負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬が最後の最後に逃げ込んだのが女性のアソコだったことを知って驚愕したという件「アフターアワーズ」

小さな不条理が雪だるま式に連鎖し最悪のシチュエーションと化す、トワイライゾーン好きには堪らない不条理映画の大傑作!

(評価 88点) 

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平凡なサラリーマン、ポールが体験する悪夢の一夜。巨匠スコセッシが作り出した不条理世界の結末は、腰を抜かさんばかりの仰天ものだった!

 負け犬の大好物のアイテムというものがある。あのクラシックなTVシリーズ「トワイライトゾーン」に、カフカの「変身」・・。つまり現実と、少し現実とはベクトルがはずれた世界が、危うくクロスオーバーするような不条理世界だ。本作は、「レイジング・ブル」以降、作品をコンスタントに発表しながらも、会心の傑作を生みだせず、長いスランプにあった巨匠マーティン・スコセッシが、インディペンデンスなスモール・スケールのこの映画で、見事な復活を果たした不条理映画の大傑作だ。

 ずっとスコセッシの追いかけを続けていた負け犬が、とある小劇場で本作を見て「スコセッシ イズ バック!」と思わず心の中で快哉を上げて以来、長らくマイフェイバリット中のフェイバリットの一本だった本作だが、今回のお話は、結構、最近になって、そのエンディングにまつわる新たな仰天の事実が発覚し驚愕したという件なのだ。

 とにかくスコセッシならではの、素早いカッティングに、垂直俯瞰、そしてスローモーションといった映像テクニックの引き出しが小気味よく存分に活用される魅力的な本作。

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 ある大企業に勤めるポール(グリフィン・ダン)は今日もオフイスで新人君にパソコンのイロハをレクチャーしながら、飽き足らない毎日に憂鬱な気分。5時の鐘とともに退社し、自宅に帰ってもTVのリモコンをもてあそぶだけ、しかし、夜、フラリとでかけたカフェで、ヘンリー・ミラーの「北海帰線」を読んでいたらマーシーロザンナ・アークェット)という若い女に声をかけられ、そのともだちのアーティスト、キキが作る石膏のオブジェを見せてもらうことに・・・しかし、このなにげない会話が、ポールが体験する悪夢の一夜の幕開けだった。

 本作の発端は、まだ学生だったジョセフ・ミニオンという脚本家がワークショップで書き上げた「LIES」(嘘)という脚本のポップな不条理世界にスコッセッシがすっかり魅了されたことが発端だった。次から次へと陽炎のように入れ替わり立ち替わり現れる人物たちの嘘ともジョークともつかないような言動が、シャッフルし、まったく無関係だと思われた人物たちが巧みにリンクするこの脚本。しかし、撮影が始まっても、スコセッシ自身にも、唯一そのエンディングのオチだけが納得できなかった。

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 深夜、ソーホーにあるキキのアトリエにタクシーで向かうポール。しかし、やたらとすっ飛ばすタクシーの運ちゃんのおかげで、なけなしの20ドル紙幣を風でとばされ、一文無しでたどりついたアトリエには、ムンク「叫び」の絵に出てくるような奇怪なオブジェがあった。

 そこから、まるで尻取りのように巧みにシチュエーションが連鎖して巧妙に作り上げられていく、たった一夜の不条理世界の見事さには、誰もが舌を巻くに違いない。

 グロテスクな火傷の傷跡に、オズの魔法使い。深夜のダイナーに、奇怪な石膏のオブジェ。この魅惑的な不条理世界を構築するのがそうしたアイテムなのだ。やがて、そうしたアイテムが渦を巻いて平凡なサラリーマンのポールを極限なまでに追い込み、ポールはまさにあのカフカの小説世界の主人公のように夜の街を逃げ惑うことになる。

 強盗と間違われ、住民たちで結成された自警団に追い詰められていくポール。そして、そのポールが最後に辿り着いた先とは・・・。長年、愛し続けた本作だが、最近になってスコセッシのフィルモグラフィの書籍を読んでいたら、本作に、完成作とはまったく異なる、とんでもないもう一つのエンディングがあったことが分かり仰天した。

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 いよいよ追い詰められたポールは、一度、立ち寄り、イタズラにモヒカン刈りにされかけたナイトクラブに再び舞い戻ってくる。そこで出会ったのが中年女のジューン(ヴエルナ・ブルーム)。

 さて、このとんでもないエンディング。これを採録風に記すとこうなる・・・

 クラブにまで押しかけて来た自警団たちが、雪崩のようにポールとジューンのいる地下にも迫って来る。ポールが自警団にリンチされる運命がいよいよ間近に迫った時、ジューンがポールに向かってこう言う。

 「女には隠れ場所があるものよ。あなたその腕時計は防水?そうじゃないなら、はずした方がいいわよ」

 するとジューンは寝そべって、おもむろに股を開き、ポールに向かって言う。

「さあ、いらっしゃい!」

 そして、ポールはジューンのまたぐらのアソコ、つまり女性の秘所に向かってその身を沈めていく。やがて、その穴に入り込んだポールは意識を失う。暗転後、生まれたままの素っ裸のポールが夜明けの大通りに寝そべっている。目を覚ますポール。そして、叫び声をあげながら走っていくポールの姿でエンドマーク、と、実に製作段階では、まさにこういう具合のエンディングで半ば決まっていたらしい。

