負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬の世にも幼稚な学芸会「散歩する侵略者」

宇宙人が散歩する。その目的は人間の概念を盗むため?ベテラン監督が描く侵略SFは、世にも幼稚な自主製作映画だった!

(評価 15点)

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わざとらしいシーン、そして、有り得ないほどにわざとらしいセリフ回し。全てにおいて幼稚なワースト映画。

 その昔、こんなうらぶれた負け犬にも、実は高校生という時代があった。その当時、クラスは違ったが、同じ学年に映画マニアがいた。そいつは。ただ見るだけの映画オタクとは、違って、いつも8㎜キャメラを手にしては、活動的に映画を撮るタイプの人間だった。それは確か高校二年の文化祭だったと思う。そいつが所属する映画研究会製作による一本の自主映画が、公開された。

 我が母校のスクリーン設備の有る、リクリエーションルームで披露されたその映画は、いわゆる侵略SFものというやつだった。宇宙人のその侵略の手法とは、人間を知らぬ間にロボット化し意のままに操るという代物。フィルムは8mm、時間は10分足らず。出演者は、学校の同じ生徒の面々、とくれば、セリフは、当然、たどたどしい棒読みもいいとこ、カットやつなぎの体裁も、見た目は幼稚そのものの体裁となるのは当たり前。ところが、その映画、なかなかどうして、そこそこちゃんと見れるものになっていた。おまけに、意外なショック・シーンでエンディングを締めくくるという、エンタメ志向のサービス・スキルまで見せてくれたから。結構、感心したものだった。

 そんな事を思い出してしまったのも、そもそもこの映画を見たためだった。元々、舞台劇の本作を黒沢清監督が作りたくなった気持ちは、何となく分る。きっとそのタイトルが気に入ったからに違いない。「散歩する侵略者」、そのタイトルはこの負け犬のイマジネーションをもヴィヴイッドに反応させてくれる、刺激的な何かが感じられるタイトルだと思う。それを、長いキャリアながら、未だにいい意味でチープなホラー志向の黒沢監督が撮るとなれば、興味を抱いて当然だ、という訳で、あまりにも遅ればせながらも、ずっと見ようと思っていた本作をようやく見たのだった。

 そして見た本作は、終始、幼稚でおぼつかない、それこそ自主製作映画でも見ているような、何とも残念な代物だった。

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 鳴海(長澤まさみ)の夫、真治(松田龍平)が放心状態で歩いていたところを保護される。しかし、数日ぶりに、目の前にした真治は、認知症でも患っているかのような茫洋とした人間に変わり果てている。鳴海の心配をよそに、真治は、まるで浮世離れした異界の人間のような暮らしぶりを続けるのだが、数日後、自分は宇宙人で地球を侵略に来たと鳴海に告げる。更に、真治は鳴海に向って、いわば偵察隊としての自分がここに来た目的は、人間の概念を盗むことだと言うのだった。

 この人間の概念を盗むというコンセプト。人間の肉体を乗っ取るボディ・スナッチャーたる本作の異星人は、人間と会話をしていて、はっきりと理解が及ばない言葉に行き当たると、その言葉のみならず、その言葉が有する概念というものを、それを口にした相手から根こそぎ奪ってしまう。奪われた側の人間は、その概念がすっぽり欠落した人間に成り果ててしまう。

 たとえば、家族。家族という言葉と、その言葉が内包する概念というものを奪われた人間は、どうなるのだろうか?

 容易に想像がつくのは、こうしたテーマは、元々、限定的で観念的な、ステージで行われる舞台劇としてなら、さぞかし面白いものになっていたはずに違いないということ。しかし、リアリティと空間としての拡がりがある、映画に、置き換えるには、きっとそれなりのアイデアというものが必要になるのではなかろうか。しかし、本作の場合、さしたる工夫もなく、そのプラットフォームだけを映画にしてしまったような感が拭えない。その証拠に、全てが赤面したくなるほど恥ずかしいものになっている。

 異星人が、概念を相手から奪う時、その額に指を当てたり、サイキックのように念を送るようなパフォーマンスをしたりするわけだけど、それをされた人間は、苦も無くその場に倒れる。その芝居の間が、やっぱり見た目、わざとらしい。

 真治の他に異星人の偵察部隊の仲間が他に2名いる。しかし、そのたった3名で極秘裏に潜入しているはずの異星人の存在を、日本の厚生省の人間は、何故か察知していて追手を差し向けて来る。

 その追手のリーダーの人間から異星人は、そのリーダーの男が口にした邪魔者という概念を奪う。するとそのリーダーの男は、その場に倒れるや、「皆、友だちだよね・・」などと言ったりする。それが、たとえようもないほどわざとらしい。万事が万事、本作はこうしたわざとらしさに終始する。これが、高校生が作った10分足らずの自主製作映画なら、気にもならない。しかし、それを、本職の役者が、2時間通して演ずると、逃げも隠れもできないほどわざとらしくなってしまう。

