負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬はショッピングセンターを目指す「ゾンビ(全長版)」

ゾンビたちもショッピングセンターでソーシャルディスタンスをとっているのに感心した

(評価 78点)

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年明け早々、ゾンビかよ!

新年早々、すっかり巣ごもってじっくり見たくなるのは箱根駅伝ならぬ、やっぱりゾンビだね、ということで偉大なるジョージ・A・ロメロの最高傑作「ゾンビ」。本作が日本で公開された当時、この映画の作品的価値を論じるような風潮はどこにもなかった。かくいう自分も、新聞広告やSF雑誌の「スターログ」に載っていたナタを頭に突き立てられた男の写真を見るにつけ、またグロだけが売り物のキワモノ映画の一本がやってきた位にしか思わなかった。ただ、そのグロ度の段違いのポテンシャルの高さだけは種々の広告から充分にうかがいしれた。

 当時からもう十分に負け犬的なヘタレだった自分は、その手のグロ映画が大の苦手で、この広告やスチル写真にすら目を背けるほどだった。ところが、同じクラスの奴らにはこの映画をわざわざ映画館に見に行った猛者もいた。その翌日、そいつらが憔悴しきったような青い顔して「映画館を出たら、皆がゾンビに見えた~」と絞り出すような声で言ったのを聞き、こちらまで震え上ったのを今でも覚えている。

 それから、この映画は自分の中で忌まわしい作品として半ば封印同然の扱いだったのだ。初めて見ることになったのが、確かサン・テレビの「木曜映画劇場」だった。本作のオリジナルのランニングタイムは115分、2時間の放送枠だから90分程に刈り込まれ、テレビだから過度にグロなシーンもカットされたバージョンだった(それでもオープニングのアパートでのSWATとゾンビ化した住民たちとのグロい攻防シーンには悶絶したが)。

 ただ、逆にそのおかげでグロよりもドラマ構成が引き立つ結果となって、あれ程、忌み嫌っていたはずの本作のはずなのに、スゲ~面白エ~となってしまったのだった。

 結局、一番、インパクトがあったのがその展開の図式。ぶっきらぼうなほど唐突に始まったゾンビ・パンデミックからSWATの登場、そしてショッピングセンターに辿り着いてのスリリングな籠城、だが、やがてゾンビならぬ暴走族の群れが乱入しての闘争の末の絶望感を漂わせたエンディングと、こちらの意識に確実に終末観が刻み込まれる構成が実に巧みに感じられた。

 かくして、年を経ることにゾンビ映画の金字塔的な地位にのぼりつめていく本作だが、つい最近、2時間20分の全長版を見ることが出来た。

 本作の成功のポイントがショッピングセンターを舞台にチョイスしたことは、誰の目にも明らかでしょう。そうしたことで自ずから、ゾンビという存在がただのB級的モンスターではなく人間の物質文明に対する一つの分かりやすい批判的なメタファーにもなり得たわけで、この全長版は、ゾンビそのものの登場時間はほぼ変わらずに、必然的にというか、そのショッピングセンターのシーンが長くなっている。

 それで退屈になったか、というと全然、そんなことはない。逆にこの全長版の方が、ショッピングセンターで有り余るほどのモノに囲まれ、何不自由なく暮らしながらも、つのる倦怠感や憂鬱がストレートに伝わって、この映画がただのホラーなどではなくて、秀逸なサタイア(風刺)であることを十分なほどに実感出来るのです。

 最初は四人いた彼らが、ロジャーがゾンビ化し、たった3人だけとなる。そんな3人が着飾って豪華なディナーをたしなむシーンの空虚さ。子供を身ごもったフランシーンとスティーブンとのフラストレーションも募る、その倦怠感にまるで終止符を打つかのように現れる暴走族の群れ。

 今やすっかりコロナの時代と化したこの現代、そんな今だからこそこの映画で描かれる孤立や孤絶といった巣ごもり的な閉塞の不安感にハートを射抜かれる人も多いのではないのでしょうかね~(単純にバトルアクションホラーとして見ても申し分なく面白いわけだからお釣りもきますし)