負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬さんのアンダードッグ効果のニセ札捜査で無茶ぶりしたらすっかり蘇った件「LA大捜査線/狼たちの街」

すっかり落ち目な大監督が本気出したら、狂い咲きみたいでスゴかったのともう一つのエンディングにもビックリした

(評価 89点)

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オープニングのタイトルバックのカッコ良さには悶絶必至

やっぱりウィリアム・フリードキンだぜ!と劇場で思わず喝采を上げた本作。まさに本気モードで狂い咲いたかのような狂気の傑作でした。

 退職間際の無二の親友を殺されたLAのニセ札捜査官のシークレット・エージェントがどこまでも偽札犯を追い詰めていくうち、どんどんエスカレート、そして行き着いた先は・・。

 とにかくもうのっけのオープニングのタイトルバックの超絶的なカッコ良さ(今まで見た映画の中でもっともカッコいいタイトルバックかもしれない)、から主人公チャンス(ウィリアム・L・ピーターセン)の橋からのダイブのエキセントリックな行動、親友ジミーの死、ニセ札犯マスターズ(ウイレム・デフォー)の不敵な存在感(マスターズがワンチャンの音楽をバックにニセ札を作る工程を捉えたシーンは陶酔もの)、そしてあまりにも非情なエンディング。

 ところで本作、その非常過ぎるクライマックスが誰にとっても衝撃的でもっともインパクトがあるのですが、実は本国版のDVDのみに収録されている、もう一つのエンディングの存在をご存知でしょうか?

 本編では、主人公のチャンスがいよいよマスターズに手錠をかけんとした時、反撃され、顔面を撃たれてあっけなく死ぬ(主人公があっけなく死ぬこの非情さに劇場では驚きの声すら上がっていた)が、撮影され編集までされているこのもう一つのエンディングでは、腹部を撃たれたチャンスがベッドに横たわり、相棒のヴコビッチと共に事件の顛末を伝えるTVを見ている。そしてキャメラが屋外に出ると、そこは何故か雪山の頂上にある小屋で、そのまま本編と同じワンチャン(wang chung)のエンディングが流れ、空撮で捉えたその小屋が小さくなるところで終わる。

 このエンディングと最終的なエンディングがどのような天秤にかけられたかは分からない。インパクトからすれば、勿論、今のエンディングだろうが。何にせよ全編を貫くドライな感覚と狂気のようなテイストは、日本の気鋭のクリエイターのハートまで撃ち抜いた。

 本作が北野武のデビュー作「その男凶暴につき」に多大な影響を与えたことは良く知られている。最後に行動派の主人公と慎重派の相棒が入れ替わるところは本作からちゃっかり拝借されている。

 主人公のチャンスがポパイ、相棒のヴコビッチがクラウディ、まさに80年代版のフレンチコネクションとでもいうべき本作で蘇ったかのようなフリードキンは、後にエキセントリックな異常さではこれをも上回る「キラー・スナイパー(キラージョー)」という傑作も76才という高齢にも関わらず作ってくれた。

 とにかく負け犬としてはフリードキンの無茶ぶりにまだまだ期待したいのです。

負け犬さんの冷え切ったピザとコーヒーはマズイという件「フレンチコネクション」

もう何十年間もブッ飛ばされ続けるダイナマイトのようなこの作品の凄さは一体何なんだ!

(評価 96点) 

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あの文豪、池波正太郎の名著『食卓の情景』に本作「フレンチコネクション」について言及したくだりがある。あの屈指の名場面。麻薬組織のトップ、シャルニエ(フエルナンド・レイ)に喰らいつくように尾行し続けるポパイ(ジーン・ハックマン)が高級料理店で食事をするシャルニエたちを店の外から監視するシーン。足の指すらちぎれそうな凍てつくアスファルトの冷たさに足を打ち鳴らしながら、自分たちは冷えたピザにパクつき、これも冷たく冷え切ったコーヒーをすすりながら、あたたかそうな店の中でフランス料理をたしなむシャルニエをうらめしそうに見つめるシーン。フリードキンが店の中から巧みなズーミングで店の外の刑事二人をとらえたこのョットを池波正太郎は食通ならではの同氏らしく映画通にはこたえられない、背筋に寒気が走るほど、と形容している。

