負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬のたかが映画されど映画、しかし、この映画こそ人生に必要な最高の映画「スーパーの女」

見れば元気になる!見れば勇気が出る!見れば生きる希望すら湧いてくる!そして、スーパーに買い物に行きたくなる!これぞ心のビタミン剤!

(評価 90点)

 

生きるために欠かせない場所

 人間が生きるために無くてはならない場所とは何処だろう?この問いかけだけには今なら自信を持って言えるのです。それはスーパーマーケット。当たり前の話、人間は生きるために食べなければならない。野菜を、そして肉を食わねばならない。となれば農耕生活などとは無縁な現代人、その糧を手に入れるための場所と言えばスーパーしかない!

 本作は才人、伊丹十三監督が、とある弱小スーパーを舞台に、一人の主婦が、そのスーパーを立派なスーパーに再生してみせるまでを描く、実にウェルメイドで素晴らしいコメディ映画。

 コメディ映画と言えば、ただのプログラムピクチャーのような印象を持たれるかもしれないが、本作はただ、それどころの話ではない。見るたびに感激し、考えさせられ、その上、生きる勇気すら湧いてくる、疲れた心へのカンフル剤のような素敵な映画なのだ。

 

最高に素敵な映画

 とはいえ本作、そのスタイルは絵に画いたようなプログラムピクチャーと言っていい。まず主人公たちの登場シーンからして完全に意識してそのスタイルを踏襲しているのが分かる。

夫に先立たれた主婦の井上花子(宮本信子)、そして同じく妻に先立たれた弱小スーパーの社長の五郎(津川雅彦)の二人が、新装開店の悪徳スーパー、安売り大魔王の安売りセールの現場でばったりと出会う。出会い頭、小学校時代の同級生の二人が思わず踊り出す。このテイストはまさに昔の松竹喜劇のテイストそのもの。

 しかし、才人、伊丹十三監督の手にかかれば、オールドスタイルそのままに、現代的な素敵なお仕事映画に大変身していくのが、実に見所。

 ストーリーはオーソドックスそのもの。スーパーにやたらと詳しい花子が、その見識眼を見込まれ、弱小スーパーの販売主任に就任し、はりきって乗り出す数々の改善。実はこのくだり、勿論、原作からの持ち出しのトピックではあるのだろうけれど、意外と感心させられるポイントに満ちている。

 たとえば、実に当たり前のこと。花子は、たまたま再開した回転寿司のカウンターで、とくとくとスーパーとはそもそもお客様、その中の主婦たちを迎え入れる場所だと五郎に説く。だから、スーパーの顔たる野菜がいつもスーパーの決まって入口付近に置いてある。成程、そう言われてみればそうだ、と思った瞬間、伊丹監督の術中にはまっている。

 売れ残った白菜を何とか売るにはどうするか?朝一番の開店の時から、既に値下げの札を貼っておけばいい、競争相手のスーパーの品ぞろえの時間が遅いと見れば、仕入れの時間を早めておけば競争相手に勝てる。こんな具合に繰り出される蘊蓄に感心しているうちに、すっかりキャラクターたちを好きになっている自分に気付く。

 そして、また本作は、花子と五郎という中高年の熟年者同士の素敵な恋物語にもなっている。やがて、キャラクターたちの奮闘に一喜一憂するうちに、笑いながら、泣いている自分に気付くことになる。

 

最高のセリフ

 いい映画には、必ず決まっていいセリフがある。本作にも忘れられない素敵なセリフがある。正直屋の改善が軌道に乗り始めた頃、花子と五郎が自転車に乗って店のチラシを配って回る。その時、遠くに立ち並ぶ住宅を見ながら花子がこう言う。

「この町には何万もの人たちが暮らしている。そして、その何万もの人たちは同じ稼ぎで暮らしている。でも、その決まった稼ぎの中で、人は少しでも豊かな暮らしをすることを望んでいる。その期待に応えるのがスーパーの仕事なのよ」

 負け犬はこのセリフを聞いた時、自分の胸の中でジ~ンという音が鳴ったのを聞こえた気がした。そして。この映画を思い出す時、いつも決まってこのセリフが真っ先に脳裏に浮かぶ。

 確かに本作、何もかもが単純明快にカリカチュアされ明快そのもの。でも、何とか映画祭で賞を取るのがいい映画の勲章なんかじゃない。とことんまで見る人をお客さんとして慮ってくれる映画こそが人生にとって大切なのだと教えてくれる。

 宮本信子演ずる花子の底抜けの明るさと笑顔がいつまでも心に残る素敵な映画。落ち込んだ時、気分が沈んだ時、そんな時こそこの映画。まさに心のビタミン剤。あなたも一本どうでしょう?

