負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

新木枯し紋次郎 第一話「霧雨に二度哭いた」 初回放送日1977年10月5日

 

新たなる紋次郎伝説のはじまり 

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<木枯しの音とともに再び現れた紋次郎が出合ったのは、旅に出たまま帰ってこない許嫁の相手をさがすお六という娘だった。助けを求めるお六に背を向けた紋次郎は、草鞋を脱いだ前沢一家で、お六と瓜二つの、親分の多兵衛の娘お七と出合う。二人は多兵衛の実の双子の娘だった。やがてお六が現在の育ての親とともに殺されたという報せが入り・・>

  市川崑劇場「木枯し紋次郎」が終了してから四年後、当時立ち上げたばかりのテレビ東京で、紋次郎復活の企画が持ち上がる。仕掛け人はテレビ東京を全面的にバックアップしていた電通だった。しかし、紋次郎といえば、中村敦夫なくして始まらない。オファーを受けた中村敦夫は、かつて市川崑の監修のもとで作り上げたシリーズと一線を画すものを創作すべく、企画の実現に向けて動き出す。かくして、1977年10月5日の夜9時というゴールデンタイムに鳴り物入りで始まった本作を見た視聴者はのっけから呆気に取られたのだった。

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 呆気に取られたのは、他でもない、そのタイトルバック。このタイトルバックを監督したのが、当時「HOUSEハウス」で劇場映画の監督デビューを果たし注目を集めていた大林宜彦だった。かくいうこの負け犬も、このタイトルバックを見た時は唖然とした。それは、市川崑劇場版の、あの美しくも鮮やかな日本の美しい風景を背景にした抒情溢れるタイトルバックとはあまりにもかけ離れた、人工的でアヴァンギャルドな代物だった。 

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 大林宜彦といえば、前身はCMディレクター。手掛けたCMも、合成を駆使した斬新なイメージで知られるところ、当然と言えば当然の成り行きではあったのだ。紋次郎の周囲で火山が噴火し、マグマが噴き上がる。モーゼの十戒の如く、割れた水面を歩く紋次郎の周囲で轟轟と滝が流れ落ちている。更には、紋次郎をアニメーション合成の蝶が取り巻き、ヒラヒラと飛び交う。そして極めつけは、紋次郎の背景にデンっと居座る花札の月、とここまでくれば、あっぱれともいわんばかりのイメージの破壊とでもいったらいのだろうか。

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 この数分足らずのタイトルバックの製作費は一千万。実にVシネマ一本分の製作費が投入された。市川崑劇場の大成功が、市川崑自身の監修によるタイトルバックに負うところが大きかったことを十分に意識したものだった。合成が多用される背景となる、紋次郎を含む実景パーツの撮影は妙義山山中で行われた。

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 かくして、装いも新たに開始された新シリーズの初回の監督を務めたのは、ロマンポルノ出身で、「八月の濡れた砂」など数々の青春映画で気を吐いた俊英、藤田敏八。大林宜彦とほぼ同世代にあたる、同監督がこだわったのは、現代劇で培ったドラマ部分のリアリズムであることは、本作を見れば一目瞭然。

 顕著なのが、室内シーン。ロケを多用した屋外シーンが斬新だった旧シリーズも、屋内シーンの演出はいたってオーソドックスなものだった。しかし、本作の場合、行燈一つの照明しかない空間を意識し、それらしく、可能な限り暗いライティングで撮影が行われている。そして、クライマックスでは。一転、マカロニウェスタンばりの派手な演出、とメリハリを付けた演出で初回を盛り上げている。

 かつてキー局のフジテレビとは異なる、テレビ東京という、屋台骨で開始された新シリーズ。スタッフにとっては、限られた予算と時間の制約という、もう一つの敵との新たな戦いがはじまることになるのだ。

負け犬の宇宙空間の頭脳戦「眼下の敵」

駆逐艦と潜水艦の一騎打ち、海上と水面下の両雄の頭脳戦は、宇宙での戦いの序章だった!(評価 74点)

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戦場での戦いは兵士たちの戦いでもあるのと同時に、それを指揮する指揮官同士の叡智を尽くした頭脳戦でもある。アスリートたちが戦士であるのと同様、戦争はいわば、そのアスリートの戦士たちを率いるチームリーダーが激闘するスポーツのバトルにも似ている。

