負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬が流したあたたかい涙でハンカチがしとどに濡れた件「幸福の黄色いハンカチ」

健さん、鉄矢、かおりの心地よいアンサンブルに笑いと涙が止まらない、やけっぱちの優しさと人間の温もり、そしてラストの号泣。これはもう心のジェットコースターだ

(評価 86点)

 映画は人間が作るもの。人間の役者の喜怒哀楽が奏でるアンサンブル、そして、その喜怒哀楽をじっと見つめる監督の優しい眼差しこそが映画に違いない。だからこそ、老若男女を問わず笑い泣ける。とすれば、本作はまさに映画が到達した一つの理想の境地と言えるのではないだろうか。

 人間がふとした拍子に故郷を思い返すように、ふと手に取って見てみたら、そこはもう笑いと涙のオンパレード。そして、プログラムピクチャーでその手腕を培った巨匠、山田洋二の筆の冴えに改めて唸らされた大傑作だった。

 その山田洋二監督が、これはと目をつけて役者に抜擢した武田鉄矢が冒頭からとにかく笑わせてくれる。思えば、鉄矢が演ずる情けない若者像は70年代の一つのエンブレムだった。

 その鉄矢演ずる花田欽也が失恋でやけっぱちになって、有り金はたいて買ったファミリアで北海道に突発的に旅立つところから始まる本作。その旅先の北海道で、同じく失恋の傷心旅行でやって来た朱美(桃井かおり)をナンパ同然に無理やり道連れにする。同じ頃、網走から出所した島勇作(健さん)にアベック写真のシャッターを押してくれと頼んだことから知り合って、聞けば、どうやらその中年男、勇作は訳アリで、今も未練がある別れた妻の光江(倍賞美津子)が勇作の帰りを待っていてくれているらしいことが分かり。そして、映画は誰もが知っているエンディングに向かって行く。

 とにかく本作は何から何までベタベタな分かり切ったロードムービーなのだ。勇作の妻、光江が今も勇作のことをあきらめずに待っていてくれる。その目印として黄色いハンカチを掲げておいてくれとなれば、もうラストも言わずもがなで分かり切っている。でも、実際、そのラストで、風にはためく黄色いハンカチを目の前にすれば、堪らずに泣いてしまうというのは映画の一つのマジックではなかろうか。

 そして、全編にわたって繰り広げられるこの健さん、鉄矢、桃井かおりの実にナチュラルなアンサンブルのこの上もなく素晴らしいこと。本作はラストに至るまでのこの三人のナチュラルな掛け合いの妙味に笑わされ、泣かされる映画と言っていい。

 挙げればきりがないけれど、まずは、出所した健さんがぶらりと入った食堂で、出所後のビールを飲み干すシーン。拝むようにコップを両手で掴み、一気に飲み干す。長いムショ暮らしの悲哀が一気にこちらに伝わってくる。

 そして、本作でそのパーソナリティーを独壇場のように発揮した鉄矢。鉄矢とかおり、そして健さんの三人で、食堂でカニを食いながら、桃井かおりとバカ話にこうずるシーンの何とナチュラルなこと。とにかく、ことごとくこちらに刺さるほどにダメさが半端ない鉄矢が織りなす笑いは爆笑物で、実に自然な桃井かおりの演技とマッチして役者たちが織りなす至福の時間を全編にわたって味合わせてくれる。

 エンディングにしたって誰でもそうなることは分かる。でも、プログラムピクチャーで長年、庶民の笑いや悲哀を描いてきた山田洋二の筆さばきの確かさゆえか、そのエンディングに至るプロセスを、時間を忘れ、息を呑んで見つめてしまうこの不思議。そして、その分かり切ったエンディングに到達した時の得も言われぬカタルシス

 思えば、エンディングは本作のポスターでちゃんと明かされてある。それはいわば山田洋二監督の観客に対する宣戦布告、分かり切った映画で唸らせて笑わせ絶対に泣かせてやるという圧倒的な自信の表れに他ならない。現に、本作では誰もが山田洋二監督の術中に嵌って手もなく泣かされてしまうのだから。

 そういえば、あの「ロッキー」も、ロッキーとエイドリアンが手をつないで歩いていくシルエットのポスターにエンディングがちゃんと明示されていた。そして、誰もがその分かり切ったラストを見つめるためだけに映画を見た。

