負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬さんの美人は薄命どころかしぶとく生き残る。その手に握るのは汗ならぬ爆弾だったという件「ハート・ロッカー」

アートの道を志していたキャスリン・ビグローは、さらにポピュラーな大衆的な芸術としての映画に魅せられ、ミロシュ・フォアマン監督のバックアップを得て映画の道に踏み出すが、その後に築いたのは赤字作品の山だった。

(評価 76点)

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 あの「アバター」とアカデミー賞を競い合って見事オスカーをゲット。元、旦那とのガチンコ対決を制したキャスリン・ビグローは華々しいスポットライトを浴びる。しかし、その壇上に立つまでの道は気が遠くなるほど長く険しかった。

 快作「ニア・ダーク」、さらには「ブルー・スチール」という良作を立て続けに放ち、またその美貌からいきなりホットな存在となったビグローにお鉢が回って来たのは、人生最大のチャンスともいうべき「ハート・ブルー」の監督だった。

 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったキアヌ・リーヴスとパトリック・スェイジという超二大スターの夢の顔合わせとなるこのアクション巨編の構想を書いたのはあのジェームズ・キャメロンだった。

 キャメロンが、刑事がサーファーに化けて潜入捜査したら面白いんじゃね、という実に軽いノリで書いたキアヌの役名そのままの「ジョニー・ユタ」というシノプシスの脚本に駆り出された脚本家は十数名にものぼったという。後に旦那となるビグローとキャメロンとの馴れ初めの因縁はこんなところからあったのだ。

 かくして鳴り物入りで公開されたこの作品は見事にコケる(傑作ではないけれど、アウトドアな世界観と刑事ものが意外にマッチしてヒットしてても良さげな作品ではあったのだが)。思えばこれがビグローのコケまくり人生の輝かしいスタートだった。

 普通、コケまくりというのは有り得ない。何故なら普通なら一回コケたら、その監督さんの人生は終わる。ビグローがコケまくり人生を歩めたのも、次なる作品がそのキャリアを象徴している。

 大作でコケたビグローにオファーはない。しかし、その頃、ビグローの美貌に目がくらんで旦那となったジェームズ・キャメロンは「ターミネーター2」を大ヒットさせ得意の絶頂、その勢いであるシナリオを書いた。それが近未来ヴァーチャルスリラーと銘打った「ストレンジデイズ」だった。この「ストレンジデイズ」、当時、シナリオ本をたまたま入手して読んだが、キャメロンがノリノリな勢いで書いたことは十分に感じられたが、はっきり言ってそもそもジャンル分けがしづらい作品だった。

 そしてこの映画化の監督に自ら選んだのが自分の連れ合いだったビグローだったというわけだ。しかし、当然というか、この映画はまたしてもコケる。それも尋常ではないほどの完全な大コケとなる。

 こんな具合に、ビグローの人生はやはり、どこかやっぱりそのルックスがついて廻っているのだ。それから二十年近くもの月日が経ち、その間にもビグローの美貌にダマされて何人ものプロデユーサーがビグローに大作の監督をオファーしてはコケ続ける。

 かくしてそのルックスではなく、演出の腕そのものに心酔するジャーナリスト出身のプロデューサー、マーク・ボールにビグローは救われる。

 2008年「ハート・ロッカー」でビグローは女性初の監督賞という栄誉に輝くのだ。だが、しかし、本作もアカデミー賞を撮りながらも実はヒットはしていない。受賞後のあざといキャンペーンにも関わらずヒットまでには至らなかった。

 本当にいよいよ人生初のヒットに恵まれるのは次作「ゼロ・ダーク・サーティ」でのこと。ハリウッドのヒットへの道はやはりこれほどの美人でもとてつもなく険しいイバラの道なのです、というお話しでした。

 え?作品そのものはどうなの・・とのクレームについては、冒頭の緊迫の爆弾処理のシーンから全編戦争アクションとして申し分なく楽しめましたとだけ(控え目に言ってますが、何回も見ているので気に入っていることは確か)。ただ、初見の時は、とにかく揺れるキャメラには閉口した口です・・トホホ

負け犬さんのキャリア組として生き残るためにとにかく使えるものは何でも使えという件「ニア・ダーク/月夜の出来事」

生き残るために自分が持てるものは全て使う。それがその人の美貌であっても全然、構わないわけで

(評価 76点)

