負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬だって一人より二人の方が絶対いい!「間宮兄弟」

天才、森田芳光監督が天国に旅立つ前に届けてくれた至宝のプレゼント!ほっこりし、癒され涙する、やっぱり人間はひとりぼっちより二人の方が絶対いい!

(評価 88点) 

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「だって間宮兄弟を見てごらんよ。今でもずっと二人でいるじゃん!」ずっと二人で暮らしている、モテナイ系の間宮兄弟の日常は、平和で温かく、とてつもないほど穏やかなのだ。

 映画というものは、その創成期の時代から、小説が元ネタと相場が決まっていた。そこで、自ずと生じてくるのが小説というメディアと映画というメディアの葛藤だ。大体の場合、小説は良く出来ていても、さて映画はちょっと・・という場合が多いような気がするのはこの負け犬だけだろうか。

 しかし、ごくまれに小説と映画のドリームマッチのような理想のコラボレーションが生み出されることがある。この「間宮兄弟」こそ、その理想のコラボレーションの典型とも言うべき映画。

 声を大にして言わないけれど、天才作家と敬服している江國香織さんの素晴らしい原作と、森田芳光監督の遊び心あふれる、みずみずしい感性が、お互いを決して損ねることなく、幸福に主張しあい、響きあって、とてつもないほど素晴らしい空間を作り出している稀有なる傑作映画。

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 昭信(佐々木蔵之介)と徹信(塚地武雄)の間宮兄弟は、30過ぎだというのにお互い独身で、驚くべきことに今も都内のマンションで、二人で暮らしている。ふたり暮らしを続けている男兄弟!このありそうで、絶対ないようなシチュエーションを、絶妙に描いた江國香織さんの原作が、とりもなおさず素晴らしい。その持ち前の感性で描いた兄弟のユーモラスなテイストだけではない。女性ながら、全く女性にモテナイ系の男たちの生理、生態を、きっちりと掬い取ってみせる、その手腕には、脱帽するしかない。そして、その小説世界を、これまた独自の感性で、ブロウアップして、「間宮兄弟」そのものといっていい世界観を映画というメディアで作り上げてしまった森田芳光監督も実に何とも素晴らしい。

 この映画には、サスペンスも葛藤も何もない。ただ平和な暮らしがあるだけなのだ。でも、その平和が、人間を慈しむ心や、優しさを教えてくれる。

 いい歳こいた間宮兄弟には、今日も、女がいない。やることといえば決まって週末の土曜日の午後、1時間もかけてレンタルビデオ屋でビデオを三本借り、昼も夜も、兄弟そろって二人で鑑賞し、夕食時になれば、商店街に尻取りじゃんけんしながら出かけて行って。馴染みの中華屋で、定番の餃子を二人で食べるのが最大の楽しみという日常なのだ。

 そんな兄弟が、ちょっと気になるビデオ屋の店員、本間直美(沢尻エリカ)を、ダメもとで、徹信が企画したカレー・パーティーに誘ってみたら、これが何と予想外に快諾されて、間宮兄弟の自宅に、若い女の子がやって来るという、ちょっぴり非日常な事態が勃発する。

 もともと弟の徹信の仕事は小学校の用務員で、徹信のタイプではないが(まったく女にもてないのに、タイプ云々を云うのがまずおかしい)その学校にいる、地味目だけど結構美人の先生、葛原依子(常盤貴子)にも声をかけたら、予想外にもすんなりOKしてくれ、間宮兄弟のカレー・パーティーが、女性二人を交え、にぎにぎしく開かれる。だからといって、何が起こるわけでもない。ただ、皆でトランプしたり、人生ゲームをやったりして、まったりと過ごすだけなのだ。

 兄の明信は、ビール会社の技術屋で、ビール党。弟の徹信はコーヒー牛乳党。そんな二人が銭湯あがりに、そろってビールとコーヒー牛乳を飲む姿がまたおかしい。

 そして、とにかく本作には、しばらく職人監督に徹して来た森田芳光監督が、まるで水を得た魚のように、デビュー当時のあの独特の間合いや感性を復活させてくれている。徹信が、ぼったくりバーにひっかかり、クレジットカードに至るまで巻き上げられて帰宅した夜。明信が作った塩むすびをしんみり食べる徹信を見て、「生きて帰れただけでも良かったじゃないか」と励ます掛け合いには爆笑した。かくの如く本作では、森田監督が、原作のエッセンスを巧みに掬い取って、自らの感性で味付けした、クスクス笑いのスパイスが至る所で効いている。

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 何故かピッタリとはまっている間宮兄弟の母親役の中島みゆきのサプライズ出演をはじめ、高嶋政宏北川景子などなど、森田ワールドを盛り上げてくれるキャストも秀逸。