 本作のような作品を見たらつくづく思う。映画はマジックだ。そしてそのマジックを実現するものこそ血の通った人間の演技なのだ。CGでただガチャガチャやるのが映画などではない。映画は人間だ、そして、人間こそ映画そのものなのだ。ただ、騒々しいだけのハリウッドの作品群ばかり見せられている昨今、本作はまるで一服の清涼剤と言っていい。

 そもそも人生に捻りなどない、分かり切った結末に向かって進んでいく。結局、映画もそうなのでしょう。良い映画こそ捻りなんてものはない。思えば良い映画はすべて、どストライクな直球のストレートばかり。人生に変化球など必要ないということか。

 曲がりくねってひねくれた人生ばかり歩んできた負け犬の、余生の人生もこうありたいものですよね~

負け犬の麻薬戦争の最前線に降臨したのはあの伝説のハンターだった件「プレデター2」

ドラッグカルテルとLA市警との激戦の真っ只中に、宇宙からやって来た最強のハンターが乱入する。忘却の淵に忘れ去られた続編は、極上のSFアクションだった。

(評価 76点)

すっかりフランチャイズと化してシリーズになった作品の場合、その何本目かの作品には、さして話題にもされない憂き目にあう作品が出てくるもの。このプレデター2もそんな作品のような気がする。

プレデター2』・・ん?プレデターなら勿論、知っているけど『プレデター2』なんてあったっけ、なんて言われそうなほど本作はその知名度が低いのではないでしょうか。

現にこの負け犬もかつてTVで見たというおぼろげな記憶はあったけど、はるか忘却の淵に追いやられ、ついぞ見ないまま何十年が過ぎていた。

 ところが何の因果か、本作が突如として脳の襞の隙間から現出し、急に見たくなって見てみたら、これが予想外の快作でちょっと驚いたという次第。

 

 オープニングは緑の森林を俯瞰で捉えた空撮ショット。ここは前作に引き続きジャングルか?と思わせておいて、そのショットが滑るようにトラッキングするとLAの高層ビルがフレームイン。カットが切り換わり、いきなりあのお馴染みのシュバッ!という効果音とともにプレデターの主観ショットに銃声と怒号のボイスオーバー。次いでシーンが替わると、そこは麻薬組織のならず者のギャングたちとLA市警が激しい戦闘を繰り広げるコンバットゾーンなのだ。

 開巻から繰り広げられる激しい銃撃戦というサービス精神は続編物の常套だが、本作が薄っぺらな続編とは一線を画しているのは、ストーリーのイメージコンセプトがしっかりしているから。

 ストーリーのコアは激戦中の麻薬ギャングとLA市警、そして、それに殴り込みを仕掛ける宇宙の孤高のハンターとの三つ巴の激突だ。本作はそのソリッドなエッジの効いたパラダイムでぐんぐん押してくる。そこがいかにも90年代のSFアクションぽくて気持ちいい。

 圧倒的な火力と、ドラッグを効かせて不死身同然のハイになったギャングたちにLA市警の面々も苦戦を強いられる。だが、ペントハウスに立て籠もったギャングたちに問答無用の鉄槌を食らわせるのがあのプレデター。堕天使のごとく降臨し、半透明のあの肉体でギャングたちを皆殺しにする。このオープニングのバイオレントなイメージこそが本作の真骨頂。

 ヴイランという立ち位置はそのままに、極悪なジャンキーギャングを吹っ飛ばすヒロイズムを兼ね備えた本作のプレデターはとにかくイカす。それでも、何らかの戦闘意欲を有する生き物は敵も味方もなく抹殺するという本能に揺らぎがないところがハードボイルドなのだ。

 このプレデターに真っ向から立ち向かうのがLA市警のはみだし刑事ハリガン(ダニー・グローヴァー)。そして、このハリガンと対立する麻薬Gメンのボスのキースに扮するのがゲイリー・ビジーときたら、これはもう80年代アクションのお墨付きの面々ということになる。

 ハリガンの仲間たちも、ジェームズ・キャメロン映画の名バイプレイヤーのビル・パクストンをはじめ、皆エイティーズに活躍していた俳優たち。

 とにかく、本作、全編にわたって、息つく間もないというのがウレシイところ。

 ハリガンの仲間がプレデターに殺され、それを追うハリガンと別行動していた仲間たちが地下鉄で移動中、プレデターの襲撃に会う。そして、本作は、本編の半分にあたる、ここからエンディングにいたるまで全てがクライマックスと言っていい見せ場が連続する。