 この超弩級の作品をリアルタイムで劇場で幸運にも鑑賞した池波正太郎氏と比べ、こちらの初見は、テレビの「ゴールデン洋画劇場」枠での初めての放映の時だった。それ以来、何十年と見続けていても微塵も衰えることのないこの作品の爆発的なその破壊力のスゴさとは一体何なんだろう。

 思えば、言わずと知れた本作の監督ウィリアム・フリードキン。そのキャリアは確かに長いけど、秀作といえる作品は本作を含めほんの数本しかない。そしてその作品の特徴はどれもこれもどこかいびつなことだ。

 本作もアカデミー作品賞には輝いたが改めて見ていつも思うのは本作がお世辞にも良く出来た映画などではないこと。キャラクターが描かれ、ドラマが進行し、クライマックスに導かれてエンディングに至るドラマツルギーなどとはまるで無縁、ぶっきらぼうで、無骨、構造としてはどこか凸凹している。悪く言えば出来損ないで取っ散らかった印象を受ける。

 しかし、そのアンバランスさは、そのフィルモグラフィからうかがい知れるウィリアム・フリードキンの体質そのものなのだ。そして、そのアンバランスさが、この作品では奇跡的に吉と出ただけなのだ。計算でも何でもない、ただ偶発的に生まれ出た。だからこそ経年劣化などしたくてもしようがなかったのではないのだろうか。

 走るポパイとクラウディをどこまでも追いかける手持ちキャメラのショットのパワー。車の解体工場でシャルニエのロールスロイスを完膚なきまでに解体していくポパイの鬼気迫る表情を捉えるキャメラ。すべてを凍てつかせるほどの凶暴なニューヨークの冷え切った冷気を伝えるキャメラ。それら全てによってこちらにストレートに伝わって来るザラついた質感はまさしく本物以外の何物でもない。

 後年、本作のポパイことドイルのモデルになった人物のエディ・イーガンが麻薬課の課長を演じていた人物その人であることをメイキングで知った。そして本作を撮った時の、若きウィリアム・フリードキンの撮影に打ち込むファナティックぶりが狂気の沙汰としかいえないほどの所業だったことも。

 う~ん、やっぱり古今東西の如何なるジャンルの作品であれ、金字塔級の作品が生み出された背景には狂気と正気が紙一重の一線の淵みたいなゾーンが必ずと言っていいほどあるのですよね~これを常人にははかりしれない恐怖の未体験ゾーンというのでしょうかね~♪

負け犬さんのカチンコチンに凍ったスープはマイアミの太陽で溶けるのか?「真夜中のカーボーイ」

一人では凍え死ぬような寒さでも、二人で寄り添えば少しはしのげるのかもしれない。たとえその二人がどうしようもない負け犬みたいな連中でも

(評価 89点)

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テンガロンハットを被った滑稽な男と足を引き摺るみじめな小男が身を切るようなニューヨークの風にさらされて遠くの方を歩いて行く。チケットを買う金など無論ないが二人が目指そうとする場所はグレイハウンドバスの停留所。そのバスに乗りさえすれば今の生活から抜け出せる。何故ならそのバスの目的地は太陽が降り注ぐ二人だけのドリームランド、マイアミなのだから。

 誰の心にも永遠に刻まれているキャラクターというものがいるのではなかろうか。自分の場合、それが本作のジョー(ジョン・ヴォイト)とラッツォ(ダスティン・ホフマン)のシルエットのような気がする。思えばニューシネマの代表作には男二人の映画が多い、「イージーライダー」、「スケアクロウ」、「明日に向かって撃て」、どの映画でも男二人がさすらい旅をする。そして、あるものは尽き果て、あるものはさらなる旅に出る。

