負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬の隅には置けない憎い奴「殺しのベストセラー」

どの業界にもいる、隅には置けない男。そんな映画業界の隅には置けない男ラリー・コーエンのペンによる隅には置けないノワール映画の発掘良品(評価 72点)

 どんな業界にもちょっと隅には置けない人材というものがいるもので・・そういう奴に限って表舞台では目立たないが、なかなかクレバーなアイデアを次々と繰り出して唸らせてくれたりするものです。今回、ご紹介するのもそんな映画業界の俊英がオリジナル脚本を書き上げた、目立たないけどちょっと隅には置けない逸品。

 その人こそラリー・コーエン。監督デビューはB級ホラーの「悪魔の赤ちゃん」。しかし、それこそ1950年代からおびただしい数の脚本に携わり、晩年になってもあのコリン・ファレルのソリッドなサスペンス「フォーン・ブース」のオリジナル脚本を書き上げ、映画ファンを唸らせた後、惜しくも数年前に亡くなった才人の名がふさわしい逸材でした。

 本作は言ってしまえば、善玉コンビの二人組が巨悪を成敗する、星の数ほどありふれた手垢まみれのようなバディもの。

 ところが隅には置けない男だけに、一味も二味も違うアイデアを注入して、ちょっと他にはないバディノワールに仕立てたのが本作だ。

 主人公は警察官あがりの刑事だが、この刑事のミーチャム(ブライアン・デネヒー)は過去に自らの警察署で出くわした体験を基にベストセラーを世に出し、刑事と作家の二足のワラジを履いているという設定。

 ここまでなら大したアイデアでもないでしょう。ところがこの刑事とコンビを組むのが何と殺し屋なのだ。そして、この完璧主義の殺し屋クリーブ(ジェームズ・ウッズ)がミーチャムに近付く動機というのが、自分のバイオグラフィを書いてみないか、そうすればまたベストセラー間違いないよ、というミーチャムへの甘い誘惑なのだ。

 こんなアイデアなかなかないと思いません?

 というわけで本作は、開巻の強奪シーンから、ミーチャムとクリーブの出会い、バディコンビの結成、クリーブの雇い主であり敵役の政界の大物マドロックを倒すまでを95分の尺の中でタイトに見せてくれる、思い出した頃に手に取ってまた見たくなること必至のB級ノワールの逸品といったところか。

 監督はこれもB級映画の才人ジョン・フリン。本作のクライマックスはミーチャムの娘を人質に取ったマドロックの屋敷に、漢気たっぷりの殴り込みを仕掛けるだけに、ジョン・フリンのあの傑作アクション「ローリング・サンダー」との血縁も匂わせて、この負け犬のようなB級フリークにはそこが捨て難い魅力にもなっている。

 中盤にはバイオグラフィの取材と称して二人して殺し屋クリーブの実家を訪れ、クリーブのパパやママたちとしんみりするなんていう殺し屋映画のミスマッチ感の横溢も才人ラリー・コーエンの面目躍如といったところ。

 ちっともメジャーじゃないけれど、隅には置けない掘り出し物をお探しのあなたなら、この「殺しのベストセラー」、きっと楽しんで頂けるのではないでしょうか。

 

 

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負け犬が、鬼となった女の涙に思わず涙した件「火車HELPLESS」

業という炎に包まれ火車はただどこまでもひた走る。最後に鉄槌が振り下ろされる、運命のその時まで(評価 80点)

 日本の推理作家、宮部みゆきの代表作「火車」を韓国の女性監督ビョン・ヨンジュが映画化した本作。サスペンスジャンルを無二の得意とする韓国映画が、その特有のテンポの良さ、そして人間のウェットな部分を巧みに掬い取って見せる力量を存分に発揮して、冒頭からエンディングまで一気呵成に見せてくれる文句なしの快作になっている。

 負け犬は本作を二度見ているが、二度目の方がポインターとなるキャラクターに感情移入し、不覚にも泣けた。

 

はじまりはドライブするカップルが屈託のない会話しているさりげないシーン。

 カップルは結婚を1ケ月後に控えたムンホ(イ・ソンギ)とソニョン(キム・ミニ)。ムンホは獣医師のクリニックの院長を務めるブルジョワの家系で、ソニョンは如何にも小市民といった風情の女の子。そんな二人が車内で結婚間近なカップルにありがちな会話をしている。

