負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬もかつてはなりたかったサムシング「の・ようなもの」

何物でもない、何物にもなりきれない、そんな人間たちに注がれる溢れるほどの愛情!やっぱり人間って素晴らしい!

(評価 88点)

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夜明け、うっすらと明けかかった隅田川のリバーサイドをツィートしながらただ歩く志ん魚(しんとと)。たったそれだけのシーンにむせかえるほどのエモーションが満ちあふれている。そして、あのタモリの作詞による永遠の名曲「シー・ユー・アゲイン」がかぶさる、とてつもなく切ないエンド・クレジット!これは自分だけの宝物のような極私的な名画なのだ。

 根っからの洋画フリークのはずなのに、心底、好きな映画には、何故か、邦画が多い。本作も、この負け犬が心から愛してやまない作品の一本。惜しくも早逝してしまった異才、森田芳光監督の劇場映画デビュー作。

 一張羅のケントのジャケットを着て、満面の笑顔で歩くのは、落語家の卵のしんとと(伊藤克信)。今日は同門の仲間と志ん米(しんこめ)兄イ(尾藤イサオ)がカンパしてくれた金で、23才にして初めてソープ・ランドデビューを果たす日なのだ。すっかり悪ノリした先輩たちに胴上げまでされ、しんととは意気揚々と人生初のソープ・ランドに向っていく。

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 こんなシーンから幕を開ける本作は、見事、この映画で劇場デビューを果たした森田芳光監督の、何かのサムシングになりたくて、何物にもなれないモラトリアムな人間たちに注がれる、心優しき愛情に満ち溢れた傑作だ。

 人間というやつは、厄介な代物で、いっぱしに教育課程を終えると、社会に出て、とにかく何かにならねばならない。つまりは社会人というやつだ。しかし、人間は、皆が皆、物分かりが良い生き物ではない。普通の生き方じゃ嫌だ、平凡なサラリーマンなんてつまらない、自分は別の何か、サムシングになりたいなどと、必ず抗う輩がいるものなのです。本作のしんととのように落語家になりたい、役者やミュージシャン、そしてオレは映画監督になってやるなどと、意気込んでチャレンジはするものの、世間の風はとかく冷たいもの。そして気付いて見れば、今や立派なニート稼業。

 この作品には、自主映画界で脚光を浴び、日活ロマン・ポルノの世界から映画界に入った森田監督の、そんなニートたちに、映画監督として、まるでサムシングにもなりきれず、明日をも知れぬ浮世稼業に身を投じてしまった自分自身の不安や希望、そして現場の仲間たちに抱く心情がナイーブな感性で実に素直に投影されている。

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 ”しんとと”がソープ(本作は不適切表現の”トルコ風呂”が堂々と使われていた時代)で初指名したのは、エリザベス(秋吉久美子)。ソープ嬢ならではの明るさとキュートさ、それに知的なクールさすら併せ持つエリザベスに”しんとと”は、魚眼レンズみたいな顔と笑われながらも、すっかり気に入られ、電話番号まで教えてくれる。

 「家族ゲーム」で世間を震撼させた森田監督のあの独特のセンスが本作では至る所に爆発している。まるで素っ頓狂な会話の間。あたかもコラージュのようにぶつかり合う言葉の奇妙な応酬。お話はといえば、一見、とりとめもない。女子高生の落研がいきなり出てきて、団地有線放送の女性ディレクターが、それに目を付け、商店街の八百屋のコマーシャル出演の交渉にやってくる。

 ”しんとと”は、同門の落語がテクノっぽい(笑)志ん菜(しんさい)と一緒に、そんな女高生の落研のコーチを頼まれ、一人の女子高生と出合う、それがきっかけで、”しんこめ”兄イたちは、自分たちの落語の宣伝を兼ねて、団地有線放送のディレクターに、団地の主婦相手の天気予想クイズで一旗揚げようと・・・・一体、何じゃこりゃ?全編、ただの悪フザケじゃないの、などと本作に接して思う人は少なくないはず。いや、きっと、大多数の人はそう感じるのではなかろうか。

 でも、それがいい。自らの人生を賭けた劇場監督デビュー作で、全編、悪フザケを堂々とやってのける森田監督の度胸が実に素晴らしい。それに人生って結局は、何事も思うようになんかまるでいかない悪フザケみたいなものだもの。しかし、この映画で、森田監督が、そのシーンの節々に滲ませてみせるエモーションは紛れもなく本物。

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 夜のベイエリアでデートする”しんとと”と秋吉久美子のエリザベス。エリザベスがポツリとつぶやく「面白い人がいっぱいいるね」。「え?」という”しんとと”にエリザベスは夜の海の向こうをそっと指さす。そこには夜の闇の中で光るネオンがまたたいている。このネオンのちらちらとおぼつかない光は、きっとサムシングにすらなりきれない当時の森田監督の心情そのものだったはず。

 そして思い出すだけで胸にこみ上げてくる本編屈指の名シーン。高校生の彼女の家に呼ばれ、彼女のお父さんの前で古典の一席「二十四孝」を披露したはいいが、にべもなく下手くそと言われ、終電後の深夜、家まで隅田川沿いを歩いて帰るシーン。

 ”しんとと”が周囲の情景を実況のようにツィートしながら、ただ歩く。その合間に、韻を踏むかのように”しんとと、しんとと~”とリズミカルに繰り返す。しかして、こんな独創的なシーンを他の映画で見ることなど出来るだろうか?やがて一晩中、歩いた挙句、たどりつくのは、世界の終りのように静まり返っている吾妻橋アサヒビールの工場。フト見ると、始発の東武線が遠くで眠そうにノロノロと動いている!まるで夏の朝のあたたかな匂いがそのまま鼻に伝わって来るような、このシークェンスの何とも言えない素晴らしさには、何度見ても絶句するしかない。

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 結局、ロマンス未満、恋愛未満の”しんとと”とエリザベスの関係は、エリザベスが友人に誘われ、関西のソープに行くことになり、終わりを告げる。エリザベスの旅立ちの日。いつものように寄席で落語をする”しんとと”と旅立つエリザベスを、音のないサイレンスのシーンでカットバックするセンスの見事さ。

 そして、一度見て、これからも終生忘れ得ないエンディングが到来する。志ん米兄イが目出度く真打に昇進。その祝賀パーティを川辺の船のデッキのビアホールで開くシーン。いつものようなバカ騒ぎ、やがて宴会はお開きとなり、映画は、ビアホールから一人、一人いなくなるところを捉えるショットでエンド・クレジットとなる。そしてこのシーンにタモリ作詞、尾藤イサオが唄うシー・ユー・アゲイン・イン・ザ・ムード~♪がかぶさる。映画がさしずめエモーションの表現とするなら、これほどまでにエモーションに満ち溢れたエンディングを負け犬は他には知らない。

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 ここで見せる尾藤イサオやでんでんをはじめとする共演者たちの笑顔。志ん菜に「落語が会社みたいに潰れることはないですかね?」と聞かれた”しんとと”が夜風に吹かれながら「潰れるかもしれないけど、その時は日本だって潰れるさ」としんみり答えるそのセリフが胸に沁みる。

 この映画は、かつてサムシングになりたくて努力したけど、なれなくて、”の・ようなもの”で終わった者たちに森田監督が捧げる最上級のラプソディなのだ。おそらく、”しんとと”たちは、落語家未満のまま一生を終えるに違いない。しかし、それでもいい、人生の途上でサムシングになろうとした、そんな時期があった、そのことこそが、かけがえのない人生のエンブレムなのだから。

 ちなみに、本作公開当時の反響はといえば、おしなべて無視のスタンスだった。しかし、あのリベラルで有名な「キネマ旬報」誌の年間ベストテンで、ただ一人だけ本作に満点を投じていた映画評論家がいた。「月曜ロードショー」のホストでお馴染みの荻昌弘氏だ。そして、この翌年、森田芳光監督は「家族ゲーム」で日本映画界を席巻することになる。