 大阪生まれではないものの、この負け犬は、性根がすっかり浪速カラーに染まった関西人。その関西のTVのキー局の深夜帯で、あきれるくらいに繰り返し再放送され続けた番組があった。終わってもまたリフレインされて再放送が始まる、そのプログラムへの偏執的なこだわりようは、一部の関西人の間では、きっとTV局に、そのプログラムのマニアがいるに違いないと噂されるほどだった。

 その番組の名は「宇宙大作戦」。そう今では「スタートレック」として完全にフランチャイズと化して世界中にネットワークが出来上がっている、伝説のSF長寿シリーズのオリジンである。かくいうこの負け犬も恥ずかしながら、ファンのカテゴリーでいえば「スターウォーズ」よりは「スタートレック」。というより、あくまでもこの「宇宙大作戦」派で、このオリジンのシリーズに関しては、世にいう熱狂的なファンに属するトレッキーと言ってもいいほどの完全なミーハーだった(今でも負け犬のデスクの上には、F―Toyの初代エンタープライズのミニサイズのフィギュアがちゃんと飾ってある)。

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 数ある名作エピソードを多数擁する本シリーズだが、中でも屈指といわれる一品がある。敵対するロミュラン帝国のバトル・クルーザー、バード・オブ・プレイとカーク船長率いるエンタープライズが一騎打ちを繰り広げるエピソードだ。このエピソードでエンタープライズが対するクルーザーには、光のプリズムを利用した遮断装置、つまり透明化できる装置が備わっている。そのためエンタープライズは見えざる敵と戦うことになる。

 海上にいる船にとって、見えざる敵といえば、水面下を航行する潜水艦だ。お察しの通り、その宇宙大作戦のエピソードのいわば原形素材、モールドともなったのがこの映画「眼下の敵」だとトレッキーの間では長らく伝えられてきた。それもあって、長年興味があった本作を今回、ようやく見たのです。

 大西洋を航行中のバックレイ級護衛駆逐艦が遭遇したのは、ドイツ軍のIX型のUボート。かくしてバックレイを率いる艦長マレル(ロバート・ミッチャム)とシュトルベルク(クルト・ユルゲンス)が艦長の潜水艦との一対一の対決の火蓋が切って落とされる。

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 スタートレックエンタープライズ然り、本作の駆逐艦と潜水艦の決闘然り、指揮官がクルーを率いて動かず大型のこうしたビークル同士が戦うのに、そもそも人間がこんなにもワクワクさせられるのは何故なのか。おそらくお互いのビークルの中で、繰り広げられる人間同士の葛藤やドラマが同時進行する醍醐味があるからに違いないと思うのだが、どうなのでしょう。

 本作でも、艦長のマレルは新任して間がなく、最初はクルーたちから見くびられているという伏線が張られている。しかし、Uボートと遭遇するや、いち早く敵の次の一手を読んで、絶妙のタイミングで舵を切らせ、魚雷を回避することでクルーの信望を一気に得る。敵側のシュトルベルクも、ただのナチとは描かれない。ドイツ軍でありながらヒトラーを毛嫌いし、怯えてパニックに陥ったクルーには、厳格でありながらも優しく接してみせる。そんな二人が、将棋の一手を読み合うように、頭脳プレイを続けるうち、姿の見えないもの同士で友情が芽生えて行く王道の展開が心地いい。

 バックレイの絶え間ない機雷攻撃の前に、圧倒的な不利に甘んじていたシュトルベルクの最後の一手の魚雷の波状攻撃をくらい、バックレイも大破。浮上したUボートとバックレイの苛烈なラストバトルに、さすがのシュトルベルクも遂に降伏する。

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 現実の戦争は悲惨そのものだが、スペクタクルとゲーム性にベクトルを振った名作「大脱走」のように、本作における戦争は、あえてスポーツ的な側面にスポットを絞っている。それこそが、最後、ようやく本人と対面することになったマレルが、シュトルベルクにタバコを差し出し、煙をくゆらせるエンディングでカタルシスすら感じられる本作は、いわば「大脱走」のようなエンタメ系戦争映画の佳作といわれるゆえんなのだ。

 かえすがえすは、やっぱり「宇宙大作戦」。この「眼下の敵」で受け継がれた遺伝子は、二十数年後に劇場映画化された「スタートレックⅡカーンの逆襲」で、宇宙連邦の巡洋艦デファイアントを乗っ取ったカーンとカークのエンタープライズが相まみえる、宇宙連邦の巡洋艦同士が、チェスのゲームのような駆け引きを繰り広げる子供心をくすぐる興奮のシーンに再び結実することになるのだ(本作のUボートが最後に自爆攻撃を仕掛けるくだりが、この「カーンの逆襲」で自爆するデファイアントにそっくり引き継がれている)。