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 結局、物語の展開は、誰もが予想がつくように、愛という概念に落ち着く。異星人の侵略が始まったと真治から告げられた鳴海は、自分から愛という概念を奪ってくれと真治に懇願する。鳴海から愛を奪った真治は、「ワア、何これ、すごい・・」と言って、その場に倒れ込む。その松田龍平の芝居の、幼稚さとワザらしさは、こちらまで赤面するほど恥ずかしかった。

 80年代から今に至るまで、ずっとキャリアを積んできた黒沢清監督だけど、そんなベテランを持ってしても、映画というのは、その素材を扱うメソッドを一つ間違えてしまえば、箸にも棒にもかからないものになってしまう。侵略者よりも、映画作りのそうしたムズかしさ。そちらの方こそよっぽど怖かった。

負け犬は内臓がお好き「ヴィデオ・ドローム」

魔法の小箱ビデオ・カセットが溶解し、腹から半分内臓と化したドロドロのピストルが現れる。クローネンバーグのカラーを決定づけた溶解ホラーのピクトグラム

(評価 68点)

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これは特殊メイクの第一人者リック・ベイカーのテクニックのアラカルト!そのイメージの数々はもはやモダン・アートの領域に達している。

 デヴィッド・クローネンバーグが、その異能ぶりと持てるアブノーマルなパワーを一躍、世に知らしめた代名詞的本作。時はビデオ全盛期の80年代。一本のビデオが引き起こすビデオ・シンドロームによって、一人の男が狂わされ、その肉体までグロテスクにメタモルフォーゼしていくカルト作だ。今や化石ともいっていい、アナログなビデオというメディア媒体こそが本作の主役といってもいい。

 だが、しかし、そもそも、このアナログなビデオ・カセットというやつを実際に見たという人も、このデジタル・エイジの時代、悲しいかな、少なくなっているのではないでしょうか。

 この負け犬なぞ、モロにこのビデオ世代だったわけで、本作に対する思い入れも、その実物を知っているか知らないかで変わってくるように思える。現に、この負け犬でも、デジタル・エイジにどっぷり浸かった現在、改めて見てみると、本作は、やはり何かとついていけない部分があるのが確か。本作もブレイクしたのは、劇場の公開ではなく、ビデオ化されてからだった。この映画自体、いわばヴィデオ・ドロームという一つの現象だったといえる。しかし、何よりも再見して思ったのが、ホラー的な面白さというより、その際立ったモダン・アート的な面白さが出色なことだった。

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 公開当時も、愛読していた「スターログ」誌で、大々的にスポットライトが当てられていたのが、特殊メイクの巨匠リック・ベイカーによるそのSFXだった。実際、完全なアナログによる特殊効果は、今見ると手作り感満載で、そのグロテスクなクラフト感覚が何とも楽しく、本作自体、そうしたビジュアルが満喫出来る映画になっている。

 みるみるうちに膨張していくTVの表面に、まるで生き物のように浮き立つ血管。TVのフレームをはみ出し、風船のように膨れ上がるブラウン管。そのブラウン管に映し出されている唇に飲み込まれていく人間。しかし、一見、アホらしいとも思えるこうした表現の勢いだけで一本の映画に仕立ててしまったクローネンバーグのいびつなエネルギーもある意味、また凄かった。実際、今見ると難解としか思えないこの映画を、こちらも怒涛のように巷にあふれ出していたビデオ時代の空気感だけで、それなりに納得して、吸収していたように思える。

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 とにかく、本作を見ると、不思議なことに、あのビデオというやつへの奇妙な郷愁が何故かとめどもなく湧いてくるのだ。

 元々、白黒テレビという化石すら、子供時代にリアル体験してきた人間にとって、一度見た映画を、もう一度、見るなど夢のまた夢で、映画館で見た映画ともう一度出会えるのもTVの洋画劇場だけだった。だから、お目当ての映画がTVの洋画劇場で放送されるやもう、ブラウン管にかじりつくようにして見ていたのだ。それこそ、まさに本作の主人公マックス(ジェームズ・ウッズ)が、ブラウン管に映し出される恋人ニッキー(デボラ・ハリー)の大写しの唇に引き寄せられていくかのように。

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 そんな時、庶民にも普及し出していた家庭用のビデオ・デッキがようやく我が家にもやって来た。その時の嬉しさたるやもう、まさしく夢のようだったのを今でも覚えている。当時、我が家で購入したのがベータ・マックス規格のデッキ。そして、本作「ヴィデオ・ドローム」に出てくるのも、ベータ・マックスのビデオなのだ。

 ケーブルテレビの番組製作会社のCEOマックスは、ある日、制作部のセクションの人間から、スナッフ・ムービーまがいの拷問映像を見せられ、そのリアルさに釘付けになる。マックスはその映像を自社の目玉のコンテンツにしようと、映像を自宅に持ち帰るのだが、やがて、その映像が現実世界にまで浸食し出していることに気が付く。さらに、実はその映像が、とある科学者が作り出したヴィデオ・ドロームなる実験映像であることを知るにつけ、自らの肉体そのものが変容をきたしていることを知覚する。