 カントリーボーイのジョーは片田舎から長い旅を経てあこがれのニューヨークへとやって来る。しかし、そこで目にしたものは”拒絶”という厳しい現実だった。文明社会の一つの到達点ともいえる大都会でジョーを受け入れる余地のある唯一の人間は、これもまた社会のシステムから廃棄されたようなラッツォしかいなかった。

 解体寸前のアパートの一室に居座り、スープすらカチンコチンに凍り付くようなその空間で小動物のように震えながら時を過ごす二人。42丁目のゲイの溜まり場で、何とか日銭を稼いだジョーがスープをラッツォに与えるが、もうラッツォはそのスープをまともにすする事すら出来ない。

 日本の映倫にあたるコードで成人指定されながらアカデミー賞を受賞した唯一の作品として未だに名高い本作。初めて見たのはTVの深夜劇場だった。以降、トゥーツ・シールマンスのハーモニカの音色と共に、ただひたすら寒そうに震えながら連れ立って歩くこの二人が自分の脳裏のどこかにいつも巣食っている。最初はカウボーイのいでたちという虚飾を身に纏っていたジョーが最後に何かが吹っ切れたように、テンガロンハットを投げ捨て、カジュアルな服装になって、バスの席でラッツォが汚してしまった下着を変えてやるところに一番、胸をつき動かされた。

 そして、何の自己主張をすることもなくバスの窓に額をつけてそのまま息絶えるラッツォ。そんなラッツォの肩をしっかりと抱いてやるジョーで映画は終わるが、明らかに冒頭のジョーとは何かが格段に違うその表情に、見るたびにいつもかすかな希望を感じるのだ。

 最近になって、最初のニューヨークへと向かうバスのくだりで、最終的にはカットされたが、あのアル・パチーノが端役で出演していたことを知って驚いた、その後、パチーノは成功したが、ひょっとしてこの当時は、ジョーやラッツォが住んでいたようなアパートで凍ったスープをコンロで沸かしてすすっていたのかもしれない。「卒業」でブレイクした後、本作に出演したダスティン・ホフマンにしても、この当時は役を貰うのに必死の状態だったという。

 人間の夢というものを食い尽くして巨大化してきたハリウッドという怪物の名の下に一体、どれほどの人間が死に絶えていったのだろう。誰もがそれなりに努力をするのは皆同じだ。でも、その努力が実る確率はほぼゼロに近い。それでも人間という生き物は性懲りもなく夢を育ませ都会という怪物に食われるためにやって来る。

 負け犬には、この映画がそんな人々に対する鎮魂歌に思える時があるのです

負け犬さんのヒッピーがただバイクに乗ってフラフラしてドラッグでブッ飛んだら名作になっちゃった件「イージー・ライダー」

子供の頃、あの有名なチョッパーで疾駆するこの映画のポスターがあちこちに貼られていた。そのカッコ良さや自由な空気こそまさにアメリカそのものだった。

(評価 78点)

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映画とは、映画会社のエライ重役連中が会議で企画を立案し、予算が組まれ、俳優やスタッフたちが集まってスタジオで撮影され出来上がり公開される。ガキの頃の負け犬はボンヤリとそう思っていたし、テレビで放映される映画もハリウッドスターたちがスタジオで繰り広げるそうした劇映画が大半だった。だから、ヒッピーみたいな連中が野外でそこらをウロウロするだけをテキトーに撮っただけみたいな映画が存在すること自体、想像もつかなかった。

 確か、これをTVで見たのはそんな小学生の頃。記憶する限りただ一度しか放映されたことのない日曜洋画劇場だった。

 まあ~ある意味、衝撃だった。まったくストーリーはないし、何せ小学生ごときのその頃ではまだ、ロックの名曲の数々の良さなど分るわけもないし、何だかやたらとヌードが出て来るし、男まで気軽に素っ裸になるし、遂にはあのトリップ・シーン。あまりのわけのわからなさに奇妙な恐怖感すらありましたね。それでも最後、キャプテン・アメリカが唐突に吹っ飛ばされるシーンには子供ながらいいしれぬ物悲しさを感じたのも確か。