 しかし、いくつになってもあの「宇宙大作戦」はいいものです。「宇宙、そこは人類最後のフロンティア・・」のあの「宇宙大作戦」のナレーションを聞くとすっかり年を取ってしまった今でも体がジーンとしてくる負け犬なのですよね~

負け犬たちはアンリコの冒険者「死の翼アルバトロス」

空飛ぶ巨大艦船とアンティークな飛行機が繰り広げる空中戦。そしてデカパンとステテコ姿の痩せ男。さらには野郎どもで囲むすき焼き!宮崎駿が自分の愛するアイテムを全て詰め込んだ愛すべき傑作短編!

(評価 82点)

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旨そうなすき焼きのナベ談義から、一転スラップスティックな活劇と化し、そのままエンディングのカタルシスまで突っ走る!24分間足らずのこの至福。

 1971年10月24日、時間は、良い子がTVのブラウン管の前に集うゴールデンタイムの7時30分。その時、史上初めてオン・エアされた「ルパン三世」のタイトルバックを見た時のカミナリでも食らったような衝撃は、それから半世紀を過ぎた今でも体感として残っている。その日以降、翌年の3月まで、23回にわたって繰り広げられた、世にいうこの第一シリーズが打ち立てた数々のメモリアルの伝説を求め続けているのは、この負け犬だけではない。その証拠に、この21世紀の今に至ってもルパン三世とその仲間たちが織り成すストーリーは語られ続けているのだから。

 エコノミックな観点からいえば、すっかりフランチャイズと化して、マーケットが完成したキャラクターほど堅牢なものはこの世に無い。しかし、このルパンというキャラクターに、フランチャイズという機械的な言葉がどこか似つかわしくないヒューマニティーを感じるのはこの負け犬だけだろうか。

 とにかくほんの子供だったのに、ルパンと次元の二人を見て、つくづく思っていたのは、いい大人がいつまでもバカをやっていることの素晴らしさ。いってみればクダラナイことの美学とでもいえようか。超絶的なまでのクォリティーを誇ったこの第一シリーズも視聴率不振にあえいだのは有名な話。徹底したアダルト志向の初期エピソードから、視聴率回復の使命を課せられ、本格的に監修に加わったのが、当時、東映動画でそのバイタリティーを持て余していた若き宮崎駿だった。

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 その宮崎駿が加わり、更に倍加したテイストは、いい年こいた大人たちのバカ騒ぎだった。特にシリーズ最終回のエピソード「黄金の大勝負!」の日常感丸出しの東京の下町をフィアットが走り回り、アパートの部屋に突っ込んで駆け抜けるスラップスティック。そのドタバタと対を成すような、銭形とともにこのままアメリカまで泳いで逃げてやると軽口をたたきながら海の彼方に消えていくルパンたちが醸し出す哀愁。その時のバカ騒ぎが終った、祭りの後のような寂しさと憂愁感は、何だか未だに引きずっているような気すらする。

 その憂愁感を引きずりつつ、負け犬も映画遍歴を重ねて行くうち、ルパンと次元というこの二人のキャラクターたちから想起して、定着したイメージ・キャラクターがいる。ロベール・アンリコの傑作青春映画「冒険者たち」のマヌー(アラン・ドロン)とローラン(リノ・ヴァンチュラ)の二人のコンビだ。中年の自動車技師のローランとパイロットのマヌー。いつまでも大人になりきれず夢ばかり追いかけているこの二人が、いつのまにかこの負け犬にとってはルパンと次元という大人子供のキャラクターたちとピッタリ重なる存在になっていたのだった。そして、当然の如く夢見るのは、そのキャラクターたちとの再会だった。

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 だから、5年ものブランクを経て1977年に新たにルパンが始まった時は、胸を躍らせて、ほんの幼児の頃だった自分のようにブラウン管の前に鎮座したものだった。ところが、目の前にいたルパンは、かつてのアダルトな危ういテイストなど微塵もなく、大人子供たちのバカ騒ぎの哀愁も、そこはかとないダンディズムも見事なほどに消え去った、完全に低年齢層を意識したカトゥーンでしかなかった。当然、そのオートメーションによって量産される類型的なアニメと化した代物には馴染めるはずもなく、失意のままいつしか全く見なくなったのだった。しかし、番組のコンセプトとしては成功した。ルパンというキャラクターはこの第二シリーズのおかげで、かつてとは比べようもない位のポピュラリティを獲得し、アニメは長期間続くことになる。だが、自分の中でほぼそのTVシリーズの存在など忘れ去っていた頃、たまたま気まぐれに見る気になってチャンネルを合わせた時に放映されていたのがこの「死の翼アルバトロス」だったのだ。

