負け犬は瓜二つ「ルームメイト」
独身(S)、白人(W)、女性(F)って『同居人求む』のことだったんだ
(評価 78点)
昔見て、心に澱のように残る映画というのがあるもので・・それがまさにこの映画だった。堅実な演出でサスペンスを積み上げる巧みな構成(監督は「バーフライ」のバーベット・シュローダー)と主演女優二人の個性を生かしたコンビネーションが印象に焼き付いて、いつかまた見よう見ようと思いつつ、いつの間にか忘れてしまい年月だけが経っていた。
ふと思い出し、ようやく再見した「ルームメイト」は初見と違わず面白かった。
以前見た時もそうだったが、冒頭ハッとさせられるのが本作のシンプルな頭文字だけのタイトル。「S・W・F」。これがすなはちタイトルバックにも出てくるSingleWhiteFemale(同居人求む)の意なのだ。(ただ1992年の映画なので今も使われているかは全く不明、なにぶん白人・・てところが今ではレイシズムのコードにもモロ抵触しそうだし。だってOKサイン自体差別パフォーマンスとしてご法度ですからね今は)
やがてニューヨークの夜の闇にヌっと青々と照らし出されるのがゴシック調のクラシカルなアパート。あの「ローズマリーの赤ちゃん」を想起させるムードに一気に引きずり込まれる(この映画ではこうしたテイストにポランスキーのように米国人でないバーベット・シュローダーの感性が存分に生かされている)。
そのアパートで恋人サムと暮らすアリーを演ずるのがブリジット・フォンダ。アリーはキャリアウーマンといった外見ながらナイーブな脆さを兼ね備えた女性なのだ。そんなアリーがサムと仲違いし、シングルとなった寂しさを紛らわそうと出した同居人求むの広告に誘われやって来るのがヘディ。
このヘディをジェニファー・ジエイソン・リーが抜群のリアリティで実に巧みに演じて見せる。遺伝子は偉大なり、あのコンバットのサンダース軍曹で有名なヴィック・モローとそっくりの容貌を持つこの女優(瓜二つというのがこの映画のキー・ワードでもあるけれど)。負け犬が大好きなチンピラ映画の金字塔「マイアミ・ブルース」では田舎もの丸出しの愛すべきコールガールをやはり抜群のリアリティーで演じていた。
そしてこの映画でも、初登場はいかにも野暮ったい。でも、その素朴さにアリーは惹かれルームシェアを始めることになる。
二人の性格設定、ルームシェアがテーマのサスペンス、ホラージャンルの先駆け的な映画ということもあって、その後の展開はある意味、予定調和ともいえる。
原作のサブタイトル“Seek same”がプロットをそのまま物語っている。だが、そのプロットをリアリティ十分に体現してみせるジェニファー・ジエイソン・リーの抜群の演技力がこの映画を凡百の映画とは別次元のものにしているのもまた確か。
結局、群れで暮らす人間という生き物は、心のどこかでこの映画のヘディのような同化願望があるのかもしれない。誰であっても異分子として群れで生き続ける孤独には耐えられないのかも。
まるで垢ぬけなかったヘディが、どんどんシックになってアリーと同化していく過程はメタモルフォーゼする生き物を見るように不気味だが、何故か小気味良い。それも群れと同化していく安心感が自分の中にもあるのだろうか、とあながち思えても来る。
そして、とうとうアリーになりきったヘディがサムの文字通り精気まで吸い取って?(ここはヤバくてネタばらし出来ません)しまうにつれ、二人は一つの人格が分裂したかのようにサイコな対決に駆られることになる。(正直、クライマックスは初見の時もそうだったが、負け犬的には凡庸にしか思えなかった)
ヘディがサイコパスなことは開巻早々、映し出される姉妹のシーン(何故かここであのデ・パルマの「悪魔のシスター」を思い出した)で想像がつく、エンディングに写し出されるアリーが箱から取り出して見つめるヘディのメメントの数々はヘディが宿命通りの末路を迎えた暗示でもあり妙に物哀しい)
この映画見た時、誰もが、そういえば昔、学校のクラスに、妙に孤立しがちなのに、やけに皆と同じ格好や、同じ事したがるあんな女の子がいたよなあ・・なんて誰もが思ってしまうのではなかろうか