、不思議なことにイヤでも嗅覚というか、一種のセンサーが備わるものなのです。つまりはその映画が見るに価すべき作品か否かを感知する感覚のようなもの。当時、何故この映画を見に行ったかすら覚えていない。今もそうだが、その時は尚の事、殆どアメリカ映画一辺倒、韓国映画などほぼその存在すら意識したことがない時代だった。
何にせよ、映画が始まり、田園風景が映し出された。そしてすぐに岩代太郎による本作のテーマ曲のエモーショナルな旋律が流れ出した時、何の根拠もないのに間違いなくこの作品は傑作だ、という電流のような衝撃が身体中を貫いたのを体感として今でも克明に覚えている。
それは映画の上映が始まってほんの数分後の出来事だったのだ。
それ以上の事をこの作品に関して言うべきことがあるのだろうか?人間には、どんなに望んで手に入れたくても決して手に入れることが出来ないものがある。ある人にとっては、富であったり、見果てぬ夢であったりする。それでも人間は何かを追い求め続けることが止められない生き物なのだ。
本作で描かれる、その見果てぬものとは真実だ。
韓国で実際に発生した連続殺人事件、華城連続殺人事件に基づく本作は、その事件の真実を追い求め、結局、到達し得なかった二人の刑事の人生のパノラマと云っていい。
本作の面白さは、劇場で購入したパンフレットに記載されていた小説「半落ち」の作者横山秀夫氏の試写会で本作を見た時の逸話に良く現れている。徹夜明けで本作の試写に出向いた横山氏。当然「寝落ち」すると思いながら見始めるや、「寝落ち」どころか眼を見開いて、エンドクレジットまで座席に釘付けになったらしい。そのコラムには第二の若きクロサワが、日本でななく韓国に現れたと書かれてあり、まさに同感と思ったものだった。
それから20年近くが過ぎようとしている。本作で初めてその存在を知ることになった若きクロサワ、ポン・ジュノは、以降、着実にキャリアを重ね、韓国映画の存在を世界に知らしめて来た。そして2019年にはアジアという国境の壁を跳躍してアカデミー賞作品賞に輝き名実ともに世界の巨匠のトップの座にも就いた。
でも、日本における鮮烈なデビューからポン・ジュノの作品を追いかけているこの負け犬のような人間なら、悲しいかな知っている。本当にアカデミー賞にふさわしい完成度を誇るのは「殺人の追憶」以外、有り得ないことを。
そして、もう一つ「殺人の追憶」では、とてつもない出会いがあった。本作の主役ソン・ガンホ。初めて彼がスクリーンに現れた時(田んぼの坑道に遺棄された最初の犠牲者を検分するシーン)、たちどころにして、こんなスゴイ役者がいたのか、と驚いたぐらいだった。それまで誰にも感じたことがないある種の存在感とリアリティーがソン・ガンホには紛れもなくあった。
見るたびに号泣してしまうシーンが本作にはある。ラストシーンの最後のカット。結局、事件は迷宮入りとなり、既に警察を辞したソン演ずる元刑事のパクが、仕事の途中、あの最初の現場に立ち寄る。もう十数年の時が流れ、事件などすっかり風化したその現場に佇む少女。その少女がポツンと洩らした言葉。その言葉からどうやら少女は犯人らしき男を見た、そう確信したパクに、瞬時にかつての刑事の本能が燃えるように蘇る。しかし、どれだけ高ぶったところで今や一市民にしか過ぎないパクにはどうする事も出来ないのだ。そして、燃え盛った炎をどうすればいいかも分からず、ただあぐねる。そうしたエモーションをこのソン・ガンホはクローズアップショットの目の力だけで表現してのける。そしてその瞬間、こちらにまで伝わったエモーションで胸が張り裂けそうになって号泣してしまう。
人間は真実というものの壁の高さにただ抗い、翻弄されるだけのか弱い生き物なのか、ただその深淵をいつか覗き見ることだけを夢見て生きるだけの儚い生き物なのか。だとすれば人生はあまりにも哀切に満ちている。これだけの感情をたった一言のセリフもなく見る側にインスパイア出来る役者など、ソン・ガンホ以外誰一人知らない。
現実では、2019年に本作のモチーフとなった華城連続殺人事件は、とある受刑者の自供によってあっけなく解決する。だからといって本作の価値が少しも減ずることなどない。ラストのソン・ガンホがこちらを見つめる眼差しは本作を見たすべての人間の脳裏に刻印のように撃ち込まれるのだから・・