 その時、他のエピソードとは比べ物にならない、あまりのクォリティーの高さに完全に度肝を抜かれたのだった。その後、クラスの友人から、そのエピソードを別名で監督したのが宮崎駿その人で会ったことを知らされる(言われなくても絵柄だけで一目瞭然ではあったのだが)。そして、その時の衝撃からはやン十年もの月日が経ち、急に見たくなって再び見たのが本作。

 いや~、そのリズム、そのテンポ、気の利いたセリフがぎっしり満載されたシャレたテイスト、そしてダイナミスムに満ちたその動き。何もかもが、もう全て素晴らしい。その素晴らしさは、見ているうちに涙がこみあげて来たほど。本作のルパンを見ていると、宮崎駿が嬉々として絵コンテを切るエンピツを走らせていたであろう、その創作の喜びが見事にこちらにまで伝わって来る。

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 今や、世界の巨匠となった宮崎駿。しかし、本作をみていると何だかそのことが一つの不幸だったようにも思えて来る。だって、これほどの巨匠になってしまったら、もう、すき焼きにビールを隠し味に入れるとか入れないとか、バカな中年男がステテコ姿で走り回るアニメなんて作れないですもんね。でも、この宮崎駿という人の本質って、やっぱりこのルパンのいい年こいた大人たちが、いつまでもバカ騒ぎをやっている、ファンキーだけど、どこか哀切に満ちたテイストだと思うのです。

 何だか都市伝説にもなってしまっているような、現在、製作中らしき引退作には、そんなテイストは到底、期待出来ないのでしょうね~

 

 

負け犬のエリートたちへのいやがらせ「キラー・エリート」

これは、負け犬監督が、映画会社への当てつけに嫌がらせ目的で作った映画とでも言えばいいのだろうか?

(評価 40点)

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シリアスな出だしから、ド派手な破壊工作。そして、裏切りのエスピオナージ。しかし、戦う相手は何故かニンジャ?サム・ペキンパーの薄ら笑いが聞こえるような奇怪な作品。

 2020年は記念すべき年だった。NASAではなく民間の航空会社スペースXの宇宙ロケットが国際宇宙ステーションとのドッキングを果し、オフィシャルではなく,プライベートの分野の人間たちが宇宙に乗り出した宇宙元年とでも言うべき年だったのだ。その宇宙船の名はクルー・ドラゴン。

 宇宙開拓のパイオニアに民間があるなら、諜報機関にもCIAだけでなく民間の機関があっても何も不思議はない。というわけで本作は、その民間の諜報機関の存在を意味深に匂わすインタビューのキャプションが表示されるシリアスなタッチで幕を開ける。そして、物々しく表示される監督のクレジット名は、あのバイオレンスの巨匠サム・ペキンパー

 ヒット作も少なく、トラブルメーカーとされながらも、そのネームバリューがプロデユーサーに重宝される監督というものはいるもので、サム・ペキンパーは、そんな監督の一人だったといえる。とにかくペキンパーは何かと話題になった作品の監督候補に名を連ねることが多かったのだ。一番、有名なのは、最終的にリチャード・ドナーが監督したあの「スーパーマン」。実はあの監督候補にもペキンパーの名が挙がっていた。

 本作が製作された1975年といえば、大成功した「ゲッタウェイ」以降、ペキンパーが停滞期にあった頃、諜報機関が暗躍するアクションものということで、そのネームバリュー目当てにペキンパーに白羽の矢が立ったのは何となく推察出来る。

 しかし、本作を見る限り、とてもペキンパーがこの企画に乗り気になって作っているとは到底思えない代物なのだ。

 出だしは、コムテグなる、どうやら民間の対テロ組織のような面々によるド派手なビル爆破の破壊工作で始まって、映画のテイストはいたってポジティブなのだ。ところが、その後の肝心の主役のマイク(ジェームズ・カーン)とハンセン(ロバート・デュバル)の会話の調子からして何かがオカしい。直後、女たちがオッパイ丸出しのハーレムのようなクラブで二人がくつろぐ描写の後、次のミッションへと向かうが、その車の中で延々と下ネタで盛り上がるマイクとハンセンの会話が続く。だが、その時のバカ笑いがあまりにも過剰で、二人とも何かへの当てつけのように異様なほどに笑うのだ。