 ムンホの実家に結婚の報告がてら帰省しようとしていた二人だが、たまたま立ち寄ったハイウェイのドライブインでムンホがソニョンを車中に残し、コーヒーを買いに行く。その時、車中にいるソニョンの携帯に一本の着信が入る。なにげにその着信を取るソニョン。そこからこの映画はまるで炎をまとった火車のように走り出す。

 車に戻ったムンホはソニョンがいなくなっていることに気づき、慌てて探すが、ソニョンは、まるで煙のように何処へともなく消えていた。

 

 冒頭、いきなり恋人が失踪する、というシチュエーションの映画には、オランダ映画の衝撃作「ザ・バニシング 消失」があった。いずれも不条理な恋人の失踪というシチュエーションに出くわした男が、井戸の淵から暗くて得体の知れないその底を知りたいという欲望に取りつかれ、真相を追い求めることになるが、本作のムンホも、人間が真実を知りたいという本能の赴くまま、失踪したソニョンの行方を追い求める。

 そのムンホというキャラクターを演ずるイ・ソンギのいかにもブルジョワ然としたナイーブな個性が実にはまっている。

 何故、ソニョンはいきなり失踪したのか。そして、調べるうち、ソニョンが実は本名ではなく、他人の名前だったことも明らかになってくる。

 一体、信じきっていたはずの恋人は何者なのか?

 イ・ソンギが唇をふるわせ、目を泳がせ、テンパって喚きながら、ひたすら恋人の真相を追い求めていくそのシンプルな構成は、やたらと重層的な伏線を張りたがる韓国映画とは一線を画して、昔の日本映画にも似た、ストレートなサスペンに満ちている。

 そして、この手の映画に欠かせないのが、主役を助けるサイドキックの存在だ。孤立無援のムンホは、親戚からも落ちこぼれ扱いされている元刑事の従兄に救いを求める。

 かくして本作は、この元刑事のジョングン(チョ・ソンハ)が動き出すことで、一層、ヒートアップして面白さが増すところが実に見どころ。

 ジョングンがプロの技量を発揮し、ソニョンを追ううち、ソニョンが一線を越えたモンスターのような犯罪者であることが明らかになってくる。そして、ムンホに、もうソニョンには近づくなと忠告するのだが・・・。

 タイトルの火車とは、古来より伝承されてきた妖怪のこと。

 わずかな手がかりを辿っては絶たれ、また手がかりを探す。そうやってひたすら追い求めた恋人が出没する場所をとうとう突き止め、クライマックスで、冒頭のシーン以来の再開を果たし、ムンホとソニョンが1フレームに収まるシーンにはくぎ付けになる。

 だが、恋人はすでに人間を自らの手で殺めた妖怪そのものの別の生き物同然になっているのだ。

 ここで、ソニョンがムンホを身じろぎもせず見つめ不敵にうっすらと笑う。このシーンには凄みがある。その笑いは人間としての一線を越えて鬼となり、もう二度と人間には戻れなくなった悲しみの笑いだからだ。そして、その瞬間、ソニョンの頬を伝って一筋の涙が流れ落ちる時、思わずこちらまで涙する。

   結局、本作を一言で言うなら人間の業の悲しさのような気がする。

 恋人をただひたすら追い続けるムンホも、真実を求めたがる人間の業なら、鬼と化したソニョンも、そもそもの発端は、貧困という境遇から来る金への執着という人間の業に他ならないのだから。おそらく負け犬は、そんな人間の業に、こわいもの見たさで触れたくなって、本作をいつかまた見るに違いない。

 

 そんな本作、実は原作とは結末が異なるらしい。などと聞けば俄然、原作も読みたくなってくる。とはいえ、この宮部みゆきという作家さん。確かに文壇を代表する作家さんには違いないのだが、とにかくどれを読んでもやたらと無駄に長い。まるでページ稼ぎをしているだけとも思えるのはこの負け犬だけでしょうか。

 いずれにせよ、売れている人をやたらとやっかみ半分に悪口言うのも、すっかり負け犬と化してしまった人間の業というやつなのでしょうけどね~

負け犬の良い子はみんなで殺し合う「バトルロワイアル」

殺し合え!このクレイジーな世界を生き延びるまで!仁義なきフカサクが世界に放ったアンチモラルなハイパー・バイオレンス!