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映画のメッカ、ハリウッド。そこで相応の製作費の下、監督を一任された人間には絶対的な権力が与えられる。だが、その権力はこれもまた絶対不変の代償と引き換えなのだ。その代償とは完成した映画がヒットし、製作費を捻出した出資者に利益をもたらすこと。この鉄則は、映画が見世物小屋の活動写真であった頃から何も変わっていない。その鉄則を満たさないものは容赦なくその存在を抹消される、これが掟だ。

 ところが、そんな弱肉強食の無慈悲きわまりない世界で、生き残っている希少種といってもいい存在がいる。何故、淘汰されずに生き残っていられるのか?つまりその生き物が生き残るだけの何らかのプラスアルファを持っているからだ。

 1980年代半ば、一本のホラー映画が生み出される。ヴァンパイアものにジャンル分けされるその作品は、星の数ほど生み出される低予算のホラー映画の一本に過ぎなかった。しかし、その映画には他のヴァンパイア映画にはない斬新なテイストがあった。ヴァンパイアが古城に住む王侯貴族のようなキャラクターでもなんでもなく、ただ薄汚い現実感たっぷりな成りで、あちこちを放浪するアウトローたちの集団であることだ。それに加えてその作品は、年間数万人に及ぶといわれる全米各地で毎年失踪する青年や子供たちというアクチュアリティなトピックを掛け合わせ、青春ヴァンパイア・アクションとでもいうべきテイストすら持ち合わせていた。

 その作品の名は「ニア・ダーク/月夜の出来事」。その時代、有象無象の低予算ホラーが山積みにされたレンタルビデオ店の棚でふと手に取ったのがその作品との出会いだった。何気なく見始め、蚊が血を吸う、シンボリックなショットからたちまち引き込まれ、それまで全く見たことがないような革ジャンを羽織、全米各地を仲間とジプシーのように放浪しながら生き永らえる斬新なヴァンパイア像に目を奪われた。その快作といっていい作品を見終え、脚本家のクレジットに目を止めると驚いた。あのヒッチャーの脚本家エリック・レッドではないか。だが、さらに驚いたのは、ほどなくして映画雑誌で目にしたその作品のプロフィールだった。

 その監督が、その作品の男性的なタッチからはまるで想像もつかない、キャスリン・ビグローという女性監督だったのだ。その監督の新作が早々と公開されることになり興味津々で駆け付けたのを覚えている。そのタイトルは「ブルー・スチール」。

 一人の女性警官とサイコパスの男との因縁の対決を描くその作品は、出来としてはいささか平凡ではあったが、やはり前作に負けず劣らず力強い男性的なタッチで、加えて女性には似つかわしくない明らかに銃器へのフェッティッシュともいえる偏愛をにじませるタイトルバック通り、購入したパンフレットには本人がガンマニアであるとのプロフィールの記述と共にキャスリン・ビグローその人の写真が載っていて、その美しさには仰天した。

 というわけで快作「ニア・ダーク」。なかなかDVDが入手できず、再見出来なかったが、最近、再見がかない、特典のメイキングでビグローの話もじっくり聞くことが出来た。

 ビグローのキャリアでとかく有名なのが作る映画がどれもコケ続けたこと。ヒットどころかどれも手酷い赤字の映画ばかりなのだ。しかし、ビグローが生き残り続けてこれたのは、当人はあまり触れられたくないだろうが、その美貌の話題性が一つにあったことは明らかだ。

 親の七光りだろうが、何でもいい。何か光るものがあればそれを武器にしぶとく生き残るのが、ビジネスの鉄則なのだから。それは、まさに人間の生き血を吸って永遠に生き永らえるヴァンパイアにもどこか似ている。特典で落ち着いて語るキャスリン・ビグローには、まぎれもなくそんなタフな美しさがあった。

 ただ、過去に見た時は文句なしの快作に思えた本作だが、意外と展開が雑であったり陳腐なところは否めなかった。本作も見事に興行的に大失敗したことはメイキングでも語られていたが、実際にビグローがヒットといえるものに初めてめぐり合えるのは、これから20年以上も経ってからの話となる。

