負け犬的映画偏愛録

崖っぷちの負け犬が、負け犬的な目線で偏愛する映画のことを好き放題のたまう映画録。

負け犬のトンデモナイやさぐれデカが尼僧がレイプされて改心した件「バッド・ルーテナント」

クズは生まれついてのクズでクズのまま死ぬ。クズの生き様と破滅をやけくそに描いた衝撃作(評価 60点)

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やけくそ映画といえば、まさにこれ。とんがったやるせない気分の時にみれば、更にダウナーになれる暗黒映画。

 やさぐれ刑事が出てくる映画は数あれど、インディペンデンスとC級映画の辺境を彷徨い歩くアベルフェラーラが描くのは、やさぐれの度を、遥かに超越したクズ。

 本作は、そのクズの日常と、とうとうそれが極まった時にかすかによぎる信仰心とその末路、それをほぼやけくそに描いた映画。

 ブロンクスのとある分署の警部補LT(ハーヴェイ・カイテル)は、今日も息子二人を学校まで車で送ると、すぐにコカインを吸引するジャンキー刑事。このコップ。警察官だが、仕事などまずしない。朝のコカインを一服した足で、女性二人が撃たれた事件現場の検証にフラリと立ち寄ると、そのままSMクラブに行っては、朝っぱらから酒を呷って泥酔。その挙句に全裸になって、ブタのよーにヒーヒー泣く。

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 まずは、誰もがこのクズぶりに呆気に取られるに違いない。巨匠マーティン・スコセッシをはじめ、クェンティン・タランティーノなど、どこの馬の骨とも分からない才能を、映画界に認知させることに一役買ってきたハーヴェイ・カイテルが、ここでは、アベルフェラーラ監督のために、役者人生を棒に振るかのようなトンデモナイクズ人間を、やけくそ度指数120%のボルテージで演じている。

 このコップがどれほどのクズかが端的に分かる素晴らしいシーンがある。

 LTが、夜、無免許運転の女を見つけ、見逃してやる代わりに女二人に、あることを強要するシーン。LTは女の一人にパンツを半分脱がせ、ケツを見せろと命じる。そして、手前の運転席にいる女には、こう言うのだ。

 「お前、オトコのナニを舐めたことがあるか。大きく口を開けて、オトコのナニを舐めるふりをしてみろや」

 そして、LTは女が口を開けて舌を突き出すその仕草を見ながら、自分の一物を引っ張り出してオナニーを始める。LTが、息をあえがせシコシコとシコって、最後に達してドピュと放出するまで、アベルフェラーラはフル・レングスでその様子を捉えるのだ(勿論、上半身のミドル・ショットでそのものズバリは映しませんが)。

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 負け犬も、このシーンをはじめて見た時は唖然とした。ハーヴェイ・カイテルほどの役者がそんなゲスなシーンを演じていることも衝撃的だった。

 そして、その後、やや唐突に、教会で尼僧が二人の黒人の若者にレイプされるシーンとなる。病院に立ち寄ったLTが、そのベッドに横たわる尼僧を見た時、一瞬、よぎったのが信仰心。

 このクズコップ。ただ、変態でジャンキーだけでなく、完璧なギャンブル中毒だから、そのクズぶりの暗黒度はブラック・ホール級なのだ。結局、LTが入れあげる、ドジャーズとメッツの7連戦の野球賭博で破滅を迎えるまでの本編の節々で、事あるごとにLTが言及するのが、自分がカソリックであるということ。

 完璧なクズの唯一のプライドが、自分がカソリック信者であるという自覚だけというアンバランスが、何処までも異常でもある。そのLTが、賭博の借金返済のために手に入れたせっかくの大金を、カソリックの自己犠牲よろしく、尼僧をレイプした犯人の若者たちに与え、逃がしてやるくだりも、理解に苦しむところ。

 そして当然のように迎えるLTの末路も、実に粗雑。このあきれるほどの投げっぱなしぶりは、もうやけくそモードとしか言いようがない。

 本作をはじめて見たのは90年代初頭。当時、台頭していたタランティーノジャームッシュのような若手が、メキメキ頭角を現していた面白い時代だった。それに遡る最初期の作品「ドリラー・キラー」は、YOUTUBEでも見ることが出来る。一枚のペインティングの制作に没頭しつつも、その際間に、ホームセンターで買ったドリルでいきあたりばったりの殺人を犯すアーテイストを自称する主人公を、若きアベルフェラーラ自身が演じ、当時のニューヨークのナイトシーンをふんだんに盛り込んだアングラ臭をプンプン放つ荒々しい作品だ。