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 ここからのストーリーなどあってなきに等しく、ひたすらクローネンバーグの感性のみで突き進む。マックスの腹にパックリと開いた傷口、そこに右手を突っ込むと、半分溶解し、右腕と一体化した拳銃が出てくる有名なシーン。まったく意味不明なのだが、それを見るこちら側も、特に拒絶感を抱くこともなく、ただ口をあんぐりと開けて見るしかないのは、一種の体験と言ってもいいのではなかろうか。

 恋人ニッキーに扮するのが、ロック・シンガーとして妖艶な魅力を振りまいていたデボラ・ハリーというのが、また本作にはピタリとはまっている。そのハリーが惜しげもなく晒してくれる肢体もまた見物。やがてマックス以上に、ヴィデオ・ドロームに魅了され、とうとうその世界に取り込まれ、住人と化していくニッキー。そして、マックスもまた、カルトの洗礼をうけたかのように狂気の淵に入り込み、その肉体もろともヴィデオ・ドロームに侵されていくのだ。

 しかし、映画とは関係ないけど、今、思っても残念でならないのが、愛用していたベータ・マックスがVHSというスタンダードな対抗馬の規格に、マーケティングの世界で敗れ去って、消滅してしまった事。ベータが特に優れていたのが、何と言ってもVHSよりも一回り小さいのに、画質が格段にキレイだったこと。しかし、VHSが打ち出した、画質よりも長時間録画優先の路線の前にあえなく負けてしまった。

 今でも、あのビデオを巻き戻すキューイーンという音が懐かしい。そして、哀しいかなビデオというやつは、たまにヘッドに絡まってワカメ状態になってしまう事が良くあったのです。ある日、いつものように兄貴のエロ・ビデオをこっそり見ていて、巻き戻しボタンを押したらガジャガジャというスゴイ音がして、見事にワカメになってしまった事があった。その時の心臓が止まりそうなほどの、胸のわななきは、今でも憶えている。そのまま何食わぬ顔で、元の場所に戻して置いたけど、お互いバツが悪いから何となく時効になってしまったのも一つの思い出だ。

 ネットにスマホ、今や様々なメディアのサブカルチャーがコンテンツとして流布しているけれど、このヴィデオ・ドロームはそういう意味でも一つの先駆だったのかもしれない。

負け犬の真夏の熱き男たち「十二人の怒れる男」

映画界の至宝シドニー・ルメットの最高傑作にして、アメリカ映画群の頂点に位置する星座に輝く一番星!

(評価 95点)

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手に汗握り、食い入るように画面を見つめ、最後には涙する。映画の醍醐味と社会性、モラリティまでも問いかける大傑作。

 本作を初めて見たのは、ヘンリー・フォンダが逝去した時、急遽、追悼特番としてプログラムが差し替えられた「水曜ロードショー」だった。モノクロのクラシック、正直、最初は、さしたる興味も抱かず、たまたまチャンネルを合わせただけだった。

 ところが、全編、舞台がほぼ陪審員室の一室のみに限定され、ただ、十二人のむさ苦しい男たちが喧々諤々、議論をするだけの、その映画に、たちまち引きずり込まれ、画面を身じろぎもせず見つめるうち、最後には涙腺を緩まされ、見終えたその時には、胸いっぱいに感動の余波が染みわたり、あの水野晴郎の名せりふ「いや~映画って本当にいいもんですね~」をシンクロしながらつぶやいていた。

 映画の内容は今更、説明するまでもないかもしれない。一人のマイノリティの少年が父親殺しの嫌疑をかけられた裁判。その裁判の陪審の協議を行う12人の男たちが陪審員室に向かうところから始まる本作。そこから、本作のキャメラは、エンディングに至るまで陪審員室の中から一歩たりとも外に出ることはない。

 状況証拠的な観点から、有罪がまず揺るぎなく、蒸し暑い夏の午後ということもあり、男たちは早々と有罪の評決を出そうとするが、その時、陪審員8番(ヘンリー・フォンダ)の男一人だけが、無罪を主張する。これを皮切りに、12人の男たちの熱いディスカッションの火蓋が切って落とされる。

 本作は、言うなれば、このディスカッションが如何なる顛末に至るかを目撃するドラマ。しかし、たったそれだけを全編にわたって描く映画など、思い起こせば、今に至っても本作以外にただの一本たりともなかった。さらに面白いのは、男たちそれぞれに、それなりのリアクションのカラーがあって、見ている側が、感情移入していく対象が刻一刻と変化していくところ。

 ディスカッションのスタートは完全に白け切ったムードから始まる。分かり切った裁判だし、蒸し暑いから、とっとと帰りたいのに、たった一人の天邪鬼のおかげで帰れなくなったと、全員が白い目で、8番を見る。

