男には戦う時がある。ミッキー・ロークという名の負け犬が、叩きつける雨に打たれ、崩れ落ちた時の笑顔に涙する。
(評価 84点)
負け犬たちに捧げるレクイエムには、クラプトンの哭きのギターこそが良く似合う-
人にとっては道端の石ころでしかなくても、自分にとってはダイヤモンドの原石同然、そんな映画を誰でも自分の胸の内に秘めているのではなかろうか。
ミッキー・ロークの人気絶頂期にありながら、地味な映画として、ほんの束の間、公開された挙句、誰の記憶からも忘れ去られてしまったような本作。でも、この作品こそが自分にとってはダイヤモンドの原石のような忘れがたい作品の一本なのだ。
本作の脚本のクレジットは、エディ・クック。この如何にも胡散臭い名前から察せられるように、原案を書いたのは、ミッキー・ローク本人。ミッキー・ロークが自身セミプロを自称していたボクサーを題材にし、そのやさくれた人生のスナップショットを綴った作品だ。だから、ボクサーといっても、痛快なスポーツ物にはなり得ないし、ロッキー・バルボアの足元にも及ばない、どーしょーもない負け犬映画でしかない。でも、だからこそ愛しくてしょうがない作品でもある。
物語はといえば、もう絵にかいたようなチンピラ・ストーリー。4回戦同然の場末のボクサー、ジョニー(ミッキー・ローク)は、飲んだくれて試合に出ては、グダグダの試合をする毎日。ある日、知り合ったキザな子悪党ウエスリー(クリストファー・ウォーケン)とつるむようになるが、そんな折、さびれた海沿いで遊園地を経営するルビー(デブラ・フーワー)と知り合い、惹かれ合う。しかし、ジョニーはバンチドランカーで、頭部に致命傷を負っている。そして、ウェスリーが、ユダヤ人の宝石商から大金をせしめる計画を実行するその日に、借金を背負ったルビーのために、大金がかかった試合に出る決心をする。
何百回、何千回と書き尽くされてきたこの負け犬ストーリーにミッキー・ロークが託したもの。それは。この世の負け犬たちに捧げる鎮魂歌のような気がする。
思えば、飛ぶ鳥を落とす勢いの大スターのはずだったのに、ミッキー・ロークには、その後のやさぐれ人生の到来を自分で熟知していたような、不思議なオーラが漂っていた。だからこそ、この上もなく、当時、ミッキー・ロークが好きだったのかもしれない。
そして、ミッキー・ロークのみならず、本作には、これ一本だけで、監督業からリタイヤしたマイケル・セラシンの渾身のスピリッツが込められた作品でもある。海辺のさびれた遊園地。そこに寂しげに煌めくメリーゴーランド。その傍らに佇んで、しみじみと語り合うジョニーとルビー。そしてジョニーの唯一の親友である子悪党のウェスリー。セラシンが随所で切り取る息を呑むほどに美しいショットの数々は、長い間、アラン・パーカー作品の撮影監督として裏方人生を生き抜いてきた映画人としての執念の開花ともいえる。
今までロクに女と付き合ったことがない、と寂しげに語るジョニーに、クリストファー・ウォーケン扮するウェスリーが、男と女は、元は一つの生き物で、それを神様が二つの生き物に切り分けた。だから、それ以来、男と女は離れ難し存在なのさ、と語って聞かせるウェスリーの優しさ。
そんなチンピラたちがペシミスティックな顛末を辿るのも、これまた型通りの負け犬映画ならでは。ウェスリーは無理やりユダヤ人の宝石商からの強盗を決行し、かねてから因縁のある刑事に追われ撃たれる。しかし、その時、ジョニーも、ボクサー人生の最後を賭けての試合に臨んでいる。
雨が叩きつける野外のボクシング・シーンとウェスリーの襲撃シーンのカットバックのビジュアルの見応え、そして、致命的なパンチをくらい、リングにひしゃげるように崩れ落ちる瞬間のショニーを捉えたショットの美しさ。
叩きつける雨に打たれ、リングに尻もちをついたままジョニーことミッキー・ロークがここで笑う。その笑顔には、この世の全ての負け犬たちに対する渾身の優しさがこもっている。
昔、レンタルビデオで借りた本作をダビングしたテープ。擦り切れるという言い草があるけれど、まさしく擦り切れるほど、そのダビングしたテープを再生し、そのミッキー・ロークの笑顔を見続けていた。
そして、負け犬たちへのこんなレクイエムを奏でるのは、他でもないエリック・クラプトンの哭きのギターなのだ。
燃え尽きたが如く首を深く垂れたジョニーだが、最後に灯る明かりを求めたどり着くのは、ルビーが待つメリーゴーランド。クラプトンの哭きのギターとともに、ゆっくりとメリーゴーランドに歩み寄るジョニーを捉えたエンディングは、自分にとっては、夢の、理想のカットの一つと言っていい。
この映画を見るといつも思えてくる。道端のただの石ころでもいい。恥じることなど何もない。それは誰かにとってかけがえのないダイヤのような輝きを放つ石ころなのだから。