 ところが、このエンディングを知った製作会社のゲフィン・カンパニーの重役が、これだけはやめてくれ、とスコセッシに懇願する。

 かくして袋小路に追い込まれたスコセッシは、再び悩みに悩むことになる。いよいよ悩んだ挙句、スコセッシは、あのテリー・ギリアムスピルバーグにも本作のラッシュを見せては意見を聞いた。そして、到達した結論が、今、現存する実にシンプルな結末だった。

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 結局、辿り着いた結末というのが、この不条理な世界観をシンボリックにこれ以上は表現し得ないような円環手法の結末だったというのは、本作を見た人なら誰もが納得するはず。

 しかし、それにしても主人公が、女性器に逃げ込むという、この信じがたいような結末だが、本作のDVDの特典では、その絵コンテを見ることが出来る、それを見てまさしくその結末の構想が事実だったことを知り、またまた仰天してしまった。あの大巨匠のスコセッシが完全復活を遂げた記念すべき本作、これからも見続けるはずだけど、いささかなまめかしいモゾモゾとした気分になってしまうのは、この負け犬だけでしょうか?

負け犬の文句なしに面白い!とはこういう事「椿三十郎」

本編開始一分でクライマックスにいきなり突入する怒涛の脚本術!胸がすく、痛快という言葉こそがふさわしいスーパー・エンターティメント!

(評価 88点)

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行き着く間もないプロット展開の妙味に秒殺の30人斬り!そして息詰まるコンマ0秒の瞬息の決闘シーン。この世界には映画の面白さがすべて凝縮されている。

 まだ負け犬が映画小僧だった頃。当時は、モノクロ映画なぞに目もくれず、ただひたすら洋画にうつつを抜かしていた。だから当然のように、古臭い日本映画なぞ、目もくれない。それでも、どこでも目につくのがクロサワの名前だった。

 ところが、やっぱりバカな負け犬は、「クロサワ、クロサワなどと念仏のように唱えやがって」とばかりに偏見をあらわにするだけだった。しかし、そんな負け犬がクロサワ映画と初めてエンカウンターを果たすことになる。

 それは、クロサワ映画のエンブレムともいうべき名優、志村喬が亡くなった時のことだった。その日の深夜の時間帯にひっそりと、志村喬の追悼番組として、クロサワ若き頃の代表作「酔いどれ天使」が放送された。そして、たまたまこの作品を録画し、その作品を見た負け犬は、そのダイナミズムに度肝を抜かれることになる。この遭遇によって、それまでの偏見に満ちたスタンスが一変、そうなると当然のことながら、クロサワの他の代表作がどうしても見たくなる。

 ところが、クロサワ映画はやっぱり別格で、TV放映は勿論、東宝が版権にこだわって、レンタルビデオにも絶対に並ぶことなどなく、ただひたすら喉から手が出るほど見たいと願い続ける毎日だった。

 そんな折、とんでもない朗報がもたらされる。コッポラやルーカスの資金援助もあって、ようやく東宝がGOを出した、クロサワ初のカラー時代劇「影武者」が鳴り物入りで公開された時、フジテレビが何と、「ゴールデン洋画劇場」の特別企画として、クロサワ作品の連続放送という、TVでも未曽有の快挙をしでかしてくれたのだ!

 かくして、狂ったようにTVに毎週、かじりつき、そして、そこでようやくクロサワの「用心棒」、「椿三十郎」、そして伝説の「七人の侍」との邂逅を果たした負け犬が、感涙にむせんだことは言うまでもない。

 もしも、この時の「ゴールデン洋画劇場」でのフジテレビの勇気ある英断(現に、この時の毎週の視聴率たるや、モノクロ嫌いの一般大衆のスタンスを反映し、フジテレビの歴史上でも、散々たる惨状を究めた)のおかげでクロサワ作品に出合えたという人もひょっとして多かったのではないでしょうか。

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 さて、そんな出会いを経て、今やマイ・スタンダードなクロサワ作品となった本作だが、どれもこれも甲乙つけがたいクロサワ作品でも、単純にもっとも面白さのバランスがとれているといえば本作ではなかろうか。

 上映時間もコンパクトな96分。その96分の中に映画における面白さのすべてがギュッと凝縮されているといっても決して言い過ぎではない。

 まず何と言っても素晴らしいのが、お家騒動をめぐるショート・コントのような山本周五郎の短編を見事に改変してみせたその脚本の冴え。

 本編の原作「日日平安」での短編の主人公は、何の腕っぷしもない一介の浪人なのだ。切腹させてくれと懇願しては、道行く人に金をせびっているような落ちぶれた浪人が、たまたま道中、知り合った若い侍から、家老の汚職をめぐるお家騒動のことを聞き出し、一肌脱ぐことを申し出る。短編では、その発端もいたってステレオタイプの出だしになっている。

 ところが、クロサワはこの出だしを、いきなり、古い神社で密談するお家騒動の渦中にある若侍たちが、汚職を摘発する相手の一味に、二重三重に取り囲まれているというクライマックスから幕を開けるというカスタマイズをやってのける。

 オープニング・タイトルから一転し、いきなり緊迫した状況になっているこのイントロ。そして、そこに姿を現わすのが三船の椿三十郎だから、もう掴みは申し分ないといっていい。