(評価 76点)

 

日本映画はスタティックでモラリスティック。そんな常識を「仁義なき~」の深作欣二が70才にして、心地いいまでに粉砕した衝撃作。

 御年70才、といえば誰にしたって年金のお世話になる老齢ということになるのだろう。ところが今やエイジレス。海の向こうではジョージ・ミラーが同じく70代にして、マッドマックスをクレイジーにリブートしてくれた。そして、日本では、深作が世界の日本映画への固定観念を覆すような一作を放ってくれた。今や、もはや人間は70代のシルバー・エイジから狂い咲きするのだろうか?

 かつてはふんだんに許された、どこまでも黒く塗りつぶされたブラックなユーモアというやつは、まずは表現の規制ありきの現代では切り捨てられる。かつてB級映画の帝王ロジャー・コーマンが70年代に放ったカルトSF「デス・レース2000年」などという不埒な映画は、今となってはハリウッドでも到底、許されないご時世になってしまった。

 ところが、レース中に人間を殺せばポイントが加算されるというデス・レースも真っ青になるような映画が21世紀に突入した日本で生み出され、日本のみならず世界にデス・ゲームのムーブメントを発信してしまった。ブラックであることが許されない社会で、まるでそれに風穴を穿つかのような本作に、すがすがしいそよ風のようなフリーダムを覚えてしまうのはこの負け犬だけだろうか。

 「新世紀教育改革法」のテロップがいきなり表示される、とってつけたようなワザとらしいオープニングに苦笑する間もなく、修学旅行のなごやかな風景が、バスの運転手とバスガイドのお姉ちゃんがガスマスクを装着する不穏な空気で一変し、いきなりデス・ゲームの教室に誘われるスピード感に満ちた圧巻の導入部がまず素晴らしい。

 「今日は、皆さんにちょっと、殺し合いをしてもらいま~す」

 ビートたけしの間の抜けた素っ頓狂なそんな第一声から始まる、それからのシュールかつ徹底したブラックなデス・ゲームのイントロダクションのくだりこそが本作の真骨頂。深作監督が直々にキャスティングした、圧倒的なリアリティを放つ役名もキタノのままの教師役のビートたけしと、生徒たちとで交わされる、残酷なメルヘンを地で行くようなブラックなやり取り。

 実は負け犬は、この後に展開される予定調和的なデス・ゲームの本編よりも、このシュールきわまりない教室でのクレイジーなホーム・ルームのシークェンスの方が遥かに面白かったし驚嘆した。そして、それまでの日本映画の暗黙のルールや常識を打ち破るかのように、ここまで映画そのもののスタンスを、ブラックなベクトルに振り切ってみせた深作監督にリスペクトの念すら覚えてしまった。

 原作では、このくだりは、黒板にゲームのルールを書いて説明する描写になっている。これを、ハウツービデオのようなオフザケ映像を皆で見るというビジュアライズの改変がまずは秀逸。

 ここでのキタノのセリフはあくまでも間が抜けている。しかし、ここで交わされる生徒たちとの掛け合いの合間に、口をつくセリフは、それなりに説得力があるのがシュールなところ。その点、映画版よりも原作の方がすぐれているといえる。

「君たちはみんな独りぼっちで戦わなきゃなりませ~ん」

「私語はだめだぞ~。私語をするやつには、先生、つらいけどナイフ投げるぞ!」

 ここまでブラックなテイストが横溢する作品には、日本ではそうそうお目にかかることはなかった気がする。

 本作が、公開時、壮絶なバッシングを浴びたのは周知の通り。某番組に出演した深作監督がコメンテーターたちの非難の矢面に一身に立たされていたことは今でも覚えている。その時、監督が口にしたのが戦時中の体験だったことも。

確かに、中学生たちが殺し合うシチュエーションと比べれば、戦争終結間際、ヒステリックに周囲が本土決戦を叫ぶさなか、沖縄の地で次々に自決していったひめゆりの塔のシチュエーションなどの方が、はるかにクレイジーと言えなくもない。だた、その当時は、マスメディアに煽られていた本作に、天邪鬼的にネガティブな感情を抱いていたこともあり、深作監督の発言にも、また本作そのものにもさしたる関心は抱かなかったのだ。