 間宮兄弟の外の世界では、男と女がせわしなく、くっついたり離れたりして何かと忙しい。しかし、やっぱり女性がいない間宮兄弟の世界だけはいたって平和で穏やか。

 映画のラストでは、兄弟共に、お互い意中の女性に、やっぱり何の関心も持たれることなく、二人だけの世界に戻った兄弟が、夜の通りを自転車に乗って走る。それに被さる兄弟同士の会話は、互いで出し合う無邪気なクイズ。夜のすがすがしい空気の匂いまで伝わって来るようなこのシーンは原作にはない森田監督独自の創作だ。デビュー作「の・ようなもの」で主人公の噺家が、隅田川沿いを歩くモノローグのシーンを想起させて嬉しくなった。

 思えばマイホームや、絵に画いたような家庭像といったありきたりな幸福は、たとえありきたりでも、人としのぎを削って、それなりに争わなければ得られない。しかし、人と争う事が苦手な人間もいる。だから人間は、決して背伸びなどせずに、自分だけの幸福を楽しめばいい。間宮兄弟の、ふたりだけの穏やかな暮らしを見ていると、そんな事を教えてくれるような気がする。

「だって間宮兄弟を見てごらんよ。今でもずっと二人でいるじゃん!」

 そう、こんな兄弟がいたっていい。だって人間は、やっぱり一人より二人の方が断然、いいのだから。

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 エンドクレジットで流れるRIP・SLYMEの「HeyBrother」のラップがいつまでも心に残る珠玉の作品。旅立つ前に、こんなに楽しい作品を残してくれた森田芳光監督には、ただ感謝しかない。

 ありがとう森田芳光監督!

負け犬の政治スリラーはズッコケモード、憎々しきナチを追う、その心とは?「オデッサファイル」

ナチ再興を目論む秘密組織オデッサを追え!「ジャッカルの日」に次ぐフォーサイスの政治スリラー

(評価 70点)

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ケネディ大統領が暗殺されたその日、ドイツのうらぶれた街の片隅で一人の老人が死んだ。その老人から託されたのはナチの虐殺の所業を克明に記した一冊のノート。かくして、一人のジャーナリストの緊迫の追跡劇が幕を開ける!

 世界的大ベストセラーを出してしまった作家の宿命は、言うまでもなく第二作の壁。しかし、今は崩壊したが、かつては見上げるほどに堅牢なベルリンの壁のごとき二作目のその壁を、いともたやすく超えてしまった作家がいる。「ジャッカルの日」で一躍、国際的ベストセラー作家となったフレデリック・フォーサイスだ。

 フランスのド・ゴール暗殺のミッションを託された一人のスナイパーと、それを追うフランス警察とのキャット&マウスを緊迫の筆致で書き上げたフォーサイスが次に取り上げたトピックは、ナチの残党。

 もう、このトピックをチョイスした時点で勝負あった、という感じで、フォーサイスは、情報小説とも呼ばれる自らのスタイルを生かし、第一作に優るとも劣らぬ二作目を書き上げ、見事にベストセラー作家としての地位を確固たるものにする。

 とはいえ、この二作目を読んだのは、その映像化となる本作のTV放送を見た後のことだった。とかくフォーサイスの小説というのは、その映像を見た後で、各シーンの造型が、活字でどこまで書き込まれているか、それを読みたくなる誘惑にかられて、手に入れたくなる、不思議な代物なのだ。

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 ドイツのフリー・ジャーナリスト、ペーター(ジョン・ヴォイト)が偶然、手にしたのは、強制収容所でリガの殺戮者と異名を取る所長ロシュマンの悪行を克明に記した一冊のノートだった。そのノートをきっかけにナチの残党たちをアシストする組織オデッサの存在を知ったペーターは、知り合ったユダヤ人過激派グループに誘われ、オデッサへの潜入を試みる。

 映画そのものは、ベテラン監督ロナルド・ニームの堅実な手腕もあって、典型的な政治スリラーとしての展開が楽しめる。そもそも我々は、原作者のフォーサイスがジャーナリストだったことを知っている。ペーターが死の危険を冒してまでナチを追うのも、ジャーナリスト魂の成せる業だと、すっかり思い込んでしまうのもミソ。終盤に明かされるペーターの真の動機には、TVで見た時も驚かされた記憶がある。

 だから、今回、久しぶりに見たのも、TVで見た後、原作を入手し、それを読んだ後ということになる。原作は、フォーサイスらしく、愛車ジャガーを駆ってオデッサの実体を追う、ペーターの足取りが克明に記され、その緻密ぶりは、活字マニアにとってはたまらないところ。本編には関係ないが、ドイツのアウトバーンの詳細を克明に記すディティールへのこだわりなど、情報小説の先駆者としての面目躍如たるものがあるといっていい。