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それからはもうクロサワの作劇術の手練手管に振り回されるがまま、若侍たちを見かねて助太刀する羽目になった三十郎と、腹黒い黒藤一味との、丁々発止のテンポの良い駆け引きの連続にもう画面から目が離せなくなる。

 それに加えて全編に横溢するユーモア。抜き身の刀のようなギラギラした三船と、若侍たちが身を挺して救出することになる家老の陸田のおっとりしまくっているスローな奥方の陸田夫人との掛け合いの面白いこと。そして、ひよっこ同然の若侍たちに手を焼きながらも、苦虫を嚙み潰したような顔をして八面六臂の活躍をする三十郎の痛快さ。

 お互い奸計をつくした頭脳合戦の末、その勝敗のカギを握るのが、椿の花びら。最後に絶体絶命の窮地から機転をきかした三十郎のおかげで勝利するカタルシスが実に爽快で堪らない。

 本作は、あの「荒野の用心棒」というエピゴーネンをも生み出した傑作「用心棒」の正当な続編。前作を踏襲する迫力のチャンバラの炸裂も見事な一言。そして、当然、前作を踏まえ絶対的なライバルが三十郎の前に立ちはだかるという図式も、ちゃんとエンターティメントの常套を踏まえているから実に気持ちがいい。

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 かくして、最後に訪れるのが、時代劇映画史上に燦然と輝く1秒にも満たない緊迫の決闘シーン。時代劇で初めて画面に血しぶきが迸った壮絶なるこのシーンの息詰まる迫力は、半世紀を経た今でもいささかの衰えも無い。

 もしも、未だにクロサワ映画を体験したことがない方も、本作を見たら、どのフレームも望遠レンズで切り取られた、他のどの映画でも味わえないダイナミックなショットの迫力に圧倒されるのではないでしょうか。

 クロサワ映画は、一つの体験に他ならない。カラーという無駄な情報がそぎ落とされたハイコントラストな白と黒だけのモノクロ映画の魅力を是非とも体験していただきたいものです。

負け犬が飛行機に乗っていてフト気付いたら周りの乗客が皆ヘビだった件「スネークフライト」

よっぽどヒマでもない限り、これは決して見てはいけない!と揺るぎない絶対の自信をもって言える超A級のボンクラ映画!

(評価 20点)

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金無し、知恵無し、工夫無し、その上更にやる気なし。タイトルさえ見れば中身すら見る必要も欠片も無い激烈なる超絶低級映画!

 生粋のB級映画フリークたちにとって抗いきれない誘惑の言葉がある。それは「B級映画の拾い物」という言葉。B級映画フリークたちは、その”拾い物・・”という甘い誘惑の言葉に釣られ、ひょっとして・・の願いを胸に秘めながら、その作品におそるおそる手を伸ばす。

 果たして、それが当たり!であれば、喜び勇んで小躍りする。そして、ひとしきり喜び勇んだその後は、新たな作品を物色するアンテナを立てては静かに次なる獲物を闇の中で待ち受ける。その姿は何処か、ひっそりと小動物が到来するのを待ち続けるヘビの姿にも似ている。

 タイトルのせいで損したB級映画の拾い物・・そんな風のうわさを耳にしつつ、たまたま見ていなかった本作を、偶然、TSUTAYAの棚に見つけ、例によってひょっとしてのアンテナが反応して借りた本作は、その風のうわさが全くの空耳か、口からでまかせなことが明白な、どうしようもない低級映画だった。

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 あのサミュエル・ジャクソンがFBI捜査官として堂々、主役を張る本作。一番の問題は作品の心臓部の、そのプロットにある。世にいうネタばらしという言葉。しかし、本作に限って言えばネタばらしなど別世界の言葉に過ぎない。だってそのタイトルそのものが語っている。

 そもそもの、そのお話しとは、ある麻薬組織の犯罪を偶然。目撃した証人。その証人を捜査官のフリン(サミュエル・ジャクソン)がハワイからLAの裁判所に飛行機で移送するのだが、その飛行機には証人を抹殺する目的で、組織によって仕掛けられた大量の積み荷が積載されている。その積荷の中にいるのは無数の毒蛇たち、やがて時限装置で発動したフェロモンの効果で箱から溢れ出した毒蛇たちが一斉に乗客たちを襲い出す。

 このプロットを聞いた人間なら、誰でもこれっておかしくね?と、思うだろう。そう、飛行機の中のたった一人の証人を殺害するのに、こんなに成功率がゼロに近いほど低くて、手間だけがかかる方法を何で取るのだ?という疑問である。普通の人なら、そこから匂い立つ胡散臭さでこんな代物には手を出さない。しかし、年だけ取ったやさぐれ映画フリークは、ここで深読みをしてしまうのだ。「きっと、物語に何らかの必然性を持たせる工夫をこらしているに違いない!」

 ところが、本作、アゴがはずれんばかりに驚くのが、そんな工夫など微塵もなく、本当にそのプロットのまんま、とにかくヘビが多けりゃ、一匹ぐらいは証人を仕留めてくれるはずといった、ご都合主義全開の論理で突っ走る。そんなに大量のヘビ、一体、ヘビー級に厳重な空港のセキュリティーはどうすんの?の疑問の声も露ともはねつけず、実にアバウトな描写だけでさっさと片付けて唖然としてしまう。