 かくして、本作を見たのは不覚にも遂、最近のこと。そういえば見ていなかったと、たまたま何気なく手に取って改めて驚かされたという次第。

 クリエイターという立場の人が、ある種のタブーを突破して、限界を突き抜けてみせるのは、とかく難しいもの。それを深作監督は、本作で、それも70才という年齢でやってのけた。

 デス・ゲームに突入し、秋也(藤原竜也)をはじめとする中学生たちが生き延びるために、裏切り、ワナを仕掛けあっては殺し合う。確かにアンモラルきわまりない不道徳な映画には違いない。でも、ここには、負け犬も大好きな深作監督のもう一つの代表作「いつかギラギラする日」のような、とにかく既成の常識を覆してやろうというクリエイターの熱気が確かにある。

 限界突破。日本のみならず、海外でもタランティーノに代表されるクリエイターたちのリスペクトを今も集め続けているのは、深作監督の作品というより、監督そのもののそんな気概や熱量がストレイトに伝わっているからのような気がするのだ。

 良い子であることを否定し続けて映画人生を全うした深作欣二監督のように、この負け犬も良い中高年の殻を脱却してワイルドのベクトルに振り切って見ようかな、と思う今日この頃なのですよ

 

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負け犬のたかが映画されど映画、しかし、この映画こそ人生に必要な最高の映画「スーパーの女」

見れば元気になる!見れば勇気が出る!見れば生きる希望すら湧いてくる!そして、スーパーに買い物に行きたくなる!これぞ心のビタミン剤!

(評価 90点)

 

生きるために欠かせない場所

 人間が生きるために無くてはならない場所とは何処だろう?この問いかけだけには今なら自信を持って言えるのです。それはスーパーマーケット。当たり前の話、人間は生きるために食べなければならない。野菜を、そして肉を食わねばならない。となれば農耕生活などとは無縁な現代人、その糧を手に入れるための場所と言えばスーパーしかない!

 本作は才人、伊丹十三監督が、とある弱小スーパーを舞台に、一人の主婦が、そのスーパーを立派なスーパーに再生してみせるまでを描く、実にウェルメイドで素晴らしいコメディ映画。

 コメディ映画と言えば、ただのプログラムピクチャーのような印象を持たれるかもしれないが、本作はただ、それどころの話ではない。見るたびに感激し、考えさせられ、その上、生きる勇気すら湧いてくる、疲れた心へのカンフル剤のような素敵な映画なのだ。

 

最高に素敵な映画

 とはいえ本作、そのスタイルは絵に画いたようなプログラムピクチャーと言っていい。まず主人公たちの登場シーンからして完全に意識してそのスタイルを踏襲しているのが分かる。

夫に先立たれた主婦の井上花子(宮本信子)、そして同じく妻に先立たれた弱小スーパーの社長の五郎(津川雅彦)の二人が、新装開店の悪徳スーパー、安売り大魔王の安売りセールの現場でばったりと出会う。出会い頭、小学校時代の同級生の二人が思わず踊り出す。このテイストはまさに昔の松竹喜劇のテイストそのもの。

 しかし、才人、伊丹十三監督の手にかかれば、オールドスタイルそのままに、現代的な素敵なお仕事映画に大変身していくのが、実に見所。

 ストーリーはオーソドックスそのもの。スーパーにやたらと詳しい花子が、その見識眼を見込まれ、弱小スーパーの販売主任に就任し、はりきって乗り出す数々の改善。実はこのくだり、勿論、原作からの持ち出しのトピックではあるのだろうけれど、意外と感心させられるポイントに満ちている。

 たとえば、実に当たり前のこと。花子は、たまたま再開した回転寿司のカウンターで、とくとくとスーパーとはそもそもお客様、その中の主婦たちを迎え入れる場所だと五郎に説く。だから、スーパーの顔たる野菜がいつもスーパーの決まって入口付近に置いてある。成程、そう言われてみればそうだ、と思った瞬間、伊丹監督の術中にはまっている。

