負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬もこれを観ずして死にたくない!「太陽を盗んだ男」

ジュリーと文太の生涯最高の対決!ゴジラが日本に宣戦布告しケンカを売った!もう二度と実現し得ない大日本活劇映画の最高峰!

(評価 90点) 

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ひとりぼっちのやさぐれ教師が、盗み出したプルトニウムで手に入れた悪魔の力。70年代末に日本に誕生したのはとてつもない娯楽映画だった。

 かつてゴジラと呼ばれた伝説の監督がいた。その監督の名は長谷川和彦。その長谷川監督が現在までに残した、たった二本の映画。その最後の作品となり、今も尚、永遠不滅の輝きを放ち続けている作品が、本作「太陽を盗んだ男」。

 もともと日本映画の枠やスタイルにとらわれないスケールのデカいエンタメ作りに意欲を燃やし続けていた異色のプロデユーサー、山本又一郎氏の呼びかけで発動したプロジェクトがトリガーとなった本作のメイキング。しかし、直接の仕掛人は、意外な人物でもあった。あの「タクシードライバー」の脚本で有名なポール・シュレイダーの実兄レナード・シュレイダー

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 たまたま長谷川監督と知り合いだったレナードが、長谷川監督の被爆家系のルーツを知って書き上げたのが本作の原案となる。もしも、一人の男が原発からプルトニウムを盗み出し、ホームメイドで原爆を作り上げたらどうなるか?そして、そのアイデアにのめり込んだ長谷川監督は二年の歳月をかけて脚本を書き上げる。その脚本の圧倒の分厚さが、そのまま本作の映像の熱量となって全編に迸っている。

 ひとりぼっちのテロリスト、ジュリーこと沢田研二は、まさしく「タクシードライバー」のトラビスの分身だ、70年代の鬱屈したやさぐれ感が生み出す凄まじいパワー。まさに脳天まで熱くなる、とんでもないポテンシャルがこの作品にはある。

 中学の理科教師、城戸誠(沢田研二)は、不良を絵にかいたようなダメ教師。教育そのものにはまるで関心がなく、それでも全身にたぎる方向性のないパワーを発散させたくてウズウズしている。華奢な身体に野獣性を秘めたこの教師をジュリーが見事に演じていて、惚れ惚れするほど。

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 しかし、城戸は、すでにそのパワーの方向性のターゲットを原発に定めている。そして、城戸はその計画を実行する。城戸の計画のフェーズ1となるこのプルトニウム奪還のくだり。その日本映画離れしたセットに目を奪われるのは勿論、圧巻なのは、ある意味実現不可能で荒唐無稽なプルトニウムの強奪というイベントを、スラップスティック調のスタイルで無理矢理、納得させてしまうそのパワーだ。

 この映画に迸っているパワーはそれだけでない。本作のバックボーンとなっているのが熱い男の宿命の対決だ。本作は、冒頭部分で、城戸が引率する中学生の一行が乗るバスが、ハイジャックされるというイベントが発生する。その犯人の要求は、天皇陛下に謁見して話をしたいというものだ。原爆に天皇陛下、とにかく挑発的に繰り出して来るこうした危ないファクターが、本作を牽引するもう一つのパワーともなっている。

 そして、その事件の最中、城戸が運命的な出会いを果すのが、丸の内署の警部の山下(菅原文太)。自らの身体を張って生徒を守り抜く山下を見て。城戸は、自分が戦う男はこの男しかいないと直感する。

 このプロローグから、誰もがクライマックスで二人がガチンコ対決するシーンが自然と脳内に刷り込まれる。そして、それを発火点にして本作のボルテージは、右肩上がりにドンドン加熱していく。この熱さは、まるでジュージューと焼かれる焼肉から沁みだすエキスの匂いが漂ってくるとでもいうのだろうか。面白いことに、このエキス感は、昨今、超ド級のエンタメを容赦なく繰り出して来る韓国映画のパワーと相通ずるものがある。

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 しかし、とりもなおさず、とにかく見物なのが、みっちりと丹念に描かれる、原爆のメイキングシーン。この異様なまでのリアリティーに、二年の歳月をかけて書き上げた脚本の緻密さが、まさに凝縮されている。

 ボブ・マーリーのレゲエに乗って、原爆の完成をひとりではしゃいでジュリーが祝うシーンの何とチャーミングなことか。そして、妊婦に化けたジュリーが、国会議事堂に潜入する、誰もが隠し撮りだと分る口をあんぐりするようなシーンのアナーキーきわまりない解放感。

 かくして、悪魔の力を手に入れ、日本を人質に取ったかのような城戸だったが、最大のイベントのはずの、何を政府に要求したらいいか分からないという、このくだりのリアリティーと、その後、成り行きで、野球のナイター中継の延長を要求してしまうという、このしょぼくれ感と大スケールのミスマッチ感が本作の最大の魅力といってもいい。

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 街には、人が溢れ、映画の巨大な看板は、泥絵具による手書きという70年代特有な風景(チラリと映るのが、リチャード・ドナーの大作「スーパーマン」なのが懐かしい)。そこで繰り広げられる、モブシーンには、アナログ特有なパワーが爆発している。命がけでジュリーを追う文太も、そして、被曝による副作用が出始め、途中から死を意識するジュリーも最後まで死なない。

 とにかく、本作は細部に至るまで、旧来の日本映画の規格を、すがすがしいほど逸脱している。かつてゴジラと呼ばれ、70年代末の空気感とともに、日本映画界にその咆哮をとどろかせていた長谷川監督と、その元で本作のメイキングに携わっていた、キャストやスタッフたちの熱量をここまで肌で感じられる作品はそう多くはない。

 本編で、ジュリーは、逆探知ガードのボイス・スクランブラー越しの電話口で菅原文太の山本に「がんばれ、ニッポン」と挑発口調で呼びかける。本作を観た人なら誰もが思うに違いない「ニッポンは大丈夫。こんな映画を作れるパワーがあったのだから」と。