 地下鉄の襲撃で、さらに仲間を殺されたハリガンがカムフラージュしたプレデターを追う。そこからは、大都会の地の利を生かした起伏に富んだ、ハリガンとプレデターの一騎打ちが豊かに繰り広げられるのが実に楽しい。

 ハリガンと対立していた麻薬Gメンたちが実は、未確認生物UMAを追う政府公認のハンターたちで、プレデターとそのハンター、ハリガンとの三つ巴に転ずるクライマックスも見応え十分。そして、このくだりでプレデターが繰り出す兵器の数々もまた楽しい。

 だが、本作のサービス精神はそれだけにとどまらない。

 プレデターとの死闘の果て、ビルの穴からハリガンが落ちてしまったのが、プレデターたちの母船。そこで、ハリガンが目にしたのは、プレデターたちのルーツの数々。そして、ここでチラリと出て来る、今なお語り草となっているギャグも見逃せない。これがン十年後の「エイリアンVSプレデター」の布石なのだから。

 といった具合に、本作はまるで尻尾までアンコが詰まったたい焼きみたいに何処を取っても実に楽しい良作なのだが、唯一、残念なのは、前作のアーノルド・シュワルツェネッガーが、本作の、舞台を大都会に据えるシノプシスを読んで、バッド・アイデアとみなして却下してしまったこと。

 もしもシュワちゃんが続投していたら、忘れ去られる続編どころか、アクション映画史上に名を連ねる大傑作になっていたことは、まず間違いないのですけどね~

負け犬が何度も人生をリセットするけど、その度に失敗した挙句とうとう~した件「バタフライエフェクト」

あの日きみは何をした?エンディングが実に切ない人生リセットサスペンス    

(評価 78点)

忘れたくても忘れられないツラい過去。そして、そんな過去のせいでこんな自分になってしまった。そんな忸怩たる思いを抱いている人は意外と多いのではないでしょうか。そんな過去のせいで人生の負け犬に成り果てた。だとすればそんな過去を変えて人生をリセットしたい。本作はそんな願望を具現化した男の切ないタイムスリップサスペンスの秀作。

 

 開巻、誰かに追われているエヴァン(アシュトン・カッチャー)が逃げ込んだ部屋で、引っ掴んだ紙に文章を必死で書き始める。エヴァンは一体、誰に追われているのか?そして、何故、そんな緊迫したシチュエーションで文章を書き始めたのか?そんなシーンから本作は幕を開ける。

 

 実はエヴァンには、自分が書いた日記を読むと、日記に書かれたイベントのその時代にタイムスリップ出来るという特殊な能力があった。そしてまたエヴァンはそうした人生のターニングポイントとなるようなイベントの最中に決まって一時的に記憶を喪失してしまうブランクアウトという一種の病気を抱えていて、タイムスリップするたびにそのターニングポイントで人生をリセットする羽目になる。

 ・・という具合に、本作はそのイントロダクションとなる設定が、少々どころか、かなりややこしい。現に、この負け犬も初見の際は、開巻10分からして、作品になかなかついていけず、それに本編中の過去のイベントが何だか紋切り型ですんなり入り込めず、いささか期待外れで終わった次第。ところが、何だかんだで、その後も、本作のことを思い出し、二度三度と見返すうちに本作が秀作であることに気が付いたという作品でもある。

 本作におけるエヴァンの人生を変えた大きなターニングポイントは二つある。一つは幼馴染のケイリーの家に遊びに行った際、ケイリーの父親から児童ポルノまがいの行為を強要されたこと。そして二つ目が、同じく幼馴染のケイリーと、その兄トミー、そして友達のレニーとの四人で、近所の家のメールボックスに悪ふざけがこうじて、ダイナマイトを仕掛けた時のこと。

 このダイナマイトの一件の最中、エヴァンは例の記憶喪失のブラックアウトに見舞われ、この時、何が起こったのかは観客にも最初は分からない。エヴァンが何度も繰り返すタイムスリップの過程で事の次第が明かされていく過程はスリリングだ。

 本作は、結局、エヴァンがケイリーに抱く愛情と、ケイリーの凶暴な兄のトミーとの因縁。そしてレニーとの友情といった幼馴染四人の人生リセットの物語なのだが、その物語構造の骨格が明らかになる1時間後あたりから俄然、吸引力を増してくる。