負け犬が笑っているうちに泣いていた件「パンチライン」

人生にオチはない。でも、出来ることならきれいなオチで落とせる人生を過ごしたい。それが笑えて泣けるオチなら申し分ない(評価 88点)

 ビデオの時代からずっと見続けている。それなのに、今でも見るたびに泣かされる。本作の本国公開時のコピーは「笑っているうちに泣いていた」。まさにその惹句こそが相応しい、人生のマイベストにランクインと言っていいほど好きな作品だ。

 本作の何が好きかと問われると、お笑いという芸の喜び、そしてその反面にある恐れが実に的確に描かれているから。それは舞台に立って観衆を目の前にし、たった一人で観客に笑いという衝動を起こさねばならないマジックを託されたマジシャンの恐れにも似ている。  

 かつてあのウッディ・アレンが舞台に立つときはいつも「どうか自分が可笑しくあってほしい」と神様にお祈りしていたという逸話があるけれど、本作ほど、舞台に一人で立って客を笑わす漫談、つまりはスタンダアップコメディ独特の臨場感と呼吸を肌で感じるほどに上手く伝えてくれる作品は他に知らない。そしてその空気感に何とも言えないペーソスと人間のぬくもりと人生のホロ苦さがブレンドされているから、観終わった後、何とも言えない優しさと、ちょっぴりの切なさに包まれてしまうのだ。

 舞台は地下鉄の高架沿いにあるコメディ・クラブ「ガス・ステーション」。そこでは未来のお笑いスターを目指すスタンダップ・コメディアンたちが、それぞれ個性的な持ちネタでしのぎを削って、何とかチャンスをモノにしようと夜な夜な舞台で汗を流している。

 そのメンバーの中でもズバ抜けた存在感を示しているのが、落ちこぼれの医学生ながら、キレ味鋭い話芸で毎回、聴衆を虜にするスティーブン(トム・ハンクス)。そんなスティーブンを客席から憧憬のまなざしで見つめるのが主婦の傍ら好きでしょーがないお笑いの舞台に、ぎこちなく立っては、毎回冷や汗を流しているライラ(サリー・フィールド)だった。

 本作、とにかく芸達者な名優のトム・ハンクスサリー・フィールドがいい。そして、全編にわたって、心に刺さるといってもいいほどにツボを得たシーンの構成がとにかく上手い。

 ライラには保険のセールスをしている夫のジョン(ジョン・グッドマン)がいて、そのジョンから主婦業をおろそかにしてスタンダップにのめりこむ毎日について、いつも小言を言われている。でも、ライラは、自分の唯一の特技と自認する、人を笑わせるという行為を通して人生のサムシングを見つけたくて仕方がないのだ。

 そこで、ライラはスター候補といってもいいスティーブンにネタの教えを乞おうと相談する。教えて欲しければついてこいと言われ、向かった先は病院。そこで、スティーブンはお笑いの修行も兼ねて、患者相手にスタンダップを披露している。ここで、場所のTPOを的確に突いたあざやかな病院ネタで聴衆を自分のペースに引き込むスティーブンの才能に感じ入るライラの表情が実にいい。

 最初はネタの小遣い稼ぎにとライラにお世辞を言っていたスティーブンだったが、ライラと会話をするうち芸の手ほどきがしたくなり、馴染みのコメディ・クラブの舞台にライラを立たせてみる。すると、ライラは観客を巧みにいじって、ちゃんと舞台を自分のパフォーマンスの空間に変えてみせる。それを見たスティーブンは、感服を通り越してライラに恋心まで抱いてしまい・・といったシーンの積み重ねが本作は本当に巧みなのだ。