 いずれにせよ、世の中にはこんな映画もあるのだという一つのトラウマチックな記憶として脳裏に深く刻み込まれたことは間違いない。

 いまではDVDで事あるごとに見て、映像や音楽は勿論、ニューシネマの空気感に触れることが出来る、たまらなく心地のよい、一つのかけがえのない作品となったわけだが、そもそも本作の企画が、デニス・ホッパーがインスピレーションで閃き、仲間たちに身振り手振りで聞かせた本作のそのストーリーに魅了されたことだったことを、特典のメイキングで最近知った。

 それは、いわば痩せ馬にまたがったカウボーイならぬチョッパーに乗ったキャプテン・アメリカピーター・フォンダ)がドン・キ・ホーテの如くアメリカ大陸をさすらい失われたアメリカン・スピリッツを求める寓話とでもいえようか。一見、中身のないものでも、時代を経てもそのインパクトが色褪せないものというのは常に厳格な骨格というものがあるのだ。本作であまりにも異質なカーニバルの映像が、テスト的に撮影したフィルムフッテージをそのまま用いたことも、結構、貫禄の入ったオバチャンになったカレン・ブラックなどが明かしている(カレン・ブラックは本当にニューシネマのクイーンだった)。そして、撮影では皆、本当にドラッグをやってハイになったことも。

 そこには商売っ気やビジネスなぞ欠片もなかったに違いない、ただ自分の撮りたいものを撮りたいように作るだけという何物にもとらわれない自由なスピリッツがあった。このちっぽけな作品が運命のイタズラか、世界中で大ヒットしたことで、映画はスタジオというお仕着せの空間を飛び出して、まるでボーントゥビーワイルドに乗ってチョッパーで疾駆するワイアットとビリーのように自由に羽ばたき始めるのだ。

 それにしても本作で酔いどれ弁護士を演じた若きジャック・ニコルソンがミッミーとかって言って奇声を発して怪演するシーンは何度見ても笑えるなあ~

 

 

負け犬さんのプロジェクトリーダーはいい人であってはならないという件「アビス」

”サノバビス!”出演者たちは皆、異口同音にそう言って、この映画のことを口汚く罵った。でも、その結果、生み出されたのはとてつもない感動の塊という結晶だった。

(評価 84点)

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「エイリアン2」をヒットさせたジェームズ・キャメロンが、机の引き出しに描きためていたいくつものノートの中から、次なるプロジェクトとしてチョイスしたのは、海洋の深海帯に存在するエイリアンと人類との接近遭遇を描く壮大な海洋アドベンチャーだった。また、それは同時に、少年時代にのめり込んだダイビングへの愛情をストレートに表現するというパーソナルな作品でもあった。

 かくして製作を開始したキャメロンの前に立ちふさがったのが、本編の90%を占める水中撮影のメソッドだった。今まで誰も見たことがないスケールとリアルさの水中撮影を求めるキャメロンには、実際の海洋での撮影は、作業面でも費用面でも困難なことが分っていた。そこで考えついたのは、廃棄された石油タンクの中にセットを建造するという画期的な方法だった。こうして巨大なプールと化した石油タンクの中でかつて誰も見たことがないような水中撮影が始まった。

 もう数えきれないくらい何度も見ているこの作品、それでも見るたびに圧倒され感動させてくれる、キャメロンの作品の中では未だに負け犬的NO1の作品だ。何度も見ているにも関わらずいつも度肝を抜かされるのは、前述の石油タンクに実際に建造した巨大セット。ミニチュアではない本物の圧巻の凄さだ。そして、キャメロン印というべきか、全編を貫くいつもながらのキャメロン独自の熱量だ。ディレクターズカット版だと3時間近くになるが、片時も飽きさせずグイグイエンディングまで引っ張るその力技にはもう感服するしかない。