 

 エヴァンは自分自身のトラウマの払拭と、実父から虐待を受けている、愛するケイリーの境遇を少しでも良くしたいがために何度もリセットを繰り返す。しかし、事はそううまくはいかない。リセットした人生の末路で必ず誰かに不幸が生じている。そのためにその不幸を修繕しようとまたリセットを繰り返す。この人生のテストケースのバリエーションが実に多彩できめが細かいのも本作の見どころの一つ。

 そしてエヴァンは、そのエラーの原因が、人生のリセットというイベントが生ずるままに、ただ何の決断もせずに身を任せていただけであることに気づく。いよいよ最後にエヴァンはリセットするパラダイムを自分の意思で決断する。だが、その決断はあまりにも切ないものだった。

 最後にエヴァンのこの決断をシンボリックに表現する本作のエンディングは実に秀逸。流れるエンドクレジットを見つめながら誰もが自分自身の人生を回想してこんな事を自問自答するのではないでしょうか。

 受験や就職、そして結婚に離婚、人生には色々な局面があるけれど、あの日きみは何をしたのか?そして、その時、一体どんな決断を下せば良かったのか?

 思えば今の映画業界は右を見ても左を見てもマーベルやDCのヒーロー物とアニメのフランチャイズばかり。オリジナルな脚本の映画にはなかなかお目にかかることもない。オリジナリティのある脚本で唸らせる本作はそれだけでも価値がある。そして驚くのは、この複雑な脚本の映画が公開時にパブリックに広く受け入れられ大ヒットしたこと。

 もしも、この時、本作が大コケしていたら・・というifを、つい考えたくなるのも本作のバタフライエフェクト効果かもしれませんね~

負け犬が金魚のように口をパクパクさせながら極悪映画を鑑賞した件「冷たい熱帯魚」

さかなクンもビックリ!ここは肉食魚が小魚を捕食する人生の奈落を垣間見る世にも残酷な水族館(評価 64点)

園子温監督の極悪映画として名高い本作。今回、初めて鑑賞しました。

確かに極悪ではあるけれど、負け犬的には本作は、いわばまるで肉食魚が小魚を捕食する、その残虐な食物連鎖が繰り広げられる水槽を覗き見るようなパノラマチックな妙味がある一作といえようか。

 そして、何よりも圧巻は、やはり主人公を奈落におとしめるヴィランの村田を演ずるでんでんの圧倒的な怪演に尽きる一作と言っていい。でんでん無しに本作はこれほどの評価を得ることは決してなかったはず。

 まずは開巻、主人公、社本(吹越満)の後妻、妙子が、スーパーでかっさらうように冷凍食品を掴み取り、家に帰って乱暴にレンジでチンし、一家三人が食卓につくまでを暴力的なカットで描写するオープニングに引き込まれる。

 社本とその後妻の妙子、そして一人娘の美津子の一家、その三人の夕食は冷たい水槽の中のように冷え切っている。まるで凍り付きそうな水槽の水面に、さざ波が立つきっかけが美津子のスーパーでの万引き事件。

 そのトラブルの仲介役となった村田(でんでん)と知り合ったことが、社本が奈落に落ちていくすべてのはじまりとなる。

 本作は、冒頭でTRUE STORYのタイトルが現れるように、実際に、埼玉で1993年に発生した、愛犬家連続殺人事件をベースにしている。

 埼玉でペットショップを営む夫婦が、出資をめぐるトラブルなどが生じた相手を次々と殺害した凶悪事件。被害者を硝酸ストリキニーネで毒殺したうえで、証拠隠滅のためにその死体を解体した上で微塵も残さず廃棄するという犯罪史上に残る極悪非道なものだった。

その事件のあらましをWikiなどで読むと、本作がオーソドックスにその事件を細部にいたるまで時系列に描写していることが良くわかる。

 そして実際の事件の主犯とされた男のキャラクターもまさに本作のでんでんそのままだったことにも驚かされる。

 実際、初めて画面に登場した時から、そのでんでんが放つ危ない奴100%のオーラに圧倒されない人間などいないのではなかろうか。

 そして、こうした事件の主犯者の例に漏れず、必ず備わっているのがヤマ師独特の人を引き付けるバイタリティーだ。

 村田と同じく、自らも熱帯魚販売の店を営む社本はたちまち村田(でんでん)の世界に取り込まれ、極悪な所業の片棒を担がされていく。社本が金魚とすれば、村田はさしずめピラニア。