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 目的地に着くとハンセンの裏切りで重傷を負ったマイクがリハビリし、ハンセンへの復讐も兼ねた次なるミッションとなるが、そこで出てくるのが、いかにも場違いなカラテ。これを見ると誰でもピンとくるだろう。75年といえば、前年の「燃えよドラゴン」の影響で世界中に、我こそが次代のブルース・リーとばかりに雨後のタケノコが如く似非ドラゴンたちが、ウジャウジャと溢れ出していた年でもある。この点、プロデューサーが製作サイドに入れ知恵を働かせたと感じるのはこの負け犬だけではないはずだ。ところが、シリアスな導入部とは、まるで場違いなこのトーンの変化はただの序章に過ぎず、クライマックスで襲ってくる敵は何と忍者なのだ。パロディにも何にもなっていない、この取り合わせに、誰もが抱くのが、明らかなやる気のなさとやっつけ感だ。クライマックスの舞台の艦船の甲板上で、夜店の露店の射的のように、ただ撃たれるだけのために襲ってくる忍者たち。もんどり打って忍者が海へと落ちて行く、その瞬間だけペキンパーのトレードマークのスローモーションが顔見世程度に使われる。

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 何だか、プロデューサーに色目を使って、お義理でスローモーション使っておこう、みたいなこのいい加減さ!だが、監督は仮にもあの巨匠ペキンパー。ペキンパーほどの監督が、こんなやっつけ仕事やってもいいのだろうか?とすれば思い起こすのは、冒頭のあのマイクとハンセンのバカ笑い。デビュー当時から映画会社と対立し続けて来た破滅的な性格のペキンパーが、いよいよすべてに幻滅し、ハリウッドも、それを牛耳るエグゼクティブのエリートたちをもバカにして笑い飛ばす、これはいわば当てつけ映画とも言えないだろうか。

 一途に作った結果。ポンコツになってしまった映画には愛着が湧くけれど、初めからやる気がなくて、意図して作ったポンコツ映画に愛着なんて湧きようがないですもんね~

負け犬の残念キャラ大賞NO1「コンスタンティン」

やさぐれ霊媒師が悪魔と壮絶なバトルを繰り広げるがはずが、見事にずっこけた問題作。

(評価 50点) 

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悪魔祓いを生業とする、余命いくばくもないオカルト探偵が、人間界に乗り込む悪魔軍団を迎え撃つ。こんな中二病をくすぐる設定に総製作費は1億ドル、とくれば誰もが面白くなると思うはず。ところが本作は、面白くなるあらゆるツボを至る所で外しまくる。見事なほどに外しまくるそのスタンスは観客に喧嘩でも売っているのだろうか?

 アメコミでも、マイナーなホラー系、そこは有象無象のキャラクターたちがひしめく魑魅魍魎としたアンダー・ワールドだ。版元は大手のDCだが、サブカルテイスト濃厚なホラーコミック「ヘルブレイザー」でデビューしたコンスタンティンというキャラクターは、そんなマイナー・ヒーローの一人だった。

 10代の頃に自殺を図り、この世とあの世の境界を彷徨ったことをきっかけに、特殊能力を有するようになり、今ではその能力を糧に探偵業を営む男。その業務内容は、害虫駆除ならぬ悪霊の駆除、コンスタンティンは、常にタバコを手放さないヘビー・スモーカーのやさぐれエクソシストなのだ。そして、このコンスタンティンに扮するのが、「マトリックス」のネオならぬキアヌ・リーブスとくれば誰でも身を乗り出すはず。この負け犬も期待しつつ意気揚々と見始めたのだが・・

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 紛争地帯の中東で、悪霊が復活した物々しいプロローグから始まる本作。いきなり車で乗り付け、颯爽と現れたコンスタンティンキアヌ・リーブス)が踏み込むのは、マイノリティーのアジア系住民が暮らすアパート。不安におびえる住民たちを尻目に、ズカズカと入ったその部屋には、どうやらたちの悪い悪霊に取りつかれた少女がいて、コンスタンティンは早速、鏡を使ったド派手なエクソシスト・バトルを繰り広げる。

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 いたって快調なこの出だしにテンションも高まるが、実はそのテンションもイントロのそのレベルがMAXで、そこからUPするはずのテンションがこの映画では、ドンドン下降線を辿っていくのだ。女刑事のアンジェラとイザベルの双子の姉妹と出会ったコンスタンティンは、悪魔が人間界への侵攻を企んでいることを知り、サイドキックのアシスタント、チャズ(シャイア・ラブーフ)と共に悪魔とのバトルに巻き込まれていく。

