負け犬的映画偏愛録

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負け犬の笑いと狂気は紙一重「キング・オブ・コメディ」

人は笑わずにはいられない、自分の人生の悲惨さを忘れるために。笑いとは、そもそもかくもアンビバレンツなものなのだ

(評価 80点)

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 本作が公開されたのは、バブル真っ只中の1984年。当時、その世相を反映し、日本中のメディア、すべてが浮かれていた。中でも、もっとも賑やかな、その時代を象徴するようなテレビ番組があった。その番組こそ1981年から1989年まで長期にわたり放送され、バブル最盛期の代名詞的番組ともなった「オレたちひょうきん族」だ。明石家さんまビートたけしといった業界のビッグ2が殿堂入りするきっかけともなり、数々のお笑いスターたちが、レジェンドとして番組史に刻まれることになる、バラエティ史上、不世出の番組である。

 この「キング・オブ・コメディ」の公開当時、キネマ旬報誌上に、その番組の名物プロデューサーとしてセレブのような存在にすらなっていた横澤彪氏のレビューが掲載された。横澤氏は、そのレビューにこんな印象的なコメントを寄せていた。

 曰く、「明石家さんまビートたけしは言うに及ばず、番組制作で接するタレントたちは、みな常識的な人間だ。そもそも常識をわきまえていなければ、お笑いなど作れない」

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 そもそも、人は何故、笑うのか?常識的な事柄を、ただ常識的に喋るだけでは、人は笑わない。少なくともお笑いを生業とする人間は、常識と非常識の危ういボーダーラインを上手く渡り歩く必要がある。しかし、そのベクトルをほんの少し非常識に振りすぎるだけで、それは狂気の領域に突入する。

 本作の主人公ルパート・パプキン(ロバート・デ・ニーロ)も、いわば、その実に危ういボーダーラインを毎日、綱渡りしている男。ただ一つパプキンが違うのは、パプキンのすぐ隣に、まるで旧知の友人のように、妄想という隣人がピッタリと寄り添っていること。パプキンは、プロではない、お笑い界のキング、ジェリー・ラングフォード(ジェリー・ルイス)に憧れ、いつかセレブになることを夢見るアマチュアなのだ。

 しかし、そのジェリーに対する憧憬が、冒頭の段階からして、度を越しているのはすぐに分かる。楽屋裏でのどさくさに紛れ、ジェリーと言葉を交わしたことからパプキンは、自分にあたかもコネが出来たかのように思い込む。そして、そこからパプキンの妄想は暴走し始める。

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 本作でもっともユニークなのは、その妄想シーンの描き方だ。日常とまったく相反するはずの非日常の妄想が、本作では、まったく同じ位相に存在している。パプキンが一人で喋っていると思ったら、高級レストランでパプキンが、番組製作についてジェリーと親友のように会話しているシーンに、いつの間にかすり替わっている。さらには、一方的に恋愛感情を抱いているバーのウェイトレスと、ジエリーがホストを務める人気番組の中で、いつの間にかパプキンが結婚式を挙げているといった具合に、この映画を見ている人間は、ふと気付くとそのシーンが妄想に切り替わっているという、不思議な体験を何度も味わうことになる。

 エキセントリックなキャラクターの妄想を描いた映画は数あれど、妄想と日常が、これほどまでに緊密に寄り添って、同質のレベルで描かれた映画は、後にも先にも、本作を置いて他にはない。よくよく考えたら、これこそが本作の監督マーティン・スコセッシの本質のような気がするのだ。今や、業界屈指の巨匠となったスコセッシのその創作の根底に、貧弱だった自分へのコンプレックスがあるのは、そのフィルモグラフィを見れば誰でも見て取れる。

 そんなスコセッシが、「タクシー・ドライバー」でカンヌのグランプリに輝き、自身見事にセレブリティとなり、イザベラ・ロッセリーニという絶世の美女の妻までゲットして、「レイジング・ブル」のキャンペーンで、そのイザベラを従え、堂々、来日を果たしたことがあった。その時のインタビューでは、スコセッシが、業界の誰それのパーティに呼ばれたとか呼ばれないといったことをやたらと気にする一面を匂わせていた。

 どれだけ有名になっても、まだ満足できない。セレブを渇望してやまない飢餓感こそがスコセッシの本質といえる。だから、そのスコセッシの分身ともいえるデ・ニーロ演ずるパプキンの体質に、それが顕著に表れている。本作のテイストは、あくまでもコメディだが、パプキンの行動の節々には、サイコパスなカラーが、いつも滲み出ている。自室でたった一人、有名番組のホストになりきって悦に入るパプキン。自慢のデモ・テープを携え、持ち込みに行くが、ジェリーに会えず、ジェリーのアシスタントの女性に、どこまでも食い下がる。そのネジが徐々にハズれていく具合は、不気味ですらある。

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 スコセッシが、メディアと大衆、セレブとパラノイアというテーマを扱ったポール・D・ジマーマンの寓意に満ちた本作の脚本に出会ったのは、70年代のこと。その後、華々しいキャリアを歩み始めたものの、「レイジング・ブル」以降、スコセッシは完全なスランプに陥ることになる。その時、デ・ニーロに本作の脚本について言及されたことが、本作誕生のきっかけとなった。

 それもあってか、本作にはスコセッシならではの、あのダイナミックな躍動感に満ちた動くキャメラや、音楽の洪水といったトレードマークは敢えて封印されている。そのドラマを端的に描くだけで良しとする、スコセッシの割り切りが本作には感じられる。それでも、イントロのストップ・モーションから、レイ・チャールズが唄う「 COME RAIN OR COME SHINE」が流れ出す絶妙のタイミングでタイトルバックが始まる瞬間には、スコセッシの映画にしかない陶酔感がある。

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 ラストは、皮肉にもセレブになってパプキンが世間を見返す、完全な風刺としてエンディングとなるが、これを、自らのコンプレックスを脱し、スランプをも乗り切って、巨匠としての道を新たに歩み始めるスコセッシの、高らかな勝利宣言と見て取るのは、一生無名で終わるだけの、この負け犬だけなのでしょうかね~