 そのキャリアもその美貌あってこそ、したたかなものですな~

 

 

木枯し紋次郎 第三十一話「怨念坂を蛍が越えた」 初回放送日1973年2月10日

魔物を狩る蛍に男の意地を見た

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<村にいついた半端者の渡世人、蛍の源吉は酔いどれのお六という女から怨念坂の化け物のことを聞かされる。村の顔役の大総代の女房お冬は、お六が村に流布させている化け物のうわさ話を払拭するため、怨念坂にうわさの真偽を確かめに行く者を募るが、名乗り出たのはその蛍の源吉だった。蛍の源吉が自分と同じく姉の存在に思慕を抱いていることを知る紋次郎は、その源吉と行動をともにし、怨念坂へと向かうが、そこで紋次郎たちが見たのは、二人を待ち受ける化け物ならぬ浪人たちの姿だった>

 

 お六を演ずる東映の看板女優でもあった太地喜和子が艶っぽい魅力を見せる本作。悲惨な事故死が今でも悔やまれる女優さんだが、実生活での酒好き同様、本作でも酔いどれ女を演じている。その酔いどれのお六と対照的なのが大総代のお新造さんのお冬。この二人の女と、蛍の源吉が関わったことから、源吉はうわさの真偽を確かめるべく怨念坂へと向かうことになる。

 この源吉を演ずるのは、本シリーズ中、屈指の傑作の誉れも高い第二話「地蔵峠の雨に消える」ですでに渡世人の十太を演じている高橋長英

 この源吉と紋次郎が語らうシーンは印象深い。源吉にはかつて嫁に貰われたため生き別れとなった姉がいた。源吉にとってのその姉がいわば瞼の母のような存在となっている。間引きを救われた姉に今も思いを寄せる紋次郎が源吉と共に怨念坂へと向かう時、源吉に言う言葉

「何かを探している、誰かを待っている、そんな人間の目はあっしには良く分かる・・」とのセリフは源吉へのささやかなシンパシーだ。

 無関係だったお六とお冬が接点を持ったことから、ミステリアスな怨念坂の都市伝説が、最後の悲劇へと向かっていく。

 成り上がった女が自分の過去を清算しようとするこの結末に、あのハードボイルドの大傑作「さらば愛しき女よ」を想起するのは自分だけか。

 最後に運命的な対峙を果すことになったお冬と源吉。燃える提灯の炎に照らされ、その源吉への手向けの言葉の如く「せめて蛍の源吉と呼んでやってくれ」とお冬に言い放って背を向けて去っていく紋次郎のシビれるほどのカッコ良さが秀逸な一篇だ。

 ちなみに数々の日本映画でバイプレイヤーとして印象深い蛍の源吉役の高橋長英さんは、中村敦夫氏と同じ俳優座の出身で二年後輩。兄貴肌の敦夫氏は長英、長英と呼んで可愛がっておられたようです。

負け犬さんの神経症の妊婦はかくも怖いという件「ローズマリーの赤ちゃん」

多分、この映画は妊婦さんに見せたらヤバイ。実際にガリガリ君みたいな勢いでガリガリ痩せていくミア・ファローが何よりも怖い

(評価 78点) 

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今更ながらのホラー映画の傑作との誉れも高い「ローズマリーの赤ちゃん」。実はこの負け犬、恥ずかしながら未見だった。最近、また「水の中のナイフ」を見直し、ポランスキーの才能に驚嘆したこともあり、いそいそと見てみましたが、さすがはポランスキー、見事な作品だった。

 あの不滅のエンターティナー、サミー・デイヴイス・ジュニアの著書「ハリウッドをカバンにつめて」の中にサミーが本作をニューヨークの劇場で公開時に鑑賞した時のことが書かれていた。

 本作のクライマックス。最後いよいよミア・ファロー扮するローズマリーが戸棚の背後に隠された秘密の部屋へと続く廊下に踏み込み部屋を覗き込む。その時、劇場で席を埋め尽くした観客たち全員が一斉に同じ方向に首を傾げて自分自身が部屋を覗き込む仕草をしていたという。この本を読んだのは30年以上も前。何故かその本のその一節がずっと記憶に残り、気にはなっていた映画ではあった。