 きわめつけは、強引にライラに恋心を打ち明け、結婚まで迫ったスティーブンが、夫を愛しているからとライラに告げられ拒絶されてしまうシーン。卒業試験で落第し、背水の陣でお笑いの道を邁進する覚悟のスティーブンは、主婦の傍ら副業よろしく舞台に立つライラに怒りをぶつけ、雨が降りしきる路上に飛び出し「雨に歌えば」を口ずさみながらジーン・ケリーよろしく、やけくそになって踊る。それをグッとこらえながら窓越しに息を詰めて見守るライラ。トム・ハンクスがキャリアベストと言ってもいいパフォーマンスを披露するこのシーンは何度見ても胸が締め付けられる。

 だが、そんな二人に人生最大のチャンスが訪れる。「ガス・ステーション」で開催されるコンテスト、そこで一位を勝ち取ればネットワークのTV番組の出場権がゲット出来るのだ。

 そして、本作の凄みが最大限に発揮されるのが最後の順番で舞台に立つスティーブンの芸をたっぷりと見せてみせるスタンダップのシーン。ここでスティーブンはいつもの毒舌のイントロが過ぎて、目の前のTVプロデューサーやゲスト相手に辛辣なジョークを浴びせてしまう。これに対し観客たちは水を打ったようにドン引きしてしまうのだ。しかし、ここからスティーブンは、まるで負け試合のボクサーが軽いジャブで試合の態勢を立て直し、勝ち試合のゲームメイクをするかのように、軽いジョークで白け切った客の笑いを引き出しつつ、最後には切り札の持ちネタで見事に舞台を爆笑の渦に巻き込む。

 笑いとはいわばパフォーマーと観客たちとの感情のキャッチボール、とかく繊細なものなのだ。そうした機微や呼吸までも鮮やかに活写したこのシーンの驚きは所見の30年前から今に至るまでまったく色褪せることがない。

 コンテストで優勝するのは果たしてスティーブンかライラか。その結末はホロ苦いけれど、どこまでもあたたかい。

 きっとこの先、スティーブンはスター街道を歩むに違いない。そして、ライラはやっぱり主婦業を続けながら「ガス・ステーション」の舞台に立ち続けるに違いない。キャラクターたちの行く末に見終わった後、思わず思いを馳せてしまうのは本作が優れた作品である証拠。

 今、人生のサムシングを求めて努力をしている人、そしてかつてはサムシングを追い求めていたけど今はあきらめてかすかな苦々しさを日常におぼえている人なら本作を見て、きっと感情を突き動かされるシーンがあるに違いない。

 とにかく本作を事あるごとにずっと見続け、今や成れの果てのようになってしまった負け犬も、そろそろ人生のパンチライン(オチ)のネタ作りにでも励むしかなさそうで、本作のようにちょっとホロ苦い感傷にふける今日この頃なのです

負け犬たちはどこまでもギラギラする!香港映画界きっての狂い咲きのニューウェーヴ「ミッドナイトエンジェル/暴力の掟」

この熱さに血液までもが沸騰する!香港映画が新時代を切り開いたビッグバン!異様なまでの狂い咲きの感覚に五感まで刺激されるワイルドな傑作

(評価 80点)



 

第一類型危険

 火遊びするな!その昔、愛読していた「スターログ」に、当時、SFカルト系映画専門の国際映画祭として一部の映画マニアでは有名だったアボリアッツ国際映画祭のエントリー作品の紹介記事が定期的に載っていた。その時、小さいながらも紹介され激賛されていた時の本作のタイトルが「火遊びするな!」だった。

 しかし、香港映画の本作の原題は、「第一類型危険」。B級映画フリークならこのタイトルにゾワゾワとそそられるものを感じはしないだろうか?そして、そのアンテナに呼応するかのように本作は、すべての限界をブチ破るかのような荒々しいパワーとワイルドな興奮に満ちている傑作といっていい。

 監督は香港映画界きっての俊英ツイ・ハーク。本作製作当時29才だったツイ・ハークが香港映画の新たな地平を切り開くべく野心の全てを本作に注ぎ込んだ。そのせいか、本作は、それまでのイモっぽい香港映画のスタイルとはまるで違うカミソリのような切れ味のニューウェーヴとしか形容しようのないテイストになっている。