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 その後に展開するのは、誰でも想像がつく、めくるめくヘビによるアタック・シーン。最初にお約束通りカップルが襲われ、次いでは兄ちゃんが〇ンコを咬まれ・・・。

 とにかく飛行機の中でヘビが暴れたら面白いだろう、という単純無欠なコンセプトの本作の脚本は、驚くべきことにストーリー原案も含め、数人がかりの労作。とはいえ、予算がないのは明白で、主役といってもいい旅客機の実景は、空港でそれが鎮座しているたったの1カットが、ちらりと映るだけ。金のかかる離陸のショットすらなく、いきなりチープなCGの飛行機が空を飛ぶシーンに切り替わる。

 うじゃうじゃ出て来るヘビたちも無論、みんな粗雑なCG。その後もすべてが予定調和。パイロットたちも死亡。パイロット不在となった旅客機の運命がフリンとスチューワーデスの手に委ねられ・・、といった具合に、もう、途中からはヘビなんかどうでも良くなって、ただの航空パニック映画と化す。

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 最後に、不時着を果すフリンの相棒となるのが、フライトシュミレーション・ゲームオタクの黒人の兄ちゃんというのもお約束通り。

 そしてラストに至っては、そもそもの証人がどうの、組織の奴らがどうのなんて話もどこかに消し飛んだ能天気なハッピーエンディングときたら、開いた口が塞がらない。

 しかし、本作を語る上で欠かせないのが、タイトル。邦題は一応「スネークフライト」なのだが、原題は「SNAKES ON A PLANE」、そう「飛行機の蛇」。普通、タイトルというのは、キャッチーな効果を狙って、色々、工夫を凝らすもの。ところが、本作の場合、長い物には巻かれろ的なやる気の無さがタイトルにまで現れている。

 というわけで、よっぽどヒマな人にしかお勧めしない作品だけど、やっぱりヘビが好きなんだ、そいつが飛行機の中で暴れるのを見たいんだ、本当にそれだけで満足なんだ、という人にはひょっとして当たりの作品なのかもしれませんけどね~

 いずれにせよ、やさぐれたB級映画フリークは、今後もこうした危ない作品に時折、手を出しては爆死を続けて行く運命なのでしょう。

負け犬の親子のための冒険教室「インディジョーンズ最後の聖戦」

夕陽に向って走るのは、スピルバーグ・ブランドの永遠のシルエット!負け犬も

いつまでもこの余韻に浸っていたい!

(評価 89点) 

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見るたびに映画小僧だったあの時の自分にタイムスリップ出来るスピルバーグマジックの魅力の全てがここにある。

 スピルバーグ映画にシネコンは似合わない。整然としたシネコンよりも、満員すし詰めの通勤電車のような、一昔前の映画館の方がよく似合う。本作を見たのも、時代が映画館からシネコンへと変わりゆく、その前身のような、大阪梅田のナビオの満員の映画館だった。映画のラスト、夕陽にそのまま溶け込むように去っていく、インディとヘンリー親子の姿を瞼に焼きつけながら、満員の観客もろともロビーに吐き出された時の至福の満足感を、今でも昨日のように覚えている。

 小学生の頃にスピルバーグの「JAWS」を、超満員の映画館で、座席にすら座れず、通路の階段にそのまま座って見て、最後にJAWSが咥えた酸素ボンベに弾丸が命中し、大爆発した時に沸き起こった割れんばかりの拍手!その時の電撃のような感動のエクスタシーが、思えば負け犬映画人生の出発点だった。言って見れば、今のこの負け犬は、その時のエクスタシーのような感動が忘れられず、もう一度味わう事を求め続けている一種のジャンキーの成れの果てかもしれない。

 しかし、成れの果てでも構わない、スピルバーグ映画には、見ているとまた純真にスクリーンにかじりついていたあの頃に戻れるような不思議なオーラがある。

 言わずと知れた連続活劇映画の最高峰のこのインディ・シリーズの満を持した第三作には、そんなスピルバーグ映画のキッズ感覚的なエッセンスの集大成のような風格すらあり、ショーン・コネリーがインディのパパに扮した話題もあいまって、既に本国で記録的ヒットとなっていた本作を期待満々で見に行ったのを覚えている。

 オープニングが、インディのルーツのイントロダクションなのが嬉しい。ボーイスカウト姿のヤング・インディ(リバー・フェニックス)の、黄金の十字架をめぐる、アダルト・インディになるまでのよもやま話。バスター・キートンの無声活劇ばりの、サーカス列車というギミックが、バカバカしいほど子供っぽいのにも、どこか確信犯的なスピルバーグの余裕の自身が感じられるのはこの負け犬の贔屓目線のためだろうか。

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一作目や二作目よりも、序盤のテンポがいささかスローなのも、緩急のメリハリを利かせている証拠。現に、中盤、いよいよインディのパパのヘンリー(ショーン・コネリー)が登場してからの、ボケとツッコミモード全開のバディ映画に豹変してから、本作は、一気にテンポが転調する。

 「JAWS」の頃、スピルバーグが良く口にしていたのが、映画におけるリズム。曰く最初は、緩やかに、クライマックスにむかって徐々にピッチが高まって、頂点で一気に加速する。スピルバーグ映画に付き物なのが、ジェットコースターのライドのような、そうしたリズム。