 本作はまさにサミーのこの一節通りの映画と言える。ホラー映画とはいえ、こけおどしの描写やシーンは全くない。あるのは妊娠し、新たな命を体内に宿した女性が日々の生活の些細なディテールに怯えるニューロティックな日常の描写だけといっていい。だが、それなのに見事に怖い。ポランスキーはこの些細なディテールを実に巧みにすくいとり、淡々とそれを積み重ね、観客をヴァーチャルなレベルまでローズマリーに感情移入させてみせる。サミーが劇場で目撃した観客のリアクションからもその演出術がいかに見事に作品に結実したかが分かる。

 本作のイントロダクションとして必ず出てくるのが、ローズマリーが住むマンションの隣人たちが悪魔崇拝者であるというものだ。しかし、クライマックスに至るまでそれを示唆する直接的な描写はほぼ出てこない。ただ、パラノイアックな妄想に捕らわれ変容していくローズマリーを執拗なまでに追っていく。しかし、他の監督であれば退屈になりがちなこの展開が、ポランスキーの手に掛かれば独壇場といっていい世界へと変わっていく。現実のシーンにそのまま土足で入り込んで来るような妄想シーンの卓抜な描写、ガリガリに痩せていきバッサリとショートヘアーにして目に隈を作って怯えるローズマリーの異様さ。

 実はこの作品の原作は大昔に呼んでいた。確かあとがきの解説の著者アイラ・レヴインのコメントによれば本作の着想は自分の妻が妊娠し、日々、感情が不安定となっていく様子を見守るうち、何だか子供を身ごもった妻が別の異様な生き物にメタモルフォーゼしていくような感覚にとらわれたことだったと述べていた。

 映画はまさにこのエッセンスだけを純粋にろ過して、ローズマリーの変わりっぷりを見せてくれる。最後にローズマリーが自分の赤ちゃんと対面し、最初は恐怖するばかりだったのに、泣き出した我が子に気付きあやそうと乳母車に手をかけたローズマリーの表情は確かに別の次元の生き物にでも変容したかのような表情を見せていた。

 とにかくフォビアやパラノイアを描かせたら右に並ぶものがないポランスキーの代表作であることは間違いない。しかし、一番の見物は隣人のキャスベット夫妻のキャスベット夫人を演じたルース・ゴードンの素晴らしさ。この一見、大阪のオバチャンみたいなルース・ゴードンが何より本作で一番、怖かった。

負け犬さんの無賃乗車も命がけの件「北国の帝王」

列車のタダ乗りのためだけに激闘する男たち?そんな企画が通った上に、傑作映画が誕生するそんな夢のような時代が存在した。

(評価 90点)

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本作の存在を知ったのは、映画雑誌に載っていたアーネスト・ボーグナインのシャックとリー・マービンのエースが血みどろで取っ組み合いをするたった一枚のスチル写真だった。映画の内容そのものについてのキャプションらしきものも特に無く、どんな映画なのかはその写真だけでは伺いしれなかった。

 実際の映画を見ることが出来たのは確か東京12chの「木曜映画劇場」だったと思う。見始めるとムクムクとある思いが湧き上がってきた「まさかこの映画、列車の無賃乗車のネタだけで引っ張るつもりじゃねえだろうな?」しかし、そんなことなど有り得ないと我ながらそんな考えは一蹴したのを覚えている。

ところが、この映画はやってくれたのだ。ただひたすら全米各地を無賃乗車で渡り歩くホーボー界の英雄エース(リー・マービン)とそんなホーボーたちから恐れられている鬼車掌のシャック(アーネスト・ボーグナイン)が男と男の意地をかけて列車のタダ乗りというアホらしいとしかいいようのないことをめぐって戦い、最後の最後まで本当にそのネタだけで引っ張るだけでなく、ものの見事にノックアウトしてくれた。そして、こんな内容だけで映画が成立するという新たな驚きを自分に与えてくれたのだ。