 もともと、韓国にせよ香港にせよ、その映画のお手本は日本映画だった。この作品にもあの70年代の日本映画特有のゴキブリのように油ぎった猥雑なパワーに満ちている。



野良猫ロック

 本作の登場人物は一人の少女と3人組のワルにもなりきれないヘタレそのままのひ弱な若者。その3人組が、遊び半分に親の車を勝手に乗り回している最中、起こした人身事故。それを見かけた少女が若者たちを恐喝したことから、とてつもなくワイルドな歯車の暴走が始まる。

 この少女が実にエキセントリック。冒頭、飼っているハツカネズミの頸部に縫い針を突きさしてネズミが悶え苦しむところを冷静に見つめているような異常な少女なのだ。その少女がどこまでも3人組を追い詰め、凶行に走らせていく。まさにこの少女、70年代の日本のプログラムピクチャーに必ず出てきたようなズベ公そのままといっていい。

 そんな少女に脅され、3人組バスジャックをしたことからプロットがシームレスに急展開していくところが見もの。その犯行後、逃げる途中出くわしたのがベトナム帰りの傭兵たちからなる犯罪シンジケートの一味で、その一味が持っていた資金源の証券を少女が奪ったことから、全くのシロウトの若者たちは、シンジケートに追われることになる。

 とにかく本作、その畳みかけるようなスピーディな展開と、アクションの切れ味、キャラクターたちのクレイジー度など、どこをとっても一味違うパワーに満ちている。

 そして、そのパワーがクライマックスに至って爆発する。少女の兄の刑事、そして組織に雇われた殺し屋たち、さらにどこまでも逃げる若者たち、パラレルに描かれていたキャラクターたちが、山の中の墓地に集結し、最後に展開される悲壮なまでの殺し合い。

 まったくのシロウトの若者とプロの殺し屋の壮絶な銃撃戦の果て、たった一人生き残った若者が常軌を逸し狂いだし、笑いながら去っていく終幕の無常観までもが70年代の日本映画の泥臭いテイストそのままだ。



若者と爆弾と

 本作と初めて接したのはレンタル店の隅に置かれていたビデオだった。その時の衝撃そのままに、ヒドイ画質のDVDも買い求め秘蔵していた。しかし、YoutubeにもUPされていた本作を見て驚いた。なにより驚いたのが、その完全版ではプロットそのものに違いがあったことだ。

 それまでのヴァージョンでは、3人組が少女に恐喝されるきっかけが、若者たちが起こした交通事故だった。しかし、オリジナルの全長版とおぼしきそのヴァージョンでは、その恐喝のきっかけが、若者たちが映画館で爆発させた爆弾だった。その騒動の一部始終を目撃していた少女が若者たちを脅すというプロットになっている。

 本作をきっかけに香港映画そのものが洗練する道筋を歩み始めたのはまず確かと言っていい。そこにはプロットの構成も含め、何度も編集を模索した試みがあったのだ。

 ギラギラした熱気、猥雑なパワーに満ちたカルトそのものの本作、負け犬同様にファンの人も多いはず。DVDをお持ちの方は是非、両者を見比べてみては如何でしょう~

負け犬のジャパニーズのウェットな美と因習のエンタメ化に成功した巨匠市川崑による金田一シリーズのベストワン「悪魔の手毬唄」

息を呑むような日本の風景の美しさに畳みかける謎の連鎖。そして、金田一と磯川警部の厚き友情と儚いロマンスに涙までする、紛れもない金田一シリーズのザ・ベスト

(評価 84点)



 

市川崑の美学

 日本映画史にその名を刻む巨人は数あれど、その作品の多彩さ、数の多さ、晩年まで決して衰えを見せなかった長きにわたるそのキャリアといえば間違いなく市川崑ということになるのではなかろうか。

 多才きわまりない、その世界で、この負け犬にもっとも印象深いのが、実は映画でなく、TVの木枯し紋次郎シリーズ。子供の頃に見たその紋次郎で、はじめて映像というものの魅力に開眼したといって差し支えない。そしてそのクリエイターこそが市川崑だった。

