「サムライ」と双璧を成すメルビル・ノワールの最高傑作
(評価 82点)
ジャン=ピエール・メルビルの遺作にして、その生涯の最高傑作。まるでつながりのなかった男たちが運命の赤い糸で結ばれ滅びゆく、メルビル・ノワールの真髄に心ゆくまで酔いしれろ!
映画には、ジャンルというものが存在する。たとえばSFやウェスタン、ホラーにアクション、コメディだ。ところが林立するそのジャンルに新たなジャンルを確立させたエポック・メイキングなパイオニアというものが映画史には、その折々で出現する。フィルム・ノワールというジャンルそのものは、4,50年代から存在した。しかし、フィルム・ノワールというジャンル自体を体現する人物といえば、ジャン=ピエール・メルビルを置いて他にはいないのではなかろうか。
メルビル・ノワールとしてもっともポピュラーな「サムライ」は、アラン・ドロンの代表作であり、TVでも何度も放送されていたこともあって勿論、見ていた。しかし、もう一つの代表作として名高かった本作は、何故か見ないまま年月が過ぎていた。本作をようやく見たのも実は最近のこと。そしてそのあまりの傑作ぶりに驚嘆したのだった。
イントロの仏教に関する言及に、本作のテーマは明言されている。それが運命の赤い糸ならぬ赤い輪だ。冒頭、護送中に列車から逃走を果たしたヴォージェル(ジャン・マリア・ヴォロンテ)。前科者のコレー(アラン・ドロン)、元警官で今は落ちぶれたアル中のジャンセン(イブ・モンタン)、更には、天敵の警部のマッティ(ブールヴィル)までが、運命によって結ばれ、輪を成し、回転していく事の次第が描かれる。
一つの輪を成す四人のカラーや人となりは、さまざまだ。見る人によって、また見るときの心情によって誰にシンパシーを抱くか移り変わりするところも本作の魅力の一つ。でも、負け犬がいつも魅力を感じるのはイブ・モンタンが演ずるジャンセン。このアル中のジャンセンの登場シーンは、その禁断症状のシーンからいきなり始まる。ベッドに横たわるジャンセンの周りにネズミやトカゲ、それに甲殻類の生き物や、ヘビといったグロテスクな生き物が、這いずり回る実景が、そのまま禁断症状の妄想シーンとして映し出されるアナログなシークェンスは今でも斬新かつ衝撃的。
ジャンセンにはアル中になって落ちぶれた今でも、射撃の名手としてのプライドがある。クライマックスでの、コレーに誘われた宝石店の強奪シーンでも、そのプライドから、命中が保証される台座に固定させていたライフルをいきなり外して、唖然とするコレーとヴォージェルをよそに、肩に台尻をかけるオーソドックスな射撃スタイルで見事に、警報装置を解除させるスィッチに弾丸を的中させるシーンは、何度見ても惚れ惚れする。
キャラクターを際立たせるためのシーンは、悪党側だけではない。警部のマッティもコレーのような根っからの犯罪者を追い込むことだけに、その人生を費やしてきただけの孤独な男なのだ。その生活ぶりを、帰宅し飼っているネコにミルクを与える全く同じシーンを、反復して繰り返すという意表をつくような手法で端的に表現してみせるメルビルの手腕には誰もが驚くに違いない。
そしてノワールの最大の魅力といえば、その映画のルックスを成す、キャメラ。フランス映画界の至宝アンリ・ドカエによる、青を基調とした凛として冷え切った空気感を表現したそのキャメラの美しさは、一度見たら誰でも忘れられなくなるのではないでしょうか。
そんなキャメラのムードたっぷりの映画の中で、やはり最大の魅力を発揮するのがコレーを演ずるアラン・ドロンだ。あの「サムライ」同様、表情一つ変えず、犯罪の世界の中だけで生きてきた男をさりげなく体現して見せるドロンのパフォーマンスは見事の一言。
コートのポケットに手を突っ込んでただ歩くその仕草、ダイナーに立ち寄り、ランチを食べる何でもないその立ち居振る舞い。その一挙手一投足にため息すら漏れるほど。
かくして今やノワールの偉大な遺産ともいうべき作品となっている本作だが、ただ一つ気になるのがタイトル。そのものズバリの原題の「赤い輪」が、ドロンの「サムライ」のジャパニーズ・テイストのタイトルを意識して「仁義」となった。
仁義といえば親分、兄弟分の任侠の世界をシンボリックに示す言葉。本作での悪党のトリオの結びつきは、任侠というよりは、あくまでも運命なのだ。だからといって原題通りの「赤い輪」や「運命」ではノワールではなくなってしまう。「仁義」というタイトル、的外れではあるけれど、これはこれで大正解なんでしょうね~