 しかし、ご存知の通り、本作はキャメロンのフィルモグラフィ中唯一、ヒットしなかった。しかし、往々にしてヒットしなかった作品にはクリエイターのパーソナルな側面が反映されているものだ。本作も例に漏れず壮大な海洋アドベンチャーという体裁を取りながらも、その実描かれているのは一組の夫婦が信頼と愛情を取り戻す、などといえば聞こえはいいが、要はよりを戻すだけのささやかなお話しだ。おそらく、それがヒットしなかった要因かもしれないが、逆に言えば負け犬が最も好きなのはそこなのだ。

 エイリアンとの接近遭遇による事故で深海の奥底に沈没した原潜モンタナ。海兵隊の精鋭メンバーと共にその回収作業を委託されたのは、たまたま近海の石油採掘リグで採掘作業を行っていたバド(エド・ハリス)他の作業員たちだった。バドは海兵隊のメンバーと共にリグに乗り込んで来たエドのかつての妻であり、採掘リグの設計者でもあるリンジー(メリー・エリザベス・マストラントニオ)と反目しつつも協力し原潜が横たわる更なる深海へと向かう。

 何より素晴らしいのは、採掘リグのセット。中でもメインの舞台となる潜水艇が発着するムーン・プールのセットの素晴らしさは圧巻の一言に尽きる。まだこの頃はキャメロン自身がデザイン画も手掛けていたが、その本人によるセット画の見事さにも舌を巻く。

 とにかく本作、見ていても困難な撮影だったことが良く分かる。本作のメイキングではワンナイト・リサ役のキンバリー・スコットが、クルー全員があまりの過酷な撮影に音を上げて本作のことを蔑称の”サノバビッチ!”ならぬ”サノバビス!”とアビスを文字って呼んでいたことが明かされている。だが、それ程キツイ撮影と引き換えにプレゼントの如くもたらされたのは、かけがえのない感動でもあった。

 本作、屈指の名シーンは、SFXもアクションも全くない、潜水艇から仮死状態で連れ帰ったリンジーをかつての夫だったバドが、サブベイのデッキでメンバーたちと共に必死で蘇生を施すシーンだ。このシーンでは俳優たちがキャメロンの鬼のようなシゴキにも似た撮り直しを強要された。リンジー役のメリー・エリザベス・マストラントニオはあまりのヒドさに耐えかねて、泣きわめいて撮影が中断される事態にもなった。しかし、それに俳優たちが耐え抜き最高のポテンシャルが引き出されたこのシーン、メンバーたちが必死でAEDによる蘇生を行い、バドが絶叫しながらリンジーに施した心臓マッサージで遂に息を吹き返す。このシーンを見るたびに負け犬は、込み上げてくる感動と共に熱い涙がとめどもなく溢れてくる。そしていつも思うのだ。ここでリンジーが蘇生したのを見て全員が肩を抱き合いながら流した涙は俳優たちの真実の涙だったに違いないと。

 リーダーに課せられる役割というのが、人間のポテンシャルというものを最大限に引き出すものだとすれば、クルー全員から憎まれ、嫌われながらもそれを見事に完遂させた本作におけるキャメロンはまぎれもなく最高のプロジェクトリーダーでもあった。

 最後、原潜の核弾頭の爆発を解除し、深海で横たわるバドはエイリアンたちに救われる。米国とロシアの原潜をめぐる対立も、エイリアンたちが起こした巨大津波のパワーを見せつけられ沈静化する(確かに物語の構造上のご都合主義は否めないところ・・)。それでも、最後に和解したバドとリンジーが抱き合って終わるラストは素直に気持ち良く感動させてくれる。

 しかし、一組の夫婦の仲を地球的なスケールでエイリアンが取り持っただけともいえる本作、後の「トゥルーライズ」も思えば一組のスパイの夫婦の危機を国家的規模で救う物語だったけど、余程。キャメロンは夫婦というものに思い入れでもあるのでしょうかね・・、そういえばあの超美人監督のキャスリン・ビグローが奥さんだった時期もあったっけ。

負け犬さんの満州は傀儡国家で王子がハリポタならぬハリボテで悲しかった件「ラストエンペラー」

ベルトリッチのいわば入門編のこの映画、思うのは、今ジョン・ローンはどうしているのだろう?