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 ナチの基地の古城からインディ親子が脱出してからは、マックィーンの大脱走を思わせるバイク・チェイスに、クラシックな飛行船での脱出行から複葉機での空中戦、さらには追いすがるメッサー・シュミットをヘンリー・ジョーンズが機転をきかせて撃破するまで、見せ場がつるべ打ちに繰り出され息つく間もない。

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 そして待ちに待ったと言わんばかりに展開される戦車との一騎打ち。戦車の内部、そして剥き出しのキャタピラという小道具がめまぐるしくフルに活用されるノンストップ・アクションの白眉ともいうべきこのシーンは、何度見ても楽しめる。

 しかし、結局、最後に泣かされるのは親子の情というアナクロなエモーションなのだ。崩落寸前の宮殿で、床の裂け目にしがみつき、必死で聖杯に手を伸ばそうとするインディに向って、ヘンリーが「ジュニア」と呼びかける。その時、初めて我に返って父親の腕にしがみつく。

 絵に画いたような中流の母子家庭で育ち、たくましい母親を目にしつつも、スピルバーグが常に追い求めていたのは父親の偶像だった。やはり本作の最もいいところは、スピルバーグの映画に必ずあるヒューマニティに裏打ちされているところ。それがあるから、エンディングでキャラクターが一堂に会し、軽口のジャブの応酬の後、颯爽と去っていくシルエットが生きて来るのだ。

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 子供の頃、夢中になって映画を見ているうちに、この時間がこのままずっと続けばいいのに、と願っていた。そんな無邪気で純真なスピリッツが、この頃のスピルバーグには横溢していた。本作の前作となる「太陽の帝国」では、日本軍侵攻時の上海で、たった一人で生き残るジムという少年の姿を通して、成長という通過儀礼を描いていたスピルバーグが、本作では冒険物語を通して親と子が和解する姿を描いた。そこにはフランチャイズ化した作品を手掛けながらも、一作ごとに確実に成長していくフィルムメーカーの姿が感じられるといえば少々、大袈裟だろうか。

 かくして美しく完結したはずのインディは「クリスタルスカル」で復活。それどころか現在、「インディ5」を製作している。スピルバーグのクレジットがない今度のインディ。ただのフランチャイズの成れの果ての、老害のインディだけは見たくないものですが、どうなるのでしょうね~

負け犬の666(ロクロクロク)は悪魔誕生ならぬメガヒットのキーワード「オーメン」

映画は作品だけではヒットしない!宣伝戦略との相乗効果でものの見事にモンスター級のヒットをとばしたオカルトホラーの傑作!

(評価 78点)

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映画はアイデアが命!それに劣らず生命線ともなるのが宣伝だ。当たってナンぼの世界、宣伝良ければ全てよし。更に中身も良ければ云うことなし。

 それは、負け犬がまだ中学にあがったばかりの頃だったろうか。とある金曜の夕刊に映画の広告が掲載された。一面、全面が黒く売り潰された背景に、ハイライトの光の中、くっきりと浮かび上がるその文字は、数字の”666”!映画を煽る宣伝も、これみよがしの惹句も、それにキャッチコピーすら何も無い。たった三つの数字だけ。このインパクト抜群の広告に魅了されない、いたいけな映画小僧たちなどこの世にいるだろうか。

 早速、翌週の月曜日から、学校のクラスでは、その話題でもちきりになった。時はまだ、あの「エクソシスト」の余韻も冷めやらず、マンガの世界でもつのだじろうの「恐怖新聞」などが大ヒットを飛ばしていたオカルト・ブーム(懐かしい・・)の真っただ中。やがて、TVのスポット映像でも、本編屈指の殺しのシーン。残酷ガラス板ギロチンの刑の映像が流されるにいたって、どんどん、そのトピックはヒート・アップ!あの「エイリアン」の大ヒットの時と同じように、日本人には聞きなれない「オーメン」という単語のインパクトもあいまって、加熱する一方だった。つまるところ、負け犬を含むバカな映画小僧たちが毎日、「オーメン♪ラーメン♪冷ソーメン♪」などと、替え歌まじりに囃し立てるようになるまでは、秒速と言ってもいい時間だったのだ。

 かくして、日本でも当時、超大ヒットとなった本作だが、本国アメリカでのメガヒットぶりは桁が違った。本作の製作費は、グレゴリー・ペックといった大御所が主演にも関わらず、たったの280万ドルという超低予算。それが本国だけで何と、6千万ドルを上回るメガヒットとなった。後年、映画小僧から映画オタクに昇格し、古本屋を漁っていた頃、入手した「キネマ旬報」のバックナンバーの本作の特集号には、原田真二氏による当時のヒットぶりをルポする記事が載っていた。

 そこに書かれていたのは、膨大な数の客たちが次々と映画館に押し寄せる狂騒の様子と共に、本作ヒットの冷静な分析だった。

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 この世には、ベストセラーとなった書物は数あれど、決して他の追随を許さない絶対的なベストセラーが一つだけ存在する。それは聖書だ。

 本作「オーメン」の勝因は、まずは聖書でも新約聖書の片隅に記された、獣の数字と言われる”666”に目ざとく目を付けた脚本家デヴィッド・セルツァーの勝利だと断言しても間違いは無い。