 瑞々しい息を呑むような日本の原風景。そこにポツンと佇む点景人物を捉えたロングショットの美しさ。小さなブラウン管で食い入るように見ていた木枯し紋次郎のその映像の数々は、ある意味、トラウマといっていいほど、そのインパクトがこの負け犬の脳裏に焼き付くことになる。

 そして、それから数年後、さらに市川崑から強烈なインパクトを授かることになる。それが、角川映画が打ち出した後年まで続くことになる金田一耕助シリーズの第一作「犬神家の一族」。しかし、本作で受けたインパクトは映画そのものではない。もっとも強烈で改めて市川崑の魅力を思い知ったのが実はタイトル文字の明朝体のレタリングの美しさだった。

 そう、その時、はじめて市川崑がそのキャリアを通じて明朝体の美学、日本の文字の美を追い求めていたことに気付かされた。

 そして、一作目「犬神家の一族」の大成功を経て、作るべくして作られた本作。二作目という事で、とかく柳の下のドジョウ的な扱いの本作だが、その実、本作こそが紛れもなく市川崑が手掛けた金田一シリーズの最高傑作と言っていい。



因習の美学

 日本の原風景の美、そして様式的なレタリングの美学にこだわる、研ぎ澄まされたようなスタイリッシュな魅力に満ちた本作。143分という長尺なのにいつも見始めた途端、みるまに時間が過ぎて、ラストには必ず泣かされてしまう。

 そんな本作、やはり開巻から惹きつけられるのが横溝文学ならではのあのどろどろとした世界。お馴染み石坂浩二扮する金田一耕助が訪れた、ひなびた田舎町の亀の湯という温泉宿で今回、関わるのが、20年前に迷宮入りした事件、そのイントロダクションを司るのが若山富三郎扮する磯川警部。本作、このイキのピッタリ合った両者の名演も実に見所。

 以降の展開は横溝正史の世界を地で行くような、ドロドロとした日本ならではの因習と怨念が渦巻くいつもの世界。

 前作、「犬神家の一族」同様、そしてまたアガサ・クリスティー映画同様、キー・パーソンとなるのは大女優とくれば、犯人は推して知るべしというわけで、岸恵子他の大女優の顔ぶれを見れば一目瞭然、なのだが、原作者横溝正史も自認する通り、本作は横溝文学の中でもベストといっていい。犯人が誰かではなく、その動機、そして犯行の顛末と鮮やかなトリック、それをとりまく人間関係など、すべてが破綻することなくまとまって、ラストのお定まりの金田一の解説で、何の違和感もなく納得させられる。

 そして、本シリーズの例に漏れず、とにかく登場人物の多い本作だが、はて?あの人は誰だっけ?と決してならないのは、市川崑独特の、サブリミナルのような登場人物のカットバック技法のおかげであることに、見ているうちに気付かされる方も多いはず。

 本作のラスト。磯川がSLに乗って去る金田一を見送る。独特な日本の景色をバックに走るSLの姿に、あらためて日本の美の豊かさを感じ入る人も多いはず。

 そして、超ロングショットに黒いマントを羽織ってポツンと佇む金田一の姿に、道中合羽を羽織って歩く木枯し紋次郎を重ね合わせる人も、この負け犬と同じ昭和世代の人たちならきっと多いに違いない。

負け犬の青春期はタマネギだ!ウサギが告げる世界の終末「ドニー・ダーコ」

ビヴァ!インディペンデンス!インディーズ系ホラーの妙味と青春期の不安感、タイムパラドクス的なSFまでが混合したマルチレイヤー映画の傑作

(評価 80点)



 

インディ映画の魅力

 インディ・ジョーンズじゃないけれど、冒険精神に満ちた映画に出会えたら嬉しいもの。そして、そんな映画には決まって予算は無いが、プロダクションの制約に縛られないインディーズ系映画が多い。