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 それもあってか、久しぶりに見た今回、小説のリアリティと比べれば、ややお約束通りのスパイ映画めいた印象が強かったのが残念なところ、それに加えてオープニングとエンディングのタイトルバックに流れる少々、ズッコケモード全開の音楽のセンス、いくら舞台がドイツとはいえ、もうちょっと何とかならなかったのでしょうかね~

 とはいえフォーサイス映画の入門編としては、フレッド・ジンネマンの名作「ジャッカルの日」と双璧を成す出来映えには違いないところなのです。

負け犬の人生でたった一度のバカ騒ぎ二度とは帰らぬ青春のプルーフ「ファンダンゴ」

輝かしき青春のエンブレム!バカ騒ぎの後の余韻の切なさ、たった一度しかない青春に別れを告げて若者は旅に出る!

(評価 88点)

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ワイルドで行こう!とは言いつつ、人生はワイルドだけではそうそう乗り切れない。進学の恐怖、就職の恐怖、そしてベトナム徴兵の恐怖、目の前の荒波にかざすのは、一本のビールのボトル。

 進学、就職、目の前で黒々と波立つ、そんな荒波を前に、勢い良く乗り出すか、それとも踏みとどまるか、どちらにするか決めかねている。そんな不安な青春期に観る映画。そうした一つの青春のエンブレムとでも言っていい映画が一本や二本は、誰にでもあるのではなかろうか。負け犬にとってのそんな映画が本作。そして今も尚、この作品は負け犬の映画人生でかけがえのない地位を占めている。

 ヒッピーやドラッグ、それにフラワーチルドレンの余韻がまだかすかに残る1980年。あの名門、南カリフォルニア大の映画学科の一人の学生が、ワークショップで製作した24分の短編映画。たまたまそれを見たスピルバーグは、自らのアンブリン・エンターティメントの第一回作品として、その短編の長編化を持ちかけた。かくして完成し、本作「ファンダンゴ」で見事、商業映画監督デビューを飾ったその監督こそ、ケビン・レイノルズだった。

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 ジャンルとしては青春映画にジャンル分けされる本作だが、本作が公開された1985年に、もう一本の青春映画が公開されたのをご存知だろうか?映画史上、エポック・メイキングな存在となる、あのジャームッシュの「ストレンジャーザンパラダイス」だ。当時、キネマ旬報では、両極端にある青春映画として、同時特集の記事が掲載された。

 「ストレンジャーザンパラダイス」が静の映画とすれば、「ファンダンゴ」は、まさしくその正反対の動。それもアメリカ映画特有の小気味よいカットのコンテも巧みな、優れたテクニックを誇る映画だった。

 負け犬も本作を最初に観た時は、正直、驚いた。スピルバーグの再来か、はたまたそれをも凌ぐ天才が現れた。大袈裟でなく本当にそう思った。しかし、それはこの負け犬だけではない、国内外の映画関係者たちもそうだった。その証拠に、元々、日本では公開予定のなかった本作が日本で公開されたのも、あの「竜二」の監督の川島透が、カンヌ映画祭で本作を見てぞっこんに惚れ込み、フジテレビのエグゼクティブに買い付けを打診したのが発端だった。

 本作の演出の何がそんなに凄いのか?それは、絵にたとえれば、とにかく上手いのだ。

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 大学卒業間際のパーティで、学業不振を理由にベトナムに徴兵されることを明かしたガードナー(ケビン・コスナー)は、大学の四年間、結成していたグルーバーズの一員で親友のワグナー(サム・ロバーズ)も同様に徴兵されることを知るや、メンバーでも落ちこぼれのフィル(ジャド・ネルソン)をけしかけ、大学生活最後のライドをしようと焚きつける。その目的地は、グルーバーズの誓いの証(プルーフ)、DOM(ドム)に会うこと。

 直後、エルトン・ジョンの威勢のいいスタンダード・ナンバーに乗って繰り広げられる、疾走するキャデラックのイントロで、早くも本作の監督ケビン・レイノルズがただ者ではないことを実感する人も多いのではないか。

 曲のリズムに乗って、次々と繰り出される小気味の良いカットの連続。その切れ味は、まさに若い頃のスピルバーグの映像のタッチにそっくりだ。そのすぐ後、ガス欠で、テキサスの路上で途方にくれていると、長距離列車がやって来る。咄嗟に、その列車に引っかけたワイヤーで車と列車をつなぎ、水上スキーよろしく移動してしまおうという、ドタバタのシーンのコンテ構成の惚れ惚れするほど巧い事。

 ケビン・レイノルズが優れているのは、ただのカット割りだけではない。ドライブインで知り合ったコギャルたちに誘われ、花火で撃ち合って無邪気に遊ぶシーン。ここでは、花火をシンボリックにベトナムの戦火に見立てる心憎い演出をして、唸らせてくれる。

