負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬は聞き耳を立てる「カンバーセション盗聴」

そのパラノイアはたった一つの音から始まった

(評価 80点)

 

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人間にはもっとも生気と活力に満ちた時期がある。コッポラにとってこの映画の製作時がまさにそのバイオリズムだったに違いない。ゴッドファーザーで大成功を収め、スタジオから何の干渉もされないファイナルカットの権利という、監督にとって何物にも代えがたい勲章を携え製作していたはずの絶大な自信が本作には満ちている。それを体現するかのように当作はカンヌのパルムドールというこの上ない栄冠に輝いた。

 冒頭、休日のひとときを楽しむ人々が行きかう公園で行われる盗聴のミッション。このメカニカルなシークェンスがたまらない。ビルの屋上から男たちが、スコープが装着された物々し気な狙撃銃を想起させる盗聴器で狙うのは、その只中にいる一組のカップルの会話。その様はまさにサウンドスナイパーといっていい。

 ハリー(ジーン・ハックマン)が、この時に耳にしたかすかな音がこの映画のサスペンスの発端となる。この音にハリーはとりつかれる。やがてハリーの耳にこの音がとりついたかのように、パラノイアに近い焦燥にかられていく。

 そして、この映画の白眉。ハリーはアナログの再生装置にかけたこのテープに様々なチューニングをほどこしながら、ただのおぼろげな音を人間の言葉として実体化する作業を行っていく。コッポラのメカオタクぶりすら伺える、この過程を丹念に描く当シーンの素晴らしいこと。なんど見ても硬質な陶酔感に見舞われる。やがて、実体化したその音がある言葉だったことを突き止めたハリーはこの瞬間から本当のパラノイアに陥るのだ。

 このシークェンス以降のシーンはある意味すべてハリーの妄想ともとれる。その布石となるのがこのシークェンス以前に描かれるハリーの日常の描写。一人暮らしのハリーは、ハリーに好意を抱く大家の女性の呼びかけにも応えようとしない。ただ小動物のように身をすくめるだけなのだ。恋人も一応はいる、でもそこには人間らしい交流すらない。すべてを拒絶する完膚なきまでに孤独な人間として描かれる。

 孤独という病にワクチンなどない。パラノイアを発症するカンフル剤でしかない。ラスト。今も語り草となっているクライマックスが訪れる。ミイラ取りがミイラになり、逆に盗聴されているという不安にとりつかれたハリーは自分の部屋の解体を始める。そして解体し終え、呆けたように唯一の相棒となったサックスを寂しく吹く姿をとらえて映画は終わる。

 考えてみれば、コッポラはこの直後、ゴッドファーザーⅡで正続立て続けのアカデミー作品賞という快挙を成し遂げ頂点をきわめた後、あの呪われた地獄の黙示録という終わりなきジャングルの中に埋没する。そして、もはや映画製作などとは呼べない藪の中でエンドレスなパラノイアにとらわれていく。

 しかし、ハリーやコッポラの姿は思い知らされてくれもする。日常の怠惰にただ漫然と身を任せ安穏としている人間より、得体のしれない焦燥感にとらわれたパラノイアックな人物の方が、研ぎ澄まされた身を切るような美しさに包まれているのだということを