 売れ残った白菜を何とか売るにはどうするか?朝一番の開店の時から、既に値下げの札を貼っておけばいい、競争相手のスーパーの品ぞろえの時間が遅いと見れば、仕入れの時間を早めておけば競争相手に勝てる。こんな具合に繰り出される蘊蓄に感心しているうちに、すっかりキャラクターたちを好きになっている自分に気付く。

 そして、また本作は、花子と五郎という中高年の熟年者同士の素敵な恋物語にもなっている。やがて、キャラクターたちの奮闘に一喜一憂するうちに、笑いながら、泣いている自分に気付くことになる。

 

最高のセリフ

 いい映画には、必ず決まっていいセリフがある。本作にも忘れられない素敵なセリフがある。正直屋の改善が軌道に乗り始めた頃、花子と五郎が自転車に乗って店のチラシを配って回る。その時、遠くに立ち並ぶ住宅を見ながら花子がこう言う。

「この町には何万もの人たちが暮らしている。そして、その何万もの人たちは同じ稼ぎで暮らしている。でも、その決まった稼ぎの中で、人は少しでも豊かな暮らしをすることを望んでいる。その期待に応えるのがスーパーの仕事なのよ」

 負け犬はこのセリフを聞いた時、自分の胸の中でジ~ンという音が鳴ったのを聞こえた気がした。そして。この映画を思い出す時、いつも決まってこのセリフが真っ先に脳裏に浮かぶ。

 確かに本作、何もかもが単純明快にカリカチュアされ明快そのもの。でも、何とか映画祭で賞を取るのがいい映画の勲章なんかじゃない。とことんまで見る人をお客さんとして慮ってくれる映画こそが人生にとって大切なのだと教えてくれる。

 宮本信子演ずる花子の底抜けの明るさと笑顔がいつまでも心に残る素敵な映画。落ち込んだ時、気分が沈んだ時、そんな時こそこの映画。まさに心のビタミン剤。あなたも一本どうでしょう?

負け犬が笑っているうちに泣いていた件「パンチライン」

人生にオチはない。でも、出来ることならきれいなオチで落とせる人生を過ごしたい。それが笑えて泣けるオチなら申し分ない(評価 88点)

 ビデオの時代からずっと見続けている。それなのに、今でも見るたびに泣かされる。本作の本国公開時のコピーは「笑っているうちに泣いていた」。まさにその惹句こそが相応しい、人生のマイベストにランクインと言っていいほど好きな作品だ。

 本作の何が好きかと問われると、お笑いという芸の喜び、そしてその反面にある恐れが実に的確に描かれているから。それは舞台に立って観衆を目の前にし、たった一人で観客に笑いという衝動を起こさねばならないマジックを託されたマジシャンの恐れにも似ている。  

 かつてあのウッディ・アレンが舞台に立つときはいつも「どうか自分が可笑しくあってほしい」と神様にお祈りしていたという逸話があるけれど、本作ほど、舞台に一人で立って客を笑わす漫談、つまりはスタンダアップコメディ独特の臨場感と呼吸を肌で感じるほどに上手く伝えてくれる作品は他に知らない。そしてその空気感に何とも言えないペーソスと人間のぬくもりと人生のホロ苦さがブレンドされているから、観終わった後、何とも言えない優しさと、ちょっぴりの切なさに包まれてしまうのだ。

 舞台は地下鉄の高架沿いにあるコメディ・クラブ「ガス・ステーション」。そこでは未来のお笑いスターを目指すスタンダップ・コメディアンたちが、それぞれ個性的な持ちネタでしのぎを削って、何とかチャンスをモノにしようと夜な夜な舞台で汗を流している。

 そのメンバーの中でもズバ抜けた存在感を示しているのが、落ちこぼれの医学生ながら、キレ味鋭い話芸で毎回、聴衆を虜にするスティーブン(トム・ハンクス)。そんなスティーブンを客席から憧憬のまなざしで見つめるのが主婦の傍ら好きでしょーがないお笑いの舞台に、ぎこちなく立っては、毎回冷や汗を流しているライラ(サリー・フィールド)だった。

 本作、とにかく芸達者な名優のトム・ハンクスサリー・フィールドがいい。そして、全編にわたって、心に刺さるといってもいいほどにツボを得たシーンの構成がとにかく上手い。