 しかし、8番は、それにも怯むことなく、毅然として、少年に不利なはずの状況証拠に疑問を投げかけ、実直な手法で、その固定観念を覆すことを丹念に試みる。向かいのアパートから犯行現場を見たという目撃者。しかし、その建物の間には、高架を走る地下鉄が通過していたはずだとして、その目撃証言そのものに疑問を投げかけてみせる。さらには、陪審員の審理に先立つ法廷で、少年の明らかな偽証だと決めつけられていた、犯行時に映画を見に行ったというアリバイの主張について、偽証ではない真実の可能性もあり得るとの可能性を、懇切丁寧に訴える。

 そうした訴えを素直に聞くものは一人もいない。しかし、8番はその反論を聞いたうえで、更に持論を展開し、遂にたった一人の賛同者を獲得する。ここから、このディスカッションは、いかに8番が、賛同者を増やし、多数決での勝利に持ち込むかの、戦いの様相を帯び始める。

 その過程のリアクションはさまざまだ、日和見主義のもの、議論などより野球のゲームにしか興味がないもの、そしてやたらと強圧的に罵倒するもの。多分、普通の人なら、この中に出てくる様々なキャラクターは、職場における、こうした議論の際に、必ず見かけるキャラクターとそのままダブッて見えるに違いない。

 この説得の過程は、まさに草の根の民主主義をそのまま体現しているようでもあり、サスペンス映画並みのスリルにも満ちている。結局、小さなことからコツコツとではないけれど、全体の意見が8番に一人ひとり傾いていくのだが、何回、見ても感動するのが、最後の最後まで断固として少年有罪の姿勢を変えなかった陪審員3番(リー・J・コップ)が、遂に意見を撤回するところ。3番はここで思わず、自分を見捨てたも同然に音信不通となった、息子への不満をぶちまける。3番の頑なな態度が、裁判の是非ではなく、実は家庭内の私怨に根差したものだったことをここで我々は知る。

 タフガイ然としていた陪審員3番が泣き崩れるその姿を見た時、こちらまで思わず泣いてしまうのは、おそらく人間が殻を破って本音を吐き出した時の、何の飾り気もない剥き出しの感情というものに素晴らしさを感じてしまうからなのかもしれない。

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 最後、陪審員たちが無罪の評決を法廷に託し、一人また一人と家路に着く。裁判所を出ると、激しい夕立の雨が止み、陽が差している。この映画を見終えた時はいつも、まるで自分までその日差しを全身に浴びたかのようなすがすがしさをおぼえている。そして、いつも口について出るのが、結局はあの決めゼリフ、「いやあ~映画って本当にいいもんですね~」なのだ。

負け犬のどんでん返しは残念賞「ハイテンション」

どこまでも殺人鬼を追い詰めろ!ミイラ取りがミイラになるまで。肉塊と血しぶき飛び散るハイパー・ユーロ・スプラッター

(評価 60点)

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殺人鬼をこの手で仕留める!ダイ・ハードのスプラター・バージョンというべき、と思いきやラストに衝撃が待っていた。どんでん返しスプラッターの異色作。

 ラストの意外な衝撃の惹句が躍る、少々、珍しいユーロ発のスプラッター映画の本作。ユーロの意地を見せてやると言わんばかりの、監督アレクサンドル・アジャの気概十分のパワーには満ちた作品だった。

 閑静な田舎で勉強に励もうと女友達アレックス(マイウェン)の実家にホーム・ステイするためやって来たマリー(セシル・ドゥ・フランス)。ところが到着した当日の夜、何者かがアレックスの家に侵入し、アレックスの両親とアレックスのまだ幼い弟を惨殺、その上、アレックスを拉致し・・とまあ、ストーリーは絵に画いたようなスラッシャーものの本作。しかし、大量生産されている、安手のスプラッターと一味違うことは、導入部から序盤にかけてのきめ細やかな描写だけで、十分に伺える。

 それに、さすがユーロというべきか、スプラッター描写もイタリアのゴア描写の血統を感じさせるに十分なほど念が入っている。侵入してくるのは、レッド・ネックの労働者風のサイコパス。このサイコパスの初登場のシーンが、何と女の生首でのフェラチオ・シーン。これに続くこと、夜も更けた頃、家宅侵入して来たこのサイコパスに、アレックスの父親がまず、タンスで首を寸断され、血しぶき吹き散らして殺される。次に、アレックスの母親が、カミソリで喉を描き切られ殺される。死体の首にパックリと開いた傷口が実にグロテスク。

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 これだけなら方向性皆無のモンスター的殺人鬼が猟奇殺人を犯すだけの凡百のスラッシャーと何も変わらない。本作が本領を発揮するのは、実はここからなのだ。侵入者の気配を察知したマリーは、まずベッドの下に逃げ込み、それから身を隠したまま、サイコパスの猟奇殺人の様子を目の当たりにしていく。そして、そのまま、縛られ耳動き出来ないアレックスが、拉致されたバンに自分も乗り込み、それと知らないサイコパスが運転するまま、マリーはアレックスもろとも、どこかに運ばれていく。途中、犯人が立ち寄ったガス・スタンドでマリーだけは逃げることに成功するが、スタンドの店員が犯人に惨殺され、置き去りにされたマリーを残し、アレックスを乗せたままバンは走り去ってしまうのだ。

