負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬の殺人鬼マニアたちの哀しき人生のパノラマ「ゾディアック」

人生は決して解くことが出来ない暗号。全編にわたってみなぎるフィンチャーのこだわりが実に魅力的な大傑作!

(評価 82点) 

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深みのあるキャメラ、作り込まれた背景に構図!フィンチャーの映像美学の結晶、映画グルメともいうべき、味わいをじっくり楽しめる傑作。

 未解決事件・・・その不穏な言葉の響きに魅せられる人間は多いのではなかろうか。最近でも、山中で女の子が神隠しのように忽然と消える事件があった。そして、入れ替わり立ち替わり現れる未解決なままの通り魔のような事件の数々。実際、その時、その場所で何が行われていたのか?そしてそんな所業をしでかした人間はどんな人間なのか?

 その人間を目の当たりにしてその目をみつめてみたい、これはそんな深淵の魅力に取りつかれた人間たちの人生のパノラマともいうべき映画。

 そして、その人生のパノラマのようなタペストリーを展開してみせるのは、当代随一の映画作家デビッド・フィンチャーフィンチャーは本作のパンフレットに載っているインタビューでも、本作はブロックバスターのようなハンバーガー映画を好む客と映画通の客のどちらも唸らすために作った映画だと明言している。

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 針の落ちる音すら聞こえるほどの緊張感。本作のテイストを表現すればそんなフレーズになる気がする。60年代に実在した殺人鬼ゾディアックにとりつかれた人間たちを描く本作は、少年時代にメディアを通じてこの事件とコンタクトしていたフィンチャーの若き日の人生が素直に投影されている。主人公にあたるロバート・グレイスミス(ジェイク・ギエンホール)が勤めるサンフランシスコ・クロニクル紙のオフイスフロアーの白一色のイメージは70年代を代表する政治サスペンスの名作「大統領の陰謀」でのワシントン・ポストのフロアーをイメージしたともフィンチャーが言っているように、そもそもフィンチャー自身の人生が被る70年代映画のテイストが全編にわたって横溢しているのも、また何とも嬉しいところ。

 一般には、あまり評判がよろしくない本作だが、負け犬にとっては、フィンチャーのポップ・アーティスト的な側面と、フィンチャーの作家的側面の映像美学の一つの結実として、フィンチャー作品としては、マイベストともいっていいほど好きな作品なのだ。

 まずは冒頭、車中のカップルが襲撃されるゾディアック最初の登場シーンのビジュアルのきめの細かさから舌を巻く。このシーンだけでも本作が並みのレベルの映画ではないと誰もが思うはず。そして、その数か月後、サンフランシスコ・クロニクル紙に暗号文とともに、犯行の声明文が送られてくる。その時が、それ以降、数十年にわたってゾディアックにとりつかれることになる、本作における狂言回し的な存在のグレイスミスと、クロニクル紙の敏腕記者ポール・エイブリー(ロバート・ダウニーJr)たちの運命の岐路の瞬間となる。

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 実際の事件を忠実に再現した犯行シーンもフィンチャーならではの研ぎ澄まされた感覚に満ちている。サンフランシスコのはずれにあるベリエッサ湖でカップルが襲われるシーン。このシーンでは当時の写真を元に、わざわざ木々まで植え込んで完璧にその風景が再現された。覆面を被っているとはいえ、白日の下にゾディアックが全容を晒すシーンに、その陰からゾディアックが姿を現すためにフィンチャーが、事件そのままのオークの木が必要と考えたからだ。このシーンでは、後ろ手に拘束された女性が、ゾディアックにナイフで何度も刺される。一度や二度刺しただけでは人間は死なない、執拗なまでに刺して初めて人間は死ぬ。刺された痛みが体感として伝わって来るほどの、このシーンこそ、本作ならではのリアリティが端的に表現された出色なシーンではなかろうか。

 ゾディアックといいつつ、本作はゾディアックそのものを描く映画ではない、あくまでもゾディアックにとりつかれた人間たち描く映画だ。ゾディアック事件が、今も尚、未解決ゆえにそのトーンには必然的に哀しみが帯びて来る。そして、それがフィンチャーの一切、手抜きの無い、きめ細やかな演出で人生そのものの悲しさにまで昇華しているところが本作のいいところ。

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 家族を顧みずゾディアックを追い続けるグレイスミスには、当然のように家庭崩壊のフェーズがやって来る。敏腕記者だったはずのポール・エイブリーは、酒にのめり込み廃人同様の世捨て人になっていく。そして、サンフランシスコ市警の担当刑事、デイブ・トースキー(マーク・ラファロ)もゾディアックにのめり込むあまり、ゾディアックからの脅迫文を自ら偽造するというスタンド・プレーにまで及んでしまう。ゾディアックに関わった人間のすべての人生の波長が狂っていくのだ。

 もっとも好きなのはエンディング。数十年の時が経ち、事件が風化しつつも、まだ関係者から事情聴取を続けている警察に呼ばれたのは、冒頭で襲われ生き残ったカップルの男性。溌溂としたティーエイジャーだった冒頭の姿とは打って変わって、ホームレス同然の身なりとなったその男性が、力なく容疑者の顔写真に指を指したところで映画は終わる。この瞬間の余韻がいい。

 人生は哀しい。何かを追い求めても、それを実際に手に出来る人間は、ほんの一握りしかいない。そんな通奏低音が、全編に満ちていると感じられるから負け犬は本作が好きなのかもしれない。

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 ちなみに、あの「ダーティハリー」の狙撃魔スコルピオのモデルがこのゾディアックであったのは有名な話。本作には、その「ダーティハリー」の、サンフランシスコ市警向けのチャリティ試写のくだりが出てきて、初見の時は驚いた。ハリー・キャラハンは決めゼリフを吐いて、スコルピオの胸板を撃ち抜いたが、ゾディアックは、逮捕されることなくその後の生涯を生き抜いた。カタルシスなき人生を生きる、これは我々の宿命なのかもしれない。

 未解決事件というものがもたらすもどかしさにヤキモキするしかない無念さ。ゾディアックに限らず未解決事件というものに、人生の切なさを感じるのは、この負け犬だけなのでしょうかね~