無様な置物のように微動だにしないゴジラ!全編にわたって繰り広げられる全く無意味なクソ小難しい会話の応酬!まさしくこれは史上最低のゴジラ映画だ!
(評価 5点)
内閣がどーとか、政治がどーとか、日米安保がどーとか、そんな無意味なものばかりにアンバランスに時間が割かれ、肝心のゴジラはただの脇役の最低映画。
この負け犬が、もっとも嫌いなタイプの映画というものがある。それは、単純なことを、クソ小難しい専門用語などの御託を並べ立てて、さも勿体ぶって描くような映画。そーいう意味で本作は、まさに直球ど真ん中で、この負け犬の負のストライクゾーンに突き刺さってくる映画と言える。かくも本作は、とにかく嫌いとしかいいようがない映画。
それにもっとも身の毛がよだつほど嫌悪感を覚えるのは、あの東北大震災をゴジラのメタファーとして描いておけば、インテリ層が涎を垂らして喜ぶだろうという浅はかな魂胆で見え見えのスタンスで本作が作られているところ。
そもそも本作が製作された経緯は誰でも知っている。あのギャレス・エドワーズの米国版「GODZILLAゴジラ」が世界的大ヒットしたことだった。実際、ギャレス・エドワーズ版の「GODZILLAゴジラ」を見た時は、新鮮な驚きと、一種の感動すらあった。それは、あのハリウッドが、東宝の怪獣映画を臆面もなくストレートに怪獣映画として作ってしまったその度胸と、ゴジラという一つのアイコンに対するリスペクトがひしひしと感じられたところだった。だから、最後に、日の光の下、全容を晒し、悠然と海に消えていくゴジラに素直にエールを送ることが出来たのだ。
一方、この「シン・ゴジラ」に微塵でもエモーショナルなものを覚える瞬間があったのか?答えはまったくのノーである。本作はただひたすら政治や自治体、国際情勢などの専門用語ばかりを並べ立て、まるで「おそ松くん」のイヤミみたいに変てこな英語交じりで話すインテリぶった女が出てきて、無意味なセリフの応酬ばかりを繰り返す、おまけに主役のはずの巨大なゴジラのキャラクターが、まるで虫ケラのようにミクロ化したカタルシス皆無の作品に成り下がっている。
しかし、何よりももっとも驚くのは、この最低レベルに近い映画が、とんでもないほどの大ヒットをしたこと。だが、公開時はともかく、公開から5年が経った今、本作をまともに評価している人の声などまるで聞かない。そのことからも公開時の大ヒットが、ただタピオカ欲しさに並ぶ人たちや、行列が出来る店に、ただとにかく並ぶのが好きな人たちのおかげで成立していただけのイベントに過ぎなかったことがよく分かる。
この負け犬がいつも思うのは、単純な事を、余計なものなど付け足すことなく、ただ単純にストレートに描くことが如何にムズかしいことなのかということ。だから負け犬は、たとえば、単純なヒーロー物に善と悪などといったやたらと深刻ぶったテーマを持ち込む「ダークナイト」なども、虫唾が走るほどに嫌いだ。クリストファー・ノーランという監督は、もっとも嫌いな監督だ。あの監督は、もっともオーバーレイティングされて、ただ祭り上げられているだけの監督に過ぎないと断言できる。
本作の総監督の庵野秀明という人は、これまた、ただのロボットアニメに、やたらと深刻ぶったテーマを付け足した「エヴァンゲリオン」なるアニメを作っている(とはいえこの負け犬は一回も見たことないのです)。この人には、物事をやたらと小難しくするだけの引き出ししか持ち合わせがないように思えるのはこの負け犬だけなのでしょうか?
いずれにせよ公開を控える「シン・ウルトラマン」で、また芸もなく本作と同じことをやらかして満天下の笑いものになるような気もしますが如何なものなのでしょうかね~