負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬の脈絡なきこの人生「フェリーニのローマ」

次々に繰り出される圧倒的な記憶の洪水!まさしく人生とは、走馬灯ならぬ、炎を噴き上げ疾走する火車

(評価 80点)

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デフォルメされた記憶のイメージが、怒涛のように繰り出され、ひたすらに圧倒される。脈絡などあろうがなかろうが構わない。何故ならそれこそが人生の真実で、稀代のアーティスト、偉大なるフェリーニの芸術そのものなのだから。

 フェデリコ・フェリーニという存在と、はじめて遭遇したのがこの「フェリーニのローマ」だったように思う。その名前は、それまでにも幾度となく耳にはしていた。しかし、あくまでも堅苦しい芸術肌の監督にしか思えず、アメリカ映画一辺倒だった自分の、アンテナ圏外の存在に過ぎなかった。

 そんなある日の午後のこと、ふとテレビを点けたら、その時、流れていたのがこの「フェリーニのローマ」だった。その時のインパクトは正直、度肝を抜かれたといってもいいほどの衝撃だった。映画には本来、ストーリーがある。いや、そもそも、ストーリーがなければ映画ではないという常識が、自分の中には厳然とあった。しかし、その時、自分の目の前にあったのは、記憶の断片のようなシーンが脈絡もなく連続するだけの、いわば非常識な映画だった。でも、さすがにそれだけでは驚きもしない。ただのアングラ映画として見向きすらしないはず。驚いたのは、それがバツグンに面白かったこと。

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 まず、イントロのフェリーニ自身の幼年時の記憶から始まって、青年となりローマに出て来る断片が描かれる、そこから本作は、それまでかろうじてまとっていたストーリーという窮屈な衣を脱いで、軽やかにストーリーを超越し、ローマという都市に対するフェリーニ自身のインプレッションが怒涛のように繰り出される。

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 それはまるでファンタジーの世界!エネルギーとバイタリティに満ちた都市ローマ。山盛りの食事を屋外で平らげて行く町全体がレストランのようなローマ。新たなる世代が自由を謳歌するローマ。映画の撮影隊が、ローマを目指し、高速道路を移動する。ただそれだけのイベントが、フェリーニの手に掛かれば、見たこともないようなハイウェイ上のスペクタクル・ショーに変貌する。大都市の地下で進行する掘削工事は、さながら、異星の地底世界の闇の洞窟を突き進む探検隊。やがて掘り当てた、壁画が居並ぶ空間は、時の流れから隔絶された、過去の亡霊のような人物たちがこちらを見つめる異様な、古代の異世界だ。

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 子供の頃、すし詰めの映画館で見た映画の記憶、大人になって連れて行かれた売春宿の記憶、週末の夜見た寄席の舞台の記憶、空襲を逃れ防空壕で一夜を過ごした記憶。豊饒な記憶の断片の数々に時系列などない。そこには、とりとめもなく、矢継ぎ早に繰り出されるシーンの数々を、ただ頭を空白にして見つめる、一種の爽快感すらある。

 そして、なによりも圧巻は、クライマックスの大聖堂で、教会の司祭たちが繰り広げる世にも不思議なファッション・ショー。クラシックな伝統と奇抜でモダンなセンスが混ざり合った奇妙ないでたちの数々に目を奪われるうち、荘厳な大司教の降臨に、司教や参列者全てがひれ伏す、どこか恐ろしくもある光景を、息を呑んで見守る瞬間がやって来る、そして、夜更けの、広場で轟音を響かせ走り去っていくオートバイで本作の幕が閉じた時には、呆然と、夢から覚めたような気分にすら陥っていた。

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 ただの脈絡のない、断片の連続でも、そのイメージが際立っていれば、面白い映画にもなり得る。まさに、それは、人生の映画遍歴でもひときわ鮮烈な体験だった。

 その後、フェリーニの代表作「81/2」の、美しいモノクロの、奔放なイメージの放流にも驚かされ、若々しいドラマ性に満ちた初期の「道」や「青春群像」といった作品群にも驚かされ、映画の世界の奥深さ、面白さにも開眼することになる。

 映画には、窮屈なセオリーなどない、下手なドラマも必要ない、クリエイターの突出した才能と、のびやかな感性があれば、それがどんなスタイルであれ、それ自体ドラマになることをフェリーニは、この負け犬に教えてくれた貴重な存在なのだ。

 ちなみに、あの天才スピルバーグも、他ならぬフェリーニの信奉者。まだ若き頃。あの「激突!」で鮮烈に躍り出て、その作品を引っ下げてカンヌ映画祭に乗り込んだ際には、真っ先にフェリーニのもとに駆け付け、一緒に記念写真を撮っている。その写真を見たことがあるが、いかにも大監督然とした、フェリーニの横に、あのスピルバーグが、いかにもミーハーなイタズラ小僧みたいな面構えでチョンと寄り添っていたのを今でも憶えている。