 ライラには保険のセールスをしている夫のジョン(ジョン・グッドマン)がいて、そのジョンから主婦業をおろそかにしてスタンダップにのめりこむ毎日について、いつも小言を言われている。でも、ライラは、自分の唯一の特技と自認する、人を笑わせるという行為を通して人生のサムシングを見つけたくて仕方がないのだ。

 そこで、ライラはスター候補といってもいいスティーブンにネタの教えを乞おうと相談する。教えて欲しければついてこいと言われ、向かった先は病院。そこで、スティーブンはお笑いの修行も兼ねて、患者相手にスタンダップを披露している。ここで、場所のTPOを的確に突いたあざやかな病院ネタで聴衆を自分のペースに引き込むスティーブンの才能に感じ入るライラの表情が実にいい。

 最初はネタの小遣い稼ぎにとライラにお世辞を言っていたスティーブンだったが、ライラと会話をするうち芸の手ほどきがしたくなり、馴染みのコメディ・クラブの舞台にライラを立たせてみる。すると、ライラは観客を巧みにいじって、ちゃんと舞台を自分のパフォーマンスの空間に変えてみせる。それを見たスティーブンは、感服を通り越してライラに恋心まで抱いてしまい・・といったシーンの積み重ねが本作は本当に巧みなのだ。

 きわめつけは、強引にライラに恋心を打ち明け、結婚まで迫ったスティーブンが、夫を愛しているからとライラに告げられ拒絶されてしまうシーン。卒業試験で落第し、背水の陣でお笑いの道を邁進する覚悟のスティーブンは、主婦の傍ら副業よろしく舞台に立つライラに怒りをぶつけ、雨が降りしきる路上に飛び出し「雨に歌えば」を口ずさみながらジーン・ケリーよろしく、やけくそになって踊る。それをグッとこらえながら窓越しに息を詰めて見守るライラ。トム・ハンクスがキャリアベストと言ってもいいパフォーマンスを披露するこのシーンは何度見ても胸が締め付けられる。

 だが、そんな二人に人生最大のチャンスが訪れる。「ガス・ステーション」で開催されるコンテスト、そこで一位を勝ち取ればネットワークのTV番組の出場権がゲット出来るのだ。

 そして、本作の凄みが最大限に発揮されるのが最後の順番で舞台に立つスティーブンの芸をたっぷりと見せてみせるスタンダップのシーン。ここでスティーブンはいつもの毒舌のイントロが過ぎて、目の前のTVプロデューサーやゲスト相手に辛辣なジョークを浴びせてしまう。これに対し観客たちは水を打ったようにドン引きしてしまうのだ。しかし、ここからスティーブンは、まるで負け試合のボクサーが軽いジャブで試合の態勢を立て直し、勝ち試合のゲームメイクをするかのように、軽いジョークで白け切った客の笑いを引き出しつつ、最後には切り札の持ちネタで見事に舞台を爆笑の渦に巻き込む。

 笑いとはいわばパフォーマーと観客たちとの感情のキャッチボール、とかく繊細なものなのだ。そうした機微や呼吸までも鮮やかに活写したこのシーンの驚きは所見の30年前から今に至るまでまったく色褪せることがない。

 コンテストで優勝するのは果たしてスティーブンかライラか。その結末はホロ苦いけれど、どこまでもあたたかい。

 きっとこの先、スティーブンはスター街道を歩むに違いない。そして、ライラはやっぱり主婦業を続けながら「ガス・ステーション」の舞台に立ち続けるに違いない。キャラクターたちの行く末に見終わった後、思わず思いを馳せてしまうのは本作が優れた作品である証拠。

 今、人生のサムシングを求めて努力をしている人、そしてかつてはサムシングを追い求めていたけど今はあきらめてかすかな苦々しさを日常におぼえている人なら本作を見て、きっと感情を突き動かされるシーンがあるに違いない。

 とにかく本作を事あるごとにずっと見続け、今や成れの果てのようになってしまった負け犬も、そろそろ人生のパンチライン(オチ)のネタ作りにでも励むしかなさそうで、本作のようにちょっとホロ苦い感傷にふける今日この頃なのです

負け犬たちはどこまでもギラギラする!香港映画界きっての狂い咲きのニューウェーヴ「ミッドナイトエンジェル/暴力の掟」

この熱さに血液までもが沸騰する!香港映画が新時代を切り開いたビッグバン!異様なまでの狂い咲きの感覚に五感まで刺激されるワイルドな傑作

(評価 80点)