 映画のストーリーなどあってないようなもの、エースは売り出し中のホーボーと自認する若輩者シガレット(キース・キャラダイン)と知り合う。エースは少しは見所がありそうだとシガレットに無賃乗車のイロハやホーボーが何たるかを手ほどきしてやる。ところが、このシガレットが食えない奴でエースも手を焼くばかり。最後にエースが19号列車のタダ乗りを賭けてシャックに宣戦布告した運命のタダ乗りバトルでもこのシガレットは、師匠のエースを平然と裏切るようなことまでやってのける。だが、それなのにそのシガレットがシャックに追い詰められ窮地に陥った時、エースは決然と現れ、シガレットを救ってやるのだ。そしていよいよエースとシャックとの運命の一対一の決闘が始まる。

 このクライマックスのエースの漢気に血が沸騰するような興奮を覚えるのはこの負け犬だけだろうか。たかが男、されど男。そんな男二人が貨物車両の荷台の上で鎖や木材で格闘するこのシーンのエキサイティングなこと。そして決着がつくのはエースがいよいよ手にしたオノの一撃だった。

 オノを食らってシャックが雄叫びを上げるカットは、初めて見た時からその後今に至るまで何十年も自分の脳裏に刻み付けられることになる。

 アメリカ映画は、さまざまなすぐれた技術を持っているが、かねてからアメリカ映画の強みの最たるものはトリミングだと思っている。つまり描きたいもの以外は潔くバッサリと切り捨てる技術だ。本作の場合、男たちのタダ乗り争い以外の無駄なものは一切、切り捨てられている。それがシンボリックに表れているのが本作には実に女性という存在がまったくといっていいほど出てこないことだ。唯一、セリフらしきものがある女性が、シガレットが師匠のエースと共にしがみついていた列車の屋根から降りるときに窓から覗き見たワキ毛を剃る女性(フェミニストの人たちが見たら怒るほどのイヤミすら感じられる描写)であることからも、それが意図したものであることは明らかだ。

 シャックを列車から突き落とし、勝利を収めたエースは、シガレットをもぶん投げる。河に落ちたシガレットに向かってエースは、お前にホーボーの資格はない、二度と線路に近付くなと啖呵を切る。そして、その声と共にエースを乗せた列車が遠ざかっていくところで映画は終わるのだ。

 何度見ても、胸がすくだけでは収まらない、熱い高揚感に満たされる、何回好きだといっても言い足りない、とてつもなく好きな映画なのです。

 とはいえ、やっぱりフェミニストからは評判悪そうな映画だよな~

負け犬にならないために、ビジネスモデルにおける仕事へのこだわりについて「エイリアン3」

「エイリアン2」の大成功により早々に企画された「エイリアン3」。しかし、そのプロジェクトは当初から難航を極める。そして紆余曲折を経てようやく出来上がった作品は批判の矢面に立たされる。

(評価 70点)

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あのデヴィッド・フィンチャーの監督デビュー作として名高い本作。そして、また作品的には悪名高い本作。公開当時の「キネマ旬報」に掲載されたメイキングからその成り立ちとビジネスモデルとの関係をひもとく。

 当時、MTVの世界で活躍していたデヴィッド・フィンチャーが本作の監督に抜擢された時、主演のシガニー・ウィーバーは、この劇映画未経験者の未知の監督について正直不安を抱えていた。しかし、撮影初日、現場における綿密かつ適切なその新人監督の振る舞いに一気にその不安も解消する。企画段階から二転三転したシナリオから部分的なイメージが取り入れられた最終稿をもとに撮影は進む(初期に参加していたヴインセント・ウォードによる最もユニークな木造の宇宙船のイメージが採用されなかったのは残念)。

 かくして完成にこぎ着けた「エイリアン3」だったが、その作品はありとあらゆる酷評にさらされる。公開時に劇場で本作を鑑賞した時も、確かに作品的には失望せざるを得ないものだった。シリーズもので期待されるのは必然的にグレードアップ。となれば観客は誰もが当たり前の如く前作の「エイリアン2」よりド派手でエキサイティングなものをとなる。しかし、出来上がったものたるや・・・

 だが、鑑賞前から酷評はある程度耳にし、作品のあらましは知っていた。手ひどく失望はしたが、ある程度の想定内。ただ、しかし、その作品にはまぎれもなく光るものがあった。

 一番、感心したのがシーンのコンテニュィティ。囚人惑星の医師、ジョナサンがエイリアンに襲われるシーンの卓抜なカット構成、ニュートが検死解剖されるシーンのちょっとしたアクセント・カット。排気孔の換気扇を前に作業員が襲われるシルエットショット。MTV出身者にありがちなせっかちな映像ではなく、あくまでもきっちりとコンテを踏まえた堅実な映像感覚に好感が持てた。