 その時には、それまでのドラマ的な作風から、既に印象主義的な作風に移行していたフェリーニをはじめ、誰一人として、その小僧が、業界のビッグ1にのし上がるなど夢にも思っていなかったわけだから、人生というものは、はからずもドラマチックなものなのです。いずれにせよ、肩肘張らずとも、お定まりのドラマに飽き足らず、既成概念をくつがえすようなポップな才能に触れたい方には、オススメの作品ですよ~

負け犬の笑いと狂気は紙一重「キング・オブ・コメディ」

人は笑わずにはいられない、自分の人生の悲惨さを忘れるために。笑いとは、そもそもかくもアンビバレンツなものなのだ

(評価 80点)

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 本作が公開されたのは、バブル真っ只中の1984年。当時、その世相を反映し、日本中のメディア、すべてが浮かれていた。中でも、もっとも賑やかな、その時代を象徴するようなテレビ番組があった。その番組こそ1981年から1989年まで長期にわたり放送され、バブル最盛期の代名詞的番組ともなった「オレたちひょうきん族」だ。明石家さんまビートたけしといった業界のビッグ2が殿堂入りするきっかけともなり、数々のお笑いスターたちが、レジェンドとして番組史に刻まれることになる、バラエティ史上、不世出の番組である。

 この「キング・オブ・コメディ」の公開当時、キネマ旬報誌上に、その番組の名物プロデューサーとしてセレブのような存在にすらなっていた横澤彪氏のレビューが掲載された。横澤氏は、そのレビューにこんな印象的なコメントを寄せていた。

 曰く、「明石家さんまビートたけしは言うに及ばず、番組制作で接するタレントたちは、みな常識的な人間だ。そもそも常識をわきまえていなければ、お笑いなど作れない」

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 そもそも、人は何故、笑うのか?常識的な事柄を、ただ常識的に喋るだけでは、人は笑わない。少なくともお笑いを生業とする人間は、常識と非常識の危ういボーダーラインを上手く渡り歩く必要がある。しかし、そのベクトルをほんの少し非常識に振りすぎるだけで、それは狂気の領域に突入する。

 本作の主人公ルパート・パプキン(ロバート・デ・ニーロ)も、いわば、その実に危ういボーダーラインを毎日、綱渡りしている男。ただ一つパプキンが違うのは、パプキンのすぐ隣に、まるで旧知の友人のように、妄想という隣人がピッタリと寄り添っていること。パプキンは、プロではない、お笑い界のキング、ジェリー・ラングフォード(ジェリー・ルイス)に憧れ、いつかセレブになることを夢見るアマチュアなのだ。

 しかし、そのジェリーに対する憧憬が、冒頭の段階からして、度を越しているのはすぐに分かる。楽屋裏でのどさくさに紛れ、ジェリーと言葉を交わしたことからパプキンは、自分にあたかもコネが出来たかのように思い込む。そして、そこからパプキンの妄想は暴走し始める。

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 本作でもっともユニークなのは、その妄想シーンの描き方だ。日常とまったく相反するはずの非日常の妄想が、本作では、まったく同じ位相に存在している。パプキンが一人で喋っていると思ったら、高級レストランでパプキンが、番組製作についてジェリーと親友のように会話しているシーンに、いつの間にかすり替わっている。さらには、一方的に恋愛感情を抱いているバーのウェイトレスと、ジエリーがホストを務める人気番組の中で、いつの間にかパプキンが結婚式を挙げているといった具合に、この映画を見ている人間は、ふと気付くとそのシーンが妄想に切り替わっているという、不思議な体験を何度も味わうことになる。

 エキセントリックなキャラクターの妄想を描いた映画は数あれど、妄想と日常が、これほどまでに緊密に寄り添って、同質のレベルで描かれた映画は、後にも先にも、本作を置いて他にはない。よくよく考えたら、これこそが本作の監督マーティン・スコセッシの本質のような気がするのだ。今や、業界屈指の巨匠となったスコセッシのその創作の根底に、貧弱だった自分へのコンプレックスがあるのは、そのフィルモグラフィを見れば誰でも見て取れる。

 そんなスコセッシが、「タクシー・ドライバー」でカンヌのグランプリに輝き、自身見事にセレブリティとなり、イザベラ・ロッセリーニという絶世の美女の妻までゲットして、「レイジング・ブル」のキャンペーンで、そのイザベラを従え、堂々、来日を果たしたことがあった。その時のインタビューでは、スコセッシが、業界の誰それのパーティに呼ばれたとか呼ばれないといったことをやたらと気にする一面を匂わせていた。