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 元々の本作のオリジナルの「プルーフ」というタイトルの短編映画は、スカイダイビング学校でのドタバタを描いたものだった。そのスカイダイビングのエピソードに肉付けし、ブロウアップしたレイノルズ自身の手による脚本も見事の一言。

 グルーバーズが会いに行くDOM(ドム)の意外な正体が明かされる後半、そして、冒頭の伏線を巧みに回収し、クライマックスのウェディング・シーンへとつないでいく脚本作りの巧みさにも舌を巻く。

 思えば、終生、愛することになるミュージシャン、パット・メセニーの存在を初めて教えてくれたのも本作だった。それまで三流役者に甘んじ、本作で初めて主役を張ったケビン・コスナーが、そのパット・メセニーが奏でるBGMに乗って、ウェディングのセレモニーで花嫁とダンスを踊るシーンの、たとえようもない美しさ。

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 式が終わり、グルーバーズの五人のメンバーは散り散りに別れていく。その時の切なさは、誰の人生にも訪れる青春時代の終焉へのラプソディなのだ。

 ところで、本作のメイキングのきっかけとなった「プルーフ」という短編映画。何十年もただの伝説でしかなかったこの作品が、現在、何とYOUTUBEで見ることができる!これを見た人は誰もがきっと驚くだろう。本編中、最大の見せ場のスカイダイビングのくだりが、そっくりそのまま後に製作された映画と瓜二つなのだ。そのコンテ構成から、細かなカット割りに至るまで、まるでクローンと言ってもいい程、そっくりなのだ。おまけにダイビング学校のイカレたインストラクター、トルーマンを演ずる役者は、映画版とまったく同じ役者が演じている。

 逆に言えば、これをアマチュアとして作ったケビン・レイノルズが、細かな一つひとつのカットに至るまで、この短編映画に如何に愛着を持っていたかが良く分かる。しかし、そのパーツをそっくり劇場映画の90分の尺にはめ込んで、見事に一本の映画に仕立てたレイノルズの才能にも敬服する。

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 映画の最後、小高い丘の上でしゃがむガードナーが、一つ一つ消えて行く村の灯りを見ながら立ち上がり、手にしたビールのボトルを掲げるところで映画は終わる。エンディング・クレジットで流れるのは、ブラインド・フェイスの名曲「Can’t Find My Way Home」。

 本作で、ハンサムぶりを世に知らしめたケビン・コスナーもすっかり年を取った。しかし、負け犬にとってのケビン・コスナーは、たとえ何十年経とうが、本作のエンディングで闇の中、徴兵を逃れカナダ国境に逃亡するか、それともいさぎよくベトナムに行くか、まだ決めかねているガードナーで、そのビールのボトルをかざすシルエットに被って流れる「Can’t Find My Way Home」をみじろぎもせずに聞き続けているこの負け犬なのだ。

 青春に乾杯!

負け犬の天才のみが作れる空気感「家族ゲーム」

天才のみが創り出せる間合いという魔術!ひとつの家族とひとりの家庭教師が紡ぎ出す驚異のファンタジー空間にひれ伏せ!

(評価 90点)

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金属バット殺人事件に空前のジャズダンス・ブーム!バブルでネジのはずれたニッポンの、目に見えないはずの空気感を手に取るように構築してみせた天才監督に脱帽!

 凡才には決して出来ない芸当で、天才のみで成し得るものがあるとすれば、それは何だろう?それはきっと目には見えない間合いというものに違いない。

 決まりきったキックとパンチが繰り出されるだけの単純なアクション・シーンに、真剣勝負の間合いを持ち込んで、見違える緊張感を生み出したブルース・リーがそうだった。そして、ここに、日本人のみが生み出せる絶妙の間合いを生み出して、傑作映画を作り上げた天才監督がいる。森田芳光その人である。

 この映画には、殺人は勿論、アクションもサスペンスも、手に汗握るスリリングな話も無い。ただ一つの家庭に、ひとりの家庭教師がやって来て去っていく、ただそれだけの話なのだ。それなのに、冒頭から引きずり込まれ、あれよあれよと笑っているうちに瞬時に2時間が経っている。これを天才技といわずして何といおうか。

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 いや~久しぶりに見ましたけど、とにかく笑わせてくれました。そして酔わせてらいました。

 イントロの伊丹十三の目玉焼きチュ~チュ~の名シーンからもう虜になりました。こんな父親、孝助(伊丹十三)が大黒柱の沼田家にやってくる家庭教師、吉本(松田優作)。吉本がアシストを頼まれたのが幸助の次男の問題児、茂之(宮川一朗太)だった。かくして始まる、家庭教師との奇妙な掛け合い。時はバブル真っ盛り、狂騒とモラトリアムがシャッフルする、誰もみたことのない空間が幕を開く。