 とはいえ、世間の本作に対する批判の激しさは尋常ではなかった。新人監督の独りよがりに過ぎないという手酷い批評も目についた。作品的には、その手の批判は頷かざるを得ないものではあったが、フト目に止まったのは、前出のキネマ旬報の特集号におけるフィンチャーのインタビュー記事の中のある発言だった。

 「機会があればもう一度、一からこの作品を作り直したいんだ」

 山ほどのトラブルを抱え難産の末の産物が酷評にさらされる。新人監督としては思いだしたくもない作品のはずだ。それなのにフィンチャーはそう言った。それを見た時、こいつはただ者じゃないと思った。自分の作品に対する貪欲なこだわりというものが感じられたからだ。

 かくして、その2年後にフィンチャー「セブン」で見事にブレイクする。

 とかく浮き沈みの激しい弱肉強食のハリウッドでフィンチャーが今も第一線の監督として活躍しているのは周知の通り。作品の評価はまちまちにせよ、誰もがフィンチャーの作品をして否定できないものが一つある。自分の作品に対する飽くなきこだわりだ。どの作品にもわすかでも作品のクォリティを高めるための他の監督には見られないきめの細かい貪欲な姿勢が感じられる。

 これはおそらくクリエイティブなジャンルの仕事だけに限った話ではないのでしょう。ビジネスの世界でも最後まで生き残るのはあくまでも自分の仕事に対し貪欲なこだわりを持つ者だけに違いない。

負け犬さんの出世する奴はパワハラにも屈しない件「エイリアン2」

たとえ無理難題を吹っ掛けられても出来ない時は出来ないとハッキリ言える奴が出世する。出世する奴としない奴との別れ目は最初から決まっているのかもしれない。

(評価 80点)

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まったくの下働きの裏方から見事「ターミネーター」をヒットさせ一躍、注目されることになったジェームズ・キャメロン。当然、そのキャメロンにはいくつものオファーが舞い込む。当時、キャメロンはランボーの続編「ランボー怒りの脱出」の脚本に没頭していた。その時、業界のとある大物プロデューサーから脚本の執筆を任される。何せ相手は業界の実力者、その威光もあってキャメロンは、そのオファーを引き受ける。

 ところが、「ランボー怒りの脱出」の脚本はたちまち書きあがったものの、肝心のそのオファーの脚本がどうしても書けない。そこでキャメロンは、脚本が書けないことを正直にそのプロデューサーに申し立てた。するとそのプロデューサーはキャメロンに向かってこう言い放った。

「お前をこの業界で一生、働けなくさせてやる!」

 しかし、キャメロンは屈しなかった。書けないものは書けないと言い放ち、そのオファーを決然と蹴ってみせたのだ。

 キャメロンも人の子、不安に苛まれる日々を経て、それから、間もなくキャメロンのもとに20世紀フォックスから呼び出しがかかる。何か企画はないのかというのだ。

 意気揚々と出かけたキャメロンは、20世紀フォックスの執務室でちょうど温めていた企画を熱弁する。その企画とは、遺伝子操作によって奴隷のように扱われていた人々が、反旗をひるがえしたリーダーの下、隔離されていたコロニーから脱走を図るというSF版「スパルタカス」というものだった。ところがキャメロンの自信満々のプレゼンにも関わらずその企画は既に類似企画があるということで敢え無く一蹴される。もうこれまでか、とキャメロンがあきらめかけた時、その重役がキャメロンにこう告げた。

「ちなみにエイリアンの続編の企画があるんだけど、どうかな?」

 そこから如何にしてキャメロンの輝かしいキャリアが積み上げられていったかは蛇足でしょう。

 この話にはビジネスの世界でキャリア組になるかならないかについての一つの教訓がある。たとえば自分がスタートアップに等しい成り上がりの存在にしか過ぎない時、組織の大物から下されたオーダーは絶対的に服従するでしょう。それについて無理だと言える勇気があるかないかということです。

 結局、どんな世界でもそうなのでしょうが、人間的に正直でいられるか、いられないかで差がつくという話なのでしょうね。