 その後の「キング・オブ・ニューヨーク」はタランティーノも絶賛し、その惹句に吊られ、小さな映画館を探し歩いて見に行ったことも今となっては良い思い出だ。

 ただ驚くのは本作が後にヴェルナー・ヘルツウォークによってリメイクされたこと。新版では、ニューヨークからその舞台を一転、南部のニューオリンズに設定し、イグアナや巨大な熱帯魚が泳ぐ水槽といったヘルツウォークならではのシンボリックなイメージを強調した一風変わった作品になっていた。しかし、本人自身がリメイクであることを否定しているから、タイトルだけ同じ別作品といっていい。というのも、何と言っても「バッドルーテナント」ならではのあのイカす疑似フェラチオのシーンが出てこない。

 やっぱり・・・「オラ、口を開けて舌出してみろや・・」 シコシコ・・ドピュのゲスの極みの名シーンがないとバッドではない。

 本作は、その超絶ゲス・シーンのためだけにあるといっても過言ではない。これさえ見ればあなたも今日からゲスになること間違いなしなのです

負け犬の悲しきどんでん返し「スティング」

映画の醍醐味の一つ、どんでん返し。そのどんでん返しが裏目に出ることもある悲しきサンプル映画 (評価 68点) 

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世にも名高き名作との誉れも高い「スティング」だが、負け犬にとっては苦い思い出の映画でもあった。

 意外などんでん返しに酔わされる。それは、映画を見る上での至上の楽しみともいえる。しかし、それを味わう絶対的な条件の一つに、何の予備知識もなく、その映画と向き合うということがあるのもまた確か。

 実は本作は、負け犬がまんまとその不文律を犯して、苦い思いを抱いた映画でもある。

 負け犬が、まだガキの頃、文庫本で出ていた本作のノベライズを読んだことがあった。その時の衝撃は凄かった。何が凄かったかは言うまでもない。そのどんでん返しだ。その時、負け犬は、人生で初めて痛快に騙される快感に目覚めたといっていい。でも、本作の場合、その初体験がノベライズだったことがいわくつきになってしまう。

 その時、負け犬は、ノベライズで読んだ、どんでん返しに感嘆するあまり、如何に、「スティング」という映画が凄い映画かをクラスの連中に得意満面に吹聴して回った。ところが、そもそも映画など見もしていない。ただそのノベライズを読んだだけなのにだ!

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 そして、数年後、(確か「水曜ロードショー」だったと思う)いよいよ本作が、TVで初放送される日がやって来る。当時は、市販のソフトのビデオなど、影も形も無い時代、映画の実物と出会うには、劇場でのリバイバルか、もしくはTVの洋画劇場での放送を指折り数えて待つしかなかったのだ。

 やがてやって来た放送日、ワクワクしながらTVの前に陣取って、映画が始まるや一心不乱にブラウン管(この言葉も既にアンティークですよね)を見つめることと相成った。

 ところが、どうしたことだろう、あれほど友達に吹聴してまわっていたはずのその映画が、さして面白くもない。その理由はすぐに思いついた。既にノベライズを読んでしまい、プロット展開の隅々まで知り尽くしていたからに他ならない。

 そして、やがて、あのあまりにも有名なクライマックスのどんでん返しの瞬間が訪れる。一緒にTVを囲んで見ていた家族が無邪気に腰を抜かして驚いて、感極まる雰囲気のその中で、この負け犬だけがただクールに冷めていた。その時のまるで砂を噛むような味気無さたるやもう、今、思い出してもどこか苦い舌触りのようなものが口中に湧き上がってくるほど。

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 その時、負け犬はつくづく思ったものだ。どんでん返しには気を付けよう。

 でも、既にこの負け犬は、映画鑑賞上のエチケットを破ってしまっている。ある映画にどんでん返しが仕掛けられているとバラしてしまうだけで人はその映画に過剰な期待を抱いてしまうもの。でも、本作に関しては大丈夫、そのノベライズを読んでもいない限りは、きっとあなたも痛快に騙されてしまう事でしょう。

 ポール・ニューマンロバート・レッドフォードの黄金コンビ、そして監督が名匠のジョージ・ロイ・ヒルとくれば天下無敵。マーヴィン・ハムリッシュのあのテーマ曲とともにクラシカルなイラスト仕立のタイトルが画面に出て来た瞬間から、古き良きスタイリッシュなコン・ゲームに酔わされることは間違いなし。

 現に、この負け犬も、最初のトラウマを乗り越えて、今では、その雰囲気を存分に楽しんでいる。

 知りたくてしょうがない、どんでん返しのタネ明かし。でも、それを先に知ってしまったら、お菓子の味は半減してしまう。いや、半減どころか、負け犬の本作にまつわる体験のように無味乾燥にもなりかねない。何とも悩ましい”どんでん返し”というお菓子。

 お互いにマナーを守って、正しく味わいたいものですね

負け犬と甘いマスクとVシネマ「甘い人生」

韓国の俊英キム・ジウンの成功作。成功へのビジネス戦略は、人気スターのプロモーションなのか?