 その”666”をキーワードに、古くからある取り替え子の因縁話に、悪魔の子というアイデアミックス。そして、それらを、悪魔をめぐる数々の蘊蓄でリファレンスマニュアルのように、味付けしてみせたその脚本は、エンタメとしては文句なしに完璧なものだったといってもいい。

 エンタメとして申し分ないだけではない、世界一の文明国家でありながらクリスチャンの宗教色が色濃く残る米国社会の人々の、深層心理に、この悪魔のリファレンスマニュアルが刻印のように撃ち込まれるのは、ある意味、必然でもあったのでしょう。

 外交官ロバート・ソーン(グレゴリー・ペック)の実子が生後間もなく死亡。悲嘆にくれるソーンの元に神父がある提案を申し出る。それは、生後間もなく母親が死亡した、その赤子を自分の子として授かることだった。しかし、平和で仲睦まじいわずかな家族団らんの後、起こり始めたのは数々の予兆だった。

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 流麗なジェリーゴールドスミスの曲が流れる穏やかなイントロの後、その子供ダミアンの5才の誕生日のパーティのさなか、乳母が首吊り自殺するショックシーンの衝撃は今なお健在。その後、連続する殺しのシーンの際、BGMが男女の重苦しいコーラスによるミサの楽曲風に変わって一気に、転調するアイデアも抜群。ダミアンをめぐる疑惑が確信に変わり、最後のクライマックスに至るまで、巧みなテンポで飽きさせないのは、まさに職人監督リチャード・ドナーの手腕によるところ。

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 原田氏が「キネマ旬報」の中で、本作を評し、悪魔をめぐる、数々の蘊蓄に加えて、イタリアからロンドン、そしてダミアンにとどめを刺すための剣を入手するために中東へといった、フレデリック・フォーサイスの政治サスペンスばりの国際的なスケール感と神秘主義的な冒険もののテイスト。本作メガヒットの秘訣は、それをバランス良く配した脚本にある、としていたのが印象的だった。

 「決して一人では見ないでください」のキャッチコピーで有名な「サスペリア」をはじめ、宣伝でヒットした映画は数あれど、本作は、宣伝効果と、映画そのものエンタメとしてのクォリティーのバランスがもっともよく取れた希少な映画ともいえるのでしょうね~

 しかし、気になるのがメガヒットした映画の主役を張った子役の末路。「エクソシスト」のリンダ・ブレア然り、「E.T.」のドリュー・バリモア然り、いずれも順風満帆とはいかない人生となるのが、お定まりの末路だけど、この名前も大ヒットの要因だったダミアンを演じた子役は、今はどうなっているのでしょうね~?いずれにせよおっさんになっていることだけは間違いないはずですけどね。

負け犬は人生の最後に何を食うのか?唯一無二の食い物活動大写真「タンポポ」

生きることは食うこと也!何度見ても楽しい、繰り返し見るから楽しさも倍増する、食い物の麗しき美味なるアラカルト!

(評価 82点)

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味覚は言うに及ばず、嗅覚、触覚、聴覚、そして知覚にまでも訴える、この映画は、五感で感じるグルメな活動大写真!

 星の数ほども出版されているグルメに関する書物の中で。元祖ともいうべき古典中の古典といってもいい書物がある。フランスの政治家で、自身、大変なグルメ通でもあったブリアー・サヴァランが1825年に記した「美味礼賛」だ。今でも翻訳で読めるこの本は。味覚というものを生理的な見地からとことんまで追求した、いわば食の求道書のような本なのだ。真面目は真面目なのだが、その追及ぶりが、限界まで真摯なため、何かと笑える本でもある。

 たとえば、人間の味覚というものが、この本に言わせればこうなる・・

 「まず歯が有味体を分割し、唾液その他の分泌液がそれらに沁み込み、舌がそれらを口蓋に押し付けて、そこから汁をしぼりださなければならない。その際、その汁が十分に有味性を帯びていれば、そこで初めて(舌の)風味乳頭によって識別され、あらかじめ歯の間で粉砕された物体がいよいよ胃の腑にはいることを許されるのである~」ここでいう有味体がそもそも人間の食す、食べ物のことなのだ。

 ただ物を食べるという行為を、ここまでスタイリッシュに格式張って書けば、何処かファンキーで可笑しなテイストに豹変しないだろうか?

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 劇場映画デビュー作「お葬式」で、日本初、そして今に至るまで唯一無二ともいうべきエッセイ映画を誕生させて世間の度肝を抜いた才人、伊丹十三の第二作目の「タンポポ」は、どこかこの「美味礼賛」にも通ずるスタイリッシュなスタイルで人間の食を究めた傑作グルメ映画なのだ。

 ともあれ本作のキャッチコピーはズバリ、ラーメンウェスタンというだけあって、その味わいは、格式張ったところなど微塵もなく、大衆食堂の気安さで、あらゆる味覚が楽しめるお得なアラカルトなのが、なんとも嬉しいところ。

 メインの話は、やっぱりラーメン。長距離トラックの運転手ゴロー(山崎努)がフラリと立ち寄った、タンポポ宮本信子)が営むうらぶれたラーメン屋。その店でビスケン(安岡力也)に絡まれたことから、ゴローはタンポポのラーメン屋をいっぱしの店にすべく立ち上がる。