 本作の監督リチャード・ケリーがこの「ドニー・ダーコ」の脚本を書き上げたのは弱冠26才の時。そしてこの難解で、アブストラクトな得体の知れない脚本にすっかり魅了されたがあのETの子役だったドリュー・バリモア。バリモアはエグゼクティブプロデューサーを買って出て、この脚本を映画化する製作費450万ドルを捻出する。かくして出来上がったのが、文学的で哲学のように難解でありながらも、サブカル的なポップさが全編にみなぎる本作「ドニー・ダーコ」だった。

 

タマネギ映画

 今やカルト・クラシックと位置付けられる本作、確かに難解には違いはないが、負け犬も大好きな「ジェイコブズ・ラダー」や、近年でいえば、これも低予算なインディーズ・ホラーの傑作だった「イット・フォローズ」などが好きな人なら、何の抵抗もなく楽しめる筈。

 そんな本作を評すれば、タマネギ映画とでも言えようか。とにかく本作は。まるで何層にも覆われたタマネギの表皮が剝がれていくかのように、いくつものレイヤーがあって、表面から次々と剥がれ落ちていくその数々のレイヤーを、あれよあれよと見ているうちに結末に辿り着く。ステレオタイプなマーベル映画や、デイズニーブランドの映画ですっかり白痴化した脳みその絶好のカンフル剤、それだけに、脳内の活性化を求めて何度も見たくなる中毒性すらあるのだ。そして、その世界に誘ってくれるのが、不思議の国のアリスならぬウサギというわけだ。

 

終末のカウントダウン

 地方都市で暮らす高校生ドニー・ダーコジェイク・ギレンホール)がある朝、目覚めたのは路上だった。傍らに倒れている自転車に乗ってドニーが向かったのは我が家。アメリカンな郊外を絵にかいたようなその家で、姉と妹と暮らすドニー家。しかし、ある夜、その家に轟音と共に、航空機のジェット・エンジンの一つが落ちてくる。しかし、ドニーをはじめ、家族ともども幸い無事だった。だがそれを契機にドニーの前に奇妙なウサギの着ぐるみを着た男が現れる、そしてそのウサギが告げたのは、20日後に訪れる世界の終末へのカウントダウンだった。

 どうでしょう、素っ頓狂なこの出だし。アブストラクトな映画が苦手な人なら腰が引けてしまうかもしれない。でも、大丈夫、素っ頓狂でいながら、決して難解そのものになることなく、次々と興味を引き付けてくれるのが本作の最大の魅力だ。そしてそれを裏打ちしているのが、誰にでもある青春期の不安感。

 もともとニューロティックな気のあるドニーだが、ウサギの出現と迫りくる終末のカウントダウンもあいまってセラピストに催眠療法も勧められ、そんな日常が次々とタマネギの表皮のように剥がれていく。誰でもそうだが思春期というやつは厄介で、自分が何者とも知れず、性的な悩みにも日々、苛まれ続け、将来自分がどうなるのか怖くて仕方なくて、その暮らしは一見、暢気なようで実は波乱に満ちている。

 そんな混乱と不安感を象徴するように様々なレイヤーで、本作ではいくつものトピックが描かれる。痴呆となって徘徊する老婆。恐怖を克服するセラピーを主宰する伝道師。ドリュー・バリモア扮するクールな女教師。そして待望のガール・フレンド。そんな現実に裏があることを、伝道師が小児性愛者であることが発覚するエピソードを通じて描かれる。この映画は、いわば、人間の精神不安で神経症的な青春期というやつへの最も的を射た社会的なコメンタリーといっていい。そして、何層にもわたって描かれるエピソードを経て、遂に辿り着いたデッド・エンドな結末は、まるでトワイライト・ゾーンにでも迷い込んだような幻惑感に満ちている。

 確かにこの結末、一見、難解だが、この頭がむずがゆくなるような感覚が忘れ難くて、きっと誰でもまた見たくなるに違いない。現にこの負け犬がそうなのだから。一体、これから何回、見たくなるのだろう。そんな問いかけすらしたくなる、これこそカルト・クラシックというやつなのでしょうね、ちなみにドニー役のジェイク・ギレンホールも最初の試写を見た時は、何が何だかさっぱり分からなかったらしい(笑)。

負け犬の空前絶後のその才気!お仕事映画のパイオニアにして最高峰「マルサの女」

税務署員が巨悪を追い詰めひた走る。何度見ても圧倒的なスピード感に酔い痴れる。これぞ日本のフレンチコネクション!