 カソリックや宗教に関する様々なキーワード、宗教的なゴシックテイスト満載のガジェット。天使と悪魔の二つの血縁を持つハーフブリード。そして天使のガブリエル(ティルダ・スウィントン)といったキャラクターに至るまで、映画の魅力を高めるためのマクガフィンには事欠かない。それなのに本作のスクリプトには、そもそもクライマックスに向けてヒートアップしなければならない、肝心の構成が欠けている。総じて、いたって平板なのだ。

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 肺ガンに侵され余命いくばくもないコンスタンティンは本編を通じ、スパスパ煙草を吸い続ける。そのやさぐれたハードボイルドなスタイルは、ヒーローとしては目新しさもある。しかし、その設定も効果的に生かされているとは言い難い。

 そして、誰もが呆然とするのがそのクライマックス。いよいよコンスタンティンの目の前に姿を現わした魔王。誰もが この魔王にビジュアルセンスを駆使したルックスを期待するはず。ところが、この魔王、ただの白いスーツを着たおっさんなのだ。しかし、相手がただのおっさんにせよ、コンスタンティンがあの「マトリックス」のエージェント・スミスとのバトル並みの見せ場を繰り広げてくれたら、せめて溜飲は下がる。しかし、それすらない。ただ何となくクライマックスがカタルシス無きまま終わってしまう。結局、後に呆然と取り残されるのは観客だけなのだ。

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 キャラクターそのものも実に魅力的、そしてそれを彩る世界観も魅力的。それなのに肝心の本編に何の魅力もない本作。MTV出身でこれがデビュー作となったフランシス・ローレンスも出来栄えに未練があるのか、コンスタンティンのリブートにこだわり、そして、またキアヌ・リーブス本人もこのキャラクターに愛着があるらしく、ずっと参画にはポジィティブなスタンスだったようです。

 他でもないこの負け犬も、このキャラクターは、リブート・リクエストNO1との思いがある(あのギレルモ・デル・トロが興味を示してくれたら嬉しいのだが・・)。「マトリックス」の4作目が実現する今だからこそ、何とかキアヌの旬が萎えないうちに実現して欲しいものですよね~

負け犬の超新星のビッグバン・セオリー「激突!」

どんなに才能に溢れた人間でも、一生のうちに一度しか出来ない離れ業がある。スピルバーグという天才の人生における離れ業がまさにこの作品だった。

(評価 95点)

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超新星ともいうべき才能が、映画の世界に起こしたビッグバンの輝きは今も百万光年の彼方まで輝き続けている。

 「Amblin」という短編映画が認められ、映画業界に雇われ監督の一人としてもぐりこんだ神童がいた。1971年のある日のこと、当時の神童の秘書だったノーラ・タイソンという女性が、あなたにピッタリの素材があるわ、と恥ずかしげに一冊の雑誌を差し出した。男性誌として有名な「Playboy」に掲載されていた短編小説を読んだ神童は、これぞ自分にピッタリだ、とばかりに膝を打った。そして、その瞬間こそが、とてつもない伝説の始まりだった。その神童の名はスティーヴン・スピルバーグ

 その後に神童がたどった歩みなど誰でも知っている。神童は、たちまち天才というレーベルを授かり、映画業界で不動の地位を築き上げながら、半世紀過ぎようとする今でも、映画小僧のように精力的に映画を作っている。しかし、そんな天才でももう二度と出来ないことがある。恐れ知らずの若かりし頃に起こしてのけたビッグバンの大爆発だ。

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 本作を初めて見たのは小学生の頃。カー・アクションと爆発のシーンさえあれば満足の鼻たれ小僧の頃だった。そんな小僧が、いわば最初から最後まで丸ごとカー・アクションの本作に興奮しないわけがない。そして、それから何十年間、この「激突!」を見続けている。それなのに今でも見るたびに微塵も冷めやらない興奮を覚えるうちに、本作に畏敬の念まで覚えてきた。かつてマンガ家の手塚治虫が、クリエイターはもっともシンプルな設定の作品をどこかで求め続けている、その点「激突!」はクリエイターの究極の夢のような作品だと称していた。

 ただ獰猛なトラックと乗用車が、原始時代のマンモスと人間のケンカよろしく一本道を追っかけっこするだけの単純な設定の傑作映画が誕生するビッグバンが起きた時に、宇宙では、一体何が起こっていたのだろうか。