 ユニークなのが、殺人者には悟られていない存在のマリーが、そのまま逃げるのではなく、果敢にも犯人を追跡し、立ち向かっていくところ。元々、ボーイッシュで男性的なマリーが、サイコパスに追いすがるくだりは、まるでエイリアン2でエイリアンと捨て身で戦うリプリーのようでもあり、また影の存在としてテロリストに立ち向かう、ダイ・ハードマクレーンのようでもあり、エキサイトさせられるには十分と言っていい。やがて犯人を追い詰めたマリーは、サイコパスと戦うことになるのだが、そこに待ち受けているのが、本作の謳い文句通りのどんでん返しだ。

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 勿論、ここでは、それは明かせないのだけど、昔のこと、出版社の人と話をしていた時、フィクションで、やってはいけない不文律というものについて話をしていたことがある。結局、落ち着いたのが、やっぱり〇オチだけはダメだよね、という事だった。

 本作のオチは厳密にいえば〇オチではないが、限りなくそれに近い。ただ、主人公のマリーがアレックスに、恋人は作らないの?と聞かれた時、露骨に不機嫌な顔をするとか、到着した初日の夜から、マリーがあられもなく自慰にふけってしまうという、オチにつながるヒントは、一応、それなりに散りばめられてはいる。

 しかし、こうしたビジュアルの見せ方にしてしまうと、結局、最後のオチに至って受け手は、今まで散々、見せられてきたのは一体、何だったの?という結果になるのも確か。この手のサイコパス映画で、ビジュアル的な処理とオチの整合性がちゃんと取れているものといえば、やっぱりあのクラシックにして金字塔といってもいい、ヒッチコックの「サイコ」になるのではなかろうか。。

 一つだけ言えるのは、もしも本作がアメリカでリメイクされるとしたら、オチの部分はバッサりカットされるだろうな、という事。マリーがサイコパスのモンスターにダイ・ハードよろしく立ち向かうヒネリだけで十分で、そっちのベクトルでカタルシスを盛り上げてくれれば良かったのに、と思うのはこの負け犬だけなのだろうか。

 かえすがえすも、アレクサンドル・アジャの演出になかなかのキレ味が感じられただけに、ちょっと残念なところ。総じて感想はといえば、途中までは良かったのに、最後の最後でアジャ~というところでしょうかね~

負け犬は三万三千五百六十円也「お葬式」

唯一無二、世界初にして最後。日本人にしか作れない、エッセイ映画の金字塔!

(評価 90点) 

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見るたびに笑い、しんみりとし、感動の余韻に胸が熱くなる。そして、決まって最後には人間が愛しくなる、愛してやまない邦画の大傑作。

 死亡診断書込み、処置料しめて33、560円也。主人公の侘助山崎努)の妻の雨宮千鶴子(宮本信子)の実父が急逝する。その知らせを聞いて、慌てて一行は病院に駆け付ける。33、560円とは、その時、侘助のマネージャー里見(財津一郎)が、遺体の処置にまつわる請求書を、病院のカウンターで受け取る際に告げられた金額だ。そして、里見は、事の大きさとは、不釣り合いな、あまりにリーズナブルな金額に吹きだしそうになる。

 人間の人生の終着点のセレモニーにおける事の次第を、お金の尺度で捉えたシーンは他にもある。例えば、里見が真っ先に都合をつける、納棺するための棺の値段が13万。更には、通夜で念仏を唱えてもらう僧侶に払うお布施の値段。この場合のお布施の値段に、決まりなどない。ここで葬儀社の責任者が侘助たちに告げるのは、要は、式を出す側の当家の懐次第、そこでお宅様ぐらいの所帯なら20万円ではどうですかと進言する。

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 かつて80年代を彗星のように駆け抜け、そして、散って行った一人の天才監督がいた。伊丹十三である。俳優として既に確固たるキャリアを築いていたその伊丹の映画監督ビュー作となった本作の製作費は、しめて、きっかり1億円。そのタイトルから、大手の映画会社の全てに配給を断られ、結局、ATGからひっそりと配給された本作は、製作費の十倍以上もの12億の興収をあげた。

 かくして、そんなセレモニーの一部始終のプロセスを事の発端から、終わりまでを、そのまま映画にするという、それまで誰も発想すらしなかった画期的な映画がここに誕生する。人間の人生の終着点に予告などという、都合のいいものは無い。それは急転直下、いきなりやって来る。そして、縁という絆で多少なりともつながる人間たちは、否応なしに、その処置に巻き込まれることになる。