 この社本の金魚が口をただパクパクしながら、眼前で繰り広げられるピラニアの村田のエスカレートしていく行為にあれよあれよと加担させられていく様は、人生の奈落の地獄めぐりを見ているようなある種のカタルシスすらある。鼻歌を唄いながら、殺した死体を若い妻とともにバラバラに解体していくシーンはその極みで、このくだりは不快感に加え、ある種ギャグを見ているような不思議な感覚にとらわれる。

 「でんでん」の怪演の味付けともなっているのが、社本の妻、妙子(神楽坂恵)と村田の若妻、愛子(黒沢あすか)のエロエロしさ加減。この二人が絡むことで、残虐さと欲望の相乗効果で映画がいっそうの熱を帯びてくる。

 「死体を透明にすることが一番大事」

 本作でもでんでんが口にするこのフレーズは、実際の事件の主犯が口にしたモットーである。

 死体が見つからなければ絶対に犯行が露見することはない。そうふてぶてしくのたまわりながら、殺人を続け、ただ受け身にしか生きてこなかった社本を罵倒し、共犯者に仕立てていく村田の末路については、キャラクターの構図を踏まえ、実際の事件の顛末とは異なる脚色が施されている。

 追い込まれた金魚が奈落の淵に立たされた時、果たしてピラニアにどう一矢を報いるのか?この顛末については是非ともご自身で目の当たりにしていただきたい。

 ただし、はっきり言って本作、事件のノンフィクションから逸脱して園子温流のフィクションになっていく顛末の部分は、過度にグロテスクで、またやたらとクドく、一気につまらなくなっていく。やはり、本作、結局、つまるところ見るべきものは「でんでん」のパーソナリティに尽きることに気づかされる。

 日常には、SNSにデマや中傷、決して世間には露見しないような得体の知れない悪徳が渦巻いているが、本作で笑顔を浮かべ繰り広げる村田の行為は、極悪は極悪でもそれに比べればわかりやすい悪行かもしれない。

 それでも、ゴミ屋敷に多頭飼育、騒音に虐待といったご近所トラブルが生み出す不協和音、でんでんが主人公と接点を持つ本作の導入部はそんな誰もが感じるような不穏な不気味さが確かにある。そして、本作の「でんでん」はある意味、一般人がご近所トラブル起こす厄介な隣人に抱くそこはかとない恐怖そのものの体現なのだ。

 つつましやかにただ安穏と日常に安住しているそこのあなた。あなたの背後にもいつか満面の笑みを浮かべた「でんでん」が迫って来る日が来るかもしれない。

 いや、もうそこまで来ている、ホラあなたの肩口に・・・

負け犬の泣き虫男に用はない女たちはたくましくたおやかにインディペンデンスを目指す「結婚しない女」

ビバ!セブンティーズを代表する女性映画の秀作は負け犬男にも元気と勇気を与えてくれる(評価 78点)

 70年代。そのアメリカ映画の黄金期と言ってもいい一つの大きな特徴に、社会問題を巧みに取り込んでエンターティメント性のある作品に仕立て上げる手腕の冴えがあった。

 本作もまた然り、1970年代の後半、まだ女性のステータスが今ほど雄弁ではなかった時代、離婚というイベントに直面した女性のたおやかな旅立ちを描いて当時、センセーションを巻き起こした。

 みんな走っている。ジョギングの大ブームを必ずと言っていいほど背景に取り入れていた作品群の例に漏れず、本作の主人公エリカ(ジル・クレイバーグ)と夫のマーティン(マイケル・マーフィ)の夫婦のジョギングから本作は幕を開ける。

 エリカとマーティンは瀟洒コンドミニアムに高給取りといった誰もが羨む典型的なアッパークラスの夫婦。ティーンエイジャーの一人娘パティとの仲も良く、家庭も円満。しかし、ある日、ショッピングの最中にいきなりマーティンが泣き出して、べそをかきながらエリカに別に好きな女性がいるとカミングアウトする。突然の告白に呆然としつつエリカは決然と離婚という選択肢を迷わず選択する。