 どれだけ有名になっても、まだ満足できない。セレブを渇望してやまない飢餓感こそがスコセッシの本質といえる。だから、そのスコセッシの分身ともいえるデ・ニーロ演ずるパプキンの体質に、それが顕著に表れている。本作のテイストは、あくまでもコメディだが、パプキンの行動の節々には、サイコパスなカラーが、いつも滲み出ている。自室でたった一人、有名番組のホストになりきって悦に入るパプキン。自慢のデモ・テープを携え、持ち込みに行くが、ジェリーに会えず、ジェリーのアシスタントの女性に、どこまでも食い下がる。そのネジが徐々にハズれていく具合は、不気味ですらある。

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 スコセッシが、メディアと大衆、セレブとパラノイアというテーマを扱ったポール・D・ジマーマンの寓意に満ちた本作の脚本に出会ったのは、70年代のこと。その後、華々しいキャリアを歩み始めたものの、「レイジング・ブル」以降、スコセッシは完全なスランプに陥ることになる。その時、デ・ニーロに本作の脚本について言及されたことが、本作誕生のきっかけとなった。

 それもあってか、本作にはスコセッシならではの、あのダイナミックな躍動感に満ちた動くキャメラや、音楽の洪水といったトレードマークは敢えて封印されている。そのドラマを端的に描くだけで良しとする、スコセッシの割り切りが本作には感じられる。それでも、イントロのストップ・モーションから、レイ・チャールズが唄う「 COME RAIN OR COME SHINE」が流れ出す絶妙のタイミングでタイトルバックが始まる瞬間には、スコセッシの映画にしかない陶酔感がある。

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 ラストは、皮肉にもセレブになってパプキンが世間を見返す、完全な風刺としてエンディングとなるが、これを、自らのコンプレックスを脱し、スランプをも乗り切って、巨匠としての道を新たに歩み始めるスコセッシの、高らかな勝利宣言と見て取るのは、一生無名で終わるだけの、この負け犬だけなのでしょうかね~

負け犬は夜行性「ナイトクローラー」

この男はワクチンなき現代の病理!コンテンツのみを偏重して突っ走る狂気な社会そのものなのだ

(評価 82点)

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この男が目指すのは、スクープの内容の過激さのヴォルテージ。その過激さのアップだけを目指し、ひたすらに突っ走るこの男の行動は、どこか我々そのものに似ている。

 一人の男の病理を描くことで、蝕まれた社会そのものを描くというメソッドといえば、あの「アメリカン・サイコ」があった。本作「ナイトクローラー」の主人公ルイス・ブルーム(ジェイク・ギレンホール)は、どこかその「アメリカン・サイコ」のベイトマンにも似ている。しかし、ベイトマンが、何不自由のないヤッピーだったのに比べ、このルイスはまったくの貧困層の完全な負け犬だ。友だちも知り合いも誰一人としておらず、たった一人で薄暗い部屋の中、アイロンをかけながらTVを見てニンマリとしている孤独な負け犬だ。しかし、この低学歴の負け犬は、負け犬なりに奇妙なエリート意識と、異常なほどの上昇志向があって、だからこそ厄介なのだ。

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 コソ泥で生計を立てるルイスは、ある夜、ハイウェイの事故現場で、スクープ映像をハンティングしては、それをコンテンツとしてTV局に売りさばく連中を目撃する。そのビジネスに金の匂いを嗅ぎつけたルイスは、元々のヤジ馬根性もあいまって、すぐさまキャメラを手に入れ、見よう見まねでフッテージを撮ってみる。すると、ちょうどセンセーショナルな映像で視聴率アップを狙っていたローカル局の女性ディレクター、ニナ(レネ・ルッソ)にそれが採用される。人生で生まれて初めて他人に認められたルイスはそこから猪突猛進でスクープ映像のハンターと化していく。

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 即決、即行といえば聞こえはいい。しかし、ルイスがキャメラを手に入れる金も、通りすがりに高額のチャリを盗んで手に入れた金だから、最初の段階からして救いがない。それでも、ルイスに対し、共感度ゼロにならないのは、そのスクープ映像によって、高学歴、高キャリアのステータスの高い人間に認められることで、自分の存在意義を初めて知った、そのルイスのときめきが、多少なりとも理解できるからかもしれない。同じ穴のムジナのように、離れたくても離れられないシャム双生児のように、ルイスとニナはお互いを必要として、LAの夜の闇を貪りつくす勢いで、過激なフッテージを漁るハンターと化すが、この野心的な女性ディレクターとルイスの関係で、この負け犬が思い当たった一本の映画がある。