 伊丹十三自身の実体験に基づき、一気呵成に書き上げられた脚本に基づき、作られた本作には、そんな人間の縁という絆以上の、シンパシーに満ちている。ここにあるのは、そのセレモニーの対応に追われた人間なら、誰でも共感できるあるある感に他ならない。

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 何と言っても、まずは、前述のお金の話。厳粛なセレモニーであることは百も承知。しかし、この問題は、どんな家庭でも避けては通れない。悲しいかな、一番の問題は、セレモニーを請け負う業者から提示される金額について価格交渉の余地がない事(笑)。車の見積もりじゃないし、値切るのもみっともないし・・と言っているうちに、あれよあれよと費用が膨らんでしまい、というのは、まあ、誰にでも思い当ることがあるはず。

 本作には、そのテーマ上、必ずついてまわる筈の、ウェット感というものが殆ど無い。それもこれも、このお金の問題の描写に顕著に見られるドライな感覚と。誰もが追体験するはずのあるあるの既視感からくる親近感に違いない。

 実際、このあるある感が本作を牽引する効果は、半端ではない。そうだよね~こんな事、あるよね~と、次々と矢継ぎ早に繰り出されるあるある感に浸っているうちに、たちまち時間が過ぎて行く。そして、そのあるある感のクスクス笑いを爆笑に変えてくれるバイプレイヤーたちも実に豊富。

 代表格が仏の実兄で、実業家の正吉に扮した大滝秀治。この大滝秀治の、大ボケ演技に加え、尾藤イサオ岸部一徳佐野浅夫藤原釜足の他、数え上げればきりがない程の名バイプレイヤーたちが実在感たっぷりに笑わせてくれる。そして、忘れてはならないのが、個人的人間国宝クラスの女優菅井きん。このリアリティ、この奥深さ、そしてそのエモーションの豊かさ。本作は、日本の俳優たちの世界随一といってもいいポテンシャルの高さを堪能できる作品でもある。

 そして、こうした俳優陣のアンサンブルから醸し出されるのは、人間と、人間の絆というものへの惜しみない愛情だ。

 千鶴子(宮本信子)が、お父さんは湿っぽいのは嫌いよ、と言って、従妹の茂(尾藤イサオ)の手を取って、島倉千代子の「東京だヨおっ母さん」を唄い踊るシーンから沸き上がって来る情感の途方もない大きさ。

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 三日間にわたる行事を、何とかやり遂げ、ふと振り返った火葬場の煙突から、遺灰のかすかな煙が、控えめに舞い上がっている。それを親族一同が見上げるカットがもたらしてくれる感動。そして、怒涛の三日間を、登場人物たちと一緒に乗り切った安堵感を、こちらまで体感しているような感覚を覚えた後に見舞われるのが、人間というものへの愛しさだ。こんな式の最中でも、子供たちはまったく屈託なくフザけている。その事に救われる。そんな子供たちも大人になって、家族を持ち、また同じサイクルが綿々と繰り返される。でも、それこそが人間なのだ。そんな事まで、本作を見ると感じさせてくれる。

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 自分自身が義父のお葬式で右往左往した体験に遭遇し、たちまち一週間で書き上げ、自宅の別荘でそのままロケし、何かに突き動かされたようにして作った本作は、そう意味で、もっともパーソナルかつ、ストレートに伊丹監督の持てるセンスが吐露された、もっとも幸福な創作物といえる。その創作物に、そのまま直に指で触れる幸福感が、ここには確かにある。

 一貫してドライな感覚と、過激な性描写から、敬遠される向きもある伊丹作品だけど。その諸作品を今、見返すと、途方もなく面白い。代表作の「マルサの女」など、何度、見ても見始めるやイッキ見必至の面白さ。それに、今のグルメ関係のコンテンツを先取りしたような「タンポポ」など、数々の画期的な作品を作ってくれた伊丹監督。既成の概念を軽々と打ち破ってくれたこの痛快なトリック・スターのような伊丹十三が、今も生きていてくれたら、どんな作品を作ってくれただろう?

 本作で煙突を見上げ、感慨にふけった出演者同様、空を見上げてそんな事を考える今日この頃なのです。

負け犬のガープの世界はドレスデン「スローターハウス5」

人生は走馬灯。でも本当はバラバラな記憶の断片がランダムにシャッフルする世界。そこには過去も未来も無い。たった一人でタイム・リープを繰り返す悲しきトラベラーを描いた名匠ジョージ・ロイ・ヒルの傑作SF!