 70年代、日本はまだしも米国では離婚という選択は、珍しくはなかったはず。それでも、社会的な風潮はといえば、まだまだ女性は男性に頼るものというステータスが一般的だった。本作はある意味、そんな社会通念にさわやかな風穴を開けるほどのパワーを持っていた。そして、そのメタファーとしてエリカを演じたジル・クレイバーグが、実にピッタリのイメージで当時の女性たちを勇気づけ後押しする存在になっていた記憶がある。

 映画界自体もまだまだ男性向けの作品群が一辺倒だった時代に、女性映画というイメージを斬新に打ち出した本作のイメージポスターは鮮烈だった。そして、やはり、何にもましてジル・クレイバーグのさわやかな存在感が素晴らしい。

 エリカはマーティンと別れ、娘のパティと暮らす。そこで苛まれるのがたとえようもない孤独感。決して強いだけではない。さめざめと泣きながら、セラピストに素直に孤独を打ち明け、分かち合うセッションのシーンの自然な空気が実にいい。

 映画自体のテイストもシリアスにも過ぎずライトにも過ぎず、ちょうど程良いテイストで離婚というイベントを経て、新たな道を模索しようという女性の立ち位置を踏まえているところが何とも小気味よい。

 エリカにもアブストラクトな抽象的な作品を描くアーティストのソールという気の置けない恋人が出来る。

 ソールは売れっ子で、もしもソールと一緒になれば十分に満たされた生活が約束される。そして、すっかりエリカを愛してしまったソールもそれを望む。

 しかし、本作が真骨頂を発揮するのはそこから。エリカは決してソールになびかない。でも、ソールを愛していないわけではない。それでも、自分が望むのは男性に頼ることのない生活だ、とはっきり宣言する。

 当時、女性たちはこのジル・クレイバーグのインディペンデンスなスタイルにどれほど勇気づけられたことだろう、と今、本作を見てもつくづく思う。

 本作の監督ポール・マザースキーは前作「ハリーとトント」でも、老いの問題を決してウェットにならずにあくまでも老人のインディペンデンスを前面に打ち出して、優しい眼差しで描いていた。その優しい眼差しが遺憾なく発揮されるのが本作のラスト。

 はっきりとソールに、自分は自分の道を行くと宣言したエリカはソールから巨大なペインティングを進呈される。

「どーするのよ?これ」とエリカはソールに聞く。

「タクシーでも呼べよ」とニッコリ笑って、ソールは車に乗って去ってゆく。

しょーがないとばかりにその巨大なペインティングを抱えてヨロヨロしながら雑踏の中をエリカが歩いていくロケーションのシーンで映画が終わる。

 それを見ながら果たしてエリカはこれからちゃんとやっていけるのかしら?と誰もが感情移入してそう思うはず。多くを語らずにそれだけでシンボリックに女性のたおやかな生き様を描き切るこのシーンの実に素晴らしいこと。

 そして、このシーンで流れるビル・コンティの軽快なテーマ曲の素晴らしさ。

 大ブレイクした「ロッキー」は言うに及ばず、前作の「ハリーとトント」、本作「結婚しない女」、そして「グロリア」(あのオープニングの空撮シーンはいつも思い出すだけで鳥肌が立ってしまう)と、70~80年代の秀作群には常にビル・コンティの音楽があった気がする。

 それにしても、本作のマーティでカリカチュアして描かれる男たちの情けないこと。それだけは今の時代も決して変わりがないところが、とほほ・・というべきでしょうか

負け犬の薄っぺらな悲しみと見せかけだけの文学性「ジョーカー」

鳴り止まぬ絶賛と歓呼の中、負け犬の目の前にあったのは史上最低と言ってもいいほどの薄っぺらな愚作としか言いようのない映画だった(評価 20点)

「目覚めよ!」エホバの証人じゃないけども、この「ジョーカー」という映画に賛辞を送っているすべての人々に物申す、としたらただもうその一言しかない。

 とにかく世界中から絶賛されている本作だが、そもそもただのヒーロー映画のフランチャイズに乗っかって、そのヴィランのバックストーリーをシリアスに描けば絶賛されるということをちゃんと見越して作っただけという安っぽさが直感的に見え見えの作品だっただけに、公開されてから何年経っても見る気が全く起きず、数年もたってからよっぽどヒマだったので見てみたら、案の定、賛辞どころか大惨事といってもいいほどホントに下らない作品だったという次第。