 受験競争というオーソドックスなテーマの原作のキャンバスに、自在に自分の感性の絵筆を走らせたのが森田芳光監督。

 吉本と茂之の、何とも言えない会話の間。父親、孝助と吉本との奇妙な会話の掛け合い。その掛け合いが生み出す空気感だけで、一本の面白い映画が出来上がるなんて、それまで誰も考えなかった。でも、それが紛れもなく実現できているこの不思議。

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 加えて絶妙なるそのディティール。風呂に入りながら、豆乳の紙パックをチュ~チュ~すする、朝食の目玉焼きの黄身をチュ~チュ~すする。この日本人独特のリアリティ。それに加えて、都心の郊外の高層マンションのはずの沼田家に、必ず船に乗ってやって来る、松田優作が演ずる家庭教師、吉本の圧倒的に不思議感満載のキャラクター造型。この吉本、出された液体や手に取った液体は、必ず、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干してしまう。何といっても傑作なのが、吉本が肌身離さず常に小脇に抱えているのが、何故か子供向けの植物図鑑!もうこの感性には、ただひれ伏すしかない。

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 そして恐るべきことに本作には、音楽というものが全くない。まるで、音楽なんて小賢しいものは、必要ない、この掛け合いの間だけで十分だ、と既成の映画にタイマンでも張っているような森田芳光監の圧倒的な自信がうかがえる。

 音楽無し、間合いのみで一本の映画を作り上げたといえば、あのもう一人の天才、北野武監督の「3-4X10月」がまさにそうだった。

 この家庭教師の吉本が、いわゆる典型的な中産階級の日本人家庭にくさびを打つ、ひとつのメタファーであることは、本作のクライマックスを見れば明らか。

 吉本と茂之の葛藤の果て、めでたく茂之が進学校に合格し、それを祝っての宴の食卓の、あのあまりにも有名なシーン。

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 本来、向かい合って座るはずのメンバーが、キリストの最後の晩餐よろしく、コロナ過の今を思わせる、ただ一列に並んで食事をする。ただそれだけで見たことも無い異空間が現出されることに、ただ驚いているうちに、吉本が、ヒートアップして沼田家の食卓を完膚なきまでに破壊していく様子を実況する、圧倒的なワンカットの長回し

 そして、吉本が最後に植物図鑑を抱えて去っていくのは、やっぱり船なのだ。

 本作は、公開当時、ジャーナリストたちを仰天させた。そして、満場一致で、キネマ旬報誌のベストワンにも輝いた。

 ごくまれに、何のお金もかかっていないのに、そのクリエイターの感性が創り上げた間だけで成り立つ、圧倒的な作品が現出するブレイクポイントが映画史には、存在するが、本作こそまさにそれ。

 ただ一つだけ残念なのが、映画はパントマイム、パントマイムこそ映画というこの傑作が、たとえばあのジム・ジャームッシュの傑作「ストレンジャーザンパラダイス」ほどインターナショナルではなく、あくまでも日本人にしか分からない間合いであること。

 それでもいい!豆乳チュ~チュ~の面白さは日本人にしか分からない、今日も元気で会社でラジオ体操をする、そんな日本人だけが腹を抱えて笑える日本人オンリーのエンタメ映画があったっていい。そんな事を見た後は必ず熱く断言したくなる、オンリー・ワンな傑作映画なのです。

負け犬のリアルとごっこの絶妙なる綱渡り!絶対必見の超快作「正しく生きよう」

リアルと子供のごっこ遊びの境界を絶妙なるバランス感覚で綱渡りする、韓国映画の実力にただ感服するしかない超傑作

(評価 88点)

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ごっこにかくれんぼ、子供の遊びを大の大人が大真面目にやらかしたら抱腹絶倒の快作コメディが出来上がった!

 とにかく傑作、快作が尽きない韓国映画。その中でも韓国映画の真の実力を示してのけたような傑作映画。しかし、何よりも嬉しいのは、本作が日本映画のリメイクであること。そもそも70年代の日本映画のパワーをその下敷きにして、のし上がってきた韓国映画。日本のマンガを原作とした大傑作「オールドボーイ」がそうであるように、日本映画と韓国映画は蜜月の関係にあるといっていい。

 本作がリメイクしたのは、1991年に公開された邦画「遊びの時間は終わらない」。ともかく同名の原作となる発想勝負のこの短編小説がまず、何はなくとも素晴らしい!