 TVドラマの監督というポストにウンザリしていたスピルバーグは本作を、TVムービーではなく、是非、劇場用の映画にということで、当時の重役のシド・シャインバーグに売り込みを仕掛ける。シャインバーグがその交換条件に提示したのは、主役の小市民的キャラクターの代表のようなデビッド・マンに大スターの出演を取り付けること、というものだった。しかし、スピルバーグは、シャインバーグがその時、名指ししたグレゴリー・ペックの獲得に失敗し、劇場用映画の監督の夢はたちまち頓挫。企画そのものがABCの副社長バリー・ディラーの元に戻されるが、企画のドラマ化自体は即決し、スピルバーグの演出手腕を見込んでいたプロデューサーのジョージ・エクスタインによってスピルバーグを監督に据えることも認められる。

 こうして、本作の製作は、スタッフ・プロデューサーにエクスタインを配し、30万ドルの予算でスタートする。主役として、スタジオからお仕着せのようにあてがわれたセカンド・クラスの俳優デニス・ウィーバーにもスピルバーグは満足していた。オーソン・ウェルズの「黒い罠」に端役として出ていたウィーバーのニューロティックな演技が、本作のメソッドにピッタリだという目算があったからだった。

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 ただし、与えられた撮影期間は、わずか10日。失敗が許されない状況なら、取るべき手段は自ずと決まっている。スタジオに車のパーツを持ち込み、車内はセットで撮影し、背景はスクリーンプロセスで合成する。そうすればスケジュール上の制約は何とかクリア出来る。しかし、神童は、とんでもないプランを選択する。全編オールロケーションだ。屋外ロケだと、時間的な手間も、撮影に関する技術的な難しさも比べ物にならないくらい倍増する。しかし、スピルバーグは敢えてこの壁に挑戦するのだ。

 ロケは主にロサンゼルス北部のモハベ砂漠とも隣接する、ランカスターとパームデール近辺で行われた。スピルバーグはベテランのスタント・ドライバーの助けも得て、たった10日という撮影を効率的に行う手段として、ストーリー・ボードと共に、俯瞰で全ての車の移動とプロットの流れを見渡せる巨大な一枚もののマップ図を考案する。モーテルの壁に貼ったこのマップ図によって、スピルバーグは10日という殺人的なスケジュールの消化を、その若さと知恵で乗り切った。その情熱の爆発は、まさにビッグバンそのものだった。しかし、そのビッグバンには、こうした緻密で周到な計算もあったのだ。

 かくして、ラッシュ試写のフィルム手配の都合で、最終的にはスケジュールは3日だけ超過したが、撮影が終わった3週間後に無事オン・エアされ、作品はTVだけにとどまらず大スクリーンにまで飛び火することになるのだ。

 今見てもこの超絶的な傑作たる本作が、わずか13日という撮影期間で撮られた作品だとはとても思えない。まさに神業だ。何故なら、スピルバーグ本人もDVDのコメンタリーでそれは認めている。

 そして、もう一つ、スピルバーグは素敵なコメントを寄せている。

 「あんな映画を、たった13日で撮りあげるなんて、もう二度と出来ない。でも、今の僕は、新しい家族も友人もいる。そのおかげで「シンドラーのリスト」や「プライベート・ライアン」を作ることが出来ている」

 そう、人間は年を取るごとに変わっていく。クリエイターも作品と共に変わっていく。スピルバーグの映画作りに対する真摯な姿勢がうかがえる、素敵な言葉だと思うのですよね~

負け犬もサイコも同じデ・パルマニア「アメリカン・サイコ」

80年代バブルという時代が生み出した一人のヤッピーの狂った日常を描くハイパー・テンション・ホラー・コメディの佳作

(評価 74点)

 

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すさまじい情報の洪水で一人の人間の病理を描いた傑作文学の映画化は、実にあっけらかんとしたポップ・ホラーだった。

People are afraid to merge on freeways in Los Angeles.

(誰もが怯えるものらしい、ロスのハイウェイで合流する時って・・)

 今は、すっかり死語と化したが、かつてジェネレーションXという言葉があった。60年代中期~70年代前半にかけて生まれ、経済成長の恩恵を一身に授かった富裕層の二世にあたる世代のことだ。そのジェネレーションXの中でずば抜けた感性で文壇にデビューし、一世を風靡した作家こそ「アメリカン・サイコ」の原作者、ブレット・イーストン・エリスだった。冒頭はそのエリスの大ベストセラーとなったデビュー作「レス・ザン・ゼロ」の最初の一文だ。