 本作でアカデミー賞を取ったアーサーこと、ホアキン・フェニックスさんが開巻早々、泣きながら大笑いするオーバーアクトでまずドン引きする。

 アーサーは患った母親を養う、アンダークラスの社会の落伍者なのだ、その職業がピエロで云々・・の設定からして、もうあまりに時代錯誤的な単細胞ぶりについていけなくなる。

 これは断じて違うだろう。負け犬は声を大にして言いたい!そもそもジョーカーは貧しい社会の落伍者などではない、金も欲も満たされすぎたリア充に飽き足らなくなって悪事を子供のように手玉に取って、享楽の限りを尽くす、そこに最大の魅力があったはずではなかったか。

 その魅力を最大限に引き出していたのがティム・バートンのあの不滅の「バットマン」であったはず。

 ティム・バートン版のあのバットマンとジョーカーが繰り広げる幼稚で子供じみたおとぎ話の世界。あれこそがバットマンの最大の魅力であり、ヒーロー物として大人の娯楽の極北に達した作品だったと負け犬は確かに思う。

 この負け犬がもっとも嫌いなバットマンは「ダークナイト」。とにかく、そもそもヒーロー物でしかないものにシリアスな尾ひれをつけてさもありなんと見せるそのあまりの低能ぶりにはあきれるしかなかった。

 この「ダークナイト」というやつは映画史上もっとも過剰評価されている作品には間違いないという考えは今も断じて変わりはない。

 とにかくただひたすらこのアーサーさんが被害者意識丸出しで悲嘆にくれるさまを見せつけられるだけの本作。本質的に何のテーマも展開していないのは誰の目にも一目瞭然。それなのに人が、世界が、評価しているから本作を褒めちぎる。そこには集団意識や群集心理の怖さすら覚えてしまう。

 もっとちゃんと自分の目で見て、自分の耳で聞いて考えましょうと、本作に入れ込んでいる人にはそれだけ言いたい。

 絶えず引き合いに出されるニューシネマの作品群はこれとは比べようもないほど成熟して大人の作品だった。ティム・バートンの「バットマン」もまた然り。

 あのジャック・ニコルソンマイケル・キートンの究極のバカ騒ぎが終わった後に流れるプリンスの歌声。あの切なさこそが本物のバットマンだ。

 あらためて声を大にして問う。目覚めよ!惑わされるな!愚作は愚作!そんなまっとうなことを発言できる社会を作りましょう・・って負け犬そのものがアーサー化しちゃったりして。

 とりあえず負け犬が久々に吠えた。でも、この閉塞感しかない社会で、あらんかぎり吠えるのもきっと精神衛生上良いことに違いない。他人様には迷惑千万な話でしょうけど・・

負け犬の嗚呼!洋ピンポルノのエロき欲望「ナチ女秘密警察SEX親衛隊・サロン・キティ」

ナチスドイツの鉤十字と洋ピンポルノの悪魔のドッキングはとてつもなく猥雑で退廃の香りに満ちていた(評価 74点)

「女刑務所発情狂」「女子学生㊙レポート」「陰獣の森」「マラスキーノ・チェリー」・・毒々しいタイトルに、肌がマネキン人形のようなドギツい着色の猥雑な写真のコラージュ。見るだけで股間がムズムズしてくる洋ピンのポスターに悩ましい青少年時代を送ったあなたならきっとその脳みその襞に刻印されているはず。

 そのタイトルこそ、「ナチ女秘密警察SEX親衛隊・サロン・キティ」。その昔、「ロードショー」や「スクリーン」といった洋画専門の雑誌の片隅に掲載されていた洋物ピンク映画のモノクロ写真が総天然色で動き出した、本作はそんなときめきを彷彿とさせる世界といえようか。

 開館は秘密クラブ。男装と女装を体の半身に施した異様なダンスからして、むせ返るような陶酔の世界が香り立つ。そんな演出を手掛けるのは洋ピンポルノの帝王ともいうべきティント・ブラス。

 その世界観に欠かせないのがルキノ・ヴィスコンティの作品群でも退廃の色香を画面の隅々まで振りまいていたヘルムート・バーガー。本作の主役のSS親衛隊の隊長バレンベルクがそのヘルムート・バーガーなのだ。