(評価 80点)

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ジックリ腰を据えて見れる映画となれば歴史もの。その時、ふと浮かんだのが、ン十年前に日曜洋画劇場で一度見たきりの本作だった。劇場でも大ヒットを記録した映画とあって放送も画期的な3日間連続放送の拡大版。当時、見た時、感動したのを覚えている。

 今回、見てまずハッとしたのは、全編、セリフが英語だったこと。昔、見た時は、吹き替え版で言語のフォーマットが何かなど当然、意識もしなかった。また、その時点ではベルトリッチの作品としては「暗殺の森」を午後ローで断片的に見た程度でしかなく、今回は、ベルトリッチの作品は「暗殺の森」はもちろん「暗殺のオペラ」、「ラストタンゴ・イン・パリ」、「1900年」、そしてデビュー作の「殺し」ぐらいは見て、その作風の下地ぐらいは踏まえての鑑賞となる。

 やっぱり本作の最大の見どころの故宮での現地ロケーションも圧巻の序盤は素晴らしい。西太后から皇位を継承した溥儀を前に故宮の広場で数万の群集がひれふすシーンには昔もそうだが今回も息を吞んだ。

 でも、今回、もっとも印象的だったのが、ベルトリッチのフィルモグラフィを踏まえている分、いつものベルトリッチのテイストを最大限に発揮しはじめる、中国侵略を開始した日本がその足掛かりとして満州をターゲットに定め、溥儀を日本軍の傀儡として利用し始める後半の凄みだった。昔、見た時は後半になるほど退屈になっていくように感じたのに、今回は逆だったのだ。

 ベルトリッチの作品にある根底のテーマとは、国家によるファシズム。そして、そのファシズムに利用され骨抜きにされた国家とは対極にある人間個人の退廃やデカダンスだろう。そのテーマはベルトリッチの生涯の代表作といえる「暗殺の森」に余すことなく描かれている。

 「暗殺の森」の系列にある作品群からすれば、同じテーマを踏まえつつも本作は十分に分かりやすい。そのテーマを分かりやすく体現し、本作をベルトリッチのキャリアで最大の成功作たらしめたのは、本作でスターとしての地位を決定づけたジョン・ローンの功績でしょう。後半、本作の牽引役となる甘粕大尉役の坂本龍一(本作の音楽もまた絶品)もあいまって、戦犯となった溥儀を演ずるジョン・ローンのフレッシュな存在感には目を見晴らされた。

 そういえば、日本でも一世を風靡したジョン・ローンは今どうしているのでしょう。映画俳優という因果な商売は、常に栄華盛衰がつきものの王朝の王族たちとどこか似ている。『いつまでもあると思うな親と仕事・・』などというけれど(そんな言葉あったっけ)、当然、誰でもキャリアの盛りを過ぎればオファーは減って来る。本人には申し訳ないけれど、何だか自然消滅のようにリタイア同然に消えて行った俳優さんの一人のような気がしてならない。

 本作のラスト。老いた溥儀がポツリとただ一人かつての紫禁城を訪れる。そして皇帝の玉座へ歩み寄ろうとする溥儀に声をかけた子供との会話の後、その姿がハリポタの魔法のようにかき消える。

本作でも唯一といえるこの超現実的なエンディング。 それは思想や時代の動乱に弄ばれた溥儀に対するささやかな慰めであると共にベルトリッチが一人の俳優に示した優しさと感じるのはこの負け犬だけなのでしょうか。

負け犬さんのそりゃ自分の娘がAVに出てるの見たら親だってビックリするよ「ハードコアの夜」

「オーマイガー!ザッツマイドーター!」娘がAVに出てるのを見せつけられたら泣く親は勿論いるだろうけど、それをきっかけに自分までAV業界に入ろうなんて親がいるのか?(評価 50点) 