 

第一類型危険

 火遊びするな!その昔、愛読していた「スターログ」に、当時、SFカルト系映画専門の国際映画祭として一部の映画マニアでは有名だったアボリアッツ国際映画祭のエントリー作品の紹介記事が定期的に載っていた。その時、小さいながらも紹介され激賛されていた時の本作のタイトルが「火遊びするな!」だった。

 しかし、香港映画の本作の原題は、「第一類型危険」。B級映画フリークならこのタイトルにゾワゾワとそそられるものを感じはしないだろうか?そして、そのアンテナに呼応するかのように本作は、すべての限界をブチ破るかのような荒々しいパワーとワイルドな興奮に満ちている傑作といっていい。

 監督は香港映画界きっての俊英ツイ・ハーク。本作製作当時29才だったツイ・ハークが香港映画の新たな地平を切り開くべく野心の全てを本作に注ぎ込んだ。そのせいか、本作は、それまでのイモっぽい香港映画のスタイルとはまるで違うカミソリのような切れ味のニューウェーヴとしか形容しようのないテイストになっている。

 もともと、韓国にせよ香港にせよ、その映画のお手本は日本映画だった。この作品にもあの70年代の日本映画特有のゴキブリのように油ぎった猥雑なパワーに満ちている。



野良猫ロック

 本作の登場人物は一人の少女と3人組のワルにもなりきれないヘタレそのままのひ弱な若者。その3人組が、遊び半分に親の車を勝手に乗り回している最中、起こした人身事故。それを見かけた少女が若者たちを恐喝したことから、とてつもなくワイルドな歯車の暴走が始まる。

 この少女が実にエキセントリック。冒頭、飼っているハツカネズミの頸部に縫い針を突きさしてネズミが悶え苦しむところを冷静に見つめているような異常な少女なのだ。その少女がどこまでも3人組を追い詰め、凶行に走らせていく。まさにこの少女、70年代の日本のプログラムピクチャーに必ず出てきたようなズベ公そのままといっていい。

 そんな少女に脅され、3人組バスジャックをしたことからプロットがシームレスに急展開していくところが見もの。その犯行後、逃げる途中出くわしたのがベトナム帰りの傭兵たちからなる犯罪シンジケートの一味で、その一味が持っていた資金源の証券を少女が奪ったことから、全くのシロウトの若者たちは、シンジケートに追われることになる。

 とにかく本作、その畳みかけるようなスピーディな展開と、アクションの切れ味、キャラクターたちのクレイジー度など、どこをとっても一味違うパワーに満ちている。

 そして、そのパワーがクライマックスに至って爆発する。少女の兄の刑事、そして組織に雇われた殺し屋たち、さらにどこまでも逃げる若者たち、パラレルに描かれていたキャラクターたちが、山の中の墓地に集結し、最後に展開される悲壮なまでの殺し合い。

 まったくのシロウトの若者とプロの殺し屋の壮絶な銃撃戦の果て、たった一人生き残った若者が常軌を逸し狂いだし、笑いながら去っていく終幕の無常観までもが70年代の日本映画の泥臭いテイストそのままだ。



若者と爆弾と

 本作と初めて接したのはレンタル店の隅に置かれていたビデオだった。その時の衝撃そのままに、ヒドイ画質のDVDも買い求め秘蔵していた。しかし、YoutubeにもUPされていた本作を見て驚いた。なにより驚いたのが、その完全版ではプロットそのものに違いがあったことだ。

 それまでのヴァージョンでは、3人組が少女に恐喝されるきっかけが、若者たちが起こした交通事故だった。しかし、オリジナルの全長版とおぼしきそのヴァージョンでは、その恐喝のきっかけが、若者たちが映画館で爆発させた爆弾だった。その騒動の一部始終を目撃していた少女が若者たちを脅すというプロットになっている。