(評価 76点)

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アメリカSF文学史上に燦然と輝く傑作小説、カート・ヴォネガットの「スローターハウス5」を、あの「明日に向って撃て」のジョージ・ロイ・ヒルが、卓抜な映像テクニックで映画化した異色作。

 「明日に向って撃て」の華麗な映像テクニックがひときわ印象的なジョージ・ロイ・ヒル。そもそもジョージ・ロイ・ヒルは、スタジオの干渉に煩わされることなく、自らの映像志向を存分に満たすことができるキャンバスを長年探し求めていた、そのキャンパスともいうべき素材こそ、この「スローターハウス5」だった。しかし、主人公が時間を自由に行き来する難解な内容から、その映画化は難航をきわめていた。しかし、その時、絶好のチャンスが到来する。それが他でもない「明日に向って撃て」だった。

 その作品の大成功で一躍トップ・クラスの監督の仲間入りを果たしたロイ・ヒルは、そのネーム・ヴァリューを駆使し、全面的な創作の権利を得た。そして、ようやくこの念願の企画に着手し、見事、カンヌ映画祭の審査員賞を受賞する。

 本作には、ロイ・ヒルがやっと溜飲を下げただけあって、その持ち味の映像センスが、遺憾なく発揮されている。もっとも特徴的なのが、ニューシネマの代表作「卒業」でも、監督のマイク・ニコルズが、随所で鮮やかに披露してくれた、まったく時間も場所も異なるシーンとシーンとを、シームレスにつなげてみせる編集だ。「卒業」では、主人公のダスティン・ホフマンが、プールから飛び上がるカットと、アン・バンクロフトが寝ているベッドに倒れ込むカットが、何の違和感もなくつながる編集が、まるでマジックを見るかのように見事だった。

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戦時中、ドイツのドレスデンで体験した大空爆のトラウマから、50年代、40年代、30年代、さらには出生の時、一気にまた60年代に逆戻りし、そして果ては遠い宇宙の惑星へと、想念だけで時間と空間を自由にトリップする主人公ビリー・ピルグリム(マイケル・サックス)を描くのに、この編集手法ほどうってつけのものはなかった。現に、原作者のカート・ヴォネガットが映画化された本作を見た時、原作よりも良く出来ていると驚嘆したというエピソードまであるくらいだ。

ロイ・ヒルは、少年時代のピルグリムが、ベッドで毛布にくるまる主観のショットを巧みに利用し、毛布の中から垣間見える光景が、毛布を上げ下げするたびに変わっていくとい手法で、少年時代に見た母親の姿から、戦時中、捕虜になって毛布の中から見る光景へと、スムーズに切り替わる、といったメソッドを随所に用い、ピルグリムがランダムにあちらこちらへと複雑にトリップするシーンを、卓抜に描いてみせる。

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結局、人生に秩序などというものはない。バラバラの断片が無秩序に寄せ集まっているに過ぎない。しかし、その断片のそれぞれにも一瞬の輝きがあって、そのプリズムが織り成す光こそが人間の人生の輝きかもしれない。本作はそんなメッセージを控えめに発信しているようにも思える。

連れ合いとめぐり合い、幸せな家庭を築いた記憶。愛犬と無邪気にたわむれた記憶。そして、広島に匹敵する惨禍ともいわれるドレスデン空爆を生き延びた記憶。つらいことや喜びも、かけがえのない輝きがあって、そこには、そもそも連続性など必要ないのだ。

 最後、小刻みにシャッフルする時間旅行の果て、ピルグリムは、かつて愛犬のスポットとUFOで連れて行かれた惑星トラファマドールに飛び、そこでマドンナ的存在のセクシー女優モンタナ(ヴァレリー・ペリン)と子供をもうけて未来永劫幸せに暮らすことを示唆して終わる。

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 ちなみに、後のもう一つのロイ・ヒルの傑作となった「ガープの世界」。突拍子もない短い人生のエピソードの断片が、速射砲のように繰り出される、文学的ソープ・オペラともいうべきこの傑作は、製作段階で、監督候補の人選が難航をきわめたらしい。いよいよ窮した時、製作陣が閃いたのが本作「スローターハウス5」でのロイ・ヒルのモザイク的演出だった。かくしてアメリカ映画史にも燦然と刻まれる「ガープの世界」。ビートルズの曲にのって、赤ん坊が空中を浮揚するタイトルバックを口火に、エピソードが絶え間なく繰り出されるこの傑作。おそらく「スローターハウス5」を見て感心した人なら誰でも、「ガープの世界」の監督に誰がいいかと問われたら、間違いなくジョージ・ロイ・ヒルの名前を挙げることでしょう。

 冒頭の、ゴールドベルク変奏曲をバックに、ビリーが雪原をあてどもなく彷徨う美しいシーンから始まり、惑星トラファマドールでビリーに捧げられる祝祭のエンディングまで、数々の傑作を世に送り出してくれたジョージ・ロイ・ヒルの映像作家としての一面を堪能できる作品です。

負け犬の骨太の群像劇「L.A.コンフィデンシャル」

欲望と汚職が渦巻くLAの街に、男たちの熱い砂塵が吹き荒れる。骨太の骨格と、上質の風格を漂わせた傑作犯罪ノワール

(評価 78点)

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50年代L.A.P.D。そこは男たちの闘争の世界、正義を貫く場所、そして、一人の魔性の女の誘惑の世界。