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 生真面目だけが取り柄の平巡査の平田。ある日、警察のイメージ効果を狙った署長が立案した大々的な銀行強盗訓練の強盗役に大抜擢されてしまう。しかし、その平田が、生真面目そのものの性格を発揮してことごとく想定外の行動を取ったことから、ただのその訓練が、マスコミを巻き込んでの大騒動へと発展していく。

 とにかくコロンブスの卵とまで言っていい、この原作小説の発想が実に素晴らしい。作者は都井邦彦氏。わずか数十ページの短編だが、リアルな銀行強盗と訓練ごっこの危ういボーダーラインをヒヤヒヤと綱渡りするようなテイストがとにかく堪らない傑作短編となっている。そして、その映画化となる「遊びの時間は終わらない」は、巡査の平田を本木雅弘が、はまり役といってもいいほど好演し、これまた文句の言いようがない快作となった。

 その我らが日本映画の韓国版リメイクの本作「正しく生きよう」ではもっくんの役を韓国の実力派チョン・ジェヨンが演じ、オリジナルを遥かに超える見事なエンターティメントになっている。話の本筋は、ほぼ同じ。しかし、とにかく感服するのは、主人公チョン・ドマン(チョン・ジェヨン)のキャラクターをしっかりと立たせてみせる、韓国映画のパワーの秘密兵器とも言うべき、その脚本作りの見事さ。

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 まず冒頭、新たにやってきた新任の署長に、頑なに交通違反の切符を切るチョン・ドマンを描くアクセントで、このキャラクターの色付けをしっかりしてしまう巧みさに感心する。だから、このチョン・ドマンのバカ真面目ぶりをすっかり気に入った署長が、強盗役に自らチョン・ドマンを抜擢する流れも素直に納得できるのだ。

 署長に最善を尽くせ!とあらぬ方向で励まされ、チョン・ドマンが天地神明を賭けて強盗になりきるところからは、もう笑いが止まらなくなる。この強盗ごっこというお約束を最大限に活かして、以降、次々と繰り出される笑いのアクセントがもう楽しくて仕方ないのだ。

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 たとえばこんな具合、チョン・ドマンを取り押さえようとした、銀行の客に扮した先輩の刑事を撃ち殺すマネをしたら、お約束で先輩が死んだフリをして床に横たわり、文句を言おうとしたその先輩の首に「死亡」と書いたプラカードをかける。同じく抗議しようとした女子行員に平手打ちをくわせるマネをしたら、次のカットでは、その女子行員が「気絶」と書いたプラカードをしょんぼり首にかけている。

 とにもかくにもこうしたシュールな笑いの感覚が、バカバカしいなどとはならずに、銀行強盗ごっこというお約束事のフィクションの世界で見事に機能していることに、ただ舌を巻いてニヤニヤしながら見つめるしかないのだ。本作は、こうしたクスクスの笑いの連続が多幸感から至福感にまで昇華していくのがとにかく圧巻。

 片時も途切れることのない、たたみかけるようなテンポも見事の一語。チョン・ドマンの想定外の行動に署長もひたすら焦り、マスコミの面前で面目を保つため、SWATを突入させるが、ここでも、ちゃんとチョン・ドマンはごっこのルールを守ってSWATを退却させてしまう。こうしたくだりは、原作は勿論、元ネタとなる映画版にもなかった。このくだりなど、本作の脚本が実によく練られている歴然たる証拠と言える。

 見事なのが、本作のオチの処理。このごっこ遊びという物語の特性上、この手の話は、とにかくオチをつけるのが難しい。原作の小説では、短編というフォーマットのみで成り立つオチでまとめていた。一方、映画版ではタイトルの「遊びの時間は終わらない」に引っ掛けてエンドレス・ルーチン的なオチでかろうじて結末らしきものを成立させていた。ところが本作ではチョン・ドマンのバカ真面目というキャラクターを上手く利用したサブ・プロットを絡めて伏線を巧みに回収し、カタルシスすらもたらすエンディングを演出してのけている。これにはただただ平身低頭、感服するしかない。

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 冒頭からエンディングまで絶えることのないクスクス笑いで見た後は必ずハッピーな気分になれる本作。これこそ映画はやっぱり脚本という鉄則を改めて教えてくれ、韓国映画のとてつもない実力を思い知らせてくれる必見作といえましょう。

 ただ一つ残念なのは、原作者の都井邦彦氏のこと。同氏は、この短編作品一本のみで、後の著作の記録が残されていない。本作が収録されているアンソロジーの巻末の座談会でも、本作をアンロジーに収録するにあたって、同氏とのコンタクトを試みたが所在が不明だったとのこと。これだけの傑作をモノにしながら、無名に近い存在となっている作家さんにはシンパシーを禁じ得ない。しかし、逆に言えば、処女作でこれだけ非の打ちどころのない傑作を書いてしまったら、二作目のハードルを越えることはほぼ不可能に近いのではなかろうか。

 それほどのとんでもない傑作短編小説。本作を見て好きになったら、是非、原作にも触れていただきたいところなのです。

負け犬の二代目は可哀そう「女王陛下の007」

興行的にはイマイチでも作品のクォリティはピカ一級の残念作

(評価 70点)