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 巨匠シドニー・ルメットが、その名監督としてのポテンシャルをフル・スロットルで発揮したようなアメリカ映画を代表するような傑作「ネットワーク」だ。ニュース番組の生放送中に自殺予告したキャスターと、そのキャスターを利用しようとする、大手ネットワークの野心の塊のような女性ディレクターという切り口で、メディアと大衆の関係を描いたこの「ネットワーク」。二つの作品とも、女性ディレクターと、スクープのキーマンとの関係という構図は重なるのに、巨大企業のシステムと個人に焦点を絞ったことで、今でも古臭さが微塵もない「ネットワーク」と比べ、この「ナイトクローラー」には、どこかアナクロな違和感を覚える人が多いのではないでしょうか。

 そう、端的に言えばその時相が、どこか古臭いのだ。今の時代、誰もがスマホを持っている。そして、そのスマホには、昔なら想像も出来なかったような高感度のキャメラが備わっている。さらに、通りすがりに凄惨な現場を目の当たりにして、何の気なしに撮影したフッテージをネット上にアップロードできるインフラなどどこにでもあるのだ。となると、スクープ・ハンターなんて人種が現代に存在するのかということになる。だって言い換えれば、誰もが事件の目撃者とそのキャメラマンになり得るのだから。

 しかし、その時代感覚がどうであれ、映画というものは、度を越したエキエントリックな人間にスポットを当て、その行動にトリミングして描けば面白くなる。本作も、何度見ても、ルイスの行動が、どんどんエキセントリックに過激になっていくのを、ただ唖然として眺めているうちにエンドマークを迎えてしまうほど、面白さにおいては一級なのもまた事実。それに、そもそも、ルイスの行動は、あの“いいね!”を渇望する我々そのものにダブってこないだろうか。

 誰もが他人から“いいね”というお墨付きをもらいたがる社会、“いいね!”を欲しいばかりに、自らの自殺映像までネット上に投稿してしまう社会。その病み具合は、まさにこの「ナイトクローラー」のルイスすら凌駕するといってもいい。

本作が、そんな“いいね”社会を揶揄するサタイヤであることを思い知るのが、ラスト。このラストには、ある意味、アップルやマイクロソフト、それにフェイスブックに至る、巨大企業に成り上がった全てのスタートアップたちに対する痛烈な皮肉が込められている。

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 ルイスが立ち止まることはない。それは、どれだけ“いいね!”を獲得しても決して満たされることなく、尚も“いいね!”を渇望し、貪り続ける我々そのものなのだ。高感度キャメラで捉えられた、むせかえるほど鮮やかな色に満ち溢れたLAの夜の空気を切り裂くように、ルイスはハイウェイを疾走する、今日も、明日も、そして、ショッキングな映像を求め続ける我々が根絶やしにでもならない限り、それは永遠に続くのだ・・

負け犬は衝突すれば分かり合えるのだろうか「クラッシュ」

人生は人と人とが絶え間なくスクランブルする交差点。だから、車のように衝突することもある。しかし、事故で負った傷も少しの思いやりと優しさがあれば癒されることをこの映画は教えてくれる

(評価 88点)

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総勢十数人に及ぶ、人種が違う人々のクラッシュがシャッフルし、錯綜する。そして、その果てに光が差す希望に、何度見ても涙する。

 文句なしの名作「ブロークバック・マウンテン」を制し、第78回のアカデミー作品賞を受賞した作品、ということもあって、ゲイという尖ったテーマが嫌われて、差障りの無い作品にオスカーが与えられたという偏見をこの「クラッシュ」に抱いてしまい、長らくみていなかった。ようやく見てその素晴らしさに驚いた。やはり本作のテーマ同様、偏見というのはいけないものです。何よりも驚いたのは、実に気持ち良く泣かされたこと。

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 多人種間のクラッシュを描く本作で、ジーン(サンドラ・ブロック)が電話でこう話す、「私は、朝起きた時からいつでも何かに苛立っている。でも、それが何故だか分からない」

 人種間の軋轢だけではない、普通の日常で、ジーンのように何故だか分からないけど、いつも苛立ちを抱えている人は多いのではないでしょうか。苛立ちといっても、怒りというほどのものではなく、いわばさざ波のようなもの、しかし、その小さな波でも、ぶつかり合えば荒ぶる波にもなってしまう。

 イントロのとある交通事故の現場の様子を描く幕開けから、本作は一転、時間軸が36時間前の前日に遡る。それを起点として始まる緊密な群像劇のパッチワークの口火を切るのが、銃砲店で護身用に銃を買い求めるペルシャ系のファハドと娘のドリだ。店主のイスラムを揶揄する扱いに激怒するファハドをなだめ、娘のドリは銃を手にして店を出る。まず圧倒されるのが、それを皮切りに、目まぐるしくシャッフルされる多人種間のクラッシュを緻密に織り上げていくポール・ハギスによる本作の脚本。ただ緻密なだけではない。十数人にも及ぶキャラクターたち一人ひとりを、決して一面的ではなく、多面的に描いてみせる筆力にはただただ舌を巻く。