 そのメイン・ストーリーの進行の合間にインサートされるのが、元々、グルメな伊丹十三が、その半生で培った食への思いをぶちまけたような楽しいエピソードの数々。

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 イントロは、白一色のスタイルで決めた、本作の狂言回し的な帽子男(役所広司)。映画館に乗り込んで来たこの帽子男が、後方でスナック菓子をボリボリ食べている客に向い「あんた、映画が始まってもまだそれ食ってたら、オレ、あんた殺すかもしんないよ」とドスをきかせるところから始まるのが何とも可笑しい。

 本作がユニークなのは、ただグルメな食べ物のおいしさだけではない。食にまつわる人間の五感といった見地からグルメにアプローチするところ。だから、イタリアン・レストランで食のマナーといって、生徒たちに、パスタは絶対に音を立てて啜ってはいけない、と厳に言い聞かせているそばから、ドデカイ音を立ててパスタを啜り上げているイタリア人の旨そうな姿に耐え兼ねて、とうとう当の先生も含めて生徒全員が、パスタを啜るズルズルという音の大合唱となるユニークなシーンが現出する。

 どうにもラーメンのスープ作りがうまくいかないタンポポを見かね、ゴローがタンポポを、ラーメンのスープ作りの先生と称するホームレスの元に連れて行くくだりも実に楽しい。そこで、ホームレスの一人が、タンポポの息子ターボーに作ってやるオムライスの何とも旨そうなこと。

 食べ物には、まずはトラブルもつきもの。ゴローたちが立ち寄ったソバ屋で、モチを喉につまらせる老人(大滝秀治)を掃除機で助けるくだりは捧腹絶倒間違いなし。

 味を奪われた苦痛もある。虫歯で食事がまともに出来なくなった男が、やたらと色っぽい歯科衛生士たちがいる歯医者で、治療してもらう。しかし、最初は柔らかいものからと、歯医者に言われ、ソフトクリームを食べていたら、ヨダレを垂らさんばかりに飢えた目をした子供が寄って来る。ふと見るとその子供のクビには、”自然食だけで育てています。食べ物を与えないでください”と書かれたカードがかけてある(笑)。試しに子供の口元に、ソフトクリームを突き出したそのリアクションたるやもう本編を見ていただくしかない。

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 そして、食べ物は、味だけではない、食感ならぬその触感も。とある深夜のスーパーマーケット。フラリと一人で入って来た老婆は、食べ物の触感の魅力に囚われたフェチで、次から次へと食べ物を手にとっては、その表面に指がめり込む感触に陶然となっている。かくして始まる、それを目撃した店主と老婆との店の中でかくれんぼめいた追っかけっこ。

 本作は、まるで尻取りのように、こんな可笑しなエピソードが、次から次へと繰り出され、それを見ているだけでいつのまにか2時間が経っている究極の食のアラカルト映画といっていい。こんな映画、古今東西を問わず本作以外でお目にかかったことがないし、実際、何度見ても、見返すたびに味がしみだすように楽しめるところが嬉しい。

 味というものには、理屈も国境すらもいらない。日本では残念なことにヒットしなかった本作だが、今でも欧米では、伊丹作品としては随一の人気を誇っているのも、うなずけるところ。

 最後に、本作で負け犬がもっとも好きな、とっておきのエピソードを。

 夜の踏切を息せき切って駆け抜ける男(井川比佐志)。男が飛び込んだのは自宅の安アパート。四畳半の布団には、もう臨終間際の男の妻が横たわっている。しかし、男は、死へのカウウントダウンが秒読みに入っている自分の妻を何とか蘇生させようと懸命に呼びかける。やがて思い当ったように男は妻にメシを作れ!と大声で叫ぶ。すると、妻は、まるでプログラムされた機械のように、すっくと起き上がりごはんの支度を始める。この妻が作るのがチャーハンなのだ。

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 やがて香ばしい匂いを放つナベを手に、妻が食卓へとやって来ると、男は三人の子供たちに食え!と命じ、妻が死に際に作ったチャーハンを皆で食べる。そして、男が旨いと言った瞬間、妻はこと切れる。この「最後のチャーハン」のエピソード。見たら誰でもチャーハンが食べたくなるはず。

 思えば人間は、生まれた瞬間から、当然ながら食い物を食す。そして、人それぞれに食す食べ物もバラバラで、おそらく人生の最後に口にする食べ物も、てんでバラバラのバラエティには富んでいるはず。しかし、最初に口にするのは、お母さんの母乳と決まっている。

 ミルクから始まる人間の食の長い旅。本作を見たら、おそらく人生の最後に何を食すかに、誰でも思いをめぐらしてしまうのではないでしょうか。

負け犬も気分はすっかりアミューズメント!「ジュラシックパーク」

ギミックが絶え間なく連続するライド感覚が秀逸!この夏、アミューズメントパークに行けなくても本作があれば大丈夫!