(評価 55点)

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クワイエット・ファミリー」と「反則王」という愛すべき映画を放ったキム・ジウンのメジャー戦略はプロモーション・ビデオの作成だった。

 大好きな作品「反則王」のキム・ジウンのヒット作とあって興味津々だった作品。ところが本作、これはもう出店で売ってるたい焼きのように、頭の先から尻尾の先までアンコならぬ、韓国の超人気スター、イ・ビョンホンが詰まってます!みたいなスターのプロモーション・ビデオ同然の映画といっていい。

 ひところ流行ったショーユ顔のイ・ビョンホン。そのイ・ビョンホンが一流ホテルのマネージャーでありながら、裏社会のヒットマン的な顔役でもあるキムを演ずる本作。ストーリー的にはノワールといいながら、骨格は完全なVシネマといっていい。つまりは、単純明快で分かりやすい。

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 冒頭、ホテル内で起きたもめ事を、手早く得意の荒業で片づける。しかし、その時の相手との因縁が本編通じてのキー・プロットとなるが、そこに絡むのがイ・ビョンホンを引き立てるための恋愛要素。キムのボスでもあり、育ての親的な組織のトップの社長のカンから打ち明けられたのが愛人の存在。自分が留守の間、その愛人を監視し、もしも、若い恋人でもいるようなら始末をつけろと、キムは命じられる。

 そこからは、もうお約束通りの展開。その愛人は、大ボスの妾なのに、何故か知的なチェロ奏者で、キムことイ・ビョンホンは、一目でその愛人に道ならぬ恋心を抱いてしまい、愛人の恋人を抹殺するに忍びず、逃がしてしまう。

 その事が、大ボスの逆鱗に触れ、そして、その大ボスと冒頭で揉めた一味とが結託していたことから、キムは拷問され、処刑されかける。しかし、間一髪でその窮地から脱したキムは復讐すべく立ち上がり、殴り込みよろしく、武器を携えホテルに乗り込んでいく。

 イ・ビョンホンも勿論、日本のVシネマやヤクザ映画は見ているはずだ。それに、元々、映像派だけあって、たとえばデ・パルマの「スカーフェイス」なども見ていないはずはない。本作には、イ・ビョンホンが、そんな映画たちから受けたインパクトを、自分なりのスタイルで表現してやろうという意欲は存分に感じられる。

 ところが、肝心な物語が、あまりにも単調で、ご都合主義なのは否めない。イ・ビョンホン演ずる主役のキムは、最初から天下無双のスゴ腕なのに、捕まるときは、チンピラにのこのこと、住んでいるマンションに侵入されて、あっさりと捕まる。そして、いよいよ処刑されかける寸前、逃げ出す時は、瀕死の重傷のはずなのに、いきなり天下無双に豹変して、何十人もの相手と乱闘してぶちのめし、あっさりと逃げ出す。

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 そして、唖然とするのが、クライマックスの大銃撃戦。イ・ビョンホンは頭を撃ち抜かれて倒れたはずなのに、何故かいきなり立ち上がって、何十人もの相手と銃撃戦を繰り広げ始める。

 ボコボコに拷問されたはずなのに、かすり傷が数か所あるだけの、そのイ・ビョンホンのキレイな顔のアップが何度も出てくる後半は、負け犬の本作を見る気もどんどん失せた。

 ネタバレというほどでもないが、最後にキムは死ぬ。しかし、エンドクレジットで再びそのキムが登場する。そして、ホテルのウィンドーに映る自分の姿を見ながらカッコ良くシャドー・ボクシングをするイ・ビョンホンの姿をファン・サービスとばかりに延々見せられる。当時、イ・ビョンホンのファンだった人たちは、大いに感涙にむせんだに違いない。しかし、そこまでやられると、さすがにイ・ビョンホンのプロモーション・ビデオを見せられている感が半端ない。

 本作は、ヒットし、その後のキム・ジウンのステップアップに貢献したことは確か。その後の「悪魔を見た」という超バイオレンスの秀作を作るための踏み台程度の作品と言えば怒られるのでしょうかね~

負け犬も絶望したら踊るのか「母なる証明」

突然の息子の逮捕。母と子の、たった二人きりの世界が壊れた時、母が身を投じ戦うその姿に慟哭し涙する!

(評価 85点)

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世界が認めた才能ポン・ジュノの、今さらながらの天才ぶりに驚嘆し、テーマや人間を掘り下げるその洞察力の深さに感嘆する。そして、最後には己の魂が震えていた。

 誰にとっても何処までも深く尊く、そして偉大なる母という存在をテーマに据えて、最後まで目が離せないサスペンスにポン・ジュノが仕立て上げた傑作。一体、このポン・ジュノという監督の才能に限界などあるのだろうか?