(評価 90点)



 

お仕事映画の醍醐味

 人間は仕事をする生き物。食っていくために。だからどんな仕事であれ、お仕事となると必然的に地味になる。例えばそれはアクション映画の花形の刑事だって同じこと。ただひたすら地味に容疑者を尾行し張り込みを繰り返し、目指すホシを忍耐強く追い込んでいく。

 しかし、そんな地味な努力が実を結び、とうとう巨大な悪に一泡吹かせたら、そこにカタルシスと興奮が生まれる。それこそがおそらく刑事映画の醍醐味、そしてその頂点にあるのがNYの下町のしょぼくれ刑事ポパイとドイルの二人組が、国境をまたいだ巨悪を打倒するあの名作「フレンチコネクション」に違いない。

 だが、日本にも「フレンチコネクション」にも勝るとも劣らない興奮とカタルシスをもたらしてくれる作品がある。刑事と同じ公務員、それもお仕事としてはチョーの字が付くほど地味な税務署員が主役の映画、それこそが本作の「マルサの女」。

 見てくれもこれまたチョーの字が付くほどの地味なオバさんの税務署員が、ひたすら悪に食らいついて最後に一泡吹かせてみせる、痛快きわまりない本作は、言わずと知れたあの伊丹十三監督のキャリアベスト作、そして日本映画史上に残る大ヒット作だ。

 

圧倒無比のスピード感

 実際、本作ほど時間というものが圧倒的なスピードで過ぎ去っていく映画というのは滅多にない。主役の板倉に扮した宮本信子が、とある喫茶店で、仲間の職員に脱税の手口をレクチャーするイントロから、ラブホテルの経営者、権藤(山崎努)が繰り出す脱税の数々で、二人のキャラクターの対立構造と上下関係を鮮やかに浮彫にする序盤、

 このくだりなど、開巻早々、NYの下町の刑事二人組が、ケチなチンピラの確保に奔走する様子から、海を越えたフランスで大掛かりなシンジケートを率いる悪玉のシャルニエをカットバックして描く「フレンチコネクション」そのままだ。自身もマニアと言ってもいいほどの映画好きだった伊丹十三監督のこと、きっとそのドラマ構造の参考に「フレンチコネクション」なぞらえたというのは、あながちこの負け犬だけの勘繰りでもないはずだ。

 そして一旦は、権藤の巧妙な手口に引き下がった板倉が査察に抜擢され、晴れてマルサの女となってから権藤に逆襲を仕掛けていく後半、その矢継ぎ早のテンポの良さには何度見ても舌を巻くしかない。そして最後に訪れるカタルシスの快感。地味な税務署員の映画のはずなのに、まるでリベンジマッチで大勝利したスポーツ映画の興奮にも似たその感覚には、これまた何度見てもエキサイトさせられる。そして、エンドクレジットを見てつくづく思うのが才人、伊丹十三が早逝してしまったことの無念さなのだ。

 本作、何度も見て感心するのが、ぎっしりと詰まったエピソードの数々のその情報量の多さ。才人、伊丹十三の取材能力と脚本を書く筆力の高さ。そしてそれらを手際よく処理してみせる演出の類いまれなるその才能。一体、この才人が、その後もキャリアを続けていたらどんな映画を作ってくれていたのかと残念で仕方ない。

 本作公開当時のインタビューで宮本信子が、脚本を執筆する夫の伊丹十三が書き上げるそばから、そのページをひったくるようにして貪るように読んでいたと言っていたのを今でも覚えている。それもそのはず、こんな面白い脚本、とびきりの才人以外に書けるわけがない。



とある税務署員のメモワール

 実はこの負け犬の父親は税務署の公務員だった。負け犬にも負け犬なりの反抗期というものがあって、地味を絵にかいたような公務員の父親を忌み嫌っていた時期が長々とあった。それもあってその距離が、やたらと疎遠にもなっていた。