(評価 80点) 

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今更言うまでもないアミューズメント映画の代表格。ギミックにこだわるスピルバーグのビジュアル志向が幸福なレベルにまで昇華された大人も子供も楽しめるエンタメ映画の良作。

 「ウェストワールド」で小説から映画の世界に乗り込んで成功したマイケル・クライトン。そのマイケル・クライトンから直々に指名されたスピルバーグが乗りに乗ってメイキングした傑作映画。

 スピルバーグ映画の楽しみの一つに、必ずといっていいほど、新作と抱き合わせで出版される映画のメイキング本を読む楽しみがあった。中でも楽しかったのが、必ず載っている、映画のプリプロダクションにおける、設定画やストーリーボード。映画のイメージを形成し、ビジュアルの青写真ともなるそうした素材の数々が載っているページをめくっていくのは実に楽しいものだった。しかし、もっとも楽しいのが、そのまま映画が紙の上で再現されたかのような絵コンテだ。

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 ヒッチコックの映画メイクの継承者でもあったスピルバーグが、絵コンテを多用する監督ということは、広く知られていた。そこで、例に漏れず、そうしたメイキング本にも各シーンの絵コンテがふんだんに収録される。その絵コンテからうかがいしれるのは、スピルバーグのビジュアルにおけるギミックへの飽くなきこだわりだ。

 スピルバーグが恐竜を!本作の製作が発表された時、誰もが心を踊らせた。だが、スピルバーグが恐竜を全て、スケールモデルのアニマトロクスで製作するとのウワサがちらほらとしだした時、一抹の不安をよぎらせた人も少なくはなかったはず。負け犬の世代の人なら、あのジョン・ギラーミンの超大作映画「キングコング」に煮え湯を飲まされた人も少なくなかったはず。実物大のキングコングを目の当たりに出来る!その映画の大宣伝に踊らされた人たちが見たものは、ただ突っ立てるだけで、上腕部をかすかに動かずに過ぎない巨大な飾り物同然の代物だった。

 ひょっとして本作も「キングコング」の二の舞を・・という不安がよぎりつつ、アニマトロクスによる製作に着手しだした頃、スピルバーグは、ILMが作ったCGによる恐竜のデモ映像を見て感激する。本作、製作当時の1990年代初頭は、CG製作のハードウェアにしても今と比べれば原始的なもの。それでも、本編中盤、グラント(サム・ニール)やサトラー(ローラ・ダーン)、マルコム(ジェフ・ゴールドブラム)たちに襲い掛かるティラノサウルスのリアリティは、今見ても、決して遜色はない。それどころか逆に、黎明期の低スペックのハードウェアで、膨大な時間をかけて、まるで過去のストップモーション・アニメのような手作り感覚で作っているようなテイストが今見ると楽しくて仕方ないほど。

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 そして、今見ても感心するのが、スピルバーグならではの、ビジュアルにおける、ギミックへのこだわり。ここでいうギミックとは、恐竜の仕掛け云々のことではなく、見せ場を連続活劇的にシームレスに展開するビジュアル的な仕掛けのこと。

 本編、最大の見せ場ともいえる、雨が降りつける夜、グラントと子供たちが乗ったツアー用のジープを、T-REXが襲撃してくるシーン。ここでは、そのジープが小道具として最大限に活用される。ジープの真上からその鼻面を突っ込んでくるT-REX。ジープから脱出したら、今度はそのジープに弾き飛ばされ、ダムのような壁面から落下しそうになり、何とか壁際のロープに捕まったら、そのジープが、自分たちに向かって落下してくる。更に、今度は落下し、大木に引っかかり大破を逃れ、ジープに閉じ込められたままのティムの救出劇へと。かくの如く、スリルが数珠つなぎに展開していくシーン構成は、もうみごとの一言。スピルバーグは、こうした仕掛けを着想するのが、本当に天才的に上手いのだ。

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 それに、事前にみっちりと絵コンテで構成を組み立てておかないと、こうしたシーンはビジュアライズが出来ない。メイキング本にもこのシーンの絵コンテに少なからずページが割かれていたのを覚えている。

 スピルバーグは、本作の撮影を終え、ポストプロダクションのプロセスに入ると、早々と、名実ともにキャリアの頂点となった畢生の傑作「シンドラーのリスト」の撮影のために東欧に飛んでいる。「シンドラーのリスト」以降、更には「プライベートライアン」以降、自らも明言しているように絵コンテに固執する事を止め、明らかに一皮むけて作風は拡がった。

 しかし、元々、スピルバーグの「JAWS」を映画館で見て、その瞬間、映画というものに身も心も奪われて、やさぐれ映画人生を歩むようになってしまった負け犬としては、こうした遊び心溢れる無邪気な映画を見ることができる機会が、少なからず減ってしまったのはちと寂しいところではある。

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 映画のクライマックスで、グラントたちが、ラプターの集団に襲われ絶体絶命のピンチに乱入し、一躍、ヒーローとなったティラノサウルス。そこに絶妙のタイミングで、ダイナソーと書かれたペナントが降り注ぐ、拍手喝采もののエクスタシーに満ちた瞬間を、また味わいたいと思っているスピルバーグの信奉者も多いはず。

 小学生の頃、デビュー作の「激突」をTVで見た時が始まりだから、スピルバーグとの付き合いも思えば長い。他のベテラン監督が、CGによる映画メイキングに及び腰になる中で、一人旺盛に最新の技術を使った映画作りを続けている姿勢には、中高年としても頭が下がる。

 スピルバーグには、もう一度、本作のような子供心に満ちた、エポックメイキングな作品を是非とも作って頂きたいものですよね~