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二代目の悲哀の象徴のような本作、それでも二代目監督の張り切りぶりが楽しい佳作には違いない。

 親の七光りとはいうけれど、とかく偉大な初代の後を引き継ぐ二代目の部は悪い。本作は、そんな二代目の悲運を象徴するようなペシミスティックな側面はあるけれど、エンタメ映画としては実にバランスのとれた良作と言っていい。

 前作「007は二度死ぬ」で、日本を舞台にド派手に暴れまわった末に、ボンドことショーン・コネリーにさっさと見切りをつけられ、すったもんだの末に、ジョージ・レーゼンビーが二代目を襲名した本作。前作でマックスまで沸騰したやんちゃな路線を反省したのか、本作は打って変わって正統派?路線に立ち返った作品でもある。

 しかし、それまで助監督に甘んじ、本作で見事、看板監督をはることになったピーター・ハントのまるで水を得たようなパワーみなぎる演出で、それまでの一種、のっぺりとしたテンポとは一線を画す活力にも満ちた作品となっている。

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 冒頭のスピーディなボンドの登場シーンからして、何かが違うと感じさせてくれはする。スポーツ・カーに乗って疾走し、浜辺で美女を見つけ、海に向かって身投げでもするかのように走るその美女をしっかり抱きかかえたところで悪漢どもに襲われパンチを食らわすまでの映像は、まるで、ちょっとしたMTVでも見ているようで、それまでのシリーズとは毛色が違うと感じさせてくれるには十分。

 ところが、ここで、今回のボンドことジョージ・レーゼンビーが美女に名前を聞かれ、ボンドと答えるお馴染みの掛け合いでジョージ・レーゼンビーが声を発した瞬間、その不釣り合いに素っ頓狂な高い声のトーンに、やっぱりコネリーと違う、と落胆するファンも多かったに違いない。

 それでも、最初の残念なインパクトが段々と薄れてくるところも、逆説的にいえば本作の見どころなのも、ちょっと面白いところではある。

 かくして、冒頭のその浜辺で出会った美女こそ、本作のボンド・ガール、トレーシー(ダイアナ・リグ)。本作がシリーズ中で、もっとも異色なのは、世界一のプレイボーイ、ジェームズ・ボンドがこのトレーシーと本気で恋に落ち、結婚までするところ。キャラクターイメージをシリーズ通じて踏襲するのがマーチャンダイジングの基本戦略だとしたら、このカスタマイズは、ある意味、革新的だったと言ってもいい。

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 今回、宿敵ブロフェルドに扮するテリー・サバラスヴィランとしては申し分なく。今回の秘密基地となるスイス山頂の細菌研究所のビジュアルも見ごたえ十分。ボンドの素性がバレて、脱出をはかるくだりでのスキー・チェイスのシーンのダイナミックなこと。更には、クライマックスのヘリでこのアジトに急襲をかけるシーンのロケーションも実にエキサイテキング。アクションの歯切れだけでなく、重量感も兼ね備えたピーター・ハントの演出力は並の物ではない。しかし、ここでも苦い経験をするのが二代目の常。

 結局、評判の悪いジョージ・レーゼンビーにまんまと足を引っ張られる形で、ピーター・ハントもこの一作のみで消え去ることに。

 今でも、確固たるマーチャンダイジングの基盤を誇り続ける007だけど、ボンド役の襲名には、かくも厳しい掟があるのですよね~

負け犬の殺人鬼マニアたちの哀しき人生のパノラマ「ゾディアック」

人生は決して解くことが出来ない暗号。全編にわたってみなぎるフィンチャーのこだわりが実に魅力的な大傑作!

(評価 82点) 

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深みのあるキャメラ、作り込まれた背景に構図!フィンチャーの映像美学の結晶、映画グルメともいうべき、味わいをじっくり楽しめる傑作。

 未解決事件・・・その不穏な言葉の響きに魅せられる人間は多いのではなかろうか。最近でも、山中で女の子が神隠しのように忽然と消える事件があった。そして、入れ替わり立ち替わり現れる未解決なままの通り魔のような事件の数々。実際、その時、その場所で何が行われていたのか?そしてそんな所業をしでかした人間はどんな人間なのか?