 この書き出しのたった一行の文章だけでも、エリスの感性が並々ならぬことを感じていただけるのではないでしょうか。実際、この負け犬もその文章に衝撃を受け、原書まで買って、今でも座右の書のようにして、その原文の素晴らしさを堪能している。

 エリスの世界の魅力とは、まさにその何不自由ない若者ならではのアンニュイな倦怠感と、あらゆるメディアの洗礼を受けて研ぎ澄まされた、剥き出しでありながらも、洗練されつくした感性に他ならない。実際、今でもエリスの文章を読むたびに、鮮やかに浮かび上がってくる映像と、MTV的とも評されたポップそのもののリズミカルな文体、そして、とても二十歳そこそこの若者が書いたとは思えない文学的な深さにも驚嘆してしまうのだ。そのエリスがバブルの絶頂期に発表したのが「アメリカン・サイコ」だった。

 この「アメリカン・サイコ」も小川高義氏による翻訳版の文庫本は刊行早々、読んでぶっ飛んだ。最初の一ページ目から、びっしりと紙面を埋め尽くす、世相に対するどうでもいいような戯言。そして、ブランド品に対するムダ話、果ては、延々と続く電化製品の機能や、内部構造の説明に至るまで。冒頭だけではない、最後の一ページまで本書はそうしたムダな情報のただの集積といっていい。そして、その情報に交じってこともなげに、ただの何でもないトピックのようにインサートされる、主人公ベイトマンによる残虐無比な人体破壊描写。主人公ベイトマンは、人間ではない。怪物であり、まぎれもなく病理だ。病理たる一人の人間を、徹底的に無駄な事柄で紙面をびっしりと埋め尽くすという方法論で描いた本書は、バブル期の社会全体を風刺するサタイアといってもいい。しかし、無機質に記述されたその文章の魅力は、やっぱり健在で、本書も翻訳だけでは飽き足りず、原書のソフトカバーを買って、今も時々、読んでいるほど好きな作品だ。

 だから、原作に対するそんな思い入れもあって、映画版の「アメリカン・サイコ」を見るのは、長い間、二の足を踏んでいた。でも、思い直してようやく手に取って、物は試しにというつもり程度で見たのだった。結果、そんなに悪くないどころか、結構、イカす作品だったのだ。

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 本作の監督メアリー・ハロンの、この曰く付きの原作に対するアプローチのメソッドは実に単純だ。原作のトピックを順番に配置して、後はヒューイ・ルイス&ザ・ニュースやフィル・コリンズなどのエイティーズのポップスをふんだんに散りばめる。言ってみれば、ただそれだけ、でも、その簡素なアプローチが功を奏し本作はライト・テイストでポップな、ホラー・コメディとでもいうべき作品になっている。

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 原作の最大の特徴の膨大な蘊蓄は、モノローグで簡潔に処理し、ムダ話が延々続く会話は適度に切り詰める。通りすがりにホームレスにナイフをぞんざいに突き刺す、同僚のポール・アレンを斧で殺害する。更にはコール・ガールをチェーン・ソーの餌食にするなど、勿論、要ともいうべきスプラッターにも事欠かないが、比較的控え目だ。また、原作にもある、ボディバッグに入れた死体を、そのまま悠然と引き摺って歩いたり、ヘリが飛び交いパトカーまで爆発する、警官と派手な銃撃戦を繰り広げたりしても一向に捕まりもしないシーンを描くことでシュールなテイストを表現することにも成功している。

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 ただ、一つ残念だったのは、原作でもっとも好きな箇所、主人公のパトリック・ベイトマンクリスチャン・ベール)が行きつけのレンタル・ビデオ店に立ち寄り、ビデオを借りるシーンが無かったこと。実はこのベイトマン、原作では、あのブライアン・デ・パルマのフィルモグラフィの中でも駄作として名高い「ボディ・ダブル」の熱狂的なファンなのだ。中でもその作中のメイン・イベント、電動ドリルで女が殺害されるシーンの偏執的なマニアで、店内でもそのシーンを夢想しながら、ビデオを借りるのだが、何とこのベイトマン、もう37回もそのビデオを借りている。同じデ・パルマ好きとしては、その「ボディ・ダブル」のクリップも交えてのスプラッターも見たかったところ(作中では「ボディ・ダブル」の代わりに、エクササイズするベイトマンが見ているモニターに、あのトビー・フーパーの「悪魔のいけにえ」が映るシーンが出てきます)。

 しかし、37回も借りるぐらいなら、ソフト買った方がよっぽど早いのに・・と思うのはこの負け犬だけではないでしょうね~