 公開当時、批評家の大絶賛を一身に集めていた本作。劇場に駆けつけた負け犬も、その骨太のドラマと男たちの熱い生き様にしてやられたのを良く憶えている。

 ところが、その劇場の初見以来、何故か本作は再見することもなく、今回、およそ20年ぶりに見た次第。やはり、その骨太の構成と、アンタッチャブルな男の魂は健在だった。

 50年代、あの有名なブラック・ダリア事件に象徴される、スキャンダラスなハリウッドと暗黒街が切っても切れない関係にあった社会を背景にした本作。初見の時も、先ずは感心したのが、それまで小ぶりなサスペンス中心に活躍していたカーティス・ハンソンが、大掛かりな群像劇を、巧みにさばいてみせた、その手腕だった。

 本作が凡百の犯罪ドラマと一線を画し、激賛を集めたのも、基本、オーソドックスな刑事もののストーリー・ラインを、大河ドラマのような風格の群像劇にヴォリュームアップしてのけるハンソンの演出だった。

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 それゆえ、本作は、登場人物が多く複雑に錯綜する。また、原作がノワール作家の、ジェイムズ・エルロイのL.A.四部作の三作目というだけあって、キャラクター各人にバックストーリーがあり、その厚みゆえに、複雑さが一層、増す結果になっている。ひょっとしたら序盤にリタイアしてしまう人もいるかもしれない。しかし、そこで腰を据えてじっくり見るとラストに熱い感銘が待っている。これが骨太というやつなのだ。

 主要人物は、冒頭、タイトル・カードで簡潔にイントロダクションされる三人のコップ。小賢しい悪徳刑事のジャック(ケヴィン・スペイシー)と、女に暴力をふるう男を憎悪する暴力派バド(ラッセル・クロウ)、そしてエリート警官のエドガイ・ピアース)の三人だ。この三人が、署内で発生した、マイノリティーに対する暴行事件を皮切りに接点を持ち、やがてカフェで発生した惨殺事件に立ち向かう様子を描いている。

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 一番の見所は、群像劇の醍醐味で、この三人のキャラクターを照らし出すスポットの光の色がプリズムのように刻一刻と変化すること。

 DV犯罪の撲滅に執念を燃やすバドの暴力性におののき、ジャックが平然と汚職に加担する様子に嫌悪感を抱く。しかし、そんな三人がいつしか、手を組み共闘して立ち向かうまでの様子が、移ろいゆくプリズムを交え、捩れる何本もの細い糸が、次第により合わさって一本の太い綱となるかの如く、巨悪に向けられることで大きな感動を生み出している。

 その中で、登場から一貫してそのプリズムがブレないのが、ガイ・ピアース演ずるエドだ。同じく警官で、殉職した父親の遺志を継ぎ、揺るぐことのない力強い信念でドラマそのものを引っ張る強固な存在になっている。

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 ノワールといえば、欠かせないのがファムファタル。その魔性の女リンに、これ以上の存在は無いと思わせるほどの、美貌の絶頂のキム・ベイシンガーが扮している。たわわな胸に抜群のプロポーション、そして陶酔を覚えるほどの悩殺力。強面のバドもいつしかリンに、職務を忘れ本当に溺れていく。

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 この手の映画で、一番、感動するのは、やはり反目し合っていた男たちが、一つの巨悪に向って結束するところ。本作でも、終始、軽薄な調子で、見物を決め込んでいたケヴィン・スペイシーのジャックが、エドの覚悟を聞いて目覚め、闘いに加わるシーンには胸を熱くさせられる。しかし、そのジャックも、当初は黒人三人組が犯人とされた惨殺事件の、真犯人を追い詰めたところで撃たれて殺される。しかし、ジャックは瀕死の間際、最後の意地を見せ、犯人につながるダイイング・メッセージを残す。このくだりなど、あのブライアン・デ・パルマの傑作「アンタッチャブル」で、メンバーが一人1人殺される、あの切なさにも重複して来る。

 そして、犯人の工作によって、最後まで反目し合っていたバドとエドがいよいよ一触即発の対決の危機に陥ったところで、犯人の存在を告げられたバドが、ようやく目覚め。二人の刑事が遂に手を取り、犯人に立ち向かっていく。

 二人が挑む、最後のガン・ファイトのクライマックスは、まさに巨悪に寝返った悪徳保安官と対決する昔ながらの西部劇、ウェスタンそのもの。複雑に錯綜してきたドラマの集結を、オーソドックスなカタルシスで締める。本作、最大の成功の要因は、実はここだったのかもしれない。

 ラストも、オーソドックスなカタルシスは続く、熱い視線を交わし、分かれるエドとバド。そして、それを静かに見守るかつての魔性の女のリンは、今や母性のような優しさすら漂わせているというこの構図。

 長尺ながら、それを逆に最大限に生かして骨太に作り上げられたドラマの風格が、ふと懐かしくなった人には、まさにピッタリの作品ではないでしょうか。