 その人間を目の当たりにしてその目をみつめてみたい、これはそんな深淵の魅力に取りつかれた人間たちの人生のパノラマともいうべき映画。

 そして、その人生のパノラマのようなタペストリーを展開してみせるのは、当代随一の映画作家デビッド・フィンチャーフィンチャーは本作のパンフレットに載っているインタビューでも、本作はブロックバスターのようなハンバーガー映画を好む客と映画通の客のどちらも唸らすために作った映画だと明言している。

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 針の落ちる音すら聞こえるほどの緊張感。本作のテイストを表現すればそんなフレーズになる気がする。60年代に実在した殺人鬼ゾディアックにとりつかれた人間たちを描く本作は、少年時代にメディアを通じてこの事件とコンタクトしていたフィンチャーの若き日の人生が素直に投影されている。主人公にあたるロバート・グレイスミス(ジェイク・ギエンホール)が勤めるサンフランシスコ・クロニクル紙のオフイスフロアーの白一色のイメージは70年代を代表する政治サスペンスの名作「大統領の陰謀」でのワシントン・ポストのフロアーをイメージしたともフィンチャーが言っているように、そもそもフィンチャー自身の人生が被る70年代映画のテイストが全編にわたって横溢しているのも、また何とも嬉しいところ。

 一般には、あまり評判がよろしくない本作だが、負け犬にとっては、フィンチャーのポップ・アーティスト的な側面と、フィンチャーの作家的側面の映像美学の一つの結実として、フィンチャー作品としては、マイベストともいっていいほど好きな作品なのだ。

 まずは冒頭、車中のカップルが襲撃されるゾディアック最初の登場シーンのビジュアルのきめの細かさから舌を巻く。このシーンだけでも本作が並みのレベルの映画ではないと誰もが思うはず。そして、その数か月後、サンフランシスコ・クロニクル紙に暗号文とともに、犯行の声明文が送られてくる。その時が、それ以降、数十年にわたってゾディアックにとりつかれることになる、本作における狂言回し的な存在のグレイスミスと、クロニクル紙の敏腕記者ポール・エイブリー(ロバート・ダウニーJr)たちの運命の岐路の瞬間となる。

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 実際の事件を忠実に再現した犯行シーンもフィンチャーならではの研ぎ澄まされた感覚に満ちている。サンフランシスコのはずれにあるベリエッサ湖でカップルが襲われるシーン。このシーンでは当時の写真を元に、わざわざ木々まで植え込んで完璧にその風景が再現された。覆面を被っているとはいえ、白日の下にゾディアックが全容を晒すシーンに、その陰からゾディアックが姿を現すためにフィンチャーが、事件そのままのオークの木が必要と考えたからだ。このシーンでは、後ろ手に拘束された女性が、ゾディアックにナイフで何度も刺される。一度や二度刺しただけでは人間は死なない、執拗なまでに刺して初めて人間は死ぬ。刺された痛みが体感として伝わって来るほどの、このシーンこそ、本作ならではのリアリティが端的に表現された出色なシーンではなかろうか。

 ゾディアックといいつつ、本作はゾディアックそのものを描く映画ではない、あくまでもゾディアックにとりつかれた人間たち描く映画だ。ゾディアック事件が、今も尚、未解決ゆえにそのトーンには必然的に哀しみが帯びて来る。そして、それがフィンチャーの一切、手抜きの無い、きめ細やかな演出で人生そのものの悲しさにまで昇華しているところが本作のいいところ。

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 家族を顧みずゾディアックを追い続けるグレイスミスには、当然のように家庭崩壊のフェーズがやって来る。敏腕記者だったはずのポール・エイブリーは、酒にのめり込み廃人同様の世捨て人になっていく。そして、サンフランシスコ市警の担当刑事、デイブ・トースキー(マーク・ラファロ)もゾディアックにのめり込むあまり、ゾディアックからの脅迫文を自ら偽造するというスタンド・プレーにまで及んでしまう。ゾディアックに関わった人間のすべての人生の波長が狂っていくのだ。

 もっとも好きなのはエンディング。数十年の時が経ち、事件が風化しつつも、まだ関係者から事情聴取を続けている警察に呼ばれたのは、冒頭で襲われ生き残ったカップルの男性。溌溂としたティーエイジャーだった冒頭の姿とは打って変わって、ホームレス同然の身なりとなったその男性が、力なく容疑者の顔写真に指を指したところで映画は終わる。この瞬間の余韻がいい。

 人生は哀しい。何かを追い求めても、それを実際に手に出来る人間は、ほんの一握りしかいない。そんな通奏低音が、全編に満ちていると感じられるから負け犬は本作が好きなのかもしれない。

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 ちなみに、あの「ダーティハリー」の狙撃魔スコルピオのモデルがこのゾディアックであったのは有名な話。本作には、その「ダーティハリー」の、サンフランシスコ市警向けのチャリティ試写のくだりが出てきて、初見の時は驚いた。ハリー・キャラハンは決めゼリフを吐いて、スコルピオの胸板を撃ち抜いたが、ゾディアックは、逮捕されることなくその後の生涯を生き抜いた。カタルシスなき人生を生きる、これは我々の宿命なのかもしれない。

 未解決事件というものがもたらすもどかしさにヤキモキするしかない無念さ。ゾディアックに限らず未解決事件というものに、人生の切なさを感じるのは、この負け犬だけなのでしょうかね~