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負け犬は経験ないけど、これだけ巷にAVが溢れてて、引きも切らずにこんなにも女の子たちがわんさか出てたら、ある日、自分の娘がAVに出演しているのを親がひょっこり見ちゃったなんてケースは世の中に結構、あるような気がするのです。でも、そうなったらまあ、まさか赤飯焚いてお祝いする親なんていないと思うけど、やっぱりこの映画のジョージ・C・スコットみたいに慟哭するのかな・・・。

 あの「タクシー・ドライバー」の俊英ポール・シュレイダーの監督第二作。本作、公開時の雑誌の「スクリーン」なんかではモロに洋物のポルノ映画のスナップ写真と並べて紹介されていた。それもあって何だかいかがわしい映画だなという印象を持ちつつも、確かレンタル時代でもソフト化もされずに本作のことは忘れていたら、ある日、TSUTAYAの棚に見つけ、即借りしてみたのが数年前、またふと思い出して再見したのです。

 初見の時よりはマシだったけど、やっぱり何かといただけない作品でしたね。ポルノ業界のアンダーグラウンドな淫靡でダークな雰囲気の暗さもあいまって、イヤ~な気分になる映画といえようか(このダウナーな感じはあのジョエル・シュマッカーの「8mm」を見た時の気分に似ている)。何よりも不思議なのが、あの硬派の名優ジョージ・C・スコットが何故、この映画に出演したのかということ。ジョージ・C・スコットのフィルモグラフィを少しでも知る人なら(「パットン大戦車軍団」では見事、主演男優賞を受賞したのに受賞辞退したほどの気骨漢)、この映画見たら誰でも不思議に思うんじゃないでしょうか。

 堅実に事業を営む敬虔なクリスチャンのジェイク(ジョージ・C・スコット)のティーンエイジャーの娘がコンベンションに出かけたまま行方不明となる。当てにならない警察を見限り、雇った探偵マスト(ピーター・ボイル)に誘われて向かった先は、薄汚いポルノ映画館。数か月探しあぐねたジェイクの愛娘は何とそのスクリーンの中にいた。かくして娘を捜索し、ハードコアポルノ業界から救出するためのジェイクの危険な苦闘が始まる。

 と書けば、ポール・シュレイダーということもあって秀作のような気が誰もがするかもしれないけど、負け犬的には、まあ~何とも薄っぺらな底が浅い作品というか。まず、最初に娘を目撃するポルノムービーの薄汚さにドン引きする。そこで3Pでズッコンバッコンしてる娘を見てジェイクが泣き出す、その泣き方のワザとらしさにもドン引き(これがアカデミー賞俳優かよ)。

 元々が、本当にアンダーグラウンドで暗い雰囲気だから、せめて探偵役のマストがジェイクの心強い相棒になって、とかっていう要素があるかな・・と思ったら、このマストも調査そっちのけで女の子連れ込んで淫らなことしてる、とんでもない探偵で・・どこまでもダウナーな気分になって・・そしてきわめつけは、このジェイク、娘を探すために何とポルノ映画のプロデューサーになりすまして、何かカツラ被って変装して、さもそれらしく男優のオーディションなんかしちゃって、ドン引きを通り越してアホちゃうかと思いました(笑)。

 最後にはリアル殺人のスナッフ映画にまで発展してそこで娘を見つけるわけだけど、オヤジが泣き崩れたら娘があっさり家に帰る、であっけなく終わっちゃたから口をあんぐりしてエンディングでは呆然としてました。

 何かポール・シュレイダーは自分の好きなジョン・フォードの西部劇の「捜索者」を多分に意識していたようで、しかし、娘には娘なりの事情もあったはず、それをまるで書き割りの人物みたいにおざなりに描いているから実に不愉快なだけの作品になってしまった。しかしまあTシャツにジーパン、グループサウンズみたいなカツラ被ったジョージ・C・スコットの姿は笑えもしたけど、どこか悲惨だった。それこそAVに止む無く出演した女の子みたいに何かやむにやまれぬ事情でもあってこの映画に出演したのでは・・と本気で勘ぐってしまった。結局は、変てこな作品です。お好きな方はどうぞ