 知的障害のトジュン(ウォンピン)を気遣いながら暮らす母。しかし、ある日、町の高校に通う一人の女子高生が殺され、その死体が屋上に晒されるという猟奇事件が発生。殺害時刻に、少女の傍にいたトジュンに殺人の容儀がかけられ逮捕されてしまう。トジュンの親友で、悪友でもあるジンテ(チン・グ)から、少女の交友関係が怪しいと言われ、トジュンの母親は、たった一人で真犯人を突き止める決意をする。

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 韓国の人気スターのウォンピンが演ずるトジュンの振る舞いは、冒頭から純真無垢そのもの、殺害現場近くにいたのも、酒に酔った帰り、たまたま見かけた被害者に興味を持って、のこのことついて歩いていただけなのだ。現に殺害現場から、一旦、トジュンが立ち去ったところで、シーンは犯行後の翌日、いきなりトジュンが逮捕されるシーンに切り替わる。

 たった一人でトジュンを育て上げることに人生を費やしてきた母親が、息子の無実を信じて疑わなくなるのは、誰が見ても一目瞭然に見て取れる。この母を演ずるのが、韓国映画界の大ベテラン、キム・ヘジャ。本作におけるその演技は圧巻そのもの。そして、この母が、イントロの登場時、いきなり踊るのだ。草原を呆然として歩くキム。そのキムが何かに憑依されたかのように踊り出す。このファースト・シーンには誰もが驚くに違いない。だが、このシーンの意味が、最後にちゃんと明かされる。時間の順序を巧みに操り、散りばめた伏線を鮮やかに回収していく、ポン・ジュノ自身がいつものようにオリジナル・ストーリーまで手掛けた脚本もまた見事の一言。

 韓国映画史上に燦然と輝く傑作「殺人の追憶」を見て、バットでブン殴られたかのような衝撃を受け、負け犬がもっとも好きな作品、ポン・ジュノの劇場映画デビュー作「ほえる犬は噛まない」でこの監督が、天才以外何物でもないことを確信した後、次作を何よりも楽しみにしていた。しかし、待望の次回作「グエムル」は、実は初見の際、大いに落胆した。アニメ・ファンたちからは、「機動警察パトレイバーⅢ」のパクリとも叩かれたこの「グエムル」だが、何よりもガッカリしたのは、まるでハリウッド進出を意識したかのような、エンタメへのいらぬ色目のようなものだった。やっぱりポン・ジュノには、韓国に根差した、ホーム・グラウンドでしか作れないものを期待してしまう。そのギャップからか、韓国の、それも田舎という、土着に帰って放ったかのような本作も、公開時にも見に行かず、レンタル・リリースされてからも長らく見ることはなかった。しかし、ひょっとしてとの思いで手に取ったら、やっぱりポン・ジュノの才能に打ちのめされたのだ。

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 司法取引をそそのかされ、ジンテにも金を無心され、一文無しになりながらも、ただトジュンの無実を信じて、少女の交友関係を追う母。そして、とうとう、殺された少女が持っていた携帯を入手することに成功する。その携帯には、少女と肉体関係を持っていた男たちの写真が保存されていた。トジュンにそれを見せるうち、ついに犯行時、トジュンと同じく現場にいた男をトジュンが識別する。その男は、母もたまたま通りすがりに見知った男だった。遂に、事件の核心を握る、その男との対面を果たす母。だが、そこで知ったのは、余りにもむごい、衝撃の事実だった。

 母がそこで咄嗟に出た行動、そして明かされるファースト・シーンの意味。それはポン・ジュノというとてつもない才能を持つ一人の監督の、人間と、その人間が生きる人生を見つめる目そのものでもある。

 何よりも凄いのがエピローグ。親孝行ツアーなる旅行にバスで出かける母。その母にトジュンはある物を手渡す。それを見て慄然とする母。しかし、ディスアビリティーとして社会生活でハンデを背負ってしまっているトジュンには、その意味すら分かっていない。バスの中で酒に酔うツアー客の中でただ茫然と一人座っていた母が、ここでいきなり立ち上がり、再び狂ったように踊り出す。キャメラは超望遠レンズとなって、逆光のシルエットとなって踊る母の姿を捉えて映画は終わる。

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 この逆光のエンディング。これを見た時、ポン・ジュノという監督の才能の余りの巨大さに背筋がゾッとした。人間は絶望したら、どんな行動に出るのか?各人各様、想像するに違いない。ポン・ジュノという監督が出した答えは、人間は踊るという回答だ。人間は絶望したら踊るしかない。まさに人生という皮肉に踊らされる人間そのものの姿ではなかろうか。

 ポン・ジュノは、この後も、作品を作り、とうとう国境を越えてアカデミー賞という栄誉を手にした。しかし、ポン・ジュノの才能は、まだまだこんなものではないはずだ。

 ポン・ジュノが人間を見つめる目は、常人が計り知れないほど何処までも深いのだから

負け犬も好き放題に生きてみたい「キル・ビルVOL1」

自分の好きな事を好き放題にやってみたい!そんな願望をハリウッドの悪童が叶えてみせた、サブカルチャーの玉手箱!