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 そう、誰でもいい面もあれば、悪になる側面も持ちあわせている。それはまるで、エンディングで、空から舞い落ちてくる雪の結晶が、光の屈折のプリズムで、刻一刻と違った姿に見えるのにも似ている。本作で泣かされたのはまさにそのプリズムだ。

 どのキャラクターに共感するかで、見る人によって感銘のプリズム自体、変わってくる本作だけど、この負け犬が最も泣いたのは、LAのしがないコップのライアン(マット・ディロン)にまつわるエピソード。ライアンは、膀胱に障害を抱える病身の父親との二人暮らし。尿が満足に出来ない父親にいつも夜中に起こされる。父親は、昔、工場経営をしていたが、今は全てを失った。黒人のケア・ワーカーに父親の症状を訴えても聞き入れてもらえない。ライアンは心のどこかで、有色人種が白人よりも優遇されているという偏見を持っているのだ。そんなライアンが、パトロール中、たまたま目に止まった黒人夫婦に職質まがいの悪質なハラスメントをする。ライアンとは、まるでクラスが違うハイソなルックスの夫婦にイラついた上での所業であることは察するが、現実に白人警官による過剰防衛を臭わす、黒人への暴行致死事件が頻発している世相もあいまって、このハラスメントのシーンのイヤな感じが半端なく、ここでいっきにライアンへのネガティブな感情が植え付けられる。

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 しかし、このライアンが翌日警ら中に交通事故に遭遇する。その時、ライアンは使命感から、車の中にいる女性を助けようとするが、その女性は何と、昨夜、自分がハラスメントをはたらいた黒人女性クリスティンだった。ハラスメントを受けたクリスティンのトラウマも半端なく、クリスティンは、漏れ出したガソリンが迫っていて、数秒後には爆発する一刻の猶予もない絶対的な状況の中で、ライアンの顔を見るやパニックに陥り激しく拒絶する。しかし、ここでライアンはあくまでも警官としての使命を果たそうと自らの命もかえりみずクリスティンを助け出そうとする。

 死への恐怖、しかし、自分の全人格をハラスメントで凌辱したようなライアンへの拒絶感、そしてライアンの人命への使命感、直前のライアンのハラスメントのシーンでのライアンに対する印象の反動もあって、あらゆる、感情、エモーションがヒートアップするこのシーンには、何度見ても泣かされる。

 それだけではない、感動は、つるべ打ちにやって来る。冒頭で、護身用にピストルを買ったファハドの店が荒らされ、直前に口論をしていたメキシカンのダニエル(マイケル・ペーニャ)を犯人と思い込んだファハドはダニエルの自宅に押し掛け、駆け寄って来たダニエルの娘を誤って撃ってしまう。そこでの、全身から振り絞るようなダニエルの慟哭の後に訪れる奇跡にも、熱い涙が溢れ出るのを禁じ得ない。

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 この映画は教えてくれる、人と人、そして人種間での軋轢による、小波がぶつかって、大きな波となり海が荒れても、少しの思いやりと優しさがあれば、穏やかに収まる時は必ずやって来るのだ。とは言え、人種問題なんて、そんなに単純なものじゃない、この映画で描いているのは綺麗ごとに過ぎないと思う人もいるはず。

 はっきり言ってその意見は正しいと思う、そんなに単純なものではないこともまた確か。それでも、人と人とが激しくクラッシュし、傷ついたその後には希望があっていいと思うのです。今のこんな時代だからこそ、厚く立ち込めた雲の間から差し込むような希望の光があってほしいと切に思うのです。

 人は誰でも、自分の家に帰る家路を探して彷徨っているのではないでしょうか、それでもエンディングで流れるステキな曲「MAYBE」で唄われるように、明日になればきっと、自分の家に帰るその道が見つかるのかもしれないのだから。

 そんな一抹の優しさをもたらしてくれる、実にステキな映画だと思うのです

新木枯し紋次郎 第二話「年に一度の手向草」 初回放送日1977年10月12日

日活ヌーベルバーグの新たなる息吹

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<姉のお光の墓参りにおとずれた紋次郎。そこで見たのは。その墓が何者かに荒らされ、そこに埋められていた身も知らぬ娘の死体だった。かつて同じ村の住人だった梅吉は、それが村の名主の娘のおせんだという。紋次郎は、真相を追って、名主の家へと向かうが、村の誰もが、おせんの元気な姿を見たと証言し、深まる謎とともに、紋次郎が知ったのは、村にまつわる、ある秘密だった>