ある政府高官が、ドイツ国内の純血のアングロサクソン系の美貌の乙女たちを参集せよとヘルムート・バーガーに命令を下すところから本作の物語は幕を開ける。

 そして、ヒットラーの演説のモノクロ映像から展開される生々しい豚の屠殺シーンがまずは衝撃的、頸動脈を断ち切られ噴出する血の中で猥雑なジョークを言いながら女たちの体をまさぐる男たち、といった光景からして猥雑な世界観に満ちている。

 かくして「ハイル!ヒットラー!」その号令と共に、国内各地から呼び集められた美女たちが粛々と横一列になって全裸になるシーン。女たちはこれから性の奥義を仕込まれ、政府高官たちに取り入り、その手練手管で高官たちを陥落させ、秘密を聞き出すことで忠誠を誓った祖国ドイツに体を捧げることになるのだ。本作のメインプロットはそれが骨子となる。

 直後、美女たちがヘア丸出しで一斉に行進を始めたと思ったら、ここから、高官たちが壮大なマーチを演奏する中、いきなり全裸の男女たちが交わり合って、痴態を繰り広げる。

 その異様さは、エロティシズムと相まって、ティント・ブラスのフェティシズムへのこだわりが画面からあふれるように発散されている。

 そして、ロングショットになると、洋ピン独特の全面ボカシになってしまうのが奇妙に生々しかったりするのです・・。

さて、ここからはティント・ブラスならではのアブノーマルな展開が全開。

 独房に収容された全裸の男女もしくは女たちのカップルたちが、隊長のバレンベルク(ヘルムート・バーガー)が覗き窓から観察する中、カップルたちが繰り広げるノーマルセックスやレズビアンプレイにオーラルプレイ、果てはレイププレイを観察し、そのテクニックの是非を審査するところからキンキーな世界そのもの。

 異常な監禁病棟のアセイラムで施された訓練で、セックス兵器の娼婦と化した女たちは、いよいよ高級娼館サロン・キティに送り込まれることに。

 この高級娼館の女主人こそが娼館の名前の由来のマダム・キティ(イングリッド・チューリン)というわけなのだ。

 これもまたルキノ・ヴィスコンティ映画でもお馴染みのイングリッド・チューリンがなまめかしく歌い踊るサロンの宴、このシーンはヴィスコンティ映画の退廃に、毒々しいエロスをまぶしたようなテイストが横溢している。

 娼館の個室で繰り広げられるプレイはすべてモニタールームで盗聴されている。レズにソドミー、サドマゾプレイ。このくだりはまさに性のパノラマ。

 後半の物語を牽引していくのが、美女たちの中でひときわコケティッシュな魅力に満ちたマルガリータテレサ・アン・サボイ)。マルガリータの魅力にバレンベルクが虜となったことから、サロン・キティの歓楽の宴がナチスの終焉を暗示するかのように崩壊していく。

 ナチスの鉤十字のストッキングだけを身に着けた全裸の女。その肢体にヒットラーが演説する8mm映像を投射し、それを見ながらマスタベーションする太った高官。本作は、崩壊のデカダンスを描きながらも、そんなフェティッシュなシーンはふんだんに出てくる。

 やがて、邪魔者になったバレンベルクを失墜させるべくマルガリータがスパイ役となるところからが本作のクライマックス。

 軍服を身にまとったバレンベルクとマルガリータの激しくもキンキーなセックスは盗聴によって筒抜けとなっている。かくしてバレンベルクが企てていたクーデターは白日の下に晒されてしまうことに。

 全裸のバレンベルクがサウナで射殺されるシーンが本作のエンディング。サロン・キティ作戦の首謀者が反逆者として処刑される、このエンディングは、まさに木乃伊取りが木乃伊になるといったところでしょうか。

 エンドクレジットは空爆によって粉砕されたサロンの窓ガラスの破片が舞い散る中、高らかな笑い声をあげて享楽するマダム・キティとマルガリータのシルエット。

 とにかく本作は洋ピンそのものといっていい淫らでフェチなエロいシーンには事欠かない、それでいてヴィスコンティ映画のテイストをおどろおどろしい見世物小屋の安っぽさにトランスフォームさせたかのような異様なテイストは満喫できる。

 かつて誰もがモノクロのピンナップを見て悶絶した中二病の性の悶えとデカダンスの香り、本作は懐かしくも青々しい、そんな奇妙な魅力に満ちた一作でした。