(評価 84点)

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自分の好きな事を自分のやりたい放題に出来たらどんなに楽しいだろう、それも、自分の懐を傷めずに、他人が出してくれたお金を湯水のようにふんだんに使って!しかし、それをやってのけるには、とんでもないほどバカでかい度胸が必要だ。そして、それほどの度胸を持ち合わせている人間はこの世に僅かしかいないのだ。

 マカロニウエスタンにチャンバラ映画、TVドラマに怪獣プロレス、忍者にカンフー、ヤクザに姐さん、日本刀に空飛ぶギロチン。そして、世界に冠たるジャパニメーションの最先端。ガキの頃からTVとマンガ、それに映画にどっぷりと浸かりきった人間の、脳内の妄想を全て吐き出したかのようなガラクタ同然のサブカルチャーのオモチャ箱。

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 本作の公開時、ネットのレビューが燃えていたのを憶えている。燃えるといっても、それはほぼ炎上と言っていい。おそらく本作の宣伝を見て、誰もがウエルメイドなハリウッドのアクション映画を想像したに違いない。しかし、劇場の座席についた観客が見せられたのは、ウエルメイドとはかけ離れた、ホーム・ムービー同然の極私的自己満足映画だったからだ。

 イントロのマカロニ・テイストから始まって、ガールズ同士のコンバット。特撮丸出しの夕焼けの空をバックに、飛行機で向かったオキナワには服部半蔵。その服部と珍妙きわまりない日本語で、ブライドがウンター越しに語り合い、名人直伝の日本刀を抱え、向かった東京の青葉屋での大立回り。エンディングには修羅雪姫が恨み節のド演歌を朗々と歌い上げる。

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 おそらく、まともな感性を持つ大半の観客は、腰を抜かした挙句に、金返せ!まずは、そう叫んだ違いない。その証拠に、ネットには、その手のクレーム同然のレビューがひしめき合っていた。中には、こんなクソ映画、テメエの家だけで見ておけや!と殴り書き同然にしたためて、監督のタランティーノをガイキチ扱いするものすらあった。果たして、こうしたレビュアーさんたちの意見は、何はともあれ全て正しい。はっきり言ってこの映画は滅茶苦茶だ、

 実はこの映画、そもそも公開されるはるか前から、映画の撮影用スクリプト専門のサイトに、その脚本がUPされていた。この負け犬も、そのスクリプトをダウンロードして、既に読んでいた。そして、その時、既に唖然としていた。それが映画の脚本というより、何もかもがもうマンガそのものだったからだ。

 そして、映画が公開され、賛否両論渦巻く中、いそいそと劇場に行って実物を見た時は、矢も楯もたまらずパンフレットを買い求め、今も、その美麗なパンフレットは家宝のようにして大切に保存している。

 鑑賞後の最初の感想は、何だか妙に嬉しかったことを憶えている。おそらく映画の大半を占めるサブカルの元ネタが日本のガラクタ文化の数々だったこと、そしてそれらに対する惜しみないリスペクトがストレートにこちらに伝わって、何処か日本人である自分が褒められたような気になったからだったのかもしれない。そして、暫くしてから痛感したのが、タランティーノという男の底が知れないほどの度胸の大きさだ。

 というのも、この手の映画を作るとして、普通の人間なら、どこかで怯んでしまわないだろうか。莫大な予算を投じて作る映画に、自分の好みばかりブチ込んで、それでビジネスとして成り立つか?そんな計算が働きはしないか。そして、結局、いらぬバランス感覚を働かせ遠慮する結果になりはしないか。

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 でも、タランティーノは違う。好きなものは好き。誰に何の遠慮することもなく、それを臆面もなく言ってのける。そして、映画そのものを思う存分、自分の好きなもので埋め尽くしてみせる。本作を見るたびに思うのは、何の衒いもなく好きなものを好きと言ってはばからないナイーブな感性だ。