 だが、ある日のこと、そんな父親が珍しく映画のチケットを持って帰って来たことがあった。実は公開時、社会現象にまでなった本作に、時の税務署は普段は嫌われ者の税務署のPRにはうってつけとばかりに、署員たちに本作のチケットを配布するという計らいをしたらしい(その経費も結局、庶民の税金だったはずだが)。

 本作はそのチケットで見た懐かしの映画でもある。チケットをくれた父親が見せたその笑顔は、普段、日の当たらない税務署員という職業にスポットライトが当てられた、日ごろの地味な努力が僅かにでも報われた、そんな笑顔にも見えた。

 どんな職業であっても、いつか日の当たる時が来る、だから、我々は働くのでしょう。本作は、そんな希望すら感じさせてくれる、素敵な映画のような気がするのです~

負け犬の果たしてそいつはバカか天才か!そして、そいつはやっぱり天才だった!天才監督誕生秘話!「その男凶暴につき」

天才は予期せぬところからやって来る。言わずと知れた北野武の衝撃のデビュー作、天才はただ歩くだけで世界を震撼させた。

(評価 72点)

 

天才はただ歩く

 ただテクテクとひたすら歩く男。それを望遠で捉えるキャメラ。そうやって男がただ歩いては、その道中で暴力をはたらき、それが済むと、また歩く。その単純な繰り返し。しかし、そんな映画はそれまで無かった。

 もともと、深作欣二が監督するはずだった「灼熱」というタイトルの映画に、出演するだけの筈だった北野武が、監督までする羽目になったのも、ほんの偶然だった。

 そして、この負け犬が今でも克明に憶えていることがある。とある芸能ニュースで流れていた本作の制作発表の記者会見の一コマだ。その席上で、初監督にあたっての意気込みを問われた北野武は居並ぶインタビュアーたちに向って、何気に、いつもの口調でこう述べたのだ。

 「出来上がった作品を見た人から、こいつはバカかって言われるか、それとも天才だって言われるか、そのどっちかだよ」

 このコメントからひと月も経たないうちに、あらゆるマスコミのメディアに踊り出したのが、「天才」の二文字だった。そして、その称賛の嵐が、やがて日本という小さな島国に収まりきらず、世界にまであふれ出していったのは周知の通り。

 

おとぎの国の暴力のバラード

 本作の脚本は野沢尚。野沢が手掛けた邦画アクション映画の体裁そのままのオーソドックスな脚本を、この新たなる天才は破壊してみせる。破壊に使ったその道具こそが、後のキタノ映画のトレードマークとなる独特の間だ。

 冒頭の不穏な浮浪者狩りのイントロからその奇妙な間は炸裂している。浮浪者狩りのリーダー格の少年の家を俯瞰で捉えた何気ないショット。画面のフレームにテクテクと歩いてくる男が入って来る、そしてそのまま男は玄関口に。ドアが開き、家人に警察だと告げる、そして男はそのままズカズカと二階に上がっていき、ドアを開けた少年の顔をいきなり殴る。日常と暴力とが共存している奇妙な世界。このシーンが放つ強力なインパクトはまさにそれだ。

 その後の、タケシが歩く姿を延々と横移動に捉えるトラッキングショットも実に印象的。そして、署内のデスクに落ち着き手持ち無沙汰にするタケシの演技を始め、全編にわたる何とも言えないタケシの存在感の素人っぽさまでもが不思議な魅力になっているのが本作の魅力でもある。

 ただ、本作が俗っぽいのは否めない。序盤の暴力と暴力を介在するかのようにタケシがテクテクと歩く奇妙な世界観のユニークさが、後半になるほど平板なVシネマそのもののスタイルに落ち着いていく。そして、ありふれた世界になることに抗うかのようにタケシは主役である刑事があっさり殺されるというツイストで、何とか抵抗を試みる。

 本作公開時のキネマ旬報のインタビューで、好きな映画は?と問われたタケシは、あのフリードキンのあだ花といってもいい傑作「LA大捜査線/狼たちの街」と明言していた。そして、その作品をタケシは臆面もなく、後半からエンディングにかけてそっくりパクッているところが何とも初々しい。

 Vシネマ丸出しの俗っぽさ、そして好きな映画をそのままパクる無邪気さ。天才のデビュー作はやっぱり今見ても楽しさに満ちている。