 本作をきっかけに香港映画そのものが洗練する道筋を歩み始めたのはまず確かと言っていい。そこにはプロットの構成も含め、何度も編集を模索した試みがあったのだ。

 ギラギラした熱気、猥雑なパワーに満ちたカルトそのものの本作、負け犬同様にファンの人も多いはず。DVDをお持ちの方は是非、両者を見比べてみては如何でしょう~

負け犬のジャパニーズのウェットな美と因習のエンタメ化に成功した巨匠市川崑による金田一シリーズのベストワン「悪魔の手毬唄」

息を呑むような日本の風景の美しさに畳みかける謎の連鎖。そして、金田一と磯川警部の厚き友情と儚いロマンスに涙までする、紛れもない金田一シリーズのザ・ベスト

(評価 84点)



 

市川崑の美学

 日本映画史にその名を刻む巨人は数あれど、その作品の多彩さ、数の多さ、晩年まで決して衰えを見せなかった長きにわたるそのキャリアといえば間違いなく市川崑ということになるのではなかろうか。

 多才きわまりない、その世界で、この負け犬にもっとも印象深いのが、実は映画でなく、TVの木枯し紋次郎シリーズ。子供の頃に見たその紋次郎で、はじめて映像というものの魅力に開眼したといって差し支えない。そしてそのクリエイターこそが市川崑だった。

 瑞々しい息を呑むような日本の原風景。そこにポツンと佇む点景人物を捉えたロングショットの美しさ。小さなブラウン管で食い入るように見ていた木枯し紋次郎のその映像の数々は、ある意味、トラウマといっていいほど、そのインパクトがこの負け犬の脳裏に焼き付くことになる。

 そして、それから数年後、さらに市川崑から強烈なインパクトを授かることになる。それが、角川映画が打ち出した後年まで続くことになる金田一耕助シリーズの第一作「犬神家の一族」。しかし、本作で受けたインパクトは映画そのものではない。もっとも強烈で改めて市川崑の魅力を思い知ったのが実はタイトル文字の明朝体のレタリングの美しさだった。

 そう、その時、はじめて市川崑がそのキャリアを通じて明朝体の美学、日本の文字の美を追い求めていたことに気付かされた。

 そして、一作目「犬神家の一族」の大成功を経て、作るべくして作られた本作。二作目という事で、とかく柳の下のドジョウ的な扱いの本作だが、その実、本作こそが紛れもなく市川崑が手掛けた金田一シリーズの最高傑作と言っていい。



因習の美学

 日本の原風景の美、そして様式的なレタリングの美学にこだわる、研ぎ澄まされたようなスタイリッシュな魅力に満ちた本作。143分という長尺なのにいつも見始めた途端、みるまに時間が過ぎて、ラストには必ず泣かされてしまう。

 そんな本作、やはり開巻から惹きつけられるのが横溝文学ならではのあのどろどろとした世界。お馴染み石坂浩二扮する金田一耕助が訪れた、ひなびた田舎町の亀の湯という温泉宿で今回、関わるのが、20年前に迷宮入りした事件、そのイントロダクションを司るのが若山富三郎扮する磯川警部。本作、このイキのピッタリ合った両者の名演も実に見所。

 以降の展開は横溝正史の世界を地で行くような、ドロドロとした日本ならではの因習と怨念が渦巻くいつもの世界。

 前作、「犬神家の一族」同様、そしてまたアガサ・クリスティー映画同様、キー・パーソンとなるのは大女優とくれば、犯人は推して知るべしというわけで、岸恵子他の大女優の顔ぶれを見れば一目瞭然、なのだが、原作者横溝正史も自認する通り、本作は横溝文学の中でもベストといっていい。犯人が誰かではなく、その動機、そして犯行の顛末と鮮やかなトリック、それをとりまく人間関係など、すべてが破綻することなくまとまって、ラストのお定まりの金田一の解説で、何の違和感もなく納得させられる。

 そして、本シリーズの例に漏れず、とにかく登場人物の多い本作だが、はて?あの人は誰だっけ?と決してならないのは、市川崑独特の、サブリミナルのような登場人物のカットバック技法のおかげであることに、見ているうちに気付かされる方も多いはず。

 本作のラスト。磯川がSLに乗って去る金田一を見送る。独特な日本の景色をバックに走るSLの姿に、あらためて日本の美の豊かさを感じ入る人も多いはず。

 そして、超ロングショットに黒いマントを羽織ってポツンと佇む金田一の姿に、道中合羽を羽織って歩く木枯し紋次郎を重ね合わせる人も、この負け犬と同じ昭和世代の人たちならきっと多いに違いない。