 

 紋次郎に不可欠なバックストーリーといえば、生後間もなく間引きされかけたところを姉のお光に救われた一件。シリーズを通じ幾度となく出て来るそのエピソードが、本編の冒頭にも出て来る。そして、その瞼の母ならぬ、瞼の姉の最愛のお光の墓が無残に荒らされ、そこから見も知らぬ娘の遺体が発見されるという、ショッキングな本編を監督、さらには脚本まで手掛けたのが誰あろう、日活ヌーベルバーグで名を馳せ、日本映画史にその名を刻む神代辰巳

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 本格ミステリ的な本作だが、神代辰巳監督ならではのほぼワンシーン、ワンカットの演出で統一された本作は、それゆえにシリーズ中でも異質な一本。そのワンシーン、ワンカットの効果で、ドラマ的というより、映画のような厚みがもたらされている。しかし、逆に、市川崑演出のようなテンポや切れ味に欠いたことは否めない。

 それでも、お光の墓をめぐってのミステリアスな顛末から、クライマックスの急斜面での大八車を使った見せ場に至るまで、おそらくフィルモグラフィとしては、初とも思われる時代劇として、実に印象的な一編に仕上げてくれている。

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 ちなみに今回の新シリーズでは、紋次郎こと中村敦夫が三本のエピソードの監督を手がけている。旧シリーズの「獣道に涙を棄てた」では、一気に二本分もの予算を使ってしまい、プロデユーサーを仰天させた中村敦夫が、新シリーズでは早撮りに徹し、リーズナブルに仕上げたという同氏だが、その出来映えには満足らしく、どれもが傑作と自負しているのが、本シリーズと紋次郎への愛着がしのばれて、微笑ましい。

 その中村敦夫が新シリーズで手掛ける最初の作品となるのは第七話にあたる「四度渡った泪橋」。当エピソードでは、ゲスト出演の三浦真弓がヌードを披露するなど、ファン・サービスにも徹した娯楽作となっている。また、脚本も自ら手掛けたそのペンネームが、白鳥浩一。この名前の由来が、玄人はだしの競輪マニアの同氏が、好きな競輪選手の名前を合体したものなのが、国会議員まで務めた千変万化の顔を持つ中村敦夫らしい。

負け犬の警察官はストが好き「ロボコップ2」

アメコミ作家のフランク・ミラーのコミック感満載のテイストに、一作目では物足らなかったロボコップと敵のバトルだけは存分に楽しめる及第作

(評価 60点)

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あのキングコングもそのルーツはCGではなく、人形がカクカク動くストップモーション・アニメだった。一作目のバイオレンスはマイルドに、ヴィランはよりキッチュになった今回のカオスな世界。カクカク動いて戦うロボコップ2号のノスタルジックな見せ場が長いのだけが見所だろうか。

 犯罪撲滅にではなく、労使交渉のみに執念を燃やす、ご存知デトロイト市警。一作目同様、親会社?のオムニ社との労使協議が揉めて、のっけから余念がないのがトライキ。だから、街はさながら犯罪天国、今日も今日とてヒャッホーな犯罪者が自由を謳歌している。ところがそこに現れるのが、給与も年金も関係ないノッシノッシと歩くフルメタルなあの男というわけで、本作は、一作目のブラックなユーモア感も、上出来のエンタメ感も見事にかなぐり捨てて、ポンコツ映画のドライブ感丸出しで進んでいく。

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 けばけばしいエイティーズなカラーのスタジオセットで、悪党は、あきれるほどに分かりやすく悪いことをやってくれ、あのピーター・ウェラーお得意のパントマイム(このパフォーマンスだけは確かにお見事)な動きのロボコップがそれをバンバン撃ち殺してくれるのだ。

 撮影時に既に高齢だったはずの監督のアーヴィン・カーシュナーが、ベテラン監督のキャリアをまるで鼻にも掛けずにジャンク・ムービーに徹してくれているのが何だか微笑ましい。加えて、今回の悪役、麻薬王ケイン(トム・ヌーナン)のサイドキック的なヴイランが今回は何と子供。この子供が大人びた仕草で大人を惨殺しまくる奇妙なキッチュ感覚が、本作をとてつもなく変てこなものにしている。

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 今回、ストーリー作りに加わったアメコミ界の鬼才フランク・ミラーのコンセプトなのか、それともカーシュナーの意図なのかは知らないが、嫌悪感を催すようなこの子供ギャングにはじまってチグハグなファクターが本作には、実に多い。厄介なことに、デトロイト市警の署内をノッシノッシ歩くロボコップやヒステリックに喚き続ける黒人市長を見ていたらコメディ映画を見ている気分になってくる。ロボコップ2号のチープなデザインはもとより、その2号に、よりによって悪党のケインの脳髄を移植して手なずけようとする女博士など、ほぼ一般人では、理解不能な領域だろう。しかし、不協和音は裏を返せば、ジャンク・ムービーには欠かすことが出来ない調味料、というわけでジャンクフードを楽しむ気になれば、本作もそうは悪くもないのだ。

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 クライマックスにはお待ちかねの、真正ロボコップといかにもチープなロボコップ2号の戦いが待っているが、有難いのがストップモーションで繰り広げられるそのアナログな戦いのボリューム。ほんの1,2分の顔見世程度に過ぎなかった一作目とは打って変わって、本作ではサービス過剰なほどの満点のボリュームでノスタルジックなアナログ感を満喫させてくれる。

 この負け犬の世代、当然、特殊効果と言えば、もっぱらミニチュアと着ぐるみで、円谷プロの、ピアノ線で吊られたビートルが空を飛ぶ世界しか、子供の頃は知らなかった。だから,大昔の「キングコング」のストップモーションのSFXを、TVではじめて見た時は、少なからず驚いた。古色蒼然としたモノクロ映像の中、ストップモーションならではのぎこちなく動く生き物たちが、子供心には、やけにリアルで何だか怖かったことを憶えている。

 1933年の「キングコング」で魔術師さながらの腕を奮った特殊効果マンのウィルス・オブライエンに魅せられ映画界に入ったのが、伝説的なストップモーションのアニメーター、レイ・ハリーハウゼン。この人が手掛けたシンドバッドや「アルゴ探検隊の大冒険」のクライマックスでのガイコツたちと人間との戦いなど、ブラウン管にかじりつくようにして見ていたものです。ストップモーションがそもそも人形を1コマ1コマ動かして、それを撮影したものであるというメカニズムを知ったのも、それからずっと後の事だったようにも思う。

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 この「ロボコップ2」のストップモーションを手がけたフィル・ティペットも、そんなレイ・ハリーハウゼンが生み出す世界に魅せられた一人だった。フィル・ティペットといえば業界でも筋金入りの、ストップモーション・オタク的な人物として知られている。本作が作られてから数年後、時代は急激に、アナログからCGへと、その潮流を変え始める。だから尋常ならざるボリューム感と力の入れ具合すら感じさせる本作のストップモーションは、ティペットのようなアナログなSFXマンの末裔たちが、嬉々として自分の腕が奮える最後の花道だったのかもしれない。

 時間は、決してストップしない。無常に時を刻み続けるもの。本作のエンドクレジットのティペットのクレジット名のタイトルのバックには、如何にも場違いで素っ頓狂な、女性コーラスのスキャットが流れるが、化石のように滅びゆく特殊効果マンへのレクイエムとしては、そのチグハグ感が、何だかやけに似合っているのだ。

負け犬もマスク無しでは歩けないノーマスクノーライフなこの世界「アウトブレイク」

そのウィルスに感染したが最後、全身から出血し、人体が崩壊する!致死率90%の恐怖、コロナ過の今だからこそ、怖さと共に面白さも倍増する傑作パニック!

(評価 84点)

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恐怖とパニックが空気感染する。「エボラ出血熱」制圧の顛末を描いたノンフィクション「ホット・ゾーン」の映画化ともいうべき本作は、今でも興味深い多くの事を教えてくれる。

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 「地球を支配し続ける人類にとって、最大の脅威となるのはウィルスである」

1958年にノーベル生理学・医学賞を受賞した分子生物学者ジョシュア・レダーバーグのこの言葉で幕を開ける本作。オーソドックスながらエンタメ性に富んだウィルスパニック映画として、今も尚、その内容の迫真性にいささかの遜色も見られないバランスのとれた良作と言っていい。

 アメリカ映画を見て、いつも驚かされるのが、アクチュアリティのあるトピックをいち早く取り上げ、切れ味鋭い社会性に富んだエンターテイメントに仕立て上げてしまう底力だ。スリーマイル島原発事故や福島原発メルトダウンを、現実をそのままなぞるほどのリアリティで予見してのけた「チャイナ・シンドローム」は、その代表格といえる。

 専門家の間でも長らく、空気感染に関するオフィシャルなガイダンス映画にも挙げられてきた本作のベースになるのは、1994年に刊行された、ジャーナリスト、リチャード・プレストンによるノンフィクション「ホット・ゾーン」。

 同書は、一般的には、未知のウィルスでしかなかったエボラ・ウィルスにスポットを当て、アフリカ発のそのウィルスがアメリカの首都ワシントン郊外のレストンという町に突如として現れ、軍部がそれを制圧するまでの顛末を描き世界中でベストセラーとなったが、「アウトブレイク」は限りなくその「ホット・ゾーン」に近い、あくまでもオリジナル作品だ。

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 ただし、なおもコロナ過の脅威に怯え続ける今、映画「アウトブレイク」ともあいまって、その「ホット・ゾーン」が、ウィルスというものの恐ろしさを、改めて教えてくれるのだ。

 「ホット・ゾーン」で取り上げられたウィルス、エボラ。そのエボラの最大の特長は、何と言ってもその致死率。その致死率は何と90%。感染するや、エボラは、わずかな潜伏期間の後、たちまち感染者のあらゆる組織に浸透する。兆候があらわれるのはまずその目。目が真っ赤に充血し、その目からまるで赤い涙のように血が溢れ出す。それをはじめとし、腎臓や肝臓といったあらゆる臓器が溶解しはじめ、肉体そのものが、ウィルスが泳ぎ回る血の海と化した挙句、最後には人体が文字通り崩壊する。同書で克明に描かれる、ノンフィクションならではの迫真性に満ちた感染者たちの激烈な症状の描写は、思わず顔をしかめるほど。また目から血を流すその症状が「アウトブレイク」でも、短いながらも描かれていたことを、思い起こす人もいることでしょう。

 アフリカのケニアで生まれたエボラが、事も有ろうにアメリカの首都に侵入するのも、実験動物として輸入されたサルがその宿主であったという「アウトブレイク」での、そのくだりも、「ホット・ゾーン」からそっくりトランスファーされたものだ。

 実験動物を扱うその会社の「モンキーハウス」の異変から、エボラの本国への侵入を察知し、これに当時、立ち向かったのが、米国陸軍伝染病医学研究所のバイオハザード・スワット・チーム。そのチームの決死の作戦によって、エボラはアウトブレイクを免れ、現実世界では鎮圧することに成功する。そのリアルな出来事を、感染拡大がアメリカのとある町で実際に発生し、猛威をふるったら、という仮想のフィクションに仕立てたのが「アウトブレイク」だ。

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 現実世界の「ホット・ゾーン」でも、米国陸軍の医学防衛機関ユーサムリッドで、エボラ・ウィルス解析の中心人物となったのは、映画同様、一人の女性少佐だった。この女性がレヴェル4の防護区域、ホット・ゾーンに入り、エボラ・ウィルスを実際に分析するため入念に着用したはずの防護服に、小さな裂け目を発見し、パニックに陥る緊迫のシーンも「アウトブレイク」では如実に再現されている。

 「アウトブレイク」が、専門家たちからガイドライン替わりに推奨されたのも、現実の出来事から少し飛躍し、エボラをモデルとする、劇中のマールブルグウィルスの変異株であるモターバというウィルスが空気感染するところ。映画館で咳をする一人の観客が放出した飛沫が、たちまち館内に蔓延し感染が拡大する。あるいは、密閉状態の建物の中で、感染者の飛沫が換気扇のダクトを通じて運ばれ、館内全域に感染が蔓延する、といった映画ならではの、分かりやすい表現で空気感染のメカニズムが表現されている。このシークェンスを見て、現在、メディアで毎日のように目にしている、空気感染予防の広報映像をそのまま見ている気になる人も多いだろう。

 「ホット・ゾーン」で描かれた、現実のエボラ・ウィルスで、人類にとって最大の救いとなったのが、空気感染しなかったこと。もしもエボラが空気感染すれば、人類は、数週間足らずで死滅していただろうと、「ホット・ゾーン」の著者プレストンも同書の中で言及している。しかし、それが、あながち誇張でも何でもないことは、空気感染によってコロナが、地球の至るところで蔓延しているのを目の当たりにしている現代の人間なら誰でも知っている。

 「アウトブレイク」ではクライマックスにかけて、畳みこむように宿主のサルが見つかり、主人公のサム(ダスティン・ホフマン)の尽力で、元妻のロビー(レネ・ルッソ)も助かり、あっさりとハッピーエンドとなる。しかし、現実世界ではそんな事など有り得ないことも、我々は百も承知している。

 コロナによって今や人間の生活がすべて豹変し、かつてなら、まるでSF映画でしかお目にかからなかったような、全ての人たちがマスクをして歩く世界へと日常が一変してしまった。だからこそ、冒頭のレダーバーグの言葉のように、今後も人類にとって最大の脅威であり続けるはずのウィルスと共存するための、一つのアシストとしての価値を、本作は持ち続けているのでしょう。

 まさに今も、負け犬が住む市の広報のマイクから、感染防止を市民に呼び掛けるアナウンスの声が聞こえている。嗚呼、ノーマスク、ノーライフ!