負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

紋次郎エピソード0(ゼロ)「赦免花は散った」東映劇場版「木枯し紋次郎」

「甘ったれんじゃござんせんよ、お夕さん。赦免花は散ったんでござんすよ」

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空前の「木枯し紋次郎」ブームに沸く1972年。東映がその潮流逃がすまじとばかりに放った劇場版の「木枯し紋次郎」。貴重なのは、TVシリーズでは映像化がかなわなかった紋次郎ビギンズともいうべき笹沢左保の原作の第一話「赦免花は散った」の完全映画化作品であることだ。

 主演は誰あろう、東映の看板俳優、菅原文太。主演が文太、監督に中島貞夫。そしてスタッフが東映、任侠路線の面々とくれば映画も必然的にそのカラーが増す。シン・ゴジラではないけれど、TVの中村敦夫。映画版の文太。どちらが真かどうかはともかく、概して”あだ花”扱いの本作も、どうしてどうして映画ならではの魅力に満ちた作品となっている。

 東映時代劇独特のテイストが漂う劇場映画ならではの深みのあるキャメラ、さらに雄大な三宅島のロケーションに堂々たる噴火のスペクタクル、そして文太独自の紋次郎のシルエットと、本作に初めて触れる人もその魅力には酔い痴れるはず。

 冒頭、オーソドックスな股旅もの然とした紋次郎にとまどう人もいるかもしれない。しかし、そこはそれ、本作はあくまでもビギンズ。紋次郎が関わりござんせんの虚無の旅に出るきっかけが本作で語られるわけで、開巻、仁義を切ってそのまま貸元に一宿一飯の恩義に授かるところからも、本作の紋次郎は、まだ渡世稼業のしがらみにいくらかは関わって生きていることが分る。

 しかし、その時、宿を共にした左文治が恋人のお夕をめぐって、貸元の井筒屋を殺害。紋次郎は病身の母親を慮る左文治の抜き差しならぬ状況を案じ、また、母親の末期を看取り次第、必ず自首するという左文治の言葉を信じ身代わりとなって島流しとなる。

 紋次郎に流人の過去があったことは、TVシリーズでもたびたび示唆されている。本作では映画ならではのスケールで三宅島での紋次郎の過酷な流人生活が描かれる。しかし、いくら待っても、当の左文治が流人としてやって来る気配など毛頭もなく。やがて、新たに流人としてやって来た男から、左文治の母親が一年も前に亡くなっていることを知らされる。遠く離れた三宅島で、ただ、なすすべもなく海を見つめる紋次郎。

 しかし、天変地異が紋次郎の運命を変える。突如、噴火した三宅島の騒乱に乗じ、船で脱出。本土に漂着した紋次郎は、まかない銭を得るために寄った賭場から命を狙われる。

 お馴染みの大ぶりの三度笠と道中合羽という紋次郎スタイルに身を包み、左文治のいる日野宿に向かう一本道。

 一路、その道を歩く紋次郎を、賭場帰りに紋次郎を襲撃し返り討ちに会った一派が背後から、そして紋次郎を迎え撃つ日野宿の左文治一家の連中が前方から、ちょうど挟み撃ちするスタイルで紋次郎に迫っていくシーンが実に素晴らしい。時代劇映画ならではのビジュアルや緊迫感の醍醐味に満ちていて思わず魅了されるほどだ。

 そして一本道で出くわした一派が前後から一斉に紋次郎に襲いかかる。紋次郎は脱兎の如く竹やぶに駆け込み、そのまま突っ切って川べりへと抜け出し、そこからお待ちかねとも言うべき、TVでも幾度となく出て来た水際での集団戦となる。死闘の末、一人残った相手を問い詰め、そこで紋次郎は初めて自分を狙った相手が左文治であることを知る。

 「島から戻ってめえりやした・・」ドスをきかせた啖呵とともに左文治一家に静かなる殴り込みに参じるシーンは紋次郎が文太ということもあいまって、あの「仁義なき戦い」を思わせる。しかし、左文治ににじり寄る紋次郎が見たのは、島送りになる紋次郎を見送る際、身投げして死んだはずのお夕の姿だった。実は当時、既に左文治の子を宿していたお夕も紋次郎をダマしていたのだ。

 許してくれ、と懇願するお夕に紋次郎が言い放つ「甘ったれんじゃござんせんよ、お夕さん。赦免花は散ったんでござんすよ」の本編最高の名ゼリフが実にカッコいい。

 そのまま左文治を斬り捨て、お夕を残し紋次郎は去る。紋次郎の目の前にあるのは、渇ききった道。誰一人信ずることもかなわない、今度こそ正真正銘の虚無の旅なのだ。

 ともかくも本作は、劇場映画のフォーマットに程よく紋次郎のエッセンスを凝縮し、任侠風味の文太の紋次郎が味わえる佳作と言える。

 ただ、ファンの願望は尽きることがない、「甘ったれんじゃござんせんよ~」の名ゼリフを是非、中村敦夫で聞きたかったと思うのはこの負け犬だけでしょうかね~