 デザインも抜群にイカす、負け犬所有の「キル・ビル」のパンフレットには、これでもかとばかりに、タランティーノの”好き”が並べ立てられている。千葉ちゃん主演のTVシリーズ「影の軍団」(タラちゃんは、本作を第4シリーズまで全てビデオ録画した)、そして、「子連れ狼/三途の川の乳母車」、更には、言うに及ばず「燃えよカンフー」、まだまだ「吸血鬼ゴケミドロ」、「片腕ドラゴン」、」「柳生一族の陰謀」、そして「マッハGO GO GO」に「BLOOD THE LAST VAMPIRE」、等々、書きだしたら永遠に続く程に終わりがない。

 人間、大人になれば、子供の頃のナイーブな感性がすり減って、好きなものを好きというのに然るべき勇気が伴うもの、そこで好きと言えるか言えないかで、人間の度量のようなものが試されるとしたら、タランティーノという監督は、バカデカイ度胸の持ち主なのでしょう。その証拠に、賛否両論などどこ吹く風とばかりに、ハリウッドを掻きまわす怪童は今も、世間を騒然とさせる映画を作り続けているのだから。

負け犬のガールズは無敵!「デス・プルーフ」

ガールズがトークし、そして、痛快にやり返す!内容はただそれだけ!映画の杓子定規なドラマの常識を根底から破壊した怪童タランティーノの最高傑作!

(評価 90点)

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映画はドラマとストーリー。そんなつまらない常識を軽快にぶっ飛ばす、タランティーノの才能が燦然と輝く傑作ホラー・アクション!

 その昔、自分も映画のシナリオなるものを書きたくなって、題名もずばりの「シナリオ入門」なる本を買って読んだことがあった。その本曰く、良き映画のシナリオとは、すべからくストーリー、ひいてはその構造を成すプロットに尽きると書かれてあった。確かにそのことに何の異論もない。古今東西、別に映画に限らず、小説やマンガといったフィクションで面白いと言われるものはまずプロットが面白い。そして、それによって構成されるストーリーというものが言うに及ばず面白い。シナリオが映画の命とすれば、面白い映画になる鉄壁の条件は、そのプロットが面白いといえる。そして、そのシナリオの入門書には、最初の1ページ目から、何らかの事件なり、展開の無い映画は、そもそもシナリオとして失格だ、とも書かれていた。

 しかし、ここに一本の映画が存在する。その映画とは、冒頭から女の子が出てきて、何のプロット展開もないまま、ただダラダラと40分近くもお喋りするというトンデモナイほどルーズな映画。そんな映画が面白い映画になり得ることなど常識からいえば絶対に有り得ない。

 だが、どんなジャンルでも、天才といわれる存在は、既成のセオリーなど軽々と破壊してみせる。そして、本作「デス・プルーフ」こそ、その常識破壊の紛れもない証跡であり、この映画を作ったタランティーノは、いわば揺るぎない映画の常識というやつの破壊神なのだ。

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 地元の町の人気DJジャングル・ジュリア(シドニー・ポワチエ)とバタフライことアーリーン(ヴァネッサ・フェルリト)他の四人組は、いつもの酒場に陣取って、とめどもなくも、くだらないガールズ・トークに今日も余念が無い。

 タランティーノのトレード・マークといえば、登場人物たちの無意味なトーク。ここでもあの「レザボア・ドッグス」のイントロを髣髴とさせるお喋りが、同様の回転するキャメラのトラッキング・ショットを交えて、その何倍もの長さで延々と続く。だが、初めて見た時、このシークェンスで奇妙な違和感を覚えたことを今でも憶えている。普通の映画のセオリーでいえば、何のプロット展開もないまま、ただ、ガールズがダラダラとお喋りを続けるだけのシークェンスが面白いわけなどない。だが、しかし、何故かこれが不思議に面白い。最初に憶えた違和感とはまさにこの感覚だった。

 更にこのシークェンスにタランティーノは、自分がもっとも敬愛する映画の一本にいつも挙げるデ・パルマの「ミッドナイト・クロス」のテーマをジャングル・ジュリアの携帯の着メロとして、インサートし、オマージュまで捧げる余裕まで披露し、ニヤリとさせてくれる。

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 そして、登場するのがマッチョ剥き出しのスタントマン・マイクこと、マッケイ(カート・ラッセル)。本作を牽引するメイン・キャラクターが、ガールズたちに割って入っても、映画のテンポ自体は変わらない。そのリズムはあくまでガールズたちのトークなのだ。

 タランティーノのスタンスは変わらない。更には、ガールズとマイクとの会話に熱が入り、アーリーンがジュークボックスの音楽にノリノリになってマイクに迫る、セクシー・ショットの絶頂で、いきなりジャンプ・カットでフィルムを寸断して、タランティーノはここでもちゃんと笑わせてくれる。

 そして、いよいよこのスタントマン・マイクデス・プルーフたる本性を発揮し、ガールズたちの肉体を、その屈強なスタント・カーで破壊してみせた時、このサイコ野郎への異様な嫌悪感の爆発と、それまで愚にもつかないお喋りを聞かされ続けていた、チャラチャラした若い女たちを、スタントマン・マイクが爽快にぶっ殺してくれたことへの奇妙なカタルシスの爆発とが、混ざり合って、既成のどんな映画でも感じたことのない衝撃を味合わせてくれることになる。

 ジャングル・ジュリアの足が吹っ飛び、アーリーンの顔面がタイヤで抉り取られる、このくだりでのガールズの肉体破壊の描写は実に凄まじい。

 映画のセオリー破壊は、この程度で収まらない。この衝撃の余韻も収まらないまま、実に淡々と次のチャプターが始まるところが面白い。

 その常識破壊とは、前半のチャプターがコピーのようにそっくり繰り返されるところ。前半パーツと全く同じ顔ぶれのような四人組の女の子がまた出てきて、そっくり同じペースでまたガールズ・トークを始めるや、誰もが唖然とするに違いない。また繰り返す気なの?この負け犬も最初、見た時は、思わずそう口にしていた。ところがタランティーノは動じない。ちゃんと、四人の女の子の中に秘密兵器ともいうべき、陰の主役をここで交えている。

 その主役とは、役名も本人そのままのゾーイ・ベル。この逞しき主役のゾーイが出てくるのが、映画開始後、1時間以上も経ってから。一体、主役が出てくるのが、映画が始まって1時間などと、そんな映画が今まであったのだろうか?ある訳がない、こんなスタンド・プレイなど、怪童タランティーノ以外に出来るわけがないのだから。

 そして、ここでまたしても繰り返されるトークで、タランティーノがガールズに吐露させるのがセブンティーズのエンブレムともいうべき映画「バニシング・ポイント」への熱烈な愛情だ。しかし、これがただのマニアックなアクセントで終わる訳はない。この映画のキー・イメージたる名車、ダッジ・チャレンジャーがクライマックスの伏線にちゃんとなっているところなど、やっぱり実に抜け目がないのだ。

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 かくして、前半パーツの二の舞で、たやすく料理できるものとナメてかかるスタントマン・マイクにガールズたちが逆襲する世紀のクライマックスが幕を開ける。ゾーイがダッジ・チャレンジャーのボンネットの上に乗り、キム(トレイシー・トムズ)が猛スピードで突っ走るという、夢のアクロバット・ライドを満喫している最中、スタントマン・マイクが追突を仕掛けてくる。自身、スタントマンであるゾーイ・ベル本人が吹き替えなしで、やってのける、男の意地でアナログにこだわりぬくタランティーノのカー・アクションへの熱情が爆発したようなこのシーンのエキサイティングなこと。強烈なスリルと興奮とは、まさにこれ。

 そして、今度はスタントマン・マイクを追う側に転じたガールズたちのあおりを受け、マッケイのスタント・カーが看板に激突する絶妙なタイミングでセブンティーズのTVドラマのメイン・テーマが鳴り響く瞬間となるや、もうエクスタシー以外の何物でもない。その余韻も冷めやらず、ガールズがマッケイをボコボコにぶん殴り復讐の雄叫びを放ち、快哉を上げるエンディングのノリは、完全に香港のカンフー映画のエンディングだ。

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 映画作り、ひいてはモノ作りに、そもそも、決まりきったセオリーなんてものは存在しない。自分の感性のままに素直に表現したものこそが面白い。そんなことを教えてくれる、この負け犬にとっては貴重な映画。そして、何かスカッとしたい、と思っときに、必ず手が伸びてしまう映画でもあるのです。

 ずば抜けた才能というのは、いつの時代でもやっぱり偉大なものなのですよね~や~羨ましい限りです

負け犬のケダモノと悪魔の挽歌「復讐するは我にあり」

匂い立つほどのケダモノが放つ悪魔の臭い、そして悪魔が放つケダモノの臭いを描き切った、ネオ実録映画の屈指の傑作

(評価 84点)

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映画を見ている間中、むせかえるほどの湿った日本の土着の匂い、そして一人の殺人鬼が放つ凶暴な臭いに圧倒される日本映画の歴史的傑作!

 実は本作、過去に二度見たが、いずれも途中で耐えられなくなってリタイアしている。そして、今回、数十年越しに、フルマラソンの完走ではないけれど、ようやく、フィニッシュを果たし留飲を下げた。

 リタイアの理由は、いずれも、本作から投射される、あまりにウェットな凶悪な臭いに耐えられなくなったからだ。そんな本作は、1960年代に5人を殺害し死刑となった、実際の西口彰事件を題材にした佐木隆三のネオ・ノンフィクション「復讐するは我にあり」の映画化であり、巨匠、今村昌平の畢生の代表作である。

 主人公の名が西口彰から榎津巌に改名されたその主人公を演ずるのが日本映画を代表する名優、緒形拳。映画は、最初の殺人を犯してから、5人を殺害し、逮捕されるまでの榎津の、約1ケ月半に及ぶ逃亡の軌跡を描いていく。

 とにかく圧倒されるのが、緒方が放つ、強烈きわまりないバイタリティ。しかし、それは、善のベクトルに向かうものでは勿論なく、とんでもなく凶暴なバイタリティなわけだが、実在の西口彰をそっくり踏襲した緒方の、一見、きわめて人なつこいルックスのおかげで、その凶悪さが、比類のないほど増幅するのだ。

 おまけに、今村昌平といえば、そのカラーは、いうまでもなく、どこまでもウェットな土着の匂い。そして、欠かせないのがその土着に根差した男と女の情欲だ。本作でも、のっけから、ふんだんに登場する情欲シーンは、もはやセックスというより動物や昆虫の交尾すら思わせる。

 冒頭で、榎津は専売公社の同僚を殺害する。鈍器、そして刃物で、執拗に殴り、メッタ突きにする、その容赦ない残虐さに、まず戦慄させられる。ここから榎津の逃避行が始まるが、本作でも特にキー・ファクターとしてクローズアップしているのが、実在の西口がそうであったように、榎津がクリスチャンの家庭に育ち、自らもクリスチャンであったこと。それ故、榎津が犯す悪魔的な所業の凶悪さが、一層、際立つ仕組みになっている。

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 更に、ひときわ今村昌平らしさが増すのが、榎津が若い頃に犯した詐欺事件の際、たまたま知り合い深い関係になったことで、結婚に至った妻の加津子(倍賞美津子)との関係だ。加津子は、犯罪を繰り返す夫の巌への後ろめたい気持ちもあって、親子の業を一身に背負い苦行に耐えているかのような生粋のクリスチャンの巌の父親の鎮雄(三国連太郎)に、義理の親子の一線を越える憧憬を抱く。

 加津子自ら露天風呂に入る鎮雄に裸身を晒す、禁断の関係を描くシーンが実に強烈だ。ここで全裸になる、浅黒い肌の倍賞美津子の実にエロいこと。そして、そのたわわな乳房を鎮雄が背後から揉みしだくシーンには、こちらまで全身悩殺されるようなインパクトがある。

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 しかし、巌は、この鎮雄と加津子との関係を察知し、詐欺事件の刑期を終えて出てきた時、激しく問い詰め詰る。いわば、この軋轢が、巌の殺人行脚の発火点になる。

 本作で執拗に描かれるのは、この実の父、鎮雄に対する地獄の業火のような憎悪なのだ。二人を殺した皮切りに、弁護士、深い関係になった旅館の女将、その女将の実の母親と次々と手をかけていく巌が加速度的に悪魔に変容していく、そのエンジンのような動力源ともなったのがこの憎悪だった。

 しかし、本作における巌のケダモノぶりは凄まじい。多分、過去に見た時にリタイアしたのも、三人目の弁護士殺害の顛末あたりだったと思う。決して、グロテスクな直接的な描写があるわけではない。しかし、殺した死体を押し入れに据え置いたまま、平然としているそのあまりの畜生ぶりに、その時は耐えられなくなった。しかし、言い換えれば、これはひとえに緒形拳の演技の賜物である。

 実際、実在した西口とまるで一体化したかのような本作における緒形拳の演技はもはや神がかっている。人懐こく笑い、いとも容易く他人に近付いては容赦なく殺す。逃避行の道行で、巌が唯一、シンパシーを交わす人間と言えるのが、殺人罪で15年の刑に服したことがある、旅館の女将の母親ひさ乃(清川虹子)。ここで、誰もが巌は、ひさ乃だけは殺すはずはないと思う。しかし、そんな人間的な感情を踏み潰すかのように、深い関係にあった女将のハル(小川由美子)もろとも平然と殺す。そして、その遺体を傍にしながら、旅館の資産をまるごと質屋に売り飛ばそうとしている最中に、あっけなく捕まる。

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 ラスト、刑務所で対峙した鎮雄にクリスチャン破門を告げられた巌は、ゲラゲラと笑うが、その笑いはまさに悪魔と化したケダモノの笑いだ。

 長尺の2時間20分。しかし、本作は、開巻から、熱い熱気とむせかえるような湿気、そこに男と女の体液の臭気まで加わって最後まで見るものを圧倒する。今回、やっと見終えた本作だが、以降、このエキセントリックなパワーがきっと病みつきになることでしょう。

 それにしても、本作の倍賞美津子の肉体のエロいこと。これだけでも、何度も鑑賞する価